駅前の交差点の角に、開発から取り残された一画があります。

飲み屋が建ち並ぶ小路。規模は小さいです。

L字型に曲がって、駅前の大通りに出ます。

閉店の貼紙。昭和27年から営業していた居酒屋さんです。

駅前の交差点の角に、開発から取り残された一画があります。

飲み屋が建ち並ぶ小路。規模は小さいです。

L字型に曲がって、駅前の大通りに出ます。

閉店の貼紙。昭和27年から営業していた居酒屋さんです。

今回は、松阪(三重県松阪市)の町並みと風俗を散歩します。
JR松阪駅前に白ポストがあります。

箱は、2つ並んでいます。

やぎの箱。悪書を食べてしまいます。紙の本だけでなくビデオやDVDも食べてしまいます。

箱の側面にはやぎのデザイン。

古市遊廓があった古市参宮街道に、資料館があります。

ここには、遊廓関連の資料が展示されています。

古市の娼妓たちの写真。

昭和初期まで存在していた大安旅館の展示。

麻吉(あさきち)旅館は、古市で現在も営業する昔ながらの唯一の旅館です。*1

当時、ここは麻吉料理店といって明治初年において第一級の料亭で、置いている芸者は20人あまりもいました。芸者はみな美人で、ここでの芸者は他の店にはでないほど麻吉は全盛をきわめました。*1

旅館は崖の上にたっていて、石段を下ると旅館の建物の裏側へ降りることができます。

崖下の伊勢自動車道から見た麻吉旅館。

【参考文献】
*1 中村菊男:伊勢志摩歴史紀行(秋田書店,1975)P.126,P.134
古市にある大林寺。

ここには、孫福斎(まごふくいつき)と遊女お紺の墓が立てられています。
この墓は「油屋騒動」の芝居を演じた四代目坂東彦三郎が建立したものです。「油屋騒動」は、寛永8年(1759年)、宇治に住む医者の孫福斎が古市の遊廓の油屋にあがって、ふとしたことから怒り出し、数人を死傷させた事件で、この事件は「伊勢音頭恋寝刃」(いせおんどこいのねたば)という芝居に脚色されて上演され、非常な人気を得ました。*1*2

お紺は49才で病死しました。*1

墓石に油屋の文字があります。

【参考URL】
*1 大林寺:公式ホームページ「油屋騒動」
【参考文献】
*2 中村菊男:伊勢志摩歴史紀行(秋田書店,1975)P.119-P.123
今回は古市(三重県伊勢市)の町並みと風俗を散歩します。古市遊廓跡の入口にあたるのが「間の山」の坂道です。遊廓が全盛だった大正時代の間の山は、今よりも坂が急でしたが、人力車は威勢よく行き来しました。*1

間の山の坂の途中に、「お杉・お玉の碑」があります。
お杉・お玉というのは、二人の女性が三味線を引きながら演技をしているのに対して、お客がほんのすぐ近くから小銭を投げるのですが、それを女たちがたくみにバチで受け止め、これを避けたりして体にあたらないようにする遊び場で、古市の見世物のひとつでした。*1

間の山は、井原西鶴の「西鶴織留」や中山介山の「大菩薩峠」にも登場します。*1

間の山の近くの「まちづくり実行委員会」の民家に、当時の古市の写真が掲載されています。

【参考文献】
*1 中村菊男:伊勢志摩歴史紀行(秋田書店,1975)P.108 -P.110
新宮市春日に新宮出身の小説家の中上健次さんの生家跡の案内板があります。*1*2

中上健二さんの代表作のほとんどは、故郷の新宮を中心に、熊野・紀州の風土を背景としたもので、浮島遊廓や女郎などの題材も頻繁に登場します。

小説「千年の愉楽」に登場する「天地の辻」。*1
写真の建物(新宮市人権教育センター)には、中上健二さんの展示があります。

小説「枯木灘」「奇蹟」、「地の果て 至上の時」で登場する「新地」と呼ばれた歓楽街があったあたり。*1

【参考文献】
*1 和賀正樹:熊野・被差別ブルース(現代書館,2010)P.12,P.74,P.132
*2 上原善広:日本の路地を旅する(文藝春秋,2009)P.12
大王地の旧料亭街には、スナックの建物が混在しています。

十字路の角にあるスナック。

スナックが建ち並ぶあたり。フィリピンの店もあります。

和風の建物ですが、現在はスナックとして営業中です。

江戸時代、新宮は上方と江戸を結ぶ海上の要衝で、木材や薪炭の集散地として栄えました。熊野速玉大社南側に、大王地と呼ばれる旧花街がありますが、新宮が「南国の宝石」と呼ばれたころの殷賑が見てとれます。*1

飲食店やスナックが軒を連ねますが、老舗の建物も多く残されています。

かつて、料亭だったと思われる建物が建ち並びます。

入口にタイルの装飾がある和風の建物。

【参考文献】
*1 和賀正樹:熊野・被差別ブルース(現代書館,2010)P.17-P.18
明治時代中頃まで、群馬県と和歌山県だけには遊廓が設置されていませんでしたが、日露戦争後の軍国主義華やかな時代、兵営誘致のためには遊廓の設置が必要との考えが浮上し、明治39年、日高郡白崎村糸谷、東牟婁郡大島村、東牟婁郡新宮町合筋の3ヶ所に遊廓が設置されました。新宮町合筋に設置された遊廓は通称「三本杉遊廓」と呼ばれましたが、明治45年の大火により消失し、大正2年に浮島に移転し、浮島遊廓として終戦まで続きました。*1

「浮島遊廓造成地図」*2 によると、遊廓があった場所は、現在の浮島の森の北側の公園のあるあたりで、北側の山を切り崩して土地を造成して遊廓が建設されことが確認できます。写真奥の保健センターがある場所にも妓楼が建っていました。

遊廓跡地全景。

北側の遊廓の正面の道路。道幅が途中で広くなっています。

【参考文献】
*1 熊野地方史研究会:熊野誌 第22号(新宮市立図書館)「新宮遊郭始末記」P.151-P.163
*2 新宮市立図書館(所蔵):浮島遊廓造成地図