屋富祖大通りの坂を登りきったあたりに、長屋の飲み屋街があります。

周囲は開発が進んでいますが、ここだけが時間が止まっているような雰囲気です。

小路の両側に飲み屋が並んでいます。

飲み屋街の路地は、L字型に続いています。

屋富祖大通りの坂を登りきったあたりに、長屋の飲み屋街があります。

周囲は開発が進んでいますが、ここだけが時間が止まっているような雰囲気です。

小路の両側に飲み屋が並んでいます。

飲み屋街の路地は、L字型に続いています。

今回は、浦添(沖縄県浦添市)の町並みと風俗を散歩します。
浦添市の屋富祖・城間は、キャンプキンザーのメインゲートに直面していることから、屋富祖・城間の大通り周辺には、米兵相手の飲食店や雑貨店が多く建ち並びました。*1

屋富祖大通りは、一帯で最も賑やかな目抜き通りで、通りの路地にはAサインバーが集中していて、白人専用の特飲街を形成していました。*1

一方、城間大通りは、2~3軒の雑貨店、1~2軒の沖縄人相手の料亭を有する歓楽街でした。*1
(下の写真は、屋富祖大通りと城間大通りが合流するあたりです。)

通りの中心部付近に黒人相手の大規模店「バーアラスカ」があったことから、城間大通りは黒人たちが闊歩するようになりました。米兵相手の娼婦に間借りをさせている家庭もあって、米兵の部落への出入りは盛んでした。*1

屋富祖のAサインバーに黒人が飲みに来るということはなく、それどころか黒人のハーニー(愛人)が屋富祖で間借りすることが許されないほど、この一帯の白黒の区別は徹底されていました。しかし、黒人相手の「バーアラスカ」が倒産すると、黒人兵たちは城間から姿を消しました。*1
【参考文献】
*1 沖縄市:KOZA BUNKA BOX 3号(沖縄市企画部平和文化振興課,2007)P.70「コザ十字路一帯における黒の街と白の街」
那覇港に近い東町に料理店の「山海」があります。

沖縄ではもう数少ない貴重な山羊料理の専門店です。*1
ヤギは、非常に生殖欲の強い動物として知られています。このことが世の男性諸君からヤギ肉は精力剤として評価されている理由です。フィリピン、ベトナム、インドネシア、インド、韓国などの国々でも同様な評価を受けています。特にベトナムでは「ヤギ」と「スケベ」は同じ「Con de」(コンゼー)と表記・発音します。面白いことに沖縄では泡盛にハブをつけたハブ酒があるように、ベトナムではヤギの睾丸を焼酎に漬けた睾丸酒があります。*2

有名人も数多く訪れている名店で、高円宮様ご一家も訪れています。店内にご一家の写真が飾られています。

ここの名物はヤギ玉(山羊の睾丸の刺身)です。始め、1人前を注文しようとしましたが、お店のおばさんから、「1人前食べると精力つきすぎます。鼻血出ますからやめといた方がいいです。」とアドバイスされ、特別に、ヤギ刺し半人前とヤギ玉半人前の刺身盛り合わせを作ってくれました。
これと、ヤギの血を固めて短冊に切ったものとヤギのいろいろな部位の肉や内臓、野菜を具にした炒め物「チーイリチャー」と泡盛を注文しました。
血の固まりは、やわらかい厚切りハムのようで、大変美味しいです。にんにくがきいていて、精力がつきそうな感じです。ヤギ刺しは、皮付きのものとそうでないものの2種類があって、皮付きの方があっさりしている感じです。
さて、いよいよヤギ玉ですが、こちらはコリコリとした食感で、あわびをやわらかくしたような感じですが、さすがに、少しヤギ臭いです。まるで自分の睾丸が食べられているような気分になり、思わず股間をおさえました。(写真の丸い6個にスライスされたものがヤギ玉です。)

【参考文献】
*1 カベルナリア吉田:沖縄ディープインパクト食堂(アスペクト,2010)P.16-P.21
*2 平川宗隆:沖縄でなぜヤギが愛されるのか(ボーダーインク,2009)P.12-P.13
沖縄は、コンクリート製の住宅が普及しています。

コンクリート住宅のバルコニー部分に使用されている穴あきブロック(花ブロック)は、沖縄では日常的な風景ですが、古い建物の場合は、ブロック塀の穴あきブロックと同一のものが使用されています。

穴あきブロックは、”三つ山”などシンプルなデザインのものが好まれているようです。穴あきブロックは上下反転させて3段に配置されています。

階段部分の穴あきブロック。

那覇市の樋川に、スナックが密集する路地があります。周囲は閑静な住宅街ですが、この路地だけがスナックが建ち並んでいます。

色とりどりのスナックの店舗。

古い木造建築の建物です。

別の路地に残るスナックの建物。

那覇市の小禄半島の西には、航空自衛隊の那覇基地がありますが、この近くには小禄新辻町(新町)という特飲街がありました。*1
現在の那覇市宇栄原に「新町入口」という名のバス停があります。

新辻町は、コザの八重島と同様、米兵による強姦事件や民家の不法侵入など、犯罪の多発防止を目的に1952年につくられ、最盛期には70軒余りの店がありました。コザ同様、小禄半島の特飲街にも米軍の「人種別指定制度」が導入され、新辻町は白人専門、黒人はペリー区というテリトリーがありました。*1

現在はスナック街になっています。

東側の通りには、木造の建物も残っています。

【参考文献】
*1 沖縄市:KOZA BUNKA BOX 3号(沖縄市企画部平和文化振興課,2007)P.71「コザ十字路一帯における黒の街と白の街」
今回は、那覇(沖縄県那覇市)の町並みと風俗を散歩します。
終戦直後、米軍は那覇軍港の整備に着手し、現在の山下町一帯は港湾従事者で活気に満ちていました。ところが、この「山下」という名は太平洋戦争の緒戦で「マレーのトラ」と異名をとった山下奉文将軍と同じ名であったため、米軍の政府政治部長だったポスト大佐がこの一帯をペリーという地名に改めました。*1
ペリーは、黒船の来航(1853年)で有名なペリーのことですが、実は、浦賀に来航する前に、那覇に来航していました。そのときのペリーの狼藉ぶりは目に余るもので、通りすがり女性の乳房を触ったり、民家に侵入してトートーメー(位牌)を奪うなどやりたい放題で、その後、婦女暴行を起こした水兵が殺害される事件まで起きました。話を冒頭の山下町に戻すと、山下町は、ペリー上陸地とは離れていますがが、米軍の意向でペリーにちなみ「ペリー区」と改名されました。*2
下の写真は、国道331号線(小禄バイパス)と県道7号線が交差するあたりで、右側が那覇軍港、左側が山下町です。

ペリー区は、軍港前を中心に米兵相手のバーが次第に増え、完全な赤線地帯となっていました。コザの町には黒人街と白人街がありましたが、黒人街の始まりは、このペリー区でした。バー街ではいざこざが絶えず、1952年には、「MP射殺事件」が発生、ついに米兵立ち入り禁止の”オフリミッツ”が発令され、これを境にペリーのバーは立ち消え、住宅街になりました。かつては、ペリーという名のバス停もありました。*1
現在も山下町には、商店などにペリーの呼び名が残っています。

ぺりー美容室。

ペリーもち屋。写真の右奥に見えるのは、「沖縄セルラースタジアム那覇」です。
1957年、琉球政府法務局は、戦後使用されなくなっていた地名を戦前の地籍どおり呼ぶことを全琉に通達、この日からペリー区も再び山下町に戻りました。*1

【参考文献】
*1 琉球新報社:ことばに見る沖縄戦後史 パート1(ニライ社,1992)P.173-P.179
*2 カベルナリア吉田:日本の島で驚いた(交通新聞社,2010)P.221-P.227
阪堺電軌阪堺線高須神社駅(写真左)近く。駅のすぐ北には、高須神社が鎮座しています。付近は、木造家屋が多く残る町並みです。

森永乳業の牛乳箱。

明治牛乳。

箱の側面には、明治バターと書かれています。

堺市街の北西から南東にかけて、フェニックス通りと呼ばれる幅50mの大通りがあります。フェニックス通りの名称の由来は、堺大空襲からの復興の象徴として植えた、126本のフェニックスの苗木です。
このフェニックス通りから1本道路を入ったところにフェニックス横丁があります。

2つの建物の間に計画的に作られた横丁です。

50mぐらい離れたところに、もう一つのフェニックス横丁があります。

2つの建物の間に路地があるという構造や看板の取り付け方も同じです。

新地にある神明神社は、堺のお伊勢さんと呼ばれている神社です。

龍神遊廓の楼主が寄進した玉垣が残されています。

「艶乃家」。

「愛乃家」など、艶っぽい屋号の玉垣がたくさんあります。
