標津(野付半島)距離16Kmの近くて遠い島。

知床半島と根室半島のちょうど中間に野付半島があります。

野付半島は、鳥の羽根のような形をした砂嘴(さし=潮流で運ばれた砂が長い年月で堆積した地域)で、その大きさは全長28Kmに及び、日本最大です。大部分は、砂浜草原と湿地原で構成されています。

半島の中央部にあるネイチャーセンターに、「幻の歓楽街『キラク』」の説明があります。
「キラク」は、江戸時代末期まで、交易や漁業の拠点として栄え、40~50軒の家がありました。そこには遊廓があり、多くの女性が住んでいました。*1*2

ネイチャーセンターからは、距離16Kmの近くて遠い島である国後島(ロシア領)を望むことができます。

【参考文献】
*1 なるほど知図帳日本編集部:歴史の足跡をたどる日本遺構の旅(昭文社,2007)P.20-P.27
*2 朝日新聞北海道版(1995.1.22)P.20

参考文献

参考記事

標津(市街のスナック)演歌師お断りのプレート。

標津市街の国道244号線沿いにスナックが密集しているエリアがあります。

はまなす通り。

現在は、寂れています。

元スナックと思われる建物にあった演歌師お断りのプレート。

参考文献

参考記事

標津(遊女屋跡地)寺の向かいにあった遊女屋。

今回は標津(北海道標津郡)の町並みと風俗を散歩します。標津(しべつ)町は、知床半島と根室半島の中間に位置し、国後島(ロシア領)が見える町として有名です。

市街を南北に貫く国道244号線は、町のメインストリートです。

「標津ひとむかし」の「明治から大正の標津市街略図」*1 によると、敬栄寺沿いの通りの龍雲寺の向かい側の四つ角に、遊女屋が1軒ありました。
龍雲寺は昭和40年に南六条西1丁目に移転し、跡地には電報電話局(当時)が設置されました。*2
現在は、NTT根室標津ビルとなっています。(写真右側)

これらの位置関係から、遊女屋は、現在のパチンコ店がある場所にあったことになります。

【参考文献】
*1 北海道標津町郷土研究会:標津ひとむかし(北海道標津町郷土研究会,1991)P.134-P.135
*2 標津町史編纂委員会:標津町史第1巻(標津町史編纂委員会,1968)P.1018-P.1019

参考文献

参考記事

厚岸(厚岸遊廓跡地)現在は、住宅地と海産物干場になっています。

厚岸の遊廓は、明治10年頃から創業し、明治30年頃には当時としては場末にあたる現在の若竹町1丁目から梅香町正行寺門前にかけて7軒の貸座敷が営業していました。
その後、町の発展と風紀上の見地から現在の湾月町1丁目、北大実験場登り口付近、厚岸水産高校のグラウンド(写真右側)の南西側に移転しました。遊廓の入口には角柱の門が立ち、柳や桜も植えられ、銭湯、そば屋、タバコ屋、人力車も開業しました。*1
大正11年の「厚岸市街電話分布圖」*2 には、新開楼、金利楼、丸新楼、観月楼などの妓楼の位置が記載されています。

遊廓の中心部であったと思われるあたり。写真奥は、厚岸水産高校の校舎です。

昭和に入り、貸座敷は3軒に淘汰され、戦後は金利楼の一部が「初音」の看板で細々と営業していましたが、売春防止法の施行により廃業し、アパートに転業。昭和40年頃に取り壊され、その後は住宅地と海産物干場になりました。*1

現在も遊廓跡地は、海産物干場として使われています。

*1 菊池善雄:朱化石No.5(1988)P.15-P.17 「厚岸の遊廓(貸座敷業)」
*2 久保事務所:厚岸市街電話分布圖(久保事務所,1922)

参考文献

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厚岸(「愛冠岬」歌碑)ロマンチックな名前。

今回は、厚岸(北海道厚岸郡)の町並みを散歩します。厚岸(あっけし)は、釧路と根室の中間に位置する町です。
町の南部は太平洋に面していて、その突端には愛冠(アイカップ)岬があります。

愛冠岬。ロマンチックな名前です。

駐車場脇に、松原のぶえさんが歌った「愛冠岬」の歌碑が設置されています。
松原のぶえさんは、1979年「おんなの出船」でデビューし、第21回日本レコード大賞・新人賞を受賞。
第43回NHK紅白歌合戦では「愛冠岬」で7回目の出場を果しました。*1

岬からの眺めは雄大です。

参考文献

*1
日本放送協会紅白歌合戦ヒストリー日本放送協会
第43回 1992年 リンク

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根室(遊廓跡地)半御用遊廓のお手本となりました

明治2年(1869年)、政府は北方開拓のための開拓使を設置し、北海道の開拓・移民に力を入れました。
根室開拓史の特徴は、殖民を目的とした遊廓が設置されたことです。札幌で最初の遊廓が出来たのが明治5年であるのに対し、根室で最初の遊廓(花咲楼)の開業は明治3年。根室の遊廓の実績が札幌の半御用遊廓のお手本となりました。*1*2
何よりも先駆けて遊び場を作ってやることは、時の開拓使判官のイキな人柄によるものといえます。根室移民にとって、唯一の不安のはけ口は遊廓であり、相当以上に繫盛したことはいうまでもありません。*2*3
明治8年(1875年)にロシアとの間で結ばれた「千島樺太交換条約」で、千島列島が日本領となると、根室の街は急速に栄えました。
遊廓も発展し、明治9年に弥生町に区画設定、明治12年に平内町に移転、明治24年、花園町に移転しました。*4

昭和4年の根室市街地図*5 によると、花園町の遊廓は、常惺寺から格子状になっている道路を南西方向に5区画のところ、三吉神社の南東側にありました。

写真の左奥の緑地は、三吉神社です。坂を下ると根室湾に行き着きます。

遊廓跡地の民家。

【参考文献】
*1 根室市:根室市史(根室市,1968)P.553
*2 小寺平吉:北海道遊里史考(北書房,1974)P.178
*3 宮内令子:商家の女(北海タイムス社,1982)P.118-P.119
*4 根室商工会議所:懐かしのねむろ(根室商工会議所,1980)
【参考記事】
*5 風俗散歩(根室):根室市歴史と自然の資料館

参考文献

参考記事

根室(寿湯)、かつての繁華街の中心地。事務用のロッカー。

根室市街の中心部の弥生町は、かつてカフェーなどが建ち並ぶ繁華街の中心地でした。

銭湯の寿湯。

雪国らしく、入口は二重扉です。

脱衣場にある事務用のロッカー。風情はありませんが、安心感があります。

参考文献

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根室(根室市歴史と自然の資料館)昭和4年根室市街地図。

今回は、根室(北海道根室市)の町並みと風俗を散歩します。
花咲港近くに、「根室市歴史と自然の資料館」があります。この資料館には、根室の動植物の標本や考古学や民俗学的な資料が多数展示されています。

明治~昭和時代の根室市街の様子を知る資料が展示されています。

根室市街の弥生町の繁華街の地図。カフェーなどで使用されていたマッチ箱が貼り付けられていて、解りやすい展示です。

根室市街図(昭和4年)。花園町にあった遊廓の妓楼の名前が記されています。

【参考URL】
*1 根室市歴史と自然の資料館 ホームページ

参考文献

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帯広(風俗店の看板)賑やかです。お座敷キャバの看板。

駅前の飲食街。風俗店の看板が賑やかです。

お座敷キャバの看板。

名門通りのクラブ。

店の前にお姉さんの看板です。

参考文献

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帯広(エアポート747)巨大な航空機のオブジェ。尾翼に鶴のマーク。

帯広駅前の銀座通りに、ひときわ目立つ店舗があります。

巨大な航空機のオブジェが貼りついています。

尾翼には鶴のマーク。今にも空に向かって飛び立ちそうです。

747。飲み放題1000円は、格安です。

参考文献

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