倉吉(岩倉町通り)旧料亭街。残る礎石は料亭の建物が建っていた名残。

倉吉の旧市街の岩倉町は、料亭などの商店が立ち並ぶ賑やかな通りでした。

案内板によると、この通りは、昔からの町人町で、江戸時代には大店も多く、一時期は料亭もたくさんあって、戦前この町の若いもんが出征する時は芸者衆が三味・太鼓で見送ってくれたそうです。

地元の方の話によると、西岩倉町の通りには花街の名残と思われる旅館の建物が最近まで残っていたそうですが、現在はその面影はありません。
大正3年の「倉吉案内記」によると、芸妓検番事務所が越中町(西岩倉町の西隣)にあり、芸妓の総数は42名だったと記されています。*1

東岩倉町の倉吉淀屋の前に駐車場になっている空き地があります。地元の方の話によると、ここに残る礎石は料亭の建物が建っていた名残だそうです。また、この料亭の隣には遊廓があって、格子がついている建物が最近まで残っていたそうです。

【参考文献】
*1 柴田文次郎:倉吉案内記(桑田書店,1928)P.71

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倉吉(パチンコ店)昭和の郷愁が漂っています。

倉吉駅前の商店街にレトロなパチンコ店があります。

「パチンコ銀河」の看板。

「華麗に変身!」「新装大開店」の看板。

昭和にタイムスリップ したような郷愁が漂っています。

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倉吉(まあじゃん屋跡)倉吉駅前の商店街。麻雀フレンド。

今回は、倉吉(鳥取県倉吉市)の町並みと風俗を散歩します。
明治末期、山陰本線が延伸し、倉吉駅(後に上井駅と改称)が開業すると、上井を通過して人々と荷物が出入りするようになりました。上井は、町の中心部から竹田川を隔てた位置関係にあったので、倉吉の町は上井と旧市街地が別々に都市計画が進められました。上井駅前には、商店や飲食店が形成されましたが、上井への対抗意識からか旧市街周辺の事業が繰り返されました。*1
古い案内板には、「パチンコ銀河」、「麻雀フレンド」などの名前があります。

1階に飲食店が入る木造家屋。旧「麻雀フレンド」。

料亭のような建物です。

「まあじゃん屋」のプレートがあります。

【参考文献】
*1 生田昭夫:倉吉考(堂設計室,1980)P.54-P.56

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美保関(美保館)交通公社の旅館クーポン。青石畳通りに面した老舗旅館。

青石畳通りに面した老舗旅館の美保館。

数奇屋風建築。

美保館の内部。

「交通公社の旅館クーポン」の琺瑯看板。

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美保関(青石畳通り)風待ち潮待ちのための港。

美保関の繁栄を物語るのが町並みを貫く青石畳通りです。 美保関では、ローカル船から上方の回船へ、またその逆の荷の積み替えが大量に行われました。(当時の荷物の運搬は大八車で行われていたたため)その作業を効率よく行うために石畳が敷かれました。*1

水に濡れると石畳は青く美しく光ります。

古い旅館の二階からは、三味線の音、女中の声、戦場のようなにぎやかさが、今でも聞こえてくるような気がします。*2

青石畳通りには、美保関にちなんだ文学の案内板があちこちに設置されています。司馬遼太郎さんの「街道をゆく」*3 の中に美保関が登場します。「美保神社の境内にのぼった。(中略)階段を降りて左側が、ふるい遊廓の通りである。」

美保関港は、帆船時代には、風待ち、潮待ちのために停泊する船が絶えませんでした。船宿では船員達が酒を酌みかわし、町には置屋業が出来て、遊女がたくさんいるようになりました。明治末期になると帆船は次第に減りましたが、代わりに汽船が運行され美保神社に参拝するお客が増えました。いわゆる「関まいり」のお客が多くなったのも芸者・娼妓がいたのが一因でした。*4
【参考文献】
*1 加藤貞仁:北前船(無明舎出版,2002)P.64-P.65
*2 美保関町教育委員会:島根半島散歩(美保関町教育委員会,1991)P.34
*3 司馬遼太郎:街道をゆく27 新装版(朝日新聞出版,2009)P.204
*4 美保関町老人クラブ連合会:ふるさとを語り継ぐ(美保関町老人クラブ連合会,1987)P.157-P.160

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美保関(美保関港)イカの天日干し。港の周辺には旅館。

今回は、美保関(島根県松江市)の町並みと風俗を散歩します。
島根半島の東端に半島の陰に隠れるように位置している美保関は、波穏やかな良港で、中海を通って松江に至る要衝の地でもありました。*1

19世紀頃、美保関は荷物の積荷を行うために寄港する船で賑わいました。*1

美保神社への参拝客も多く、港の周辺には旅館などが建ち並びました。

イカを天日干しする姿は美保関の日常的風景です。

【参考文献】
*1 加藤貞仁:北前船(無明舎出版,2002)P.64

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戸塚(踊り場)猫の供養のための碑。猫の踊り場伝説。

戸塚駅からバスに乗って約5分。「踊り場」というバス停があります。同じ場所に地下鉄の「踊り場」駅もあります。「踊り場」というと階段の踊り場を連想しますが、ここは「猫の踊り場伝説」のある場所です。

地下鉄踊場駅の脇には猫の供養のための碑が建っています。

昔、この場所で猫が集まって踊ったという伝承があります。
民間伝承の世界では、猫は人間と同じような独立社会を別に持っているのではないかと考えられていました。猫と人間の関係は古くから持ちつ持たれつでした。猫と仲良く暮らしながら、人間は、猫の秘密というものをいつも想像していたわけです。猫と同様に狐や狸など日本に群棲していた動物たちと人間の間は、非常にうまくいっていた時期があったことを物語っています。*1

猫の置物やキャットフードなどが供えられています。

-------- 猫の踊り場伝説 --------
昔、戸塚に水本という醤油屋がありました。ある日、家の手ぬぐいが一本ずつなくなるのに気づいた主人は、その晩、手ぬぐいに紐をつけ、手に結んで寝ました。手を引っ張られて目を覚ました主人が見たのは、手ぬぐいをくわえて外に出かけて行く自分の家の飼い猫の三毛猫の姿でした。その後を追っていくと、丘の頂きに何千匹もの猫が集まって踊りまくっているという場面に遭遇しました。その中に自分の家の三毛猫が頭に手ぬぐいをまいて踊っていました。帰宅して家内を探すといつも囲炉裏端で三毛猫が寝ているはずなのに、その夜だけはやはり見えない。それっきり、三毛猫は戻らなくなりました。*1
【参考文献】
*1 宮田登:都市とフォークロア(御茶の水書房,1999)P.16-P.18

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戸塚(心中の碑)遊女ヤマと清三郎の許されぬ愛の証。

遊廓の入口に清源院。

遊女ヤマと若い町人清三郎が、許されぬ愛の証を立てるため、天神塚の井戸にそろって身を投げる。まるで「曾根崎心中」さながらの事件が、幕末の戸塚宿で起こりました。愛を貫くため死を選んだ若者たちに、町の人々が心を動かされ、文久3年(1863年)、清源院の境内に、二人の句碑が建てられました。*1

「井にうかぶ番ひの果てや秋の蝶」

清源院から見た戸塚駅付近。駅周辺の再開発により、かつての戸塚宿の面影は失われつつあります。

【参考URL】
*1 戸塚区ホームページ

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戸塚(スナック街)商店街の中心部の四つ角付近。。

遊廓があったサクラス戸塚付近を矢沢方面へ進むと、商店街の中心部です。スナックが数軒あります。

四つ角付近。

5軒のスナックや居酒屋が住宅街のの中に散在しています。

商店街から遊廓があった方向を見たところ。

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戸塚(遊廓跡地)旧戸塚宿。料亭「丁字屋」跡地。

今回は、戸塚(横浜市戸塚区)の町並みと風俗を散歩します。

戸塚の遊廓は、現在の紀久薬局と川辺電気商会(現在は空き地になっています。)の間の道を入って矢沢へ抜ける道の中ほど(現在のサクラス戸塚近く)に明治前期にすでに遊廓が大門(黒門)に仕切られて5軒(角倉(かどくら)、松月(しょうげつ)、沢辺本陣付近より移転してきた巴楼(ともえろう)、笹谷、江戸屋)ありました。*1*2

鉄道電化工事のころ、二十人たらずであった芸妓も、赤坂、新橋から鞍替えしてきた人達を含めて百名近くにふくれあがり、遊廓とともに、料亭も盛況を示していました。*1
料亭の「丁字屋」は、近年までこの付近に建物が残されていましたが解体され、「丁字屋」のそば屋だけが営業していましたが、その「丁字屋生そば」も無くなって現在は更地になっています。

現在、この界隈は商店街となっていますが、商店街の入口付近(「丁字屋」があった場所)が立体交差工事に伴う道路の拡幅工事のルートにあたっていて、戸塚宿時代の町並みは一変しようとしています。

【参考文献】
*1 郷土戸塚区歴史の会:ふるさと戸塚(戸塚区老人クラブ連合会,1979)P.39
*2 林美一:東海道売色考(三樹書房,1979)P.86

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