*順化の町の昔といま編集委員会: 順化の町の昔といま (うらがまちづくり順化地区委員会,1997)P.18-P.19

P.18-P.19 浜町 いまもつづく料亭 この地域一帯は江戸時代より浜町といわれ、足羽河畔に料亭が軒をつらね …

*草の根サークル: いなみ地名の由来と伝説 (井波町教育委員会,1996)

P.92-P.93 堀道(ほりみち) 明治32年、芸娼妓、貸座敷免許地として山見釜土の一部(現堀道地内)が指定 …

*加藤政洋: *現代風俗2002 20世紀の遺跡 (河出書房新社,2002)消えゆく花街の景観、廓建築の痕跡

P.46
井波の花街「堀道」(現在の表記は「堀通」)は、ちょうど参道の裏通りに位置している。おそらく観光に訪れる人々が足を踏み入れることはないだろう。ここが景観整備の対象からはずされていることは言うまでもない。
現在でも営業している大きな割烹(写真)、廃業したとおぼしきスナック(写真)など、その多彩さはきわだっている。料亭に転業した形跡が多くの建物に見いだされるが、廃屋になっているケースがあるのもまた現状である。

*若狭おばま観光協会: 若狭おばま観光協会公式サイト 蓬嶋楼 (若狭おばま観光協会,) ···外部リンク···

伝統的な町並みが残る小浜西組地区において、蓬嶋楼は、明治期に建てられた料亭で、当時の面影を現在も色濃く残してい …

*善隣出版社: 鯖江市・朝日町・今立町 (善隣出版社,1971)

P.2 鯖江市柳町2-3に、「三楽」の記載あり。

*鯖江むかしむかし編集委員会: *鯖江むかしむかし (惜陰小学校,2002)P.196-P.205

昔の人は、お酒の席を楽しくするために、上等なお酒に料理、そして歌や踊りでお客をもてましました。会議だけでは、打ち解けられないことも、料理屋のおいしいごちそうと、華やかな芸者のもてなしで心が和み、仲良く話し合いができました。
芸者雪奴は、雪子といい、十五歳の暮れ、雪奴という芸名をつけてもらって、お座敷へ出ることになりました。雪奴の一番華やかなで充実した時は、昭和40年(1965)に鯖江劇場で上演された、芸者総出の舞踊発表会でした。けれど、戦前からの芸者ばかりで、若い後継者が続かず、平成3年9月30日(1991)、ついに鯖江の芸者はいなくなりました。

P.119
弁天橋、市橋楼、弁天座、泉屋支店、開進楼、などの記載あり。

P.202-P.205
弁天湯
弁天通り(柳町から横越への道)の中程を北へ曲がると、弁天遊廓があり、そのつき当りに通称弁天湯、または田んぼの湯と呼ばれた銭湯がありました。先祖は、今立群福間村の出身だったので、正式には福間楼といい、大正期に木造三階建てを建築しました。当時は珍しいので評判の建物になりました。初めは、旅館をしていましたが、そこから450メートル程東の沼地からお湯が沸き出ているのを、旅館の持ち主が見つけました。そこで、直径50センチメートルぐらいの穴を掘って、湧き出たお湯を太い竹どいを7本束ねて弁天湯まで送りました。その当時のお湯はきれいな湯で、県で調べてもらったら、「含食塩炭酸鉄泉」という鉱泉でした。そのお湯を利用して一階を銭湯にしました。

P.200
昔から人の集まる所やにぎやかな所には、必ず遊女が集まって来たそうです。こうしてどこへでも現れる遊女は風紀上よくないから、一定の地域に制限するよう、幕府が制度を作りました。そこで鯖江の殿様は、弁天様に近い所へ遊廓を作りました。それ以来、町が賑やかに栄えたので、人々は弁天様を敬って、弁天通りとか、弁天橋、弁天川、弁天湯などと呼ぶようになりました。
遊廓内には、射的場やうどん屋、そば屋、一杯飲み屋などが並びました。

*三輪信一: 鯖江今昔 (鯖江今昔刊行会,1981)

P.159-P.161 廓まち「弁天物語」 江戸時代中期に鯖江藩ができて武士や用人たちをはじめ、本山参りの人々 …

*坂田玉子: 福井新聞 3月22日 (福井新聞,1997.3.22)旧町名は語る大野編8-旧神明町の盛衰(下)

P.16 大野の神明町向島で鉱山景気の内に繁栄を極めた「製錬社」が、明治32年以後操業を停止し、働いていた鉱員 …

*坂田玉子: 写真集明治大正昭和大野 (国書刊行会,1979)

P.110 山王さん附近の料亭 日吉神社の鳥居の右手の堀に面した欄干にに夏衣の芸妓がよりそう(写真)。

*館林市史編さん委員会: *館林の民俗世界 (館林市,2012)館林市史 特別編 第5巻

P.62
図1-5
昭和初期の肴町にあった商店
置屋、料理店、カフェ、寿司屋の記載。

P.63
旧割烹旅館「福志満」(昭和7年建築)の写真

P.60
花街の様子
館林の花街の歴史をひもとくと、明治初期に邑楽織物同業組合が出来たころから、料理・旅籠屋が開店するようになったという(群馬県料理店連合会誌)。さらに、明治二十年頃(1887)ころから「港傳(みなでん)」「林屋」などの料理店ができ、「内芸者」として数名の芸者が置かれていた。館林の花街の興隆は、明治四十年代の織物市場の開設と関連づけられ、「群馬県料理店連合会誌」によると、当時「料理店も芸妓屋も開店者相踵ぎ芸妓の数も五十を算する」とある。さらには、東武鉄道の開通や上毛モスリン・日清製粉の躍進、機業界の発展が花街の興隆へとつながった。
図1-4 昭和10年ごろの館林町内の料理屋などの分布

P.61
明治42年、館林町の堅町(たつまち)に芸妓見番が設置される。その後、大正7年に谷越町の青梅天神裏に新築移転し、昭和13年(1938)、館林町字肴町1704番地(現在の本町二丁目16番2号)に新事務所を建設し、見番が移転する。

*紫桃正隆: 大河の四季 : 石巻地方の史談と遺聞 (宝文堂出版販売,1984)石巻の玄関口、蛇田町盛衰記

P.105 蛇田町の宿駅としての機能は、中世葛西氏の時代にすでに果たされていた。

石巻町 「旭町」「遊廓」の記載あり。 (遊廓の南側は運河が流れており、橋がかかっている。)

*徳田秋声: *縮図 (岩波書店,1971)

I町では、みんながおおぜい迎えに来ていた。その後間もなく市政の布(し)かれたこの町は、太平洋に突き出た牡鹿半島の咽喉を扼し、仙台湾に注ぐ北上河の河口に臨んだ物資の集散地で、鉄道輸送の開ける前は、海と河との水運により、三十五反帆が頻繁に出入りしたものだったが、今は河口も浅くなり、回船問屋の影も薄くなったとは言え、鰹を主にした漁業は盛んで、住みよい裕かな町ではあった。

P.184
話がはずんでいるところへ、今日も罐詰屋の野良息子が顔を出し、ちょっとふてぶてしくも見える青年が、壁ぎわの畳敷きにあぐらを組んで葉巻をふかしているのを見て、戸口に躊躇した。彼はなんという目的もなく、ただ銀子が好きで、分寿々廻家へもひょこひょこ遊びに来、飯を食いに銀子を近所の釜飯屋へ連れ出し、にやにやしているくらいがせいぜいであった。

*東京交通社: 大日本職業別明細図第358号 宮城県 (東京交通社,1934)

中瀬の西に、春潮楼、満壽田、滝川、八幡家、鳥文、ことぶき、ひよし、亀泉、の料亭の記載あり。

*橋本晶: 写真集明治大正昭和石巻 (国書刊行会,1980)P.126

「縮図」のおもかげ 写真の説明: 仲町(中央二丁目)の「中大黒」の抱妓銀子と近郷の豪農の長男倉持との逢引きの場 …

*河北新報出版センター: *忘れかけの街・仙台 (河北新報出版センター,2005)

P.36
藩政時代は、藩士の屋敷町。それば明治維新後に花柳界の街に変わった。今も面影は残るが、昭和四十年ごろは最盛期。粋をこらした料亭や、芸者置屋が並び、夜の時間がくると見番からのお呼び出しで「お茶屋」に急ぐあでやかな姿が道に色香をそえた。
P.37
戦後の本櫓丁には、各六十軒もあった仙台の主な料亭、芸者置き屋の多くが並び、花柳界の中心町としての面目を保っていた。が、それも徐々に減って、平成不況が廃業に拍車をかけ、面影は薄れた。

本櫓丁の写真:料亭の数は少なくなった。

*ゼンリン: 原町市・相馬市・小高町・鹿島町 1971 (ゼンリン,1971)

P.23-P.24 栄華楼、会津そば屋、小柳屋などの記載。

*南相馬市教育委員会博物館市史編さん係: *原町市史.第11巻(特別編4)旧町村史 (南相馬市,2008)

栄華楼、会津そば屋、小柳屋などの記載。

P.149
明治元年(1686)の戊辰戦争で、領内に新政府軍が多数入ってきたことにより「遊女」が求められ、小高・浪江・鹿島へ置くように命令された。そこで、伊達や富岡方面から遊女をつれてきて各地区に10人づつぐらいずつ置いたらしいが、中村城下には置かなかったという。
P.150
明治10年からは、県内の各地に免許区域指定貸座敷を設置することになり、小高・原町・中村も区域指定を受けた。
明治35年、原町の街路が整備されると、初音(はつね)町という町名が登場する。花柳街という雰囲気の名称の登場である。
大正7年の「相馬原町案内」では、料理店4軒(岩城屋、山形屋、都川、越後屋)、芸妓屋10軒(松亀楼、栄華楼、磐城屋、新福本、丸川、新柳家、小柳家、若柳家、玉柳家、春の家)が紹介されている。
前述のように、明治の半ばころから、酌女(のちの酌婦)が現れ、その後、芸妓や娼妓が集まってきては花柳街をつくりあげていった。

*小松和彦: 秋田県の遊廓跡を歩く (カストリ出版,2016)P.120-P.155

P.120-P.155 洋館の妓楼「昭和館」など、扇田の遊里についての取材レポート。

300年以上の歴史を持つとされ、長年にわたって地域の台所を支えてきた市日で、約45年前からJR花輪線の扇田駅近 …

*アートNPOゼロダテ: 正札NO!解体 (アートNPOゼロダテ,) ···外部リンク···

2001年、大館のシンボルであった百貨店「正札竹村」が倒産しました。

*安来港誌改訂編集委員会: 安来港誌 (安来港誌改訂編集委員会,2009)百年前の港町安来の町誌

P.52 (安来節の)成立と芸妓と料理店 今から五十年前、天保年間に藩の頭分を本町の御用係にした。御用係は本町 …

*安来市誌編さん委員会: 安来市誌 (安来市,1970)

P.553 戦前の商業 江戸時代から明治まで安来の商人には度胸と根性と信用で豪商を営むものが多く、さらに、山陰 …

P.169-P.170 津和野踊りに見られる覆面の装束は、敵をいつわるための方略であったが、その形をうけて、夏 …

*津和野の自然と歴史を守る会: つわぶき57号 (津和野の自然と歴史を守る会,2013.3) ···外部リンク···

P.10 松の家(水野氏の経営の料亭でよしのやの裏にあり芸者が沢山いた。現在の合銀駐車場のところに路地があって …

P.157 下新町は、昔の色街であったところで、現在でも旅館、料飲店が多く、全体にはなやいだ雰囲気をもっている …

*津和野の自然と歴史を守る会: つわぶき24号 (津和野の自然と歴史を守る会,2002.3.21)P.1 ···外部リンク···

P.1 かつて新町には、芸者さんの置屋があって、芸者さんが匂いの強いビンツケで髪を結っていたので、ビンツケとお …

*越野弘之: *昭和レトロ自販機大百科 (洋泉社,2015)

P.87
種類にこだわりレトルトカレー
広い店内には、コクランオリジナルパネルのめん類自販機二台と、全国で唯一となった川鉄のカレー自販機が稼働中。三種類販売されているカレーは、全てメーカーを変えるというこだわり。元々はご飯にカレーがかかって出てくる自販機だが、蒸気で温められたご飯が、保温されたレトルトと別々に出てくるように改造されている。

*石塚尊俊: *出雲市大津町史 (大津町史刊行委員会,1993)P.872,「明治・大正の町通りの家並図」

森福検番、中央検番、江角検番、柿田検番、の記載あり。

P.872-P.873
明治以来、大津の商工業は急速に発達した。古老に尋ね、各戸の生業状況を復元してみた。次の一覧図(明治・大正の交の町通り)がこれである。
一番多いのは、菓子屋で15軒に達する。うどん屋、そのほか多いものとして魚屋の9軒、干物屋の5軒がある。これも田舎では珍しい数字である。それよりも驚くべきは呉服屋が9軒もあることである。さらに、注目させられるのは、芸妓の置屋である。これが4軒もあり、その数は今市よりも多かった。芸妓の数は大正12年に42名であったという(森広博久氏手控)。
大正年間には、錦岩楼(さんがんろう)ができた。さらに、当時は魚屋でも簡単な宴会ぐらいはできた。

*記念誌編纂委員会: *出雲市商工発展誌 (出雲商工会議所,1984)

P.78
昭和33年、売春防止法の施行に伴い、塩治(えんや)有楽町の業者は、数回にわたり対策協議を重ねた結果、旅館、下宿等に転業することにした。(4月)

P.586
写真:塩治の新地
今市新町の西(塩治町)にあった新開地・遊廓を昭和11年に現地へ集団移転して、有楽町とした。不夜城の賑わいは昔語り。

P.587
写真:有楽町旅館街
昭和33年4月の売春防止法によって、いわゆる赤線地区の灯は消え、「有楽町旅館街」に一新し、現在数軒が経営している。

P.246
明治43年出雲今市駅開通祝賀会の余興の中に約20人の芸妓の名が見えるが、大正期に検番(芸妓置屋)が今市(現在の出雲市中心街)に4軒、大津(現在の大津町)に5軒、古志に4軒あり、料亭などもあって、夜の社交も賑やかであった。
明治の「ハイカラ」は大正の「モダン」に受けつがれ、「カフェー」がこの辺に出現したのも大正の末ごろである。白いエプロンをつけた女給とたわむれながらビールを傾けた紅燈の巷が代官町・東町辺に現出したのも大正末期から昭和初期にかけてのことである。
「ヴィナス」「キング」が今市駅前の東に店を開いたのが初めで、やがて「東洋軒」「紅や」「鈴や」「朝日」などとその数を増した。

P.471
(夜)
<新開地>
町の西端、花街新開地は紅燈、緑酒絃歌の音もなまめかしく、深更までここは別天地である。
<料亭・カフェー>
代官町、鏡町、東山下等には、カフェー軒を並べ客呼ぶジャズの響は、浮世を餘所なる全くの歓楽郷である。

P.523-P.524
地図:
高瀬川に近い八雲小路付近に、木村検番、現在の代官町への入口付近に、ミドリ検番の記載。

*出雲市商工課: 出雲市商工名鑑 1961 (出雲市,)

旅館 旭荘 上塩治町 有楽 柿田旅禍 上塩治町 有楽 香月旅館 上塩治町 有楽 菊乃家旅館 塩治町 高栄北 と …

*出雲市商工課: 出雲市商工名鑑 1952 (出雲市,)

塩治新地 壽亭、菊代亭、京家、朝日亭、第三亭、百々の家、富時家、郎亭、花家

*清水直義: 出雲市商工案内 (出雲市商工案内所,1948)

P.70-P71 特殊喫茶 塩治町 京家、花家、旭亭、大三亭、郎亭、菊代亭、寿亭 特殊喫茶店組合の広告頁 塩治 …

*西光知巳: 口之津の歴史と風土 1号 (口之津史談会,2007)オコンゴ考

口之津の行政区、南大泊に「オコンゴ」と呼ばれる地名がある。かつて遊廓があった所としても知られている。

*中村元吉: *警察史余話第一集売春三百年史 (中村元吉,1959)

屋号  氏名   娼妓数
三本木
金助屋 大坂ミヨ 二
島田楼 昆ソメ  二
近盛楼 武部サシ 三
計 三      六

*米田明三: 多度津町文化財保護協会会報第20号 (多度津町文化財保護協会,1977)「明治37年5月28日丸亀連隊の御用船へ乗船時の多度津港略図」

P.12 明治三十七、八年頃の記憶に基づく内湛浦と附近の略図

*善隣出版社: 徳島市・鳴門市 1960 (日本住宅地図出版,1960)

P.80 旅館陣幕、旅館高松、多田席、スタンド国の山、清光亭、旅館春風館、の記載。

*西田素康: 撫養港の「みなと文化」 (みなと総合研究財団,) ···外部リンク···

P.88-22-P.88-24 遊里・料亭 廓 撫養港そばの林崎遊廓の起源は、近世末にさかのぼる。鳴門市史上巻 …

*東京交通社: 大日本職業別明細図 徳島縣及徳島縣 第164号 (東京交通社,1929)洲本町 撫養町 福良町 板西町 板東町 堀江村

撫養 林崎花街 長亭、淀川、検番、〇安亭、柳本、松廻家、いづか、うきよ、八木、清光座、陣幕支店、みよし野、高松 …

*今井金吾: *今昔東海道独案内 (日本交通公社出版事業局,1994)

「御油より赤坂までは十六町にして、一宿のごとし。宿に遊女多し。おなじ宿なれども御油は賤しく、赤坂はよろし。(改元紀行)」、そして、遊女の多かったことについては、東海道名所記に、次の通り描かれている。「やうゝゝ宿に入れければ、宿ごとに遊女あり。立ちならびて旅人をとゞむ。」

*風きよし: *古今東西風俗散歩 (トランスワールドジャパン,2012)歩いて知る日本の大衆文化史 ···外部リンク···

著者(風きよし)が独自の目線で書いた散歩本。

P.120-P.121
ピンクピラとは、繁華街やラブホテルの電柱や標識柱に貼られているデリヘルなどの無店舗型性風俗店の広告用ビラのことですが、最近は見かけなることが少なくなりました。平成17年の風営法改正により、ビラ貼りが厳しく制限され、ビラを貼る行為そのものが減ったのと、貼ったとしてもすぐに剥がされるようになったためと考えられます。

歴史散歩、文学散歩、グルメ散歩、路地裏散歩など、“散歩”には、いろいろな種類があります。
本書は、「風俗」をテーマにした散歩の案内書です。
「風俗」というと、最近では“フーゾク(性風俗)”を真っ先に思い浮かべるかもしれません。もちろん本書がテーマとする風俗も”性風俗”が中心になっているのですが、元来、「風俗」という言葉には、生活文化や慣習という意味で使われていました。
わたくし達の生活文化・慣習は、日々の生活空間の中に息づいています。
たとえば、
 ①毎朝、自宅(家庭)から職場へ出勤しする。
 ②仕事が終わると自宅(家庭)へ戻る。
 ③(たまには)飲み屋などに立ち寄る。
 ④休日には、郊外へ出かけるなどして余暇を楽しむ
という生活の一コマつ一コマが慣習となり、それが生活文化(=風俗)を形成していると言えます。
一言でいうと、風俗とは、身の回りの社会や文化や歴史を考えてみるときに、どのような点に着眼するか、その目線のことだと私は考えています。*1
本書では、風俗という目線で全国各地を散歩します。
第一章では、明治~戦前の遊里跡、第二章では、戦後~現在の繁華街を散歩します。ここまでが言うなれば「基本編」です。第三章のトルコ風呂跡、第四章のラブホテル街は、社会や文化や歴史を考えるうえで必要であると思い、選定した「応用編」とも言えます。そして、第五章の住宅街と第六章の郊外・農山村は、独自に選定した思い切った切り口の「特別編」です。私が考える風俗的な目線については最後(終章)にお話ししたいと思います。
散歩は、自分の足で歩き、五感を通じて町の歴史や文化に触れることができます。
ぜひ、本書を参考に自分なり“目線”を持って町並みを歩いてみてください。
【参考文献】
*1 鳥越皓之:民俗学を学ぶ人のために(世界思想社,1989)P.4-P.5

*渡辺寛: *全国女性街・ガイド (季節風書店,1955)

P.66
中央線立川駅を降りると、黄色を尻目に米パンがバイキンのように泳いでいる。
その間を避けて西南すること十五分、そこに玉川有楽地という看板が立っている。そこがこのシマの三角点で、旧遊廓の錦町へhは左2分、新興特飲街の羽衣町へは右5分、共に現在は米軍立入禁止区域になっているので日本人専門。

*高知遺産プロジェクト: *高知遺産 (グラフィティ,2005)

p.95
天神町
観光ホテルとラブホテルとが混在する奇妙な風景。しかし、夕焼けの日に見ると、鏡川におちる筆山の影と建物と建物とが意外に調和した美しい風景を作り出す。

*日本遊覧社: *全国遊廓案内 (日本遊覧社,1930)

P.51
 三本木町遊廓は、青森県三本木町新地にあつて、東北線古間木駅で十和田鉄道に乗換へ三本木駅で下車する。貸座敷は現在三軒、娼妓約十七人位居り多くは近県人で遊興は東京式廻し制である。

*上村敏彦: *花街・色街・艶な街 色街編 (街と暮らし社,2008)

P.123
昭和23年当時の立川市の地図(観光の日本社発行)。2ヶ所の指定地がわかる。

P.120-P.121
戦後の混乱期がやや落ち着き始めた昭和24年(1949年)、中町二丁目の一画に八軒の木造の家が建った。
建物を買受けた業者は、江東区の洲崎や新宿、多摩地区の八王子等で、特飲街の商売をしていた連中で、例のごとく喫茶店と称して食品衛生法の許可を受けた。どの家にも5、6人の女性が住み込んだ。
八丁通りの二階家が見番で、南側の路地に「松月」「ぼたん」「ひばり」「花月」「末広」「ふたば」などの店があった。
P.122
写真:かつては八丁特飲街として賑わった飲み屋街(中町一丁目)

*睦書房: *人情講談 昭和27年9月号 (睦書房,1952)

P.162
羽衣町から、国電立川駅へ行く途中の錦町。羽衣町はうっかりすると住宅街と間違える。普通の住居とすこしも変わらぬ家が玄関を一歩入ると、こってりとした厚化粧した、粋な明石か何かを着た色っぽい年増が、「あら、いらっしゃいませ」と玄関に三つ指をつくといった趣向。人妻のアルバイトも居るという噂も否定できないほど、家庭的な雰囲気の漂っているのが羽衣町の特色だ。
だが、錦町はガラリと変わる。建物は洋風のカフエー式。ネオンの彩りが強烈な肉慾の匂いまで浮き上がらせるように、軒々を五彩の彩りに染めている。店から出てきた女達はいずれも洋装、ドレスを引きずっている女もいるし、股倉まで見えるような口の広いショートパンツの女の子もいる。若い16、7のあどけないのから、23、4の脂ののりきった連中が、ガムを噛みながらきゃッきゃッと男達の腕にからみついてくる。

*木村聡: *赤線跡を歩く (自由国民社,1998)消えゆく夢の街を訪ねて

記録映画「赤線」を見ると、錦町はいわゆるカフェー調、羽衣町は平屋一戸建てが並ぶ都営住宅のような景観だったようだ。

*日本遊覧社: 全国遊廓案内 (日本遊覧社,1930)

*稲川勝二郎: *歓楽の名古屋 (趣味春秋社,1937)

P.42
「中村旭廓内明細図」に妓楼の屋号が記載。現在のピアゴ中村店の西側の一画に、鶴の家、豊田家、大吉楼の記載。鶴の家=TSURUNOYAと思われる。

P.46-P.47
「稲栄錦町遊廓明細図」

*津和野町観光協会: 森鴎外津和野ゆかりの地を巡り歩く (津和野町観光協会,)P.3

P.3 横堀米蔵跡 「ヰタ・セクスアリス」に「門の前はお濠で向うの岸は上(かみ)のお蔵である。」