八尾(無縁仏)お参りすると勉強ができるようになるという評判。

旧末広亭横にあるお墓は、むかしから身寄りのない人のお骨が納められたと伝えられています。

明治の後半に入ってこの地が遊廓街になると、たくさんの芸者さんたちや彼女らが生んだ子供(水子)もこのお墓に入れられていました。昭和20年代の頃、このお墓にお参りすると勉強ができるようになるという評判がたち、願いをかけに多くの受験生やその家族がお参りにきました。*1

墓石の側面には「有縁無縁法界万零」。

裏面には、「天保三辰」と刻んであります。天保三年(1832年)は辰年で、天保14年の八尾絵図にも今の場所に石塔として描かれています。

【参考文献】
*1 鏡町公民館建設委員会記念誌編集部会:鏡町のあゆみ(鏡町公民館建設委員会記念誌編集部会,2005)P.53

参考文献

参考記事

八尾(料理屋跡)スナックが併設。旧末広亭、喜良久。

八尾の旧遊廓街には、料理屋と思われる建物も残っています。旧「末広亭」。無縁仏の近くにあります。*1

坂の上にある旧「喜良久」。*1

スナックが併設されています。

「喜良久」の横の坂を下ると「末広亭」のある場所に行きつきます。

【参考文献】
*1 鏡町公民館建設委員会記念誌編集部会:鏡町のあゆみ(鏡町公民館建設委員会記念誌編集部会,2005)附図「鏡町繁盛図」

参考文献

参考記事

八尾(遊廓跡)観光資源として保存されています。

八尾の鏡町遊廓跡は、綺麗に整備され観光資源として活用されています。杉下楼は、遊廓街の中心部にあった遊廓です。

反対側の通りにも面しています。

明光楼。このような看板が設置されているので、ひと目でわかります。

遊廓街の入口付近にあった林松楼は、写真のガレージのあたりにありました。*1

【参考文献】
*1 鏡町公民館建設委員会記念誌編集部会:鏡町のあゆみ(鏡町公民館建設委員会記念誌編集部会,2005)附図「鏡町繁盛図」

参考文献

参考記事

八尾(検番跡)合同長屋。華やいだ雰囲気のブロック塀。

鏡町の旧遊廓街には、当時のままの建物が数多く残されています。

昭和2年に各料亭の置屋と共に合同長屋として新築された検番の建物が残っています。当時の芸者たちは、この建物で寝起きすると共に、芸事にみがきをかけていました。*1

華やいだ雰囲気のブロック塀。

合同長屋の左側は、鋸目立屋になっています。

【参考文献】
*1 鏡町公民館建設委員会記念誌編集部会:鏡町のあゆみ(鏡町公民館建設委員会記念誌編集部会,2005)P.19

参考文献

参考記事

八尾(おたや階段)坂の下には遊廓街。おたやの由来は御旅屋。

今回は、八尾(富山県富山市八尾町)の町並みと風俗を散歩します。
富山からJR高山本線で約30分。越中八尾駅で下車して鏡町を目指します。かつての遊廓があった鏡町は、八尾町西町の商店街から「おたや階段」と名付けられた石段を下った場所にあります。

坂の下の遊廓街跡。

「おたや」の由来は、現在の島崎美容室から数軒の一帯が「御旅屋(おたや)」と呼ばれる宿泊所であったことによるものです。*1

「おたや階段」の手前には、「おたや地蔵」(1枚目の写真の左奥)があり、御旅屋があった場所には、詩人の野口雨情のおわらの歌詞の石碑があります。坂の下には、遊廓街(鏡町遊廓)があって、旅先での人恋しさに雨情もこの坂を下り、月あかりを背に「おたや地蔵」に手を合わせたとされます。*1
おたや地蔵さんこの坂下は 今宵なつかしオワラ月あかり

【参考文献】
*1 鏡町公民館建設委員会記念誌編集部会:鏡町のあゆみ(鏡町公民館建設委員会記念誌編集部会,2005)P.54

参考文献

参考記事

西浦(貸席旅館「三水」跡)商店街の裏側の谷。

バスターミナルの角を曲がって坂を下りると、商店街の裏側の谷にあたる場所に行きつきます。
近くには、「グランド劇場」というストリップ劇場やポルノ映画館(ブルーフィルム)がありました。*1
現在は、住宅街となっていて、当時の面影はありません。

当時の旅館の建物が数軒残っています。

「貸席」と呼ばれていたようです。

アパートのような入口。

【参考文献】
*1 週刊現代:おんな紀行 第5回三河西浦温泉四万九千円の巻

参考文献

参考記事

西浦(トルコ風呂跡地)海岸線にポツンと建っていた「トルコ・コニー」。

西浦温泉入口の手前。Y字路を左へ進んで、坂を上ると西浦温泉の入口です。

蒲郡温泉郷では1軒きりのトルコ風呂があった場所です。*1
密室で裸に近いスタイルの女性と親しくできるということで、はやっていました。*2

海岸線にポツンと建っていて、建物は古びた木造でしたが、入口には等身大のトルコ娘の看板がかかっていて、男心をそそられました。*2

古い住宅地図*1 を見ると、ポンプ場がある場所までがトルコ風呂の敷地でした。

【参考文献】
*1 日本住宅地図出版:蒲郡市(日本住宅地図出版,1978)P.123
*2 梅田晴夫:全調査東海道酒・女・女の店(有紀書房,1967)P.217

参考文献

参考記事

西浦(西浦温泉)坂を下ったところが、かつての歓楽街。

今回は、西浦(愛知県蒲郡市西浦町)の町並みと風俗を散歩します。
蒲郡温泉郷(三河湾温泉郷)と呼ばれる三谷、西浦、形原、衣浦、吉良の温泉の中で、西浦は、旅館の軒数の多さで際立っています。*1

バスターミナルから、坂を下って行ったところが、かつての歓楽街です。

全盛期の西浦温泉には、検番があって、置屋が30軒、芸者衆は70人くらいいました。*1

丘の上まで旅館で埋め尽くされている風景は、壮観です。

【参考文献】
*1 梅田晴夫:全調査東海道酒・女・女の店(有紀書房,1967)P.210,P.220

参考文献

参考記事

半田(郊外のラブホテル)看板右の側道へ入る

半田市街のラブホテルの案内大看板。「看板右の側道へ入る」と大きな矢印で誘導してくれます。

看板右の側道を進むと、正面にラブホテルの建物が見えてきます。

緑地帯のある幅広い道路に面しています。

ホテルの入口。

参考文献

参考記事

半田(思案橋)行こか帰ろうか。東側にだけ欄干が残っています。

ミツカン酢の工場(写真奥)からJR半田駅方向に向かって、新川という川が流れていましたが、現在は、銀座通りの思案橋まで蓋をしてしまって、川とは分からなくなってしまいました。現在の思案橋は、東側だけ欄干があって橋のように見えます。*1

反対側の西の方を見ると、橋には見えません。

欄干には、「思あんばし」と書かれています。

この橋から北側が銀座通りで、駅前の大歓楽街でした。戦前には、料亭、カフェ、飲み屋、芸者置屋、飲食店、旅館などが100軒以上軒を連ねていました。知多半島の南から来た人たちが、自分の懐を見て、「もう1軒行こか、カカのところへ帰ろうか」と悩んで思案した橋だから「思案橋」と名前が付けられました。*1

【参考文献】
*1 片山市三:半田の轍(一粒社出版部,2008)P.17-P.18

参考文献

参考記事

半田(井筒旅館)「半田商工名鑑」に記載のあるかつての料亭。

昭和の初め、「三扇楼」と言われる最高級料亭の「春扇楼末廣」「古扇楼」「福扇楼」がありましたが、二流料亭としては、「三広」と呼ばれた「広定」「広光」「広久」、「二大」と呼ばれた「大六」「大半」があり、あわせて「三広二大」と呼ばれていました。*1
1961年の「半田商工名鑑」*2 を見ると、料理旅館の項に、上記「三扇楼」と「二大」、亀崎の「望洲楼」などがあって、料亭の項に、「広光」「井筒」「永楽」「川竹」「千もす」「むつみ」の名があります。

料亭「井筒」。

ベンガラの塀。

西側にも入り口があります。

【参考文献】
*1 片山市三:半田の轍(一粒社出版部,2008)P.19-P.24
*2 半田商工会議所:半田商工名鑑1961(半田商工会議所,1961)P.105

参考文献

参考記事

半田(料理旅館末廣)半田の最高級料亭。ベンガラ色に装飾された塀。

半田の最高級料亭は、明治時代から決まっていて、「三扇楼」と言われる「春扇楼末廣」、「古扇楼」、「福扇楼」でした。これらの店は明治13年の明治天皇の行幸(ぎょうこう)による陸軍大演習の時にもその御用を治め、料理はとびっきりで、芸者もお抱えで持っていました。*1

現在は、「料理旅館末廣」となっていますが、昭和10年頃の「半田駅前商店街」*1 には、「春扇楼末廣」と記されています。

鮮やかにベンガラ色に装飾された塀。

北側の空き地からの遠望。

【参考文献】
*1 片山市三:半田の轍(一粒社出版部,2008)P.19-P.24

参考文献

参考記事

半田(検番跡) 山之神社周辺。旅館が多い花街でした。

今回は、半田(愛知県半田市)の町並みと風俗を散歩します。
山之神社周辺の一帯には、料亭や飲食店、旅館が多い花街でした。*1

神社の前の通り。

古い住宅地図*2 によると、この付近に検番がありました。

花街らしい風情が残っています。

【参考文献】
*1 陣内秀信,岡本哲志:水辺から都市を読む(法政大学出版局,2002)P.422
*2 善隣出版社:半田市(善隣出版社,1958)P.98-P.99

参考文献

参考記事

大森(ダイシン百官店展望食堂)名物はナポリタン。

JR大森駅西口を出て、池上通りを南下すると、ダイシン百貨店があります。昭和の地方百貨店の雰囲気を今でも残している百貨店です。

4階には、展望食堂「ダイシンファミリーレストラン」があります。最近リニューアルされたばかりなので、花巻のマルカン百貨店*1 のようなレトロ感はありませんが、入口で食券を買って自分で好きな席に座るところまでは、同じです。

名物のナポリタン(大盛り)と生ビールを注文。

食堂からの眺め。商店街の看板建築を上から見ることができます。

【参考記事】
*1 風俗散歩(花巻)マルカン百貨店の展望大食堂

参考文献

参考記事

大森(クリーニング店)タイルの装飾。DRY CLEANING。

大森駅前の古い商店の建物。「あらがや」という屋号とマークが描かれています。

鮮やかな青色のタイルで装飾されています。

クリーニング店だったようです。

「DRY CLEANING」の文字。

参考文献

参考記事

大森(山王小路飲食店街)大森駅前。入口の階段。

JR大森駅西口を出て、すぐに北へ曲がると「山王小路飲食店街」へ下る階段の入口があります。

「山王小路飲食店街」のゲート。

幅の狭い路地に、居酒屋がスナックが建ち並びます。

飲食店街の奥まったところ。

参考文献

参考記事

大森(かつての料亭街)現在はラブホテル街。

大森海岸駅(写真右奥)の南西側の一画(大森北2丁目14~17)は、現在はラブホテル街になっていますが、かつては、料理屋街でした。京急線沿いのこのあたりには、料亭の「三平」「鈴木」などがありました。*1

料亭「梅の家」があったあたり。*1

西側には、料亭の「久の家」「福田家」「松川」などがありました。*1

そば屋の「松登久」。この付近が料理屋街だった頃から営業していました。*1

【参考文献】
*1 都市整図社:火災保険特殊地図(戦後分) 大田区[2]大森方面 2(都市整図社 ,2003)

参考文献

参考記事

大森(磐井神社)玉垣に料亭や芸妓置屋の名。

京浜急行の大森海岸駅から第一京浜国道沿いに南下すると、磐井神社があり、社殿の右側に稲荷社があります。玉垣の積石に朱入りで名前が刻まれています。昭和44年に明治百年事業として寄進されたものですが、この地の花柳界を支えてきた料亭や芸妓置屋の名があって、かつての繁栄が偲ばれます。*1

芸妓屋が開業した当時隆盛した伊勢原、魚栄、八幡楼はその後廃業し、松浅がひとり繁栄をつづけました。*2
松浅の主人で、当時大森海岸料理屋組合長であった松木浅次は、花柳界の振興策として「大森海岸小唄」を流行らすことを仕掛け、大森の名は一気に広まりました。*1

日露戦争後の好況に伴って開業したのが、鯉屋、日の出屋、初鯉屋、立花家などであり、鯉屋は、常に芸妓40名を下ることなく、全国各都市を通じ、常に第一流の地位を占めていました。*2

「松登久」は、現在の大森北2丁目14に当時からあった、そば屋の「松登久(まつとく)」*3 でしょうか。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.217,P.219
*2 東京市大森区:大森区史(東京市大森区,1939)P.1138-P.1140
*3 都市整図社:火災保険特殊地図(戦後分) 大田区[2]大森方面 2(都市整図社 ,2003)

参考文献

参考記事

大森(料亭「梅元」)大森海岸三業地。明治26年開業。

今回は、大森(東京都品川区)の町並みと風俗を散歩します。
大森海岸の芸妓屋は、明治26年5月に八幡橋(八幡橋は、近くを流れていた不入斗新井宿村用水(いりやまずあらいじゅくむらようすい)にかけられていた橋と思われます。*1)の際に開業した料理屋の伊勢原が隆盛し、魚栄、松浅、八幡楼等引き続き開店し、間もなく芸妓屋が開業したのが始まりでした。*2
現在八幡橋は無く、八幡橋があった場所は「八幡橋児童公園」になっています。

八幡橋の東側には、競艇場の「ボートレース平和島」が見えます。

八幡橋近くには、待合だった「梅元」の建物が現在も残っています。*3

現在は、オフィスビルが乱立するエリアになっています。

【参考文献】
*2 東京市大森区:大森区史(東京市大森区,1939)P.1138-P.1139
*3 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.220

参考文献

*1
菅原健二川の地図辞典 : 江戸・東京/23区編フィールド・スタディ文庫 ; 1之潮2007.12
大田区①

P.199

参考記事

下諏訪(新湯温泉)旧遊廓内。昔ながらの公衆浴場。

旧遊廓街の下諏訪町御田町の通り。

大衆浴場の「新湯」があります。

昔ながらの公衆浴場の雰囲気です。

入浴前には、排便をすませて、かけ湯をすませて入りましょう。

参考文献

参考記事

下諏訪(眞清神社)夫婦岩。下諏訪遊廓の真寿美楼の中庭あったもの。

中山道を北上し、大岩不動の前過ぎて少し行った右側の斜面に眞清神社があります。現在は詣でる人も少なくなり忘れられた存在ですが、明治から昭和にかけ社前はには人の絶え間がなく、その大半は花街の姐さんたちでした。拝殿に向かい合って、あずまや風の舞殿がありますが、当時は竜や大黒さまや花魁などの華やかな飾り物に包まれ、艶めかしい歌弦のひびきや酒盛りなどが行われました。*1

拝殿の脇に、夫婦岩があります。

案内板によりと、下諏訪遊廓の真寿美楼の中庭あったものが、こちらに移されたそうです。

寄進者には、女性の名前がずらりと並んでいます。

【参考文献】
*1 両角俊一,増沢光男:下諏訪歴史散歩(下諏訪歴史散歩刊行会,1984)P.110

参考文献

参考記事

下諏訪(豊川稲荷社)下諏訪料芸組合。置屋が密集していました。

芸妓置屋指定地の区域内にある豊川稲荷社。「大正期の湯田町の復元図」*1 によると、豊川稲荷の両隣は、置屋の「八重木」、「末広料理」、さらにその隣に、置屋の「新喜久の家」が並び、通りの南側には、置屋の「金枡」「大寿」と置屋が密集していました。

玉垣には、「下諏訪料芸組合」と刻まれています。

狛犬の台座には、「下諏訪芸妓置屋」と刻まれており、置屋の名前が連なっています。

「常盤家」「住吉」「八重本」は、「大正期の湯田町の復元図」*1 に名がある置屋です。

【参考文献】
*1 小林茂樹:写真が語る下諏訪の百年(ヤマダ画廊,1979)P.131

参考文献

参考記事

下諏訪(湯田町の花街跡)芸妓屋指定地。古久屋旅館、鉄鉱泉旅館。

製糸華やかなりし大正期、湯田町は、芸妓屋指定地でした。*1

現在も旅館などの建物が建ち並んできます。

古久屋旅館、鉄鉱泉旅館は、当時から続く老舗旅館です。

置屋があったあたり。*1

【参考文献】
*1 小林茂樹:写真が語る下諏訪の百年(ヤマダ画廊,1979)P.131

参考文献

参考記事

下諏訪(塚田神社)遊廓が寄進した燈籠が2基。

旧下諏訪遊廓内にある塚田神社。

遊廓が寄進したと思われる燈籠が2基あります。

「献燈 恵比寿」と書かれています。「下諏訪町明細図」*1 に記載されている遊廓の「エビス」が献燈したものでしょうか。

風化していますが、「大増樓」と書かれているように見えます。

【参考文献】
*1 下諏訪町明細図(玉港堂,1913)

参考文献

参考記事

下諏訪(下諏訪遊廓跡地)御田町交差点の北西側の一画。旅館「大増」。

明治13年、湯田仲町の西はずれの小字塚田地籍に下諏訪遊廓が建てられました。*1

大正2年の「下諏訪町明細図」*2 によると、下諏訪遊廓は、現在の御田町交差点の北西側の一画にあって、遊廓への入口は東側にありました。

入口に近い方から、南側に、ダイマス、ツカダ、コトブキ、北側に、シンツカダ、エビス、マスミがありました。*2
ダイマスがあったと思われる場所に、旅館「大増」があります。

現在は、旅館や飲食店が建ち並んでいます。

【参考文献】
*1 小林茂樹:写真が語る下諏訪の百年(ヤマダ画廊,1979)P.41
*2 下諏訪町明細図(玉港堂,1913)

参考文献

参考記事

下諏訪(宿場街道資料館)飯盛女に関する展示。中山道の宿場町。

今回は、下諏訪(長野県諏訪郡)の町並みと風俗を散歩します。
西に塩尻峠、北に和田峠という難所をひかえ、さらに甲州街道も合流していた下諏訪宿は、中山道いちばんの宿場町でした。下諏訪町歴史民俗資料館(現:宿場街道資料館)は、下諏訪宿に関する展示が行われています。

2階の飯売女(めしもりおんな)に関する展示。

「飯賣り下女奉公人請け状の事」

1階に展示されている明治41年発行の「下諏訪町明細全図」には、下諏訪遊廓が描かれています。遊廓は、市街地から離れた場所にあり、周囲は田畑や製糸工場があるのみでした。

参考文献

参考記事