丹波山(女郎ゴー)金山杭夫慰安の遊女を置いた場所がありました。

黒川金山は、武田信玄の軍資金を賄った金山として知られています。黒川金山へは、丹波山から青梅街道沿いに多摩川をさかのぼり、「おいらん渕」近くの三条新橋から水源林管理のための道を行くと、黒川谷に入ります。ここで道は二手に分かれます。一つは谷沿いに上る道、もう一つは「黒川金山循環歩道」です。

「黒川金山循環歩道」は、戦国時代、「黒川千軒」と呼ばれた鉱山町跡を巡る歩道です。この歩道を登りきったあたりに、近代のものと思われる坑道の入口があります。*1

黒川山の頂上の東端は、その岩峰から、黒川鶏冠山と呼ばれています。黒川鶏冠山の山頂には、鶏冠権現社奥宮があります。*1

「黒川千軒」の近くには、金山杭夫慰安の遊女を置いた場所(女郎ゴー)がありました。場所は、黒川谷の北川の尾根を越えた黒川山の中腹とされています。*1

【参考文献】
*1 今村啓爾:戦国金山伝説を掘る(平凡社,1997)P.18

丹波山(おいらん渕)戦国時代の伝説です。

丹波山のバス停から、青梅街道を柳沢峠方面へ向かいます。このあたりは、丹波渓谷と呼ばれ、青梅街道が開通するまでは未開の地でしたが、今では、道路沿いの渓谷美と紅葉を楽しむことができます。
この橋を渡ったところに、おいらん渕があります。

道路がカーブしたところの小さな空き地に、案内板が立てられ、おいらん渕の由来が書かれています。おいらん渕は、戦国武将の武田家が滅亡する際、黒川金山の遊女たちがまとめて始末されたという悲しい伝説が残る場所です。
おいらん渕という名前は、明治時代、現場でこの話を聞いた東京都市議会議員の坪谷水哉議員が命名したという説があります。*1

付近は交通事故の多発地帯として知られていますが、おいらんの亡霊の呪によるものとも言われています。そのため、鎮魂供養の木柱が立てられています。*2

案内板は、どの場所がおいらん渕であるかを明確に示していません*3が、滝の下の極端に狭くなった深い暗いゴルジュがおいらん渕であったのではないでしょうか。

【参考文献】
*1 田島勝太郎:奥多摩・それを繞る山と渓と(山と渓谷社,1935)P.255
*2 今村啓爾:戦国金山伝説を掘る(平凡社,1997)P.25
*3 大藪宏:戦国武田の黒川金山(山日ライブラリー,1995)P.158

丹波山(おいらん堂)昭和63年に再建されました。

丹波山のバス停から15分ほど歩いた奥秋テント村の近くに、「おいらん堂」と呼ばれているお堂があります。

案内板によると、おいらん堂の由来は次の通りです。
戦国時代、甲斐の武田氏を支えた甲州金は、ここから西方約9Kmのところにある黒川金山から産出されたものといわれ、黒川金山には採掘坑夫の慰安のために遊女がいました。
金山閉山のとき、遊女たちから金山の秘密が漏れるのを防ぐため、柳沢川の渓谷に宴台を作り、慰安と称してその上で舞を舞わせました。舞の最中、ころをはかり宴台を吊っていた藤づるを切って、宴台もろとも遊女たちを淵へ沈めました。このことから「おいらん淵」の伝説が生まれました。
下流にある奥秋部落には遊女の死体が多く流れつきました。哀れに思った村人たちは、遊女たちの亡骸を引き上げ、お堂を建てて手厚く葬りました。
現在のお堂は昭和63年に再建されたものです。

お堂には、花魁と書かれた位牌があります。

お堂には、「デク」と呼ばれる木で彫った人形が供えられています。

丹波山(飲食店)二十才未満の者おことわりの鑑札があります。

今回は、丹波山(山梨県)の町並みと風俗を散歩します。JR奥多摩線の終点の奥多摩駅で下車し、そこから、丹波行きの西東京バスを乗りついで約1時間で丹波山に到着します。
蚊取り線香のホーロー看板が出迎えてくれました。

バス停の近くにかつて飲食店だったと思われる建物があります。

2階の窓の部分に竹や鳥などの図案が彫り抜かれています。

1階の柱に残っていた鑑札。「二十才未満の者はおことわりします。上野原警察署」「営業時間は午後11時までなので、ご協力ください。」「山梨県公安委員会」と書かれています。
同様の鑑札は、旧カフエー街の古河水戸で見かけたことがありますが、こちらのお店でも女性による接客サービスがあったのではないでしょうか。

芝浦(ジュリアナ跡地)今は、スポーツ用品店になっています。

1991年5月、芝浦の空き倉庫に、「ジュリアナ東京」がオープンしました。ボディコンの女性が羽根扇子(ジュリ扇)を振り回しながら踊る、高さ1.2mのお立ち台が名物で、最初に扇子を持って踊りだした女性は、後に荒木師匠*1 と呼ばれて有名になりました。*2
「ジュリアナ東京」があった場所は、ボウリング場の「東京ポートボウル」の隣で、現在は、スポーツ用品店になっています。*3

スポーツ用品店は、当時の「ジュリアナ東京」の建物をそのまま使用しています。また、店内には、併設のカフェのカウンタ、正面の大型モニター、2階へ上がる階段など、当時のままで使用されています。*3
1992年の夏頃からジュリアナ報道は過激の一途をたどりましたが、1993年4月に、お立ち台の下からの「パンチラ撮影」が禁止されると、報道は一歩進んで、「なぜ彼女たちはパンツを見せても平気なのか」と分析する方向に向かいました。*4

「ジュリアナ東京」は、日商岩井の折口氏、イギリスのレジャー企業ウェムブリー社、そして東京倉庫運輸など、数社の寄り合い所帯でスタートしました。その後、数々の内紛があり、お立ち台が撤去されることにより客足が遠のき、1994年8月に閉店しました。*5
「ジュリアナ東京」があった場所(東京ポートボウルの隣)」には、東京倉庫運輸が芝浦に進出してきたときに建てた稲荷神社があります。案内板によると、進出当時、小さな祠があったものを東京倉庫運輸が稲荷神社として整備したそうです。

「ジュリアナ東京」をプロデュースした折口氏(現グッドウィルグループ*6 会長)は、1994年に、六本木に巨大ディスコ「ヴェルファーレ」をオープンしましたが、やはりオーナーと意見が合わず経営から離脱。その後、人材サービス会社を起業し、介護事業の「コムスン」も傘下に収めましたが、三たびディスコ経営に乗り出す意思はないと公言しています。*1
芝浦には、もう一つ、「芝浦ゴールド」というディスコがありましたが、今はマンション(下の写真)になっています。*3

【参考文献】
*2 週刊文春(2005.8.11,13)P.191「ジュリアナ東京プロデューサーが告白「羽根扇子」大流行の謎」
*3 浅妻千映子:週刊文春(2000.12.28)P.173-P.175「ポストバブルは「ジュリアナ東京」で始まった(追跡 あの店は今・・・時代の主役はスターより店だった)」
*4 岩下 久美子:文芸春秋(1993,10)P.372-P.379「ジュリアナに豚印OLはいない」
*5 桐山秀樹:文芸春秋(1994.10)P.356-P.361「ジュリアナで踊った人踊らされた人–華やかなお立ち台の裏の金銭を巡るドロドロ」
【参考URL】
*1 荒木師匠ネット
*6 グッドウィルグループホームページ

芝浦(協働会館)戦前の和風建築が残っています。

芝浦が花街として発達を見たのは、明治時代からでした。昭和の初期には、芸者屋74軒、待合73軒、がありました。*1
JR田町駅から徒歩約10分、ヤナセ本社ビル近くに、芝浦花街の見番として使用されていた協働会館の建物があります。現在は、保存のため、建物全体にネットがかけられています。

協働会館は、当時の三業組合長であった細川力蔵氏が大半を出資し、三業組合に寄付したものといわれています。細川氏は、目黒雅叙園を築き上げた人です。
太平洋戦争が苛烈になるにしたがい、東京港付近に重要な倉庫が密集し、空襲の中心になる恐れから、芝浦花街は、疎開、移転し、三業組合も解散しました。*2

昭和20年に戦争が終わりましたが、協働会館の周辺は、幸運なことに空襲の被害から免れました。元の見番の建物は、東京都港湾局の所轄になり、港湾労働者の宿泊施設として管理され、「協働会館」と名付けられました。
この頃から、芝浦は花街ではなく港町の産業(倉庫・運輸など)・住宅地へと性格を変えていきました。*2

この建物の所有者である東京都港湾局は、一時期、解体計画を発表しましたが、地元の住民がこれに反対し、現在では保存運動が展開されています。*3
東京都では、小金井市の江戸東京たてもの園に移築保存することなども検討しましたが、敷地や予算などの問題で実現していません。*4

【参考文献】
*1 東都芸妓名鑑(南桜社,1930)
*2芝浦・協働会館を活かす会:「協働会館 華やかなりし花柳界の面影を伝える近代和風建築」(芝浦・協働会館を活かす会,1999)P.8-P.28
*3 THEMIS(2005.12)P.90-P.91「三信ビル、協働会館など 建物を守らない日本の建築文化を問う」
*4 東京人(2003.3)P.89「特集 たてもの保存再生物語」

芝浦(芝浦運河まつり)今年で3回目です。

今回は、芝浦の町並みと風俗を散歩します。JR田町駅の駅前は、綺麗に整備された通りに飲食店が並んでいます。「ポートボウルは左に折れてまっすぐ5分」と書かれた看板があります。近くにボーリング場があるようです。
この日(10月22日)は、今年で3回目を迎える「芝浦運河まつり」が開催されていました。

芝浦は運河の町です。運河の上をモノレールが走り、まるで遊園地のような異質な空間が町のあちこちに見られます。

芝浦運河まつりの会場に、「協働会館コーナー」がありました。
協働会館は、昭和11年に建てられた近代和風建築です。もともとは、芝浦花柳界の見番(検番とも書く)として建てられました。*1
冊子「協働会館 華やかなりし花柳界の面影を伝える近代和風建築」(500円)が販売されているので、1冊購入しました。

生ビールを1杯頂きました。

【参考文献】
芝浦・協働会館を活かす会:協働会館 華やかなりし花柳界の面影を伝える近代和風建築(芝浦・協働会館を活かす会,1999)P.8

品川(天神湯)赤レンガが残る銭湯です。

北品川2丁目の商店街に天神湯という銭湯があります。品川には、お寺などに、赤レンガの塀が多く残っていますが、銭湯にも赤レンガの塀が残っています。

正面の入口。玄関の格子模様がいい感じです。

ここの銭湯は、手ぶらで入浴できるので、散歩に最適です。入浴セットは、タオルと石鹸、シャンプーがセットになって100円です。

中には、小さな庭があって、鯉が泳いでいました。木製の長いすや、木製の床などが光輝くほどきれいに磨かれています。昭和レトロのお手本のような銭湯です。

品川(海蔵寺)投込寺と呼ばれています。

品川には、たくさんの寺がありますが、その中で、投込寺と呼ばれている寺が海蔵寺です。たたずまいは、静かで清楚な寺です。

かって、品川遊郭があった時代、この遊郭で死んだ遊女がこの寺に投込まれました。他に、寺には、品川京浜電鉄轢死者の碑や関東大震災横死者の碑などがあります。

たくさんの石仏や墓石を一つにまとめた供養塔があり、「無縁首塚」と名前がついています。

この供養等の墓誌には、次のように書かれています。
(1)鈴ヶ森刑場で処刑された罪人の首を埋葬
(2)品川遊郭の遊女の霊
(3)品川京浜電鉄轢(れき)死者の霊
(4)品川海岸溺死者の霊
(5)品川行路病横死者の霊
(6)関東大震災横死者の霊
いろいろな、無縁仏を一つにまとめたもののようです。

品川(北品川公園近く)手押しポンプが残っています。

北品川公園周辺は、小泉長屋と言われる町並みが残っている場所ですが、ここには、公園の周囲だけでも4基の手押しポンプが残されています。

北品川公園裏にある手押しポンプ。このように道のど真ん中にあるのが特徴です。但し、このポンプは水ににごりがあり、使用禁止となっています。

北品川公園の入口付近の角地にある手押しポンプ。路地の風景とよく調和しています。北品川公園周辺には、もう1基、公園を回り込んだ路地に、手押しポンプがあります。

北品川1丁目のビジネスホテル清美荘近くの路地にある手押しポンプ。この他にも品川2丁目26の花屋の脇の路地を下った所にも1基ありました。

品川(牛乳箱)古い町並みに牛乳箱が残っています。

天王洲運河の隣に、しながわ百景の一つに選ばれている「北品川の古い民家の家並み」があります。

民家は数棟が固まって残っていますが、そのうちの1軒の玄関脇に牛乳箱が残っていました。

明治牛乳の牛乳箱には、縦書きと横書きがありますが、こちらのは、縦書きです。

側面がガムテープで補強されています。せっかくの牛乳箱ですから、もう少し見た目のことを考えて欲しいなとも思いますが、これも味わいの一つでしょうか。

品川(天王洲運河)昔は海でした。

ビジネスホテル清美荘」のある路地をそのまま進むと、天王洲運河にでます。昔はここが海岸線でした。今でも海岸線の名残が感じられます。

この日はボラがたくさん泳いでいました。

運河の北側は、品川駅方面です。こちら側にも屋形舟がたくさん停泊しています。運河の向こうには、古い民家が数棟残っていますが、その向こうには、駅前の再開発によってできた高層ビル群が景観を圧倒しています。
写真左側には、都営北品川アパートが見えます。

都営北品川アパートから見た天王洲運河と屋形舟。手前には、「古い民家の家並み」が見えます。

品川(ビジネスホテル)ポツンと1軒あります。

旧街道の両側には、横丁が何本もあります。そのうちの1本の路地を下ると、「赤線跡を歩く」*1 に掲載されているビジネスホテルがポツンと1軒あります。
街道と交差する東側の横丁は、このようにすべて海側に向かって下っています。つまり、品川宿の街道は、斜面を通っているということになります。(写真の奥が街道側です。)

看板には、「ビジネスホテル」と書いてありますが、旅館の風情です。

裏手から見たところ。

旧街道沿いにも同じ名前のビジネスホテルがありました。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.37

品川(品川遊廓跡)明治時代の貸座敷跡地

明治時代、品川宿には、貸座敷が何軒も並んでいました。その中で、品川一の貸座敷と言われたのが島崎楼です。現在、跡地にはビルが建っています。*1

幕末に活躍した高杉晋作ら長州藩尊譲派が集合場所とした、歩行新宿の相模屋、通称「土蔵相模」は、品川宿有数の旅籠屋でした。明治以後は、貸座敷「相模楼」となり、戦後は、さがみホテルと名を変えました。1982年に取り壊され、現在は、コンビニのファミリーマートが入るビルとなっています。*2

コンビニの前に案内板があります。「土蔵のような海鼠壁だったので、土蔵相模と呼ばれていた。」と書かれています。

歩行新宿(北品川1丁目)。風情のある商店街です。
赤線跡を歩く*3 では、この写真の右側のコンビニが土蔵相模跡地と紹介されています。

【参考文献】
*1 秋谷勝三:品川宿遊里三代(1983,青蛙房)P.105-P.107
*2 品川区教育委員会:東海道・品川宿を駆け抜けた幕末維新(品川区立品川歴史館,1999)P.35
*3 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.38

品川(京急北品川駅周辺)開発が進む都市です。

今回は、品川の町並みと風俗を散歩します。
都営北品川アパートから見ると、品川駅方面は、近年出現した高層ビル群に視界をさえぎられていますが(写真右側)、京浜急行が品川駅から北品川駅へ向かって、鉄橋を通り、ゆっくりと蛇行しながら走る様は、風情があります。

品川宿(旧東海道)があったあたりは、ビルが立ち並んでいて、ここから見る限りは、宿場町の風情はありません。

踏み切りのある場所が、品川宿(旧東海道)の入口です。品川宿は、3つの部分からなっていました。北から(この写真の撮影場所から)、
①歩行(かち)新宿(現在の北品川1丁目)
②北品川宿(現在の北品川2丁目)
③南品川宿(南品川1~3丁目)
品川宿は、江戸時代に出来ましたが、②北品川宿と③南品川宿が初めに出来て、後から①歩行新宿が作られました。①歩行新宿は、本宿(②)の手前に出来た新興の盛り場で、江戸に近かったため、最も賑わいました。*1

京浜急行の北品川駅。歩行新宿への最寄駅です。品川女子学院の生徒たちが、ホームにあふれていました。

【参考文献】
*1 海野弘:ユリイカ(1994.7)P.8「品川宿繁昌記」

大森(小町園があった場所の近隣の店)「小町園」の名残?

ビジネス雑誌の「プレジデント」に次のような記事が掲載されていました。*1
「米兵専用慰安所・小町園があった場所には、今、マンションが立っている。近隣のマンションの1階には、その時の名残か、『こまち』という名の店があった。」
実際に、この店に行ってみました。「小町園」があったとされる場所*2 からは、京浜急行の線路をまたいだ反対側にあり、距離も少し離れています。

入口に、「秋田地鳥 比内鳥...」と書かれています。

お好み焼きともんじゃ焼きの店のようですが、ランチタイムは、稲庭うどんと定食が主力メニューです。

「こまち」は「小町園」の名残というよりは、「秋田小町」の「こまち」であるような気がしますが、余計な詮索はせずに、この店が「小町園」の名残と思って、入ってみることにしました。
稲庭うどんセットと瓶ビールを注文。そうめんのように細い稲庭うどんは絶品でした。

【参考文献】
*1 下川耿史:プレジデント(1999,10)「敗戦国の女たちが見た夢RAAとパンパンガールの時代」P.250
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002) P.119

大森(慰安所第一号店跡地)いすゞ本社ビルの近くにありました。

終戦直後、政府の要請で、連合軍将兵のセックス処理を目的とした、R・A・A(特殊慰安施設協会)が発足しました。資金の貸付の保証と慰安婦募集の黙認を国家から約束されたR・A・A(実際には業者が運営)は、銀座通りなどに大看板を掲げて堂々と女性を集め始めました。*1
「新日本女性に告ぐ。戦後処理の国家的緊急施設の一端として進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む」
「女事務員募集。年齢18才以上25才まで。宿舎・被服・食糧など全部支給」
こうして集められた慰安婦の第一陣が、慰安所第一号の「小町園」に送り込まれ、昭和20年8月27日に開店しました。*1 場所は、現在の大森のいすゞ本社近くのあたりでした。

「小町園」があった場所*2 は、現在はマンションが建ち、当時の面影はありません。

近くに、料亭風の建物が残っていました。「小町園」は、こんな感じの建物だったのかもしれません。

「小町園」の女性たちの中には、耐え切れなくなって京浜急行の線路に飛び込んで自殺した人もいたそうです。*1 現在、京浜急行の線路は高架化されています。
その後、慰安所の数は激増し、R・A・Aが解散した後は、そのほとんどが、赤線地帯として残り、売春防止法によってネオンが消されるまで繁栄しました。*1

【参考文献】
*1 小林大治郎,村瀬明:国家売春命令(雄山閣出版, 1992)P.12-P.23
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.119

秋葉原(講武稲荷神社)旧町名の旅籠町の名残です。

秋葉原の石丸電気の隣に講武稲荷神社があります。

講武稲荷神社は、花街の繁栄に貢献顕著だと言われ、近隣の関係者はもちろん、向島からも参詣者があったとされています。(説明文より)

このあたりは、旧町名で、旅籠町と呼ばれていました。旅籠町は、もとは、昌平橋外河岸通りにあって、そこは板橋宿・川口宿への街道筋にあたって旅籠屋が多かったことから旅籠町と名づけられました。その後、移転や合併により、現在の外神田1・3丁目の一部となりました。*1
稲荷神社に旅籠町町会と書かれた街路灯が記念に残されています。

今でも、旅籠町の名残を見ることができます。(古美術茶廊「伊万里」にて)

【参考文献】
*1 竹内誠:東京の地名由来辞典(2006,東京堂出版)P.326

秋葉原(牛乳箱)東京のど真ん中にもありました。

秋葉原のメインの通りから少し奥へ入ったあたり(外神田三丁目)は、パソコンのパーツの店などが並びます。その通りから路地一本入ったところに牛乳箱があります。

なんと、牛乳箱が2つ付けられています。以前、大和郡山で、縦に2つ並んだ牛乳箱を見かけましたが、今回の牛乳箱は、後背位ともいうべき体位(というか箱位)で、前面と背面が合体しています。

駅前に最近できたUDXビルの前に、昔の路地の雰囲気が残る場所があります。右側の古い商家の軒下に森永牛乳の牛乳箱があります。

京都で見かけた森永の牛乳箱と違い、ロゴや名称がはっきりと読めます。「ビタミン入り」や「ホモ牛乳」のロゴがあるのは、東京の森永牛乳の牛乳箱の特徴であると思われます。保存状態も良く、名品です。

秋葉原(ガチャンポン会館)オタクの聖地ならではの品揃えです。

秋葉原の名物自販機と言えば、チチブデンキ前のおでん缶の自販機が有名ですが、他にもユニークな自販機があります。駅前にあるゲーマーズ本店限定のキャラクター缶ジュースの自販機は、5種類の絵柄からランダムで出てきます。どれが出てくるかは、買ってみないとわからないという点では、ガチャポンのような自販機です。

1本購入してみました。中身は、ごく普通のオレンジジュースです。

ガチャポンと言えば、ガチャポン会館です。1Fのフロアはすべてガチャポンで埋め尽くされています。

ガチャポン会館には「エロポン」と呼ばれるアダルト向けのガチャポンもあります。エロポンは、店内の奥まったところに2台あります。
1個購入してみました。エロポンは組み立て式になっていて、説明書に組立て方が書かれています。説明書によると、このシリーズ「美牝・淫虐の館 縄艶妖花」は全8種で、今回出てきたのは、「⑥恥辱の媚肉花器(ちじょくのびにくかき)」というタイトルのものでした。