*江戸東京たてもの園 解説本: *江戸東京たてもの園 解説本 (*江戸東京たてもの園 解説本,2003)

P.42 鍵屋は、1856年(安政3)に居酒屋として建てられたと言い伝えられている。その頃の得意先には、上野寛永寺の名もあったという。その後、明治から大正、昭和初期まで酒の小売り店を営み、昭和の初期から店の片隅で夕方だけ一杯飲み屋を始め、戦後の1949年(昭和24)、本格的に居酒屋として営業を始めた。 鍵屋は、金杉通りと言問通りがぶつかる角近くにあり、都電の坂本二丁目停留所のそばで、山手線鶯谷駅からも程近い距離にあり、地の利に恵まれていた。 歴史を持つこの建物と主人が醸し出す雰囲気、そして旨い酒と肴は、多くの人々に愛された。戦後の「酒はカストリ」の時代から店のメニューはしだいに増え、鰻の子のくりから焼き(=うなぎの串)や煮奴(にやっこ)、味噌田楽などそれぞれの肴が絶品と言われた。 主人の清水幸太郎氏は無口で黙々と仕事をしていた。この店では女性だけの客、飲みすぎの客は断られた。

P.56-P.57 丸二商店は、現在の千代田区神田神保町に昭和初期に建てられた看板建築と呼ばれる形式を持つ建物である。丸二商店裏には、創設時から隣接していた長屋を復元した。長屋とはいくつかの小規模な住戸を横に連結して建てられる住居である。長屋の復元にともない、丸二商店横にあった路地の情景も再現している。

P.44 子宝湯は、1929年(昭和4年)に足立区千住元町に建てられた。施主の小林東右衛門(こばやしとうえもん、石川県七尾市出身)は、千住の子宝湯のほかに町屋と西新井にも同名の子宝湯を建築して、全部で5軒の銭湯を経営していた。当時1軒の銭湯を建てる相場は2万円程度だったが、千住の子宝湯の建築に際しては、4~5万円を費やした。 子宝湯のファザードをを印象づけるのは入母屋(いりもや)造りの大屋根とその下に張り出した玄関の唐破風(からはふ)、そして多彩な彫刻である。脱衣場は高い天井が印象的な空間で、天井は折上げ格天井(おりあげごうてんじょう)である。脱衣場の外側には、ガラス戸を介して濡れ縁(建物の外側に設けられた、雨ざらしの縁側)を廻し、その端に外便所を置いている。このような日本の伝統建築の空間を思わせる脱衣場に対し、浴室は洋風の雰囲気が強い。浴槽・床はタイル張りで、壁面は竪板張りおよびタイル張りとしている。男・女湯の境が壁と当たる位置には、西洋の古典建築を思わせる柱頭飾りを持った柱が立つ。こういった浴室の空間構成もまた、いわゆる「東京型銭湯」の特徴である。