原宿(代々木公園のハッテンバ)通称自転車小屋。

原宿駅の西側に広大な敷地を持つ代々木公園があります。代々木公園は、敗戦後の1945年にアメリカ軍に接収されたワシントンハイツが、1964年に東京オリンピックの選手村となった後、1967年に都市公園として開園したものです。
広大な敷地の中には、サイクリングコースがあります。

公園の北部にあるサイクリングセンター(通称自転車小屋)で自転車を借りてサイクリングを楽しむことができます。

この自転車小屋の裏手は、都内では有名な野外ハッテンバでした。ネットの掲示板には、「筋肉系」とジャンルを絞って、毎夜書き込みがされていました。*1

幼児車向け自転車乗り場の奥の広場もハッテンバでした。*1

【参考文献】
*1 Badi(2002.8)P.36-P.37「野外ハッテンスポット厳選紹介」

参考文献

参考記事

原宿(オリンピック選手村宿舎跡)東京オリンピックの面影。

代々木公園に、東京オリンピック開催を記念した掲示があります。

アーチの奥に東京オリンピック記念宿舎があります。

この建物は、東京オリンピックのときにオランダの選手団宿舎として使用された建物です。木立にたたずむ姿は軽井沢を思わせます。*1

1964年、第18回オリンピック大会が東京で開催されましたが、そのときの選手村の跡が代々木公園になりました。

【参考文献】
*1 本橋信宏:60年代郷愁の東京(主婦の友社,2010)P.5-P.8

参考文献

参考記事

原宿(代々木公園前)ローラーと竹の子族。

1964年の東京オリンピック開催後、日本の未来をいちばん鮮明に見ることができたのが原宿でした。戦後、次々に現れた「族」のうち、最新の種族として「原宿族」という言葉が聞かれ始めたのもこの頃でした。彼らは、スポーツカーや改造車、あるいはオートバイを連ねて表参道をわが物顔に走り回りました。*1

この原宿族は1967年頃に去り、原宿は、新宿の影に隠れて足踏み状態が続きました。ヒッピーファッションやミニスカートの流行の後、次に原宿に現れた「族」は暴走族でしたが、この頃既に銀座や新宿で始まっていた歩行者天国を導入により、暴走族は締め出されました。その歩行者天国に、今度は目立ちたがり屋のロックンローラー(ローラー)が1977年にフィフティーズファッション(男はリーゼントにTシャツ、女はポニーテールにサーキュラー風のスカート)で登場し、ツイストやジルバを踊りはじめました。*2

現在も、日曜日になると、ロックンローラーが代々木公園入口付近で踊っています。

踊るとスカートが大きく広がります。

ローラーの次には、「竹の子族」が登場(1979年)しました。竹の子族の特色は、「ブティック竹の子」の派手な衣装を着て、ラジカセの曲に合わせて独特の竹の子踊りを踊ったことでした。*2

【参考文献】
*1 エドワード・サイデンステッカー,他:立ちあがる東京(早川書房,1992)P.202-P.204
*2 馬淵公介:「族」たちの戦後史(三省堂,1989)P.243-P.246

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参考記事

原宿(竹下通り)路上のマネキン。若者で賑わっています。

ブティックが密集する竹下通りは、若者で賑わっています。

真っ赤な店構えがよく目立つ「ブテッィク竹の子」。
この店の衣装(ハーレムスーツ)をユニホームのように着ていた「竹の子族」は、一世を風靡しました。ブームが終わった後も、日本をモチーフにしたオリジナルファッションを提案。いまも根強いファンを持っています。*1*2

現在の竹下通りは、下着ショップの多さが際立っています。

路上に立つ派手なマネキン。

【参考文献】
*1 加藤明,他:原宿物語(草思社,1986)P.224
*2 馬淵公介:「族」たちの戦後史(三省堂,1989)P.249

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原宿(キャットストリート)元の渋谷川。現在は暗渠。

今回は、原宿(東京都渋谷区)の町並みと風俗を散歩します。
原宿の繁華街の歴史は、進駐軍時代にさかのぼります。終戦になると、代々木の練兵場に進駐軍将校の宿舎「ワシントンハイツ」(現在の代々木公園)ができ、この進駐軍将校とその家族が買い物をする店が、原宿の表参道に発生しました。中でも人気を集めたのが、昭和25年に原宿の渋谷川(穏田川)のほとりに出てスーペニアショップ(進駐軍相手のみやげ店)の看板をあげた「キディランド」でした。兵士たちは、朝鮮戦争が始まってからは、日本を休息地としていたので、パーティが多く催され、そのときの仮装用品をまかなうキディランドは人気のある店で、帰国するときのみやげものもこの店で調達していました。このように、原宿に英字看板の店ができると、娘たちの人気を集め、たちまちのうちに原宿は新しい街となっていきました。*1

表参道の歩道に、「さんどうばし」と書かれた石柱があります。これは、穏田川が流れていた頃の橋の名残です。

穏田川は、現在は暗渠になって上はコンクリートで固められて、「キャットストリート」と呼ばれています。

部分的に石垣が残っていて、かつては川が流れていたことを伝えています。

【参考文献】
*1 松沢光雄:繁華街を歩く東京編(綜合ユニコム,1986)P.121-P.147

参考文献

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白山(花街に隣接する理髪店)モダンな斜め取っ手のドア。

旧花街の東側に理髪店だった古い建物があります。

当時のままの状態で残されています。

入口には、斜め取っ手のドアがあって、美容室らしいモダンなデザインです。

サインポール。

参考文献

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白山(花街跡)元料亭の建物。「濱乃家」と彫り抜かれています。

白山花街の南側には、現在も当時の料亭の建物がわずかに残っています。
旧花街の南端に、元料亭の濱乃家の建物があります。

美しい木造建築です。

玄関付近。

2階部分に、「濱乃家」と彫り抜かれています。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.139

参考文献

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白山(花街跡地)電柱に「三業」の文字。現在、面影はありません。

白山に商家が建ち始めたのは日清戦争の頃で、現在の柳町仲通りに「新開地」と呼ばれる歓楽郷ができ、陸軍砲兵工廠(現在は東京ドーム)に通う職工さんなどの往来で賑わいました。日露戦争の頃になると、樋口一葉の「にごりえ」の舞台にもなった銘酒屋ができて、はじめて酌婦がホステスとして現れるようになったのが、白山花街ができるまでの濫觴(らんしょう)でした。*1

「大正時代における白山花街分布図」*1 を見ると、現在の白山仲通りにある商店街付近は、花街の北側に位置します。

現在、その面影はありません。

花街の北東側。住宅街になっています。

付近の電柱には、「三業」と書かれたプレートがあり、当時この一帯が花街だったことが解ります。

【参考文献】
*1 浪江洋二:白山三業沿革史(雄山閣出版,1961)P.9,P.159

参考文献

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白山(仲通り商店街)かつての銘酒屋があったあたり。

樋口一葉の住まいがあった白山通りを横切ると、柳町仲通り商店街に入ります。

一葉の住まいからこのあたりまでの一帯は、銘酒屋と称する私娼宿が並ぶ色町でした。一葉の「にごりえ」は、この銘酒屋を舞台とした小説で、「空壜(あきびん)か何か知らず、銘酒あまた棚の上にならべて・・・」と銘酒屋のことが描写されています。1
銘酒屋とは、酒を並べてはいるものの店の奥や2階で娼婦たちが客を遊ばせ、春をひさぐ場所。そんな女たちが一葉に手紙の代筆を頼みにくるようになりました。
2
一葉日記「しのぶぐさに、次のような一節があります。*1
「となりに酒うる家あり 女子あまた居て客のとぎ(伽)をする事うたひめのごとく遊びめに似たり つねに文かきて給われとて わがもとに来る」

昔、デパートの屋上遊園地などにあった乗り物が何台も並んでいて、楽しそうな商店街です。

商店街の周囲は開発が進んで、高層マンションが間近にせまっています。

【参考文献】
*1 槐一男:一葉の面影を歩く(大月書店,1995)P.84-P.89
*2 野口碩:樋口一葉と歩く明治・東京(小学館,2004)P.55

参考文献

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白山(一葉碑)崖下にあった一葉の住まい。

今回は、白山(東京都文京区)の町並みと風俗を散歩します。
都営三田線春日駅の小石川方面口からでると白山通りがほぼ南北に走っています。しばらく北上すると右側に興陽社ビル(1階は紳士服コナカが出店)があります。

ビル前の右手に「一葉 樋口夏子碑」がたっています。
一葉の終いの住まいは、この碑の後方で、文京区円山福山町四番地にありました。*1

この文学碑は、樋口一葉の明治27年4月28日、5月1日の日記より筆跡を写して記念としたもので、昭和27年9月7日に建てられました(案内板より)。

碑の下には、「一葉のパンフレット、ご希望の方ご自由にお取りください。」と書かれた立て札があります。箱の中をあけてみると、興陽社が作成したパンフレット*1 があります。

参考文献

*1
興陽社一葉碑について興陽社

樋口一葉が下谷龍泉寺町(大音寺前)から本郷丸山福山町に移ったのは、明治27年…

参考記事

この記事を参照している記事

白山(旧町名案内)丸山福山児童遊園。一葉日記。