長崎丸山(中の茶屋稲荷社)遊女・冨菊の銘。

江戸中期、寄合町の遊女屋築後屋は、次第に勢力をのばし「角の築後屋」「中の築後屋」「新築後屋」「築武築後屋」と4軒もの店を構えるようになりました。うち、「中の築後屋」は、中の茶屋を開き、引田屋の花月楼とともに丸山を代表する茶屋(料亭)となりました。明治時期に入り築後屋は廃業。昭和46年に類焼、庭園だけになりました。*1

中の茶屋の庭園奥には、小さな祠があって、稲荷神をお祀りしています。中の茶屋の鎮守で、鳥居には「保食大神(うけもちのおおかみ)」記され稲荷神を表しています。*1

寛政2年(1790年)に奉納された手水鉢。 *1

築後屋の抱え(所属)の遊女・冨菊(とみぎく)の銘を見ることができます。*1

【参考文献】
*1 長崎文献社:長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う(長崎文献社,2007)P.26

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長崎丸山(山頭温泉)かつて遊廓があった界隈に建つ銭湯。

丸山の入口を山ノ口とよぶのに対し、丸山の上手を山頭といいます。*1

山頭には、山頭温泉という銭湯があって、丸山が盛んな頃、山頭温泉の利用者は丸山の芸者衆や女性たちが中心で、寄合町の社交場でもありました。*1

かつて遊郭があった界隈に建つ銭湯です。

玄関のアール状のひさし。

【参考文献】
*1 長崎文献社:長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う(長崎文献社,2007)P.25

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長崎丸山(古い建物)店の屋号。丸山の見番の裏手。

丸山の見番の裏手の台地には、古い建物が残っている一画です。

生活感の漂う路地。

古いモルタルの建物。

店の屋号が書かれています。*1

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.66

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長崎丸山(柳小路通り)場末感が漂います。スナックが密集。

柳小路通りは、思案橋横丁の1本裏側の通りです。

思案橋横丁の賑やかさとは対照的に場末感が漂います。

スナックが密集する一画。

赤い提灯を店先に掲げた居酒屋もあります。

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長崎丸山(思案橋横丁)ネオンが煌めく通り。

今回は、長崎丸山(長崎県長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
思案橋近くの思案橋横丁は、観光客も多い賑やかな通りです。

道の両側には、飲食店が建ち並んでいます。

1軒だけ風俗店があります。

ネオンが煌めく通りです。

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長崎丸山(よこはま)思案橋横丁の老舗ちゃんぽん店。

長崎稲佐(ウィンルキンズの墓)墓碑に刻まれた芸妓の名。

江戸時代から日本唯一の対外貿易港であった長崎の居留地には、多数の外国人が押しかけて繁栄しました。
長崎居留地には、外国人男性と遊女や芸妓との間での恋愛もありました。 そのうちの一に、グスターフ・ウィンルキンズと玉菊の恋愛物語があります。稲佐悟真寺の国際墓地にウィンルキンズの墓があります。稲佐悟真寺の国際墓地にウィンルキンズの墓

アメリカ人のウィンルキンズは、貿易商社「カール・ニクル商会」の共同経営者で、1869年(明治2年)に37歳で死去しました。

花クルスの見事な墓碑。

墓碑には、墓碑を建てた恋人の日本人芸妓「玉菊」のが刻まれています。

【参考文献】
*1 長崎文献社:旅する長崎学 近代化ものがたりⅢ(長崎文献社,2008)P.52-P.53

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長崎稲佐(稲佐遊廓跡地)絶好の見晴らし場所。

稲佐遊廓の中でも当時からその後も一番大きくて有名な所が、遊廓の中心の十字路の西北角に存在した吉田屋でした。*1

吉田屋支店があった場所には、旧アパート(稲佐荘)の建物があります。*2

タイルで装飾された玄関。

吉田屋は、別に吉田屋本店、吉田屋支店を持ち、その三楼(写真の道路の左側に建ち並んでいました。)からの眺望は、この界隈で一番高所であるため、長崎の街が北から南まで見える絶好の見晴らし場所でした。*1

【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.32-P.36
*2 善隣出版社:長崎市(北部)・浦上・城山・西北・滑石・稲佐・立神・木鉢・神島・福田・式見(善隣出版社,1970)P.124

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長崎稲佐(稲佐遊廓跡地)ロシア海軍マタロス休息所から発展。

今回は、長崎稲佐(長崎市長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
稲佐は、幕末の「安政の五か国条約」による開国でロシア国の軍艦寄港地となり、いわゆるロシア村が形成されました。ロシア村には、ロシア水兵用休息所(マタロス休息所)があり、稲佐遊廓のはじまりとなりましたが、明治37年に日露戦争が勃発すると、ロシア軍の軍艦は一隻も来なくなりました。*1*2
その後、稲佐遊廓は、明治39年に許可となり、妓楼数14軒、娼妓115名の規模となりました。*3

東側のメインの通りの南隣の路地。

古いアパートの建物。

外国人墓地(写真右側)の境界の塀。路を隔てた反対側(写真左側)には、遊喜楼、湊楼がありました。*1

遊廓の東側のメインの通り。亀姫楼、玉姫楼、三好楼、二見楼、支楽楼、千歳楼、明月楼が道の両側に建ち並んでいました。*1

【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.32-P.36
*2 松竹秀雄:ながさき稲佐ロシア村(長崎文献社,2009)P.108,P.204
*3 博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.158 「全国遊廓案内」

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長崎稲佐(稲佐遊廓跡地 北側の通り)現在は名残はありません。

篠山(旧篠山町駅前附近)篠山銀座と呼ばれました。

篠山鉄道(現在は廃止)の篠山町駅前附近は、篠山銀座と呼ばれ、オノイ食堂、クロネコ、天女、太陽、ライオン等のカフェーが軒を並べていました。女給さんの数も多い店は、12~13人。その繁昌ぶりは、芸妓、仲居を遥かに凌ぐものがありました。*1

カフェー太陽、オノイ食堂が並んでいた通り。*2

現在もスナック店が点在しています。

料理店の裏側の路地。
この付近には、カフェーライオンがありました。*2

【参考文献】
*1 篠山町:篠山町七十五年史(篠山町,1955)P.282-284
*2 大日本職業別明細図 篠山町

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篠山(洋風の妓楼跡)玄関まわりを洋風にしつらえた建物。

京口新地跡には、もう1軒当時のものと思われる建物があります。

玄関まわりを洋風にしつらえた古い建物です。*1

背後からみると、かなり大型の建物であることが解ります。

玄関の様子。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線奇譚(ミリオン出版,2010)P.58

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