有楽町(ガード下)パンパンガール発祥の地。

今回は、有楽町(東京都千代田区)の町並みと風俗を散歩します。
有楽町駅の日比谷口を出て、すぐ左手に折れるとガード下です。頭上をJRの電車が走り抜けます。

敗戦直後、このあたりは、パンパンガール(街娼)のかせぎ場でした。*1
東京に進駐した占領軍は、日比谷の第一生命ビルにGHQを設置し、焼け残った建物は次々と接収されました。有楽町から日劇の周辺には、進駐軍将校や靴みがき少年、浮浪児、パンパンガールなどが街にあふれていました。東京におけるパンパンガールの発祥地はこの有楽町で、「ラク町ガール」とも呼ばれました。*2

パンパンガールは、旧日劇前や数寄屋橋交差点を周辺にも分布していました。

有楽町のガード下は、現在でも、昼なお暗い場所です。

【参考文献】
*1 朝日新聞社会部:有楽町有情(未来社,1981)P.12-P.17
*2 桑原稲敏:戦後史の生き証人たち(伝統と現代社,1982)P.12

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赤坂(豊川稲荷東京別院)石垣には、寄進者の名前が彫られています。

赤坂にある豊川稲荷は、商売繁盛・盗難除けの御利益で有名ですが、芸事も上達すると言われ、赤坂芸者の信仰を集めました。*1

青山通りに面した石垣(大正15年建立)には、寄進者の名前が彫られています。

新吉原「大黒」。

洲崎遊廓の楼主たちは、赤坂の豊川稲荷を信仰していました。荒川楼、高橋楼、花井楼、北川楼などが判読できます。*2

【参考文献】
*1 小林奈津子:散歩の達人(1999.6)P.30-P.31「どこか一線を画す大人の赤坂」
*2 岡崎柾男:洲崎遊廓物語(青蛙房,1988)P.286

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赤坂(キャバレー、クラブ跡)現在は閉店しています。

赤坂には、多くのキャバレーが存在しました。昭和の中頃、料亭と芸妓の減少は、同時にキャバレーやクラブの増加を意味していました。世界第一と言われたキャバレー「ミカド」は隆盛時の昭和50年中期には500人のホステスを抱え、しかもいずれも若く美人揃いでした。「美人を見たければ、夕方出勤時の赤坂ミカドの楽屋口に立て」と言われたほどに、若く美しい女性がミカドに集まりました。*1

キャバレー「ミカド」は、昭和60年に閉店し、現在は商業ビルになっています。

キャバレー「CABANA」があった付近。手前には、旧料亭の「浅田」がありました。*1

ディスコ「ムゲン」は、日本で最初のディスコとして昭和43年にオープンしました。店の前には、ローマから運んだ2体の石造が立っていて赤坂の名物となっていました。*1
「ムゲン」は、ゴーゴーダンス、モンキーダンスのメッカとなり、いい女はここで踊るのが定番となりました。客層も芸能人だけでなく、三島由紀夫、川端康成などの文化人も来訪していました。「ムゲン」は、昭和62年に幕を閉じました。*2

【参考文献】
*1 松沢光雄:繁華街を歩く東京編(綜合ユニコム,1986)P.171-P.195
*2 本橋信宏:60年代郷愁の東京(主婦の友社,2010)P.133-P.141

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赤坂(割烹)街の中に料亭が混在しています。

外堀通りを一本西へ入るとと、点々と割烹が残る一画があります。

旧料亭は、赤坂の街の中に混在しています。

「木の下」、「つる中」など、当時の料亭の屋号が現在も残されています。

風情のある小路。向こう側は外堀通りです。

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赤坂(料亭跡)日本の中枢部の人々の社交場として発展。

赤坂は、日本の政治の中心である永田町から最も近い位置にあり、明治から昭和中期までの間、日本の中枢部の人々の社交場として発展しました。*1
昭和5年になると、赤坂の芸妓家は140軒、芸妓数は408名、この他に、待合、料理屋111軒となり、新橋に勝るとも劣らない規模を備えました。*2
昭和47年の調査では、赤坂2丁目交番の隣に人力車夫溜り「大新」があって、写真の右側の坂道には、人力車が数台並んでいました。*1

赤坂見番があったあたり。*1

田町通り(現在はエスペラナード赤坂)は、かつては料亭街でしたが、現在は芸者衆の姿は皆無で、クラブやスナックが建ち並ぶ町に変貌しています。*3
この付近には、赤坂屈指の名門料亭だった「川崎」がありました。*2

田中角栄元首相は、1970年11月25日の昼、料亭「千代新」(現在はファミレス)に週刊誌「女性自身」の関係者を招きました。同誌が田中氏との間に3人の子をもうけた元神楽坂芸者を取材、書こうとしたのを阻止するのが目的でした。結果として、「女性自身」は折れましたが、編集長代理として同席していた児玉隆也氏は、このとき「もう一人の女」の存在を知り、数年後、そのレポート「淋しき越山会の女王」が脚光を浴び、田中政権崩壊につながりました。*2

【参考文献】
*1 松沢光雄:繁華街を歩く東京編(綜合ユニコム,1986)P.171-P.195
*2 金賢:荷風!Vol.17(2008.9)P.24-P.28「東京オリンピックが変えた街③赤坂」
*3 小林奈津子:散歩の達人(1999.6)P.30-P.31「どこか一線を画す大人の赤坂」

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赤坂(首相官邸裏)トルコ風呂計画跡地。佐藤栄作首相が激怒。

赤坂の東側。永田町にある首相官邸は、日本の政治の中枢です。
昭和41年、この首相官邸の裏にトルコ風呂の建設が申請されました。当時、トルコ風呂の営業地域は特定されておらず、許可さえ受ければどこでも開業できた時代だったため、トルコ風呂業者が永田町の首相官邸の近くでの営業を申請したわけです。ところが、それを知った佐藤栄作首相が大激怒。関係省庁にハッパをかけ、第15回国会に「風俗営業等取締法の一部改正」を上程して通過させ、開業を阻止しました。風俗ジャーナリストの広岡敬一さんは、どこの誰による開業申請かを探るため、所轄と思われる麹町保健所で申請書を探しましたが、書類は破棄されて不明だったそうです。*1

トルコ風呂の建設が申請された「官邸裏」とはどこだったのか、手がかりが無く不明ですが、この問題を議題としてとりあげた昭和41年6月27日の参議院地方行政委員会*2 で、市川房枝議員は「総理官邸の下」と表現しています。おそらくトルコ風呂は、官邸のある高台よりも地形的に低い場所に計画されていたのでしょう。首相官邸の南東側は崖になっていて、現在、この付近には、東横イン官邸南店などの民間のビルが建ち並んでいます。

また、同委員会で、松澤兼人委員は、「参議院会館の窓からのぞくと、大きなたれビラが、屋上から下に下がっていて、『サウナ・バス、八月一日オープン』と書いてあった。」とこのときの状況を国会で説明しています。*2

さらに、松澤兼人委員は、「きのうヒルトンホテル(現在のキャピトル東急ホテル)に参りましたら、あの角のところに何とかというビルがある。そこにサウナ・バスとかいう大きなたれビラがたれまして、八月一日オープンと、こう書いてある。」と述べています。*2
「大きなたれビラ」があったと思われる場所は、首相官邸からは少し離れていますが、官邸の北西に位置し、地形的にも低い場所にあります。この付近にトルコ風呂が計画されていた可能性もあります。

【参考文献】
*1 広岡敬一:戦後性風俗大系(朝日出版社,2000)P.211-P.212
【参考URL】
*2 国会会議録検索システム:第051回国会地方行政委員会第32号(1966.6.27)

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赤坂(弁慶橋)都会のオアシスのピンクチラシ剥がし跡。

今回は、赤坂(東京都港区)の町並みと風俗を散歩します。
赤坂は美しい自然をもっています。赤坂見附方面から見上げると、緑の森の丘の上に白いホテルが続いて建っていて、都心とは思えない落ち着いたムードをかもし出しています。*1

弁慶橋と弁慶濠は、「江戸城外堀跡」として文化財に指定されています。

橋の欄干や擬宝珠(ぎぼし)に、無数のピンクチラシ剥がし跡があります。

デリヘルのチラシでしょうか。

【参考文献】
*1 松沢光雄:繁華街を歩く東京編(綜合ユニコム,1986)P.171-P.195

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下総中山(国見湯)中山法華経寺の門前の銭湯。

京成電鉄の中山駅から中山法華経寺までの参道が続いています。普通の商店街のような雰囲気で風情があります。

参道から東側の路地に、銭湯の国見湯があります。建物は場所柄、お寺のような重厚な建物です。

入口付近。脱衣場、浴場とも普通の銭湯よりはひとまわり広い立派な銭湯です。

建物を側面から見ると、その大きさを実感できます。

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下総中山(松竹湯)駅前の銭湯。周囲はビルに囲まれています。

下総中山は銭湯密集地域です。駅周辺だけでも、松竹湯、国見湯、桔梗湯、寿湯、滝の湯、栄浴場など6軒あります。

駅近くにある松竹湯。

周囲はビルに囲まれています。

脱衣場はやや狭いですが、大きな鏡があるので広く感じます。サウナは無料です。

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歌舞伎町(喫茶店「王城」)中世の古城を模した建物。

歌舞伎町公園の隣に、喫茶店「王城」だった建物があります。

戦後の復興が生んだ1950年代の都市文化と言えば、ロックンロールに代表される明るいアメリカのイメージが強いのですが、喫茶店については、ヨーロッパのイメージが強い傾向があります。*1

外観は、ヨ-ロッパの城や山小屋のイメージを表現していて、建物は、塔のようなデザインがされ、ステンドグラスも使われていました。*1

現在は、カラオケボックス店として営業中です。

【参考文献】
*1 陣内秀信,法政大学・東京のまち研究会:江戸東京のみかた調べかた(鹿島出版会,1989)P.181-P.184

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歌舞伎町(コマ劇場の工事用フェンス)歌舞伎町の歴史。