巣鴨駅近くにある銭湯のおとめ湯。
1954年に創業し、中庭のある銭湯として親しまれながら、今年6月に60年の歴史に幕を下ろしました。*1
正面入り口の唐破風・蒔絵は、当時の銭湯経営者が華やかさを競った名残です。*1
内部の様子(9月1日の見学会にて撮影)。
洗い場からは、中庭を鑑賞することができます。
【参考文献】
*1 東京新聞 2013年8月18日
巣鴨駅近くにある銭湯のおとめ湯。
1954年に創業し、中庭のある銭湯として親しまれながら、今年6月に60年の歴史に幕を下ろしました。*1
正面入り口の唐破風・蒔絵は、当時の銭湯経営者が華やかさを競った名残です。*1
内部の様子(9月1日の見学会にて撮影)。
洗い場からは、中庭を鑑賞することができます。
【参考文献】
*1 東京新聞 2013年8月18日
巣鴨駅近くの山の手線の線路沿いは、小規模なラブホテルエリアになっています。
公園の隣にあるラブホテル。
巣鴨駅前の陸橋から見えるホテル。
線路沿いの道路に面して入口があります。
「巣鴨駅南口一番街」の南側は、飲み屋街になっています。
1階にスナックが入居し2階が居住スペースとなっている長屋風の建物。
昭和レトロなスナック店が連なります。
道を挟んだ反対側のビルの1階にもスナック店が入居しています。
今回は、巣鴨(東京都豊島区)の町並みと風俗を散歩します。
巣鴨地蔵通り商店街は、昔ながらのもてなしの心を大切にした商店街として愛され続けています。
巣鴨でかつて一大ブームとなった、赤パンツの店。
巣鴨名物「お地蔵様の赤パン」。
さまざまなタイプの赤い下着が販売されています。
HOTEL「Villaマツノミ」の裏に、ストリップ劇場「明野劇場」の廃墟があります。コンクリート造りの建物の周辺には草が茂っていて、入口の「明野劇場」の文字がかろうじて確認できる状態です。
そもそもこの小屋は、昭和40年代に「明野第一劇場」という名前で芝居小屋として出発しました。やがて大人のためのヌードシアターとして発展。一条さゆりや愛染恭子も踊りにきました。しかし、平成6年6月、客の不入りと官憲の摘発が原因で閉館。翌平成7年1月に火事で全焼しました。*1
ストリップ劇場お決まりのステージ。
トイレ。
【参考文献】
*1 中田薫,中筋純:廃墟本3(ミリオン出版,2009)P.182-P.187
県道45号(つくば真岡線の)沿いの新井新田付近。道路に面してラブホテルがあります。
県道がカーブを曲がるあたりに、ホテルの案内看板があります。ここが入口のようです。
突如、メルヘンチックなホテルが現れます。
さらに、森の中の道を進むと、別のホテルが現れます。いずれもモーテルの形式です。
今回は、明野(茨城県筑西市)の町並みと風俗を散歩します。
県道45号(つくば真岡線の)沿いの新井新田付近は、ホテル(モーテル)が密集するエリアです。
森の中のレトロなホテル。この周辺には、同様のホテルが数軒密集しています。
ハートのマークの看板。手書き看板が郷愁を誘います。
二人の愛(看板の裏面に書かれています)。
南麻布の有栖川公園近くにある食品スーパーの「ナショナル麻布」は、周囲が大使館に囲まれているため 客層のほとんどは外国人です。
ここでは、通常のスーパーでは扱われていないGEISHA(ゲイシャ)缶が販売されています。
GEISHAブランドの缶詰は、コンビーフでおなじみの野崎産業(現在は川商フーズ)が明治44年(1911年)にカニ缶詰にGEISHAブランド貼り付けして、販売を開始し、翌45年に米国で商標登録を行ったものです。1
現在では、水産缶詰と野菜缶詰はアメリカにおいてはトップクラスのシェアを築いており、西アフリカにおいてはツナとサバを中心に、それぞれの地域で高いシェアを維持しています。2
当時、野崎兄弟商会の責任者であった野崎末男氏は、日本製の缶詰であることを強く印象づける必要があると考えました。日本の言葉で広く外国に知られているのは、フジヤマ、ゲイシャ、ヨシワラなどですが、フジヤマはあまりに通俗的であり、ヨシワラは食料品の商標として感心できないので、ゲンシャなら優美華麗で響きも良いことから、ここに「芸者印」が生れ出ました。*3
缶の側面には、芸者さんが描かれています。
びん長まぐろ(ホワイトミート)のまぐろ水煮缶詰。野菜スープ、サラダ油入りで、たいへん美味しく頂けます。
【参考文献】
*1 野崎産業株式会社社史編纂事務局:野崎産業100年史(野崎産業,1995)P.9
*3 真杉高之:食品と容器(1984,VOL25,No.11)P.558-P.559
【参考URL】
*2 川商フーズホームページ
元麻布二丁目の狸坂を下りきると、Xの形に道路が交差している場所に出ます。
2000年代に入り、麻布周辺は超高層マンションや大型複合施設による開発空間が多く誕生していますが、一方で、その袂に隙間的、裏道的と呼べるような空間も形成されています。*1
交差点から東へ延びる道には、緑が多い住宅街に混じって古い民家や隠れ家的な店舗、事務所などが散在しています。*1
交差点には、細い抜け道が合流しています。この抜け道を行くと、長屋の建物が連なる一画*2 に出ます。抜け道の隣には、高級住宅地の入口への通路があるので、これらも合わせると六叉路のようにも見えます。
【参考文献】
*1 横山 順一:専修人間科学論集. 社会学篇(2011.3)P.163-P.179「港区元麻布の「裏道」を生きる人々の活動実践への注目から」
【参考記事】
*2 風俗散歩:麻布(2013,9)元麻布の長屋
長屋が連なる元麻布の路地に、レトロ電柱が残されています。
現在も消火器箱を取り付ける支柱として活用されています。
電柱のてっぺん部分には、かつての街路灯を思わせるデザインが残されていますが、現在は、蛍光灯の街路灯が取り付けられています。
同じ通りに、約50cmほどの長さに切断されたレトロ電柱があります。現在は、手前に設置してあるゴミ置き場の看板を固定するための紐を結ぶ支柱として活用されています。根元からちょん切られずに、現在も残っているのは貴重な遺構であると言えます。
トマソン(無用の長物)の命名者の赤瀬川原平さんは、切断された電信柱や樹木のことを、有名な猟奇事件の技法にならって、「阿部定」型トマソンと分類しました。*1*2
写真のレトロ電柱は、レトロ版「阿部定」と分類できそうです。
【参考文献】
*1 赤瀬川原平:路上観察学入門(筑摩書房,1993)P.241
*2 赤瀬川原平:超芸術トマソン(筑摩書房,1987)P.133
元麻布の本光寺の南側に、古くからの長屋が連なる一画があります。
長屋と高層マンションとのアンバランスな対比が印象的です。
もう一つ北側の路地には、昭和の雰囲気がそのまま残されています。
生活感の漂う空間。
「押賣物貰ひ一切御断り」のホーロー看板。現在は、ほとんど見かけなくなりました。*1
押賣(押し売り)は、玄関に居座り、「買ってくれるまで帰らないからな」とバックの中からゴムひもや歯ブラシを取り出し、拒もうものなら、「おれは刑務所から出てきたばかりなんだよ」とすごみをきかせます。そのぐらいなら、買ってやろうかとも思いますが、それがべらぼうに高く、ゴムひもなどは、伸ばしながら測るので、1メール買っても80センチぐらいにしかなりません。押し売りが商売になっていた時代、考えようによっては、いい時代でした。*1
【参考文献】
*1 なぎら健壱:町の忘れもの(筑摩書房,2012)P.216-P.217
麻布十番の古川の東側に広がる住宅街の路地の突当りに銭湯の小山湯があります。
小山湯は、大正十年建築の都内で一番古い銭湯でしたが、平成18年に廃業しました。屋号の小山湯は、かつてこの地が三田小山町と呼ばれていたからと推察されます。*1
入口が独立して付属している構造は、他にあまり類を見ない様式です。*1
2階部分の装飾が見事です。花街の建築を見ているようです。
東京に宮造り銭湯が登場したのは、大正12年の関東大震災の復興期なので、小山湯は、それ以前の建築様式で建てられました。*1
銭湯脇の石段を登ると、煙突が見える場所に出ます。
【参考文献】
*1 町田忍:銭湯遺産(戎光祥出版,2008)P.53
地下鉄南北線の麻布十番駅の東側に、古川が流れています。
古川の東側は、古くからの住宅街で、風情のある木造母家が建ち並んでいます。(写真奥に見えるのは、首都高速道路です。)
川沿いからさらに東側へ入ると、昭和の暮らしぶりを感じる住宅街が残っています。
袋小路になっている場所からは、銭湯の小山湯の煙突が見えます。
今回は、麻布(東京都港区)の町並みと風俗を散歩します。
麻布三業地は、大正2年に許可され、戦前は、昭和12~13頃が最も賑わいました。空襲により麻布十番のほとんど全域が消失しましたが、昭和31年頃から2~3年間は、戦後で最も繁盛した時期でした。*1
花街は、現在の網代公園の南側(現在の麻布十番2丁目~3丁目)にありました。数年前まで、この付近に「白水」という屋号の料亭だったお宅の塀がかろうじて残っていましたが*2、現在はマンションに建て替わっています。
このあたりには、見番(麻布三業組合)がありました。*3
見番の南側の路地にも両側に料亭がありました。*3
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.151-P.154
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.118
*3 都市整図社:火災保険特殊地図(戦後分)港区 麻布十番方面・溜池方面
三河湾の碧南市側と半田市側を結ぶ衣浦トンネルは、自動車専用の有料道路の他に、歩行者用のトンネルがあります。
海底トンネルの入口部分の階段の踊り場に「犬の糞お断り」の張り紙があります。
海底のトンネルは約500m。内部は非常に涼しいです。
海底トンネルの中央部分。ここにも「犬の糞お断り」の張り紙があります。
棚尾本通りの商店街に古い長屋風の大きな建物があります。
元理髪店の建物です。
建物の前面は、タイルの装飾が施されています。
「理容」と書かれています。
今回は、棚尾(愛知県碧南市)の町並みと風俗を散歩します。
名鉄三河線の碧南駅の南東の棚尾の本通りから南へ一歩入った通りから八柱神社の北側周辺は、かつては料理屋や旅館などが集まる繁華街でした。
棚尾本通りに面した「太郎吉饅頭屋」の向かい側には、料理旅館の「大坂屋」がありました。
「太郎吉饅頭屋」手前の道を左折したあたりには、銭湯の「栄湯」がありました。
「栄湯」の前の路地を一本入ったところに「芸奴組合」がありました。
【参考文献】
*1 日本住宅地図出版:碧南市・高浜市(日本住宅地図出版,1977)P.73-P.74
新川町駅前の商店の脇に、古い自動販売機があります。
ボタンで商品を選ぶ方式です。
週刊誌の自動販売機。
「18歳未満の方は、この雑誌を読むことはできません。」と書かれていることから、成人向けの週刊誌が販売されていた自販機であると考えられます。
名鉄三河線の新川町駅前の商店街に、飲食店が入る長屋の建物があります。
大衆食堂の建物。
物干し台のような形状のユニークな看板建築です。
丼物一式、うどん、そば。
崖上にある吉文旅館から下るコンクリート階段の左側は、湯本旅館があった場所です。
現在、この場所には大きなラブホテルがあります。
かつての絶景の地「衣浦温泉」は、住宅とラブホテルが混在する町並みに変貌しています。
建物の裏側(崖上側)。こちらにもホテルの入口があります。
崖上から旅館「吉文」跡の建物を眺めます。建物の裏側に装飾はなく、黒塗りの板壁がむき出しの状態です。
側面の壁に「吉文」の「吉」と思われる文字が確認できます。
周囲の電柱の番号札には、「吉文」と書かれています。施設の名前(屋号)が電柱番号札に記載されるのは、珍しいケースです。
建物裏側にある青いタイルの円柱。
旧海岸線であった低地から登るコンクリートの階段。その崖の上に、旅館「吉文」の建物が残っています。
古い住宅地図1 によると、旅館「吉文」は、湯本旅館の南隣とこの場所の2か所に記載があります。片方が本館で片方が別館だったのかもしれません。
料理旅館「吉文」は、昭和29年12月に開業しました。2
旅館の東側の端に円筒状の部分を持つ特異な建造物です。
鱗のようなガラス窓の並びは当時としては、奇抜なデザインだったに違いありません。
建物は、崖の上に南向きに建っています。
【参考文献】
*1 善隣出版社:碧南市・高浜市(善隣出版社,1971)P.14
*2 碧南市史編纂委員会:碧南市史(碧南市,1974)P.952
衣浦温泉の旧旅館街には、昔の面影が残る建物がいくつかあります。
旧「八千草」。旅館だった建物です。
南西方向から見た外観。
2階部分は、窓が二段になっています。
今回は、衣浦(愛知県碧南市)の町並みと風俗を散歩します。
第二次世界大戦の頃、山神町に、東端の海軍航空隊兵士の慰安所設置が要望され、昭和19年に15業者によって、特殊飲食店街が作られ、一時は、市内の一大歓楽街でした。終戦後の昭和29年頃から料理旅館への転業を計画した業者たちが昭和30年に温泉開発を計画してボーリングを行いました。昭和31年に温泉が認可され、温泉街として再スタートしました。当時は、湯本本館が各旅館に配湯していましたが、昭和60頃には湯量も減り、配湯は中止となりました。*1
現在も「衣浦温泉組合」と書かれた行灯が残り、温泉街の名残が見られます。
「寸楽」という屋号が書かれた行灯。
衣浦温泉の名が残る駐車場の看板。
【参考文献】
*1 碧南事典編さん会:碧南事典(碧南市,1993)P.81-P.82