戸ノ内(遊女塚)平安時代における日本遊里。

尼崎市バスの「遊女塚」停留所。

江口(大阪市東淀川区)、神崎(尼崎市)は、平安時代における日本遊里の代名詞でした。大江匡房は「遊女記」を表して著して神埼の遊女のことを述べています。*1
バス停から100m南の関西ペイント(株)尼崎工場の正門前の梅ケ枝公園の片隅に、史跡「遊女塚」があります。

遊女塚の中央には、遊女の供養碑があります。この碑は、鎌倉時代の建永2年(1207年)、法然上人の説話を聞いて自分の身を恥じた5人の遊女が神埼川に身を投げ自殺し、その供養のために建てられたものです。碑の裏面には、5人の遊女の名(吾妻、宮城、刈藻、小倉、大仁)が刻まれています。*2

摂津名所図会に描かれた神埼川。
神崎は、中国街道に通じ、水上交通の拠点として大いに栄えました。*3

【参考文献】
*1 滝川政次郎:遊行女婦・遊女・傀儡女(至文堂,1965)P.3-P.5
*2 「遊女塚」の案内板より
*3 松村博:大阪の橋(松籟社,1987)p.293

参考文献

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戸ノ内(沖縄料理店)蛇味線をひく沖縄の人。

戸ノ内は、沖縄出身者の集住地域でもあるため、町のあちこちに沖縄料理店が見られます。

1階に沖縄料理店が入っている建物。

沖縄料理店の入口。蛇味線をひく沖縄の人の姿が描かれています。

銭湯の「日の本湯」の隣にあった閉店したと思われる料理店の看板。「波之上」は、沖縄県那覇市の波之上でしょうか。

参考文献

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戸ノ内(稲荷神社)私娼街「神崎新地」の守り神。

古代中世の神埼の遊女とはまったく関係ありませんが、戸ノ内の私娼街は「神崎新地」と呼ばれていました。*1
新地内には、稲荷神社があります。

新地の守り神だったようです。

稲荷神社の鳥居。

稲荷神社の隣の長屋。

【参考文献】
*1 森栗茂一:河原町の歴史と都市民俗学(明石書店,2003)P.381-P.382

参考文献

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戸ノ内(私娼街跡)現在は、町工場に改装されています。

戸ノ内の私娼街(神崎新地)は、戸ノ内三丁目31~34番地にありました。*1

売春防止法施行後は、新地は衰退し、売春宿は町工場に改装されました。*1
そして、1995年の阪神大震災のとき、新地の建物のほとんどが崩壊し、店は1軒残らず潰れ、新地は、年配の立ちんぼが数人残るまでに落ちぶれました。*2

当時のものと思われる建物。

建物の2階には手摺があります。

【参考文献】
*1 森栗茂一:河原町の歴史と都市民俗学(明石書店,2003)P.381-P.382
*2 裏ネタJACK(2007.6)P.144-P.145 「風俗・ザ廃墟 あの伝説の名店は・・・戸ノ内新地編」

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戸ノ内(新地の大通り)ゴルフ場は紡績工場跡地。

モスリン橋を渡って100mほど北へ進んだところが、戸ノ内町の大通りです。

戦後、尼崎市には無数の風俗店が点在し、風俗業者のみながらず、パンパンガール(立ちんぼ)も多く、治安の悪化を招いていました。風紀の乱れを気にした尼崎市は、1952年「尼崎市売春等取締役条例」を制定しました。条例による直接的な効果はありませんでしたが、業者たちは世間の風当たりの強さを感じ、「尼崎全特飲業組合連合会」を結成。初島(尼崎市)と戸ノ内に集団移転しました。それぞれ、戸ノ内新地、初島新地として1955年政府公認の赤線地帯として営業を開始しました。*1

お遊びは、客引きの婆さんとの交渉から始まり、顔を見て相手を決めることができず、好みのタイプを伝え、派遣してもらう置屋スタイルです。交渉が済むと大通りより西側にある旅館に招かれ、そこで派遣された姫と一時を過ごします。*1
現在も旅館らしき建物が残っています。

戸ノ内三丁目のバス停近くにあるゴルフ場は、紡績工場跡地です。*2

【参考文献】
*1 裏ネタJACK(2007.6)P.144-P.145 「風俗・ザ廃墟 あの伝説の名店は・・・戸ノ内新地編」
*2 森栗茂一:河原町の歴史と都市民俗学(明石書店,2003)P.381-P.382

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上野(前田モスリン店)歩道橋から見えるモスリン(織物)の看板。

戸ノ内(毛斯綸大橋)橋の向こうは兵庫県です。

今回は、戸ノ内(兵庫県尼崎市)の町並みと風俗を散歩します。
毛斯綸(もすりん=羊毛のこと)大橋は、大正末期に、毛斯綸株式会社によって、架設された私設橋でしたが、昭和7年になって、大阪市に引き継がれました。*1
現在、戸ノ内の真ん中にあるゴルフ場が、紡績工場の跡地で、戦争中はプロペラを作っていました。*2

全長約200mの大きな橋です。

橋の手前側は大阪府。向こう側は兵庫県です。

毛斯綸大橋の袂の戸ノ内4丁目、5丁目は、「浜」と呼ばれる沖縄出身者の集住地域となっています。*2

「必殺仕置人」で有名な俳優の藤田まことさんが歌った「十三の夜」という歌の3番の歌詞に、モスリン橋が登場します。
「十三の夜」は、藤田まことさんが、「大統領」という2階建ての大きなキャバレーに通っていた頃に、指名していたおねえちゃんをモデルにした歌で、3番の最後に「モスリン橋を、きょうは2人で渡ろうよ」とありますが、そのおねえちゃんは、「モスリン橋」を渡って十三に働きに来ていたそうです。*3
---- 十三の夜(3番) ----
園田はなれて 神崎過ぎりゃ
恋の花咲く 十三よ
やがていつかは結ばれる
ネエちゃん ネエちゃん
十三のネエちゃん
モスリン橋を
きょうは二人で渡ろうよ

【参考文献】
*1 松村博:大阪の橋(松籟社,1987)p.298
*2 森栗茂一:河原町の歴史と都市民俗学(明石書店,2003)P.381-P.382
【参考URL】
*3 日韓歌謡架橋 当地ソング「大阪市」 十三の夜

生玉町(小玉湯)1階は駐車場として使われています。

谷町6丁目の通り。

「湯玉小」?。小学校でしょうか。

銭湯の小玉湯の建物でした。1階は駐車場として使われています。

美しいステンドガラス。モダンな建物です。

参考文献

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生玉町(空堀商店街)表札をまとめて掲げている歌舞伎門。

空堀商店街は、谷町六丁目の上町筋から谷町筋を経て松屋町筋にいたる東西800mに連なる、まさに都心の商店街です。「空堀」の地名の由来は、この東西の通りが豊臣秀吉が築造した大阪城の三の丸の外堀であり、慶長19年(1614年)の大阪冬の陣の後に徳川方に埋められてしまい、空堀になったことからきています。幸いにも昭和20年の大阪大空襲からは奇跡的に逃れたたため、現在も戦前からの町並みや暮らしが受け継がれています。*1

一見、何の変哲もない住宅街ですが...。

よく見ると、家と家の間に路地の入口(歌舞伎門)があります。*1*2

路地の住人の表札をまとめて掲げてあります。「石丸会」は、路地組合の名前です。*1*2

【参考文献】
*1 栗本智代:大阪まちブランド探訪(創元社,2006)P.10-P.11
*2 橋爪紳也:大阪新・長屋暮らしのすすめ(創元社,2004)P.21,P.25

参考文献

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生玉町(生國魂神社)井原西鶴像。当時の遊楽地。

谷町九丁目交差点近くにある生國魂神社(生玉神社)。豊臣秀吉が大阪城築城の際に、当時遊楽地だったこの地に移されました。*1

境内に、井原西鶴像があります。
井原西鶴(1642年-1693年)は、錫(すず)屋町(現在の谷町三丁目付近)に住んでいたので、その南側に位置する生玉に親しみを持っていました。*1

井原西鶴は、「好色一代男」で浮世草子(うきよぞうし)という江戸時代の風俗小説のジャンルを始めた人です。日本の古典小説家でユネスコが大文学者として認めたのは、この西鶴と紫式部の二人だけです。*2
「好色一代男」の二十歳のくだりでは、「中寺町の女、小橋の坊主ごろしの女など、色町に出入りするのは気のひける隠居じじいのとっておきの銀(かね)をまきあげてしまう...」*3 と、生玉あたりの寺々の坊主相手の娼婦について触れられています。*1

生國魂神社の周囲にはラブホテルが密集しています。好色の世の中は、昔も今も少しも変わっていません。*1

【参考文献】
*1 大谷晃一:西鶴文学地図(編集工房ノア,1993)P.11-P.13,P.53,P.60
*2 宗政五十緒,西野由紀:なにわ大阪今と昔(小学館,2000)P.89
*3 井原西鶴好(吉行淳之介訳):好色一代男(中央公論社,1981)P.62

参考文献

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生玉町(ラブホテル廃墟)モダンなデザインの建物です。

生國魂神社(生玉神社)の公園脇に、ラブホテルの廃墟があります。

廃業してから、かなり年数が経過しているように思われます。

モダンなデザインの建物です。

「とるな」と書かれた看板。

参考文献

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生玉町~谷町(上町台地のラブホテル)ギリシャ神殿を思わせる荘厳な建築。

今回は、生玉町(大阪府大阪市天王寺区)谷町(同中央区)の町並みと風俗を散歩します。
谷町九丁目の南側に、上町台地と呼ばれる南北に連なる細長い台地があります。この付近には、「天王寺七坂」と呼ばれる趣深い美しい坂道があって、散策コースとなっています。七坂のひとつ、源聖寺坂は、石畳が階段状に続く風情のある坂道です。*1

寺院が密集する霊験あらたかな静かな道の周囲はラブホテル街で、「ミスマッチがワンダフル」「いかにも大阪」と喜んでカメラを構える外国人も多いユニークな名所です。*1

ギリシャ神殿を思わせる荘厳な建築。

銀山寺付近から西方を見たところ。南海サウスタワービルが見えます。

【参考文献】
*1 橋爪紳也:大阪力事典(創元社,2004)P.249

参考文献

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八潮(八潮浴場)コンクリート塀のがっしりとした建物。

八潮市役所近くに、銭湯の八潮温泉があります。

入口には、「八汐浴場」と書かれています。

建物の裏側からみると、コンクリート塀のがっしりとした建物であることがわかります。

迫力のある大きな煙突。

参考文献

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八潮(大曽根のラブホテル群)24時間休憩OK。足立区と埼玉県の堺付近。

今回は、八潮(埼玉県八潮市)の町並みと風俗を散歩します。
八潮市は、埼玉県の東南部に位置し、西は東京都足立区の竹ノ塚に接しています。足立区と埼玉県の堺付近に、ラブホテル群があります。

大曽根(首都高速6号三郷線の八潮南ランプ付近)にあるラブホテル。

ホテルの入口を示す看板。歩道に張り出しているので、いやがおうでも目につきます。

「24時間休憩OK」なラブホテル。足立区妻たちに重宝がられています。*1

【参考文献】
*1 尾形誠規:東京裏地図 行かなきゃ損する都内B級スポット200選(鉄人社,2007)P.57

参考文献

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神保町(梅の湯)ランナーが銭湯の需要を支えています。

神田神保町2丁目に銭湯の梅の湯があります。

都会のビルの谷間にある銭湯です。

マラソンのお客様向けの貼紙。皇居の周辺をマラソンした後、この銭湯を訪れるランナーの方々が、銭湯の需要を支えているようです。

内部は清潔そのもの。「ハイパワージェット」なる泡風呂は名前の通りハイパワーでした。

参考文献

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神保町(九段下ビル)風化が進んだ昭和のモダン・ビル。

靖国神社のある九段下の近く、神田神保町三丁目に昭和のモダン・ビルが残されています。

1階には、店舗が入居していたようです。現在も飲食店が何軒か営業中です。

旧名「今川小路共同建築」、現在は「九段下ビル」と看板を掲げる三階建てのビルは、昭和2年、戦災復興事業のひとつとして、建てられました。倒壊の危険も囁かれていますが、今のところ、解体の計画はないそうです*1

裏から見ると、かなり風化が進んでいることがわかります。

【参考文献】
*1 藤木TDC,イシワタフミアキ:昭和幻景(ミリオン出版,2009)P.24-P.25

参考文献

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神保町(コンドームビル)胴部三段緊縮絞り。

神保町交差点から白山通りを南下したあたり。近くには首都高速都心環状線が通っています。

ここに、ひときわ目立つ円柱状のオブジェを持つ不二ラテックス株式会社(コンドームメーカー)の本社ビルがあります。

不二ラテックス創立者の岡本忠大さんは、精巧なヌード姿の蝋人形を作るのが趣味で、由美かおる、マリリンモンロー、岡田菜莉子、八代亜紀などがあって、性器やヘアまでそっくり(?)にできていました。岡本さんは、興に乗るとこれらの人形を並べて酒を飲んだ粋人でしたが、1983年4月、肝臓ガンで亡くなりました。*1

『胴部三段緊縮絞り』のコンドームを模した巨大ネオン塔。企業の宣伝という立派な大義名分を果たしてはいるのですが、そんな有用性を突き抜けて製作者のやみくもな思い入れがムキ出しに現れているところが、痛く感動的です。*2

【参考文献】
*1 セルフ出版:元気マガジン(1983.8)P.16 「不二ラテックスの故岡本忠大社長に哀悼の意」
*2 赤瀬川原平:路上観察学入門(筑摩書房,1993)P.266

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神保町(ゲームセンター)インベーダーゲーム。

神保町の靖国通りから路地を入った「アカシヤ書店」の近く。

レトロなゲームセンターがあります。

ゲームセンターの歴史は、1972年に登場した米アタリ社のピンポンテレビゲーム「ポン」が普及のはしりと言われています。その後、1976年に「ブロッグくずし」が登場。1978には、タイトーの「スペースインベーダー」をはじめとするインベーダーゲームがヒットしました。*1

驚くべきは、入口付近に80年代の全盛時代のゲーム機が並べられていることです。手前から、「スペースインベーダー」、「ギャラガ」、「ムーンクレスタ」と並んでいます。まるで、博物館のようです。

【参考文献】
*1 石川弘義:大衆文化事典(弘文堂,1994)P.237

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神保町(アダルトショップ)1980年代の一大ポルノブーム。

ビニール本(透明なビニールで密閉されたヌード写真誌)のブームは、1978~79年頃から拡大し、1980年にピークを迎えました。*1
神田神保町は、もともと古書店百軒の街。学生や読者が一軒ずつ回り歩いて求める書籍を探します。漫画専門店、映画演劇の専門店、戦争物の専門店。その中にポルノの専門店もあっていいのではないかというわけで、先鞭(せんべん)をつけたのが芳賀書店でした。神保町店(15坪)、古書センター(24坪)、そして40坪の本店。本店だけでも1日に4~5千人の来客があり、芳賀書店には、約50社ビニール本出版社が殺到しました。この一大ポルノブームにより、神田神保町は復興し、地下鉄神保町駅のトイレは、破り捨てたビニール袋でいっぱいになりました。*2
やがて、ビニール本は、過当競争で内容がエスカレートし、裏本といわれる女性性器を露出したものも出回ったため、摘発が急増しました。1980年10月に芳賀書店常務が逮捕されたことが契機となり、ブームは終息していきました。*1

現在は、成人向けの古書店で、この懐かしいビニール本を見ることができます。

ビニール本に代わって、アダルト向けメディアの主役になったのが、AV(アダルトビデオ)です。こちらの店舗では、階段の壁にびっしりとAVのパッケージが貼られています。

書店なのに本が無い、熟女、マニアモノ専門店。

【参考文献】
*1 石川弘義:大衆文化事典(弘文堂,1994)P.645
*2 北村四郎:ビニール本の恋びとたち2(二見書房,1981)P.48

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神保町(ビデオ店)昔と変わらず健在です。

神保町(神田古書店街)アイドル専門の古書店。

今回は、神保町の町並みと風俗を散歩します。
この日は、「神田古本まつり」開催中で、靖国通りの舗道には、古書店と向き合うように書棚が並べられます。

すずらん通り・さくら通りには、大人向けの雑誌やアイドルの写真集などを専門に扱った古書店が数軒あります。

懐かしいアイドルのポスターが貼られた店の入口。(写真中央の水着のポスターは、浅野ゆう子さんです。)

古書店の壁面にディスプレイされた等身大のパネル。数の多さは圧巻です。

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大磯(大磯ロングビーチ)アイドル水泳大会のロケ地。

大磯といえば、大磯ロングビーチです。「海岸沿いの巨大プール」というコンセプトを基に、1957年に開業しました。
大磯ロングビーチは、アイドル水泳大会などのロケ地として、テレビ番組に頻繁に登場しました。

大磯ロングビーチを囲むようにして流れる葛川に架かる「ロングビーチ橋」は、大磯ロングビーチへの専用の橋です。写真の奥に見えるのは、大磯プリンスホテル。

アイドル水泳大会は、1970年代後半から1980年代にかけてが全盛期でした。
カメラマンが気に入った出演者を選ぶ「ミス・フォトジェニック」という賞では、酒井法子さん、西田ひかるさん、早見優さん、田村英里子などが選ばれました。
水中騎馬戦のときは、ビキニのアダルトモデルが若干数いて、女子プロレスラーのダンプ松本さんなどのはぎ取り要員が大活躍しました。

写真手前から、波のプール、競泳プール(水中騎馬戦が行われました)、ダイビングプール、こどもプール、流れるプール。

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大磯(滄浪閣跡地)千人斬りの伊藤博文。

明治時代、大磯には、政財界要人の別邸が多く建てられました。そのうちの一つ、「滄浪閣(そうろうかく)」は、初代総理大臣伊藤博文の別邸でした。
現在、その場所には、滄浪閣があったことを示す石碑が建てられています。
伊藤博文は、極めつけの好色家、というよりは絶倫の助平男で、倒した女は千人と言われ、維新以後は、そのほとんどが芸者でした。伊藤は、プロセスよりも性行為そのものを好み、「たのむ、おれと寝てくれ」、「おれにやらせろ」など、口説きの言葉は素朴そのものでした。*1
伊藤は、しばしば芸者を滄浪閣に、連れて行って泊めました。

滄浪閣は、その後プリンスホテル別館となりました。

滄浪閣裏からの眺望。

滄浪閣跡地の隣は、旧西園寺邸跡地です。

【参考文献】
*1 南原幹雄:にっぽん好色英雄伝(新人物往来社,1983)P.140
*2 祖田浩一:好色家艶聞事典(東京堂出版,1996.9)P.17

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大磯(化粧町遊廓跡地)小高い丘の一角にありました。

現在の国道1号線と大磯バイパスの分岐点あたり一帯は、竹縄地区と称ばれ、往時は繁栄をきわめた地域で、ここに遊廓がありました。遊廓は、別の名を移転地と呼びました。この移転地は、明治35年の火災で、当時北本町にあった遊廓が移されもので、郷土屋、柳川楼、小柳楼などの妓楼が立ち並んでいました。*1

遊廓は、「高い丘の一角にあった」*1 とのことなので、このあたりでしょうか。

大正時代の「大磯町全図」*2*3 を見ると、遊廓は、オーナンバー(株)の工場があった辺り(写真右側のマンション)にあったように思われますが、定かではありません。
この道をまっすぐ行くとJR東海道線の線路に行き当たります。

近くの駐車場にあった古い石碑。

【参考文献】
*1 「わがまち長者町」刊行会:わがまち長者町(「わがまち長者町」刊行会,1990)P.28-P.31
*2 郷土出版社:目で見る平塚・秦野・伊勢原の100年(郷土出版社,1991)P.57
*3 田中吉助:愛甲郡中郡全図(田中文洋堂,1915)

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大磯(長者林)鎌倉時代、遊女屋がありました。

長者町は、1890年に新たに開拓された町で、別名「新地」とも呼ばれました。三筋の主道路が東西に伸び、7ヶ所に共同井戸が造られました。*1*2
現在も、弁天通りの東寄り(日枝神社近く)に共同井戸の一つが活躍中です。

山王町仲よし公園から東方は、その昔人家がなくて、畑や野原になっていて更に松林(長者林と呼ばれていました。)が花水川のあたりまで続いていました。*2*3

明治時代、現在の東町1丁目から3丁目に至る一帯の老松の中には、屋敷や旅館があり、多くの天下の名士たちがたちが来遊されました。*2

鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、「長者林の辺りには、商店が軒を並べ遊女も多くいて鎌倉・腰越からは海岸を経て来り遊んだ」と、この地が繁華の地であったことが記されています。*2
大磯は、鎌倉時代における唯一の花柳界で、鎌倉時代は大磯の全盛期でした。*4

【参考文献】
*1 大磯町:おおいその歴史(大磯町,2009)P.132
*2 「わがまち長者町」刊行会:わがまち長者町(「わがまち長者町」刊行会,1990)P.28-P.29,P.74
*3 田中吉助:愛甲郡中郡全図(田中文洋堂,1915)
*4 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)「全国遊廓案内」P.37

参考文献

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大磯(化粧井戸)遊女虎御前の伝説。

今回は、大磯(神奈川県中郡大磯町)の町並と風俗を散歩します。
江戸時代の大磯宿は、東海道五十三次の第8番目の宿駅として栄えました。また、大磯は、中世(鎌倉時代)の文学「曽我物語」において、曽我十郎と虎御前にまつわる数々の史跡や言い伝えが残されています。*1

鎌倉時代の大磯の中心は、化粧坂(けわいざか)近くにありました。現在も旧東海道として、昔の面影を残しています。

虎御前が化粧をする際に使用したといわれる化粧(けわい)井戸が残されています。

虎御前は、遊女として、尼として、その生涯の大半を大磯で過ごしました。*1

【参考文献】
*1 大磯町:おおいその歴史(大磯町,2009)P.54,P.96

参考文献

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島田(島田髷の展示)」島田市博物館常設展。