高田馬場(早稲田大学演劇博物館)ストリップの展示。

早稲田大学演劇博物館は、英文学者の坪内逍遥の業績を記念して建てられた日本で唯一の演劇博物館です。*1

民俗芸能展示室(2階)。

近代展示室(3階)には、ストリップの展示もあります。(下の写真は、館内で発売(¥500.-)されている「演劇博物館」の冊子*1 のP.15)
ストリップをも芸能の一分野と認定し、歴史的資料を展示しているのは、さすが演劇博物館です。案内板のストリップという片仮名の下には、Burlesque(バーレスク)と英語が記されていて、学術研究としての対面を保っています。日本初のストリップは、1947年に帝都座五階劇場で上演されました。*2
同年に上演された「女の学校」というタイトルのストリップのポスターが常設展示されています。

森繁久彌さんの企画展示が行われていて、コミックオペラ「モルガンお雪」のポスターなどが展示されています。

【参考文献】
*1 早稲田大学演劇博物館:早稲田大学坪内博士記念演劇博物館(早稲田大学演劇博物館,2001)P.4,P.14-P.15,P.20-P.21
*2 荒俣宏:万博とストリップ(集英社,2000)P.14-P.17

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参考記事

高田馬場(名曲「神田川」ゆかりの地)アパート跡地。

昭和48年(1973年)に大ヒットした南こうせつとかぐや姫の名曲「神田川」は、”四畳半フォーク”の代表曲で、これまでのメッセージ・フォークにはっきり別れを告げた曲でした。哀愁をおびたバイオリンの音をともないながらの「ただあなたの優しさが怖かった...」というくだりが、同棲生活のあやうさをよくあらわしていました。*1
「神田川」の歌詞は、作詞をした喜多条忠さんの自らの学生時代の体験に基づくものです。喜多条忠さんは、2年生になると新入生のみち子さんと知り合い、神田川沿いの3畳一間のアパートで同棲するようになりました。写真の左側の5階建ての建物のあたりが同棲していた「神田川」のアパート跡です。*2

「神田川」の歌詞の最後「若かったあの頃、何もこわくなかった」と書き上げるまでわずか15分しかかからなかったといいます。当時、大学は、ベトナム反戦運動と授業料値上げ・管理反対闘争で揺れていて、喜多条忠さんもヘルメットをかぶり学生運動に加わり、機動隊とぶつかり、殴られたり催涙弾を浴びました。しかし、若い喜多条さんに失うものはなく、何も恐くありませんでした。「逆に恐いのは何か」と考えました。泥だらけになって、みち子さんが待つ部屋に帰ると、いつもと変わらず台所でカレーを作っている彼女の背中が見え、「俺はこういう日常にいつか埋没するのだろうか。俺にとって恐いのは、彼女の変わらぬ優しさかもしれない。」と考えました。そして、日本の自由詩の歴史上もっとも有名で、悲しく、せつない詩句が、このとき誕生しました。--ただあなたのやさしさがこわかった。*2*3

昭和49年(1974年)に公開された映画「神田川」は、この名曲「神田川」が原案となっています。大学生の誠のアパートがあったロケ地跡の石段は当時とほとんど変わっていません。*2

「神田川」の歌詞に登場する横丁の風呂屋のモデルは、西早稲田にあった「安兵衛湯」と言われています。*3
現在はマンションになっています。*4

【参考文献】
*1 世相風俗観察会:代世相風俗史年表1945→2008(河出書房新社,2009)P.195
*2 本橋信宏:60年代郷愁の東京(主婦の友社,2010)P.53-P.72
*3 テリー伊藤:歌謡Gメンあのヒット曲の舞台はここだ!(宝島社,2005)P.19
*4 新宿区住宅地図(1990)P.17

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高田馬場(神田川沿いの看板)小便・嘔吐等厳禁。

高田馬場と言えば、神田川です。高田馬場の町を東西に流れ、早稲田方面へ続いています。

高田馬場駅近くの神田川は、繁華街が隣接しているので、このような「小便・嘔吐等厳禁」の看板があります。

神田川沿いに歩いていくと、木々が生い茂る場所があります。

大便等禁止の貼紙。消えかかっていますが、「軽犯罪法違反」と書かれています。

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高田馬場(さかえ通りの美容室)1階にレストラン、2階がアパート。

さかえ通りに、昭和を感じさせる美容室の建物があります。

古い看板が連なっています。

2階はアパートになっていて、1階の美容室の隣がアパートの入口です。

1階の右側半分は、タイ料理の店になっています。

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高田馬場(ビデオ店)看板だけが残されています。

今回は、高田馬場(東京都新宿区)の町並みを散歩します。
高田馬場駅前の繁華街の「さかえ通り」。通りの奥まったあたりに、元ビデオ店だったと思われる建物があります。

「ビデオ」の看板だけが残されています。

個室鑑賞の店も数軒あります。

個室ビデオ店の貼紙。

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千駄ヶ谷(国旗掲揚塔)東京オリンピック遺跡。

JR代々木駅前に国旗掲揚塔があります。

昭和39年10月吉日と書かれています。東京オリンピックの開催は、昭和39年(1964年)10月にですので、この国旗掲揚塔はこれにあわせて作られたものと思われます。

代々木駅近くの交差点にも同様の国旗掲揚塔があります。

「昭和39年8月20日 通り町会国旗掲揚塔」と書かれています。

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この記事を参照している記事

高田馬場(国旗掲揚塔)1964年東京オリンピック記念。

千駄ヶ谷(旅館跡)旅館街の名残。鳩の森神社近く。

千駄ヶ谷の鳩の森神社近くに、千駄ヶ谷が旅館街だった頃に営業していたと思われる旅館の看板があります。
1959年の住宅地図*1 を見ると、旅館「喜鶴(きかく)」と記されています。

現在は、営業していません。

看板は、「旅館」でしたが、その後「ホテル」として営業していたようです。

現在は、周囲に旅館街の面影はありません。

【参考文献】
*1 住宅協会:渋谷区東部(住宅協会,1959)P.4

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千駄ヶ谷(連れ込み旅館街跡)さかさくらげと呼ばれていました。

昭和25年(1950年)に勃発した朝鮮戦争によって、米兵の往来は激しくなり、売春業も繁盛しました。しかし、昭和20年代後半には、まだ新宿歌舞伎町界隈に連れ込み旅館が密集するという状態ではありませんでした。当時、連れ込み旅館の代名詞ともなった地名は、千駄ヶ谷でした。*1

旅館「白樺荘」*2 があったあたり。現在は、マンションが建っています。
千駄ヶ谷の「温泉マーク」を舞台にした梶山季之の小説「朝は死んでいた」によると、昭和30年代前半の千駄ヶ谷の旅館は、一夜の泊まり料金が高いせいもあって、夜の客は、銀座、新宿、渋谷といった一流の店に勤めている女性たちがほんどでした。一方、昼間の客は、人妻と大学生、重役と女秘書、商店主と女事務員など、時間決めの客がほとんどでした。*1

旅館「もみじ」があった場所。現在は駐車場になっています。

隆盛を誇った千駄ヶ谷ですが、昭和33年(1958年)の第三回アジア大会の開催を契機に、凋落(ちょうらく)の運命をたどることになります。アジア大会の開催は、1964年の東京オリンピック開催を射程に入れていたので、場所は千駄ヶ谷周辺。日本にとっては、戦後から脱却するワンステップという大きな意味を持っていたため、渋谷区は、「風紀がみだれていてはまずい」という理由で、千駄ヶ谷の温泉マークに自粛をうながしました。*1
これかがきっかけとなって、鳩森小学校のPTAの活動が起こりました。「鳩の森騒動」とも呼ばれるこの運動の結果、昭和32年(1957年)に代々木千駄ヶ谷地区が文教地区に指定され、連れ込み旅館の自壊は時間の問題となりました。*1*3

【参考文献】
*1 保田一章:ラブホテル学入門(晩聲社,1983)P.63-P.66
*2 住宅協会:渋谷区東部(住宅協会,1959)P.4,P.6
【参考URL】
*3 代々木商店街ホームページ:代々木まち語り

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千駄ヶ谷(鶴乃湯)温泉マークの銭湯。美しい黒板塀。

千駄ヶ谷の東京能楽堂の南側に銭湯の鶴の湯があります。

玄関付近。黄緑色のタイルがアクセントになっています。

美しい黒板塀が銭湯の東側を囲っています。

おなじみの温泉マーク。国土地理院の地形図の温泉記号で使用されているマークですが、銭湯でも定番です。

温泉マークは本来、地図のうえで、ここに温泉がありますよと示すためのマークですが、戦後、温泉マークが温泉以外の風俗営業施設に利用された時代がありました。温泉マークがくらげを逆さまにしたような形をしていることから「さかさくらげ」という隠語が発生し、「温泉マーク」「さかさくらげ」というと、当時の連れ込み旅館だと認識されていました。*1
【参考文献】
*1 金益見:ラブホテル進化論(文藝春秋,2008)P.10

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原宿(トルコ共和国大使館)トルコ風呂改名。

原宿から明治通りを北へ行った神宮前一丁目交差点付近。

ここに、トルコ共和国大使館があります。

1984年、元トルコ人留学生が厚生大臣に直訴状を手渡しました。その内容は、「日本にあるトルコ風呂(現在のソープランド)とわが国のトルコ風呂とは全然違うのだから、トルコという名称を使うのは、やめて欲しい。」というものでした。「トルコ風呂」は、あくまで俗称であるので、厚生省としては、何もできませんでしたが、国際問題に発展しかねないこの問題に対して、トルコ風呂の業界団体である東京都特殊浴場協会がトルコ風呂に代わる新名称を公募しました。公募によって集まった2400以上の名称の中から、当時24歳の会社員の男性の「ソープランド」が採用されました。*1

一方、トルコ風呂改名には、別の都市伝説も存在します。かつて「大使館」というトルコ風呂があったという話です。電話帳に、「トルコ(風呂)・大使館」と「トルコ大使館」が併記されていたたため、本物の大使館に、トルコ風呂「大使館」あての電話がしばしばかかってきました。また、新任のトルコ大使館員が、(タクシーで)空港から大使館へ向かおうとしたところ、トルコ風呂「大使館」へ連れて行かれました。こうしたことが重なって、激怒したトルコ大使館は日本の外務省へ講義し、名称を変更することになりました。*1

【参考文献】
*1 井上章一,斎藤光,澁谷知美,三橋順子:性的なことば(講談社,2010)P.234-236

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