一身田(三階建て)美しい黒塗りの板壁。かつての遊廓街の通り。

かつての遊廓街の通りに、木造三階建ての建物があります。

細い路地を入ると、3階建ての部分が現れます。

美しい黒塗りの板壁。

逆方向から見ると、三階建て部分が天守閣のようにそびえ立っているのが解ります。

参考文献

参考記事

一身田(遊廓跡地)旧大勢楼。現在の一身田大古曽。

橋向の旧遊廓地帯の南側(現在の一身田大古曽)。

この付近にも水茶屋だった建物がありました。*1 現在は、駐車場になっています。

この付近には、古い町並みが残っています。

地元の方の話によると、この付近には、旧遊廓の大勢楼があったそうです。

【参考文献】
*1 津市教育委員会:一身田寺内町 町並み調査報告書(津市教育委員会,1989)P.86-P.87,P.102-P.104

参考文献

参考記事

一身田(一身田遊廓跡)水茶屋だった建物。伝統的な形態を保持している民家。

寺内町一身田には、伝統的な形態を保持している民家が割合多く存在しています。

こちらの建物は、明治の初め頃、水茶屋として建築されて営業していたものを明治25年にうなぎ屋に改造したもので、現在は住居として使われています。*1

こちらの建物も元水茶屋で、(写真の奥にもう1軒の小型の家があって、2軒合わせて1棟になっています。

古い建物が連なっています。

【参考文献】
*1 津市教育委員会:一身田寺内町 町並み調査報告書(津市教育委員会,1989)P.86-P.87,P.102-P.104

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一身田(黒門)黒門の南側に遊廓街がありました。

今回は、一身田(いしんでん、三重県津市一身田町)の町並みと風俗を散歩します。
この町は、弥生時代から続く農業集落でしたが、15世紀に専修寺が建てられると、それを中心に町が発展し、16世紀には町の周囲に壕が作られ、宗教都市(一般に寺内町と呼ばれます。)の様相を呈するようになりました。壕で囲まれた町への入口は3つしかなく、橋のたもとには、それぞれ、「黒門」「赤門」「桜門」と 呼ばれる門があって、夜は閉じられて不審者の侵入を許しませんでした。壕の外には、橋向と呼ばれる遊廓地域も生まれました(案内看板より)。

3つあった門のうち、南東側にあった黒門の跡。

黒門跡にあった「橋向通」の案内看板。遊廓街があったことが説明されています。

黒門の南側が遊廓街があった橋向と呼ばれた地域でした。

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多治見(横丁)呑スケ止マレ。長屋に居酒屋やスナックなどの店舗と住宅が混在。

遊廓があった広小路の北側に、飲み屋横丁を思わせる路地があります。

長屋に居酒屋やスナックなどの店舗と住宅が混在しています。

飲み屋横丁を抜け、南側へ折れると、広小路の向こう側には、「玉突」や「多治見温泉」などがある一画に至ります。

「呑スケ止マレ」の看板。

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多治見(多治見温泉)風格のある看板。新羅神社の隣。

広小路の商店街の南側、新羅神社の隣に銭湯の多治見温泉(現在は廃業)の建物があります。

風格のある多治見温泉の看板。

建物を後ろ側から見ると、銭湯らしい造りになっていることが解ります。

建物脇の煉瓦。

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多治見(玉突)遊廓跡近く。昭和の町並みが残された一画。

広小路の商店街の西側。遊廓があったと思われるあたりから、南に折れると昭和の町並みが残された一画があります。

「玉突」と書かれた看板が残されている建物。

かつて、おのあたりは繁華街だったのだと思います。

店の入口。

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多治見(社交喫茶)銭湯脇の路地。銭湯脇の路地。

広小路から北側に一本入った道路沿いに、中華屋などが入居する古い雑居ビルがあります。

ビル横の道は、銭湯脇の路地へ続いています。

古い飲食店の建物。

「社交喫茶」という言葉が流行った時代があったようです。

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多治見(広小路の銭湯跡)「御婦」「御殿」。

広小路の商店街の東側に、銭湯跡の建物があります。

入口が2か所あるので、銭湯の建物だったことが解ります。女湯は「御婦」、男湯は「御殿」と書かれています。

銭湯脇の路地。

銭湯脇の路地に、物置がありました。

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多治見(銀座センター)昭和の薫りただようかつての歓楽街。

多治見広小路の東寄りに、昭和の薫りただようかつての歓楽街 「銀座センター」があります。

幅の狭い路地が約50m続きます。

壁にハートのマークが描かれているスナック。

鮮やかに装飾されたドア。

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