御手洗(おちょろ舟模型の工房)貴重な資料や写真も展示されていました。

住吉町の船宿跡に、御手洗最後の船大工で、おちょろ舟のミニチュアをつくりつづける宮本さんの工房があります。*1

工房の中には、遊女やおちょろ舟などの貴重な資料が展示されています。
御手洗遊女の原型は、碇泊する船に対して小舟に積んだ薪、水、食料品(特に野菜などの菜っ葉)などを売って回った菜売り女(なうりめ)と呼ばれる娘や未亡人たちでした。やがて、菜売り女は、小舟から碇泊する大船に乗り移って客をとって回る遊女となり、遊女を乗せた小舟はおちょろ舟と呼ばれるようになりました。*2*7

工房に、作成中のおちょろ舟の模型があります。
この中に5~6人が冬はこたつに入っていて、ちょろ押しと呼ばれる男が一人櫓をこいで、御手洗に入ってきた船に近づき、船に近づいたら遊女が顔を出して、指名をもらったら船に乗り移って、朝までいたそうです。*1
つまり、おちょろ舟の特色は、船に出向いて、客の濯ぎものから煮炊きまで面倒をみる一夜妻にありました。*3
おちょろ舟は海上遊廓であり、動く張店であって、翌日の日の出になると、女を引きさらって来る遣手婆でもありました。*4
おちょろ舟の最も古い記録としては、元禄4年(1691年)の「ケンペル江戸参府紀行」の「御手洗寄港紀文」に、「旅する人のために愛の女神を乗せてこぎ廻りたり」と記されています。*5

工房の中におちょろ舟の大漁旗が展示されています。
おちょろの語源については、諸説あるようです。
①小さいという意味の「チョロこい」から名付けられたとする説*7
②「お女郎」が訛ったとする説*6
③「大言海」に出てくる「おちよ舟」が訛ったする説*3
などがあります。

【参考文献】
*1 豊町商工会:みたらい通志(2003.3)P.3-P.6
*2 別冊宝島:行ってはいけない!ニッポン不思議島異聞(2006,宝島社)P.76-P.80
*3 真鍋鱗二郎:海棠記(讃文社,1986)P.219-P.220
*4 井伏鱒二:消えたオチョロ舟(加太こうじ編:日本の名随筆 別巻15 色街(作品社,1992)P.146)
*5 豊町観光協会:お茶屋若胡屋遺跡と御手洗(2003, 豊町観光協会)P.6-P.7
*6 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,2002)P.92-P.93
【参考CD】
*7 緩急車雲助:巷談 御手洗港の遊女哀歌(2003,KS-music)

参考文献

参考記事

御手洗(船宿と千砂子波止)遊女たちは「オチョロ」と呼ばれていました。

近世中期、沖乗り航路の開発に伴い、新興港湾都市として御手洗港が建設され、大崎下島は注目されるようになりました。*1*2

瀬戸内の港町では「おちょろ舟」が付きもので、その中でも、御手洗の「おちょろ」がいちばん有名でした。「おちょろ舟」は、遊女たちを乗せた小さな舟のことです。*1*2
江戸時代に作られた防波堤である「千砂子波止(ちさごはと)」は、チョロ稼業を通年安定させました。*3

御手洗港のある住吉町には、船宿や置屋が建ち並び、歓楽街として発展をとげました。船宿は、御手洗に入港した船の積荷の取引をはじめ、水や薪等の供給、船乗りの宿泊等の一切の世話をするもので、藩ごとに指定の船宿がありました。*4

現在も船宿の建物が残されています。

【参考文献】
*1 沖浦和光:瀬戸内の民俗誌 海民史の深層をたずねて:(岩波書店,1998)P.200-P.226
*2 五木寛之、沖浦和光:辺界の輝き(講談社,2006)P.153
*3 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.316
*4 谷沢明:瀬戸内の町並み(未来社,1991)P.116

参考文献

参考記事

御手洗(御手洗港)江戸時代、潮待ち風待ちの港として栄えました。

今回は、御手洗(広島県豊田郡大崎下島)の町並みと風俗を散歩します。御手洗(みたらい)は、瀬戸内海のほぼ真ん中に浮かぶ大崎下島の港町です。

JR山陽新幹線で三原まで行き、JR呉線に乗換えて竹原駅で下車、駅から、タクシーかバスに乗り約5分で竹原港につきます。竹原港から高速船で約40分、御手洗港に到着します。高速船は、1日8往復運行されています。

御手洗は、江戸時代に潮待ち風待ちの港として栄えた港町でした。江戸時代から昭和初期にかけての貴重な建物も残されており、町並み保存地区に指定されています。*1

現在は、観光地として整備されています。絵地図で書かれた観光スポットの案内板があります。

【参考文献】
*1 中尾醸造株式会社:蔵元だよりNo.2(2003)P.4

参考文献

参考記事

伊勢佐木町(赤線時代の建物)第一京浜の裏手。

第一京浜の裏手に昔の赤線時代の建物がごっそり残る路地があります。その路地に、さらに細い路地が直交しています。

かつては、この路地は賑わい見せていたのかもしれません。

アーケードが痕跡が残っています。

使われていない旅館の入口。

参考文献

参考記事

伊勢佐木町(末吉町)料理店のプレートがあります。

今回は、曙町(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。日の出町の駅から伊勢佐木町方面へ向かう途中の末吉町のあたり。古い雑居ビルがあります。

1階に、料理店があります。

料理店のプレートが残っています。

一見さんお断りの注意書き。

参考文献

参考記事

西新宿(思い出横丁の公衆トイレ)立小便禁止看板。

思い出横丁の中ほどに、公衆トイレの看板があります。公衆トイレは、この看板のところを右に曲がったところにあります。

隣の狭い路地には、立小便禁止の看板。昔、この横丁がしょんべん横丁と呼ばれていたのは、小便臭かったからかもしれません。

狭い路地の奥まったところに、公衆トイレがあります。

きちんと掃除されていて、綺麗です。

参考文献

参考記事

西新宿(思い出横丁)昔はしょんべん横丁と呼ばれていました。

新宿駅前に「思い出横丁」、「やきとり横丁」と看板が掲げられた飲み屋街があります。昔は「しょんべん横丁」と呼ばれていました。

もつ煮がおいしそうな飲み屋や、やきとり屋が軒をつらねています。

線路沿いの横丁は、「やきとり横丁」と呼ばれています。こちらは、明るい雰囲気です。

横丁を横断する狭い路地。人ひとりがやっと通れる幅です。

【参考文献】
*1 泉麻人:青春の東京地図(晶文社,2001)P.209

参考文献

参考記事

西新宿(十二社花街跡)階段の下までが弁天池。

十二社(西新宿2丁目)には、再開発を免れた一画があり、昔の花街の面影が残っています。
写真は十二社通り西側のビルの裏側ですが、階段の下までが弁天池で、ホテルや旅館のある高くなっている所が池畔で、このあたりに料亭が並んでいました。*1

落ち着いた感じのこじんまりとしたホテルです。

もう1軒旅館がありました。

坂道を下ったところが十二社通りです。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.114

参考文献

参考記事

西新宿(熊野神社)十二社という地名でした。

新宿中央公園に隣接する場所に熊野神社があります。このあたりは、かつては十二社(じゅうにそう)という地名でした。

境内に案内板があります。これによると、十二社は、池や滝を擁した江戸時代からの景勝地で、明治時代からは遊興地として発展し、第一次大戦後は、約60軒の料亭があったそうです。

案内板に掲載されていた「十二社の池」の写真

「十二社の池」は、十二社通りをへだてて建つ現在はビルが建っているあたりにありました。 *1
現在、「十二社の池」は、バスの停留所の名前に名残を見ることができます。

【参考文献】
*1 熊野神社:「十二社 熊野神社の文化財」案内パンフレット

参考文献

参考記事

西新宿(西新宿8丁目の住宅街)ピンクビラお断り。

西新宿8丁目は、昭和の時代の民家やアパートが数多く残る静かな住宅街です。

「ピンクビラお断り」の貼り紙が貼られています。ということは、このような住宅街までピンクビラを貼りに来る業者がいるということでしょうか。

アパートの入口付近。

古いアパートの入口にある郵便受け。

参考文献

参考記事