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浅草橋(料亭いな垣)1999年に閉店しました。

柳橋から、北へ進み、総武線のガードをくぐると、蔵前高校へつづく一本道の途中に、料亭「いな垣」があります。
「いな垣」は、柳橋のみならず東京を代表する格式の料亭でした。*1

柳橋から、北へ進み、総武線のガードをくぐると、蔵前高校へつづく一本道の途中に、料亭「いな垣」があります。
「いな垣」は、柳橋のみならず東京を代表する格式の料亭でした。*1

昭和20年代から40年代、「いな垣」をはじめとする柳橋の奥座敷で、毎夜、要人たちが日本の将来を話し、戦後の高度経済成長の道筋が決定されました。国賓のお忍びの接待は決まって「いな垣」で、この店の前まで皇族、総理大臣、大使館などの黒塗りの車が並びました。*2

「いな垣」の門前では、人力車から降りる芸者さんの姿を見ることができました。*2

昭和40年頃から柳橋の料亭が次々に廃業しますが、その中で「いな垣」は「お出先」(芸者が入る料亭のこと)を続けました。長いこと横綱審議委員会の会場を努め、平成に入ってからも「いな垣」はテレビの画面に何度も登場しました。*2
しかし、1999年、残念ながら「いな垣」は閉店し、江戸時代から200年間続いた柳橋は事実上廃業しました。柳橋が廃業した理由は、①東京から個人事業者が少なくなったこと、②柳橋が政界との距離を置くようになったこと、などがあげられますが、最大の理由は、③隅田川の汚染、でした。*2

江戸時代、「柳橋新誌」の著者の成島柳北が説いた芸者のあるべき姿とは、「気前好く振るい舞い、自尊の気概を見せ、その場その場に相応しい身の置きかたをしながら、当意即応の応対が出来る」という侠女と才女の理想を合わせたようなもので、惚れた男に尽くし、加えて美貌であることでした。*1
昭和の後期の元「いな垣」の女将で柳橋芸妓組合の組合長を務めた西川春喜久(はるぎく)さんの証言によると、お客様同士(接待する側とされる側)の心が通じあうのを助けるのが芸者の役割で、話の相槌が打てて、必要なときに必要な受け答えができるのが名妓の資格だそうです。*1
時代とともに名妓の資格は、若干の変化があったようですが、成島柳北が示したが精神は、柳橋の場合は平成の時代まで受け継がれていたようです。
【参考文献】
*1 岩下尚史:名妓の資格(雄山閣,2007)P.244-P.245,P.258-P.268
*2 牧太郎:東京人(2000.6)「柳橋」江戸からの芸者町の灯が消えた (特集 芸者さんに会いたい 新橋、赤坂、芳町、神楽坂、浅草、東都五花街探訪) P.70-P.74

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芸妓屋・料亭・カフェー 柳橋2丁目

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