米子(旧加茂川の覚証院橋付近)公道橋や小橋が何十も架かる川沿いの景観。

今回は、米子(鳥取県米子市)の町並みを風俗を散歩します。
旧加茂川は米子市民にとって縁の深い川です。かつては、洗面、洗濯、風呂の水など、生活のあらゆる面に利用されました。 川としての情緒はいまも生々と息づいています。なかでも紺屋町から四日市町にかけて公道橋や小橋(個人所有の橋)が何十も架かっているのは壮観です。*1

東倉吉町から西倉吉町にかけての旧加茂川にかかる覚証院橋周辺は、夜になると朝日町や東倉吉町の歓楽街へ行く人が多く通る古い町並みです。*2

覚証院橋は、江戸時代に覚証院という寺があったことから名前がついた橋です。*2

朝日町へまがる角には、昭和59年に「笑い地蔵」が建立されました。*2

【参考文献】
*1 よなごの宝88選実行委員会:市民が選んだよなごの宝八十八(2010,よなごの宝88選実行委員会)P.84-P.85
*2 杉本良巳:米子・境港・西伯・日野今昔写真帖(郷土出版社,2005)P.56

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参考記事

境港(水木しげるロード)妖怪たちのブロンズ像。水木しげるさんのふるさと。

境港は、漫画家・水木しげるさんのふるさとです。「水木しげるロード」には、水木しげるさんの漫画に登場する妖怪たちのブロンズ像が設置されています。
泥田坊(どろたぼう)は、放蕩息子のおかげで田んぼを失った農民が妖怪化したもので、「田を返せ~」と叫びます。妖怪研究家の多田克彦さんの別説によれば、泥田坊の話は、江戸の遊廓・新吉原が舞台で、「田を返せ」というのは、田を戻せという意味ではなく、「田を耕せ」つまり男女の性交を意味していて、「田を返せ」という泥田坊の声は、客引きの言葉と解釈されるそうです。*1

妖怪には女の妖怪もいます。
高女(たかおんな)は、女郎屋の二階に現れて、人を驚かす妖怪です。*1

轆轤首(ろくろくび)は、遊女、女房、娘などと女性である場合が多く、体から首が完全に分離して活動するものと、細い紐のような首でつながっているものの二形態があります。*1

口裂け女(くちさけおんな)は、昭和50年代に全国の小学生たちの間で噂された怪女で、寂しい公園や薄暗いところに大きなマスクをした女が立っており、通りかかった者に「私きれい?」と尋ねます。返事をすると、「これでも?」といってマスクを外し、耳まで裂けた口を見せて、持っていた鎌や包丁で同じように裂いてしまいます。*1

【参考文献】
*1 村上 健司:妖怪事典(毎日新聞社,2000)P.144,P.208,P.243-P.244,P.365-P.366

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参考記事

境港(オタフク)「風俗営業」のプレート。閉店した店舗。

点在するスナック街に、「風俗営業(カフェー)」のプレートが貼られた建物があります。

こちらの看板にある通り、数年前まで営業していた歴史のある風俗店だったようです。
昭和24年の開店から50年ということですから閉店したのは、1999年頃ということになります。

色鮮やかなタイルの装飾。

現在は、風俗店の面影はありません。

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境港(スナック街)昭和10年の大火の消失区域の北側。

栄町周辺には、スナックが点在しています。このあたりは、昭和10年の大火の消失区域の北側に位置します。

洒落たスナックの看板。

木造母屋を改造したスナック。

古びたスナックの建物。

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境港(パチンコ店)明治3年に設置された古い町。

末広町は、明治3年に設置された古い町ですが、当時としては時代の最先端を行く商店街が軒をつらねていました。現在も古い町並みが残っています。*1

「パチンコ ナショナル会館」のアーチ。

表側の入口には、大看板が設定されています。

建物の裏側のパチンコの看板

【参考文献】
*1 杉本良巳:米子・境港・西伯・日野今昔写真帖(郷土出版社,2005)P.60

参考文献

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境港(境港遊廓跡地)昭和10年の大火で消失しました。

今回は、境港(鳥取県境港市)の町並みと風俗を散歩します。
境港の遊廓の歴史は古く、宝暦13年(1763年)に飯盛置屋の設置が許可されたことにさかのぼります。*1

昭和10年1月12日、この日は東北風の強い日でした。午後7時過ぎ、歓楽街の中心であった桜町(現在の栄町)の遊廓から突如として起こった火の手は、折からの強風にあおられて本町、松ヶ枝町、栄町へと延焼し、境町の繁華街は全焼しました。*2*3
「境港大火の消失区域」の図*3 によると、消失区域の北東端が桜町であったことが記されていますので、ちょうどこのあたりが遊廓があった火元付近です。

この道路の南側(写真の左側)が大火のときの消失区域です。現在は、水木しげるロードなど観光施設が密集するエリアとなっています。

栄町(えいまち)は、現在も存在する地名です。

【参考文献】
*1 小泉憲貞:境港独案内(小泉憲貞,1900)P.50-P.51
*2 境港市:境港市三十五周年史(境港市,1991)P.33
*3 境港市:境港(境港市,1984)P.95

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倉吉(木製消火器箱)めずらしい黄色の箱。倉吉の旧市街。

倉吉の旧市街。湊町のあたり。

消火器箱が2つ。郵便受け、電気メータ..いろいろなものが貼りついています。

その中でも黄色の消火器箱が目につきます。

黄色の消火器箱はめずらしいと思います。

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倉吉(大社湯)「レート白粉」の琺瑯看板。四つ角に面した木造家屋。

倉吉市新町3丁目に銭湯の大社湯があります。

裏側から見ると、四つ角に面した普通の木造家屋ですが、下部に煉瓦が使われています。

ガラス窓に、女湯、男湯の文字。あいにく本日は定休日でした。

「レート白粉」の琺瑯看板。

参考文献

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倉吉(倉吉遊廓跡)店の屋号が残っています。越殿町。

越殿町の倉吉新地跡に、遊廓であったと思われる建物があります。

独得の装飾があります。

建物の側面部分。

玄関に店の屋号が残っています。

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倉吉(倉吉遊廓跡)越殿町。遊廓時代の雰囲気を伝えています。

倉吉の遊廓は越殿町にあって、最も多い時で80人もの女性がいました。彼女達は、倉吉や東伯出身の人は少なく、多くは県外者でした。公認の遊廓でないので遊興費は僅かで済み、親切で純朴な美人が多いのがこの廓の面白さでした。*1

倉吉考*1 に写真が掲載されている建物。遊廓時代の雰囲気を伝えています。

建具の格子は美しく見事です。

この場所だけが道路の幅が広くなっています。

【参考文献】
*1 生田昭夫:倉吉考(堂設計室,1980)P.58

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