明治中期まで外ノ浦にあったお茶屋は、交通の発達や連隊ができた関係で、明治33年から川下に移転し、遊廓と一般に呼ばれるようになりました。*1
「島根県濱田町全図」などの古地図*2*3 には、遊廓の場所が記載されています。
遊廓があったと思われる場所は、現在は閑静な住宅地となっています。
戦後は赤線となり、赤線は、昭和31年5月に廃止されました。*3
付近の電柱には、「新地」と書かれたプレートが確認できます。
下山稲荷神社から見た遊廓跡地。
【参考文献】
*1 市制40周年記念写真集編集委員会:写真集はまだ(浜田市,1982)P.151
*2 石見史談会:浜田町史(一誠社,1935)P.598-P.599「島根県濱田町全図」
*3 舟木孤舟:浜田港(三浦書肆,1914)「浜田全図」
「浜田(浜田遊廓跡地)「新地」の電柱プレート。明治中期まで外ノ浦にあったお茶屋。」への5件の返信
十数年前まではまだ当時の建物が残っていました。個人所有で住人ありの元診療所もありましたが、後に乾魚屋さんの倉庫に。遊郭の建物を内装を変えてアパートになっていたものもありました。その中でも数寄屋作りの建物はタイル張りの玄関がきれいに残っていて素晴らしかったです。
ほかにもいくつか残っていましたが現存していません。残念ですね。
ゆずるさん
当時の建物が残っていたのですね。
私が訪れたときは、遊廓時代の面影は何もなく残念でしたが、歴史を感じる浜田の市街の雰囲気は印象に残っています。
ここで育ちました、近所の家はみんなおおきくて、広かったです。
大きくなってこの辺りは遊郭だったと知りました。
私が小さい頃は(s40年代)当時の面影が残ってました。
花さん
ご近所の大きな建物は、仮に、今残っていれば、貴重な存在となっていたと思います。
街路を一周すると、この遊廓の規模の大きさが何となく想像できました。