近年、急ピッチで開発進む武蔵小杉駅前。高層マンションが林立しています。

奇跡的に1本だけ残っているレトロ電柱。

昭和遺産と言えそうです。

中央部分のへこみは、何かプレートが埋め込まれていたのでしょうか。

近年、急ピッチで開発進む武蔵小杉駅前。高層マンションが林立しています。
奇跡的に1本だけ残っているレトロ電柱。
昭和遺産と言えそうです。
中央部分のへこみは、何かプレートが埋め込まれていたのでしょうか。
今回は、武蔵小杉(神奈川県川崎市中原区)の町並みと風俗を散歩します。
開発が進む武蔵小杉は、昭和の雰囲気が残る飲み屋小路です。
その中でも人目を引くのが、この「超ミニスカスッチー」の看板です。
「コパンビル」と書かれた階段が、「超ミニスカスッチー」の店の入口です。
コパンビルの3階には、バドガールの看板。
鮫が橋の北の若葉にある戒行寺坂。
坂の登り口に銭湯の若葉湯があります。
コインラインドリー併設です、
銭湯裏の煙突。今は、隣が空地になっているので、煙突全体を見ることができます。
JR四ツ谷駅から徒歩10分の場所にある新宿歴史博物館。
館内に入り、まず目を引くのが、「内藤新宿」の模型です。
新宿の赤線街を再現した展示。
文化住宅を再現した展示。大正の末から昭和の初めにかけて流行したサラリーマン住宅で、小規模な和風住宅の玄関脇に、洋風の応接間がついていました(案内板より)。
JR四ツ谷駅から大通りを迎賓館を左手に見ながら鮫洲橋坂を下り、右側の南元町公園に沿って右折すると、「せきとめ神」の祠があります。*1
鮫が橋地名発祥の地の碑
玉垣には、料理屋と思われる寄付の痕跡が確認できます。
江戸時代(宝暦以降、寛政改革で取り払いになるまで)鮫が橋は夜鷹の巣窟でした。江戸における出張売春婦としての夜鷹は、本所吉田町から出る女と、この鮫が橋の本拠を置く者に大別され、吉田町の私娼は手拭をかぶり、鮫が橋の女は手拭を用いませんでした。*1
【参考文献】
*1 花咲一男:江戸あらかると(三樹書房,1986)P.99-P.108
今回は、四ツ谷(東京都千代田区、新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
吉原遊廓の成立を書いた最古の資料「異本洞房語園」には、「慶長の頃迄、御城下定りたる遊女町なし、傾城屋所々にありし中にも、軒をならべ集り居たる場所、三四ケ所あり、麹町八丁目に十四五軒、鎌倉河岸に同断、大橋の内柳町に廿余軒...」と書かれています。麹町八丁目とは、現在の麹町四丁目付近です。*1
現在、この付近には、千代田区 町名由来板ガイドがあります。
遊廓は、元和3年に日本橋(元吉原へ)移転しました。*1
名由来板ガイドが設置されているのは、麹町4丁目と五丁目の境界付近です。
【参考文献】
*1 石崎芳男:よしわら「吉原」(早稲田出版,2003)
城山町の交差点にある銭湯の幸の湯。奥行のある立派な建物です。
ひっそりと居を構えています。
電柱のプレートに、銭湯の名があるのは珍しいです。
夜の様子。
駅前のみつわ通り商店街の奥。商店もまばらになり、事務所のビルが建ち並びます。
商店街の中ほどにあるスナック店。
テレクラ「てれ魔くん」。
18歳未満は入場おことわりです。
今回は、小山(栃木県小山市)の町並みと風俗を散歩します。
小山駅の東口と西口には3階(改札階)と1階(地上階)を結ぶエレベータが設置されています。
小山駅構内には、東西を貫通する自由通路とエレベータがあって、自転車利用の通行者が頻繁にエレベーターを利用します。エレベータの利用者を待ち構えるように、白ポストが置かれています。
どっしりとした角形の白ポスト。
エレベータ利用者に狙いを絞った白ポストの設置事例と言えそうです。
鬼脇市街には、随所に消火栓が設置されています。
赤い、台形の木箱です。
防火槽。
給水バルブも同じ目印の台形の赤い木箱です。
鬼脇にある日蓮宗妙泰寺。
かつて、境内には大正初期に建立された秋田谷稲荷明神の稲荷堂があり、鬼脇の遊廓の遊女が信仰していた時期がありました。*1
現在、妙泰寺の境内には、平成十年に新築された稲荷神社があります。
鳥居の奥に小さな稲荷堂があります。
【参考文献】
*1 工藤浄真:利尻研究(1986.05)P.11-P.25「利尻島における稲荷信仰」
利尻島の遊廓は、明治12年頃、鴛泊(おしどまり)に遊廓があり、明治32年に道庁告示により鬼脇村字ヤムナイ(清川)にも遊廓が設けられました。*1
利尻島郷土資料館の鬼脇市街略図*2 によると、橋を渡った先に遊廓がありましたが、ここからどのくらいの距離の場所にあったかは不明です。この道の先は行き止まりになっています。
清川の鬼脇中学校近く。ここから南側(この写真を撮った方向の逆方向)へ折れると鬼脇橋へ出ます。
鬼脇市街略図*2 に記載のあったヤムナイ橋「止内橋」へも行ってみました。
現在のヤムナイ橋は、鬼脇の市街から約1km離れた場所にあり、1枚目の写真の道の先に遊廓があったとは考えにくく、遊廓があった場所の詳細は不明です。
【参考文献】
*1 利尻富士町史編纂委員会:利尻富士町史(利尻富士町,1998)P.1358
【参考記事】
*2 風俗散歩(利尻):利尻島郷土資料館「明治末期 大正初期 鬼脇市街略図」
鬼脇は、利尻島のフェリーターミナルのある鴛泊(おしどまり)から、バスで約30分の場所にある町です。かつてはニシン漁で繁栄しました。
鬼脇の市街の中心部にある利尻島郷土資料館は、かつて鬼脇村役場だった歴史ある建物を利用した資料館です。
館内に地元の古老が記憶にもとづいて作成した「明治末期 大正初期 鬼脇市街略図」が展示されています。市街の中心部には、料亭が建ち並ぶ通りもあり、かつての繁栄が偲ばれます。
市街図によると、資料館(旧役場)の前の一つ南側の通りを西側へ進んで橋を渡った先に、遊廓があったようです。
遊廓手前の橋の下を流れる川を南へたどったところに、「ヤムナイ橋」の名が記されていますが、現在のヤムナイ橋は、ここから約1kmも離れた場所にある橋なので、この橋は鬼脇橋(鬼脇市街の東端に現存する橋)のことかもしれません。
今回は、利尻(北海道利尻郡)の町並みと風俗を散歩します。
利尻島へは、稚内からフェリーで110分です。
乗船してしばらくすると、前方に利尻岳の雄姿が望めます。
利尻岳の山肌が眼前に迫ってきます。
利尻島の玄関口「鴛泊(おしどまり)港」に到着。美しい「ペシ岬」が見えます。
現在の増毛港近くには、かつて入船町と呼ばわれた商船の貨物積込みの陸揚げ地点でした。
「入船町浜茶屋跡」の標柱が設置されています。
ここでは、船頭、船子を相手とした花街に類する営業が行われていました。
現在の益子港。
畠中町3~4丁目。かつての歓楽街に、スナックが散在しています。
ギャンブレル屋根のスナック。
スナックの看板を支える柱は木製です。
スナックもっちゃん。
遊廓があった畠中町4丁目。寿司屋の隣に、銭湯の増毛湯があります。
増毛湯は、昭和5年の市街図にも記載されています。
北海道らしい五角形のギャンブレル屋根の建物です。
現在は休業中のようです。
【参考文献】
*1 安田俊平:増毛市街案内図(北陽社,1930)
増毛遊廓は、格式のある花街で、客が芸者と床を一緒にすることはありませんでした。花街跡として、松島見番と思われる建物*1 が残っています。
玄関付近。
増毛楼があった場所。*2
対角の場所には、藤見楼がありました。*2
【参考文献】
*1 渡辺一史:北の無人駅から(北海道新聞社,2011)P.508-P.510
*2 安田俊平:増毛市街案内図(北陽社,1930)
畠中町4丁目。増毛の遊廓があった場所には、増毛町の史跡の標柱が設置されています。
明治15年、貸座敷料理店を開くため、裏町の町割りがされ、増毛新廓と名付けられました。
増毛市街案内図*1 によると、標柱が設定されている四つ角には、松嶋楼がありました。
遊廓や料亭、見番が建ち並んでいた通り。
【参考文献】
*1 安田俊平:増毛市街案内図(北陽社,1930)
千石蔵は、日本最北の酒蔵として知られる國稀酒造が所有する蔵で、現在は、にしん船やにしんの資料の展示室になっています。
展示室の休憩コーナーに、増毛町市街案内図(昭和5年)*1 のコピーが展示されています。南が上向きで描かれています。
当時の繁華街だった畠中町3~4丁目界隈。交差点の角に遊廓の松嶋楼、その対角に、松島見番。松島見番の向かいに銭湯の増毛湯があります。通りを東側へ進むと、共立見番、金盛楼、石川楼、藤見楼、増毛楼があります。他にも料理屋と思わえる店が建ち並んでいたことがわかります。
もう一つ展示されているが、昭和30年の「増毛町市街明細図」。こちらは、北が上向きで描かれています。銭湯の増毛湯はそのままですが、遊廓は、割烹料理屋などに変わっています。
【参考文献】
*1 安田俊平:増毛市街案内図(北陽社,1930)
今回は、増毛(北海道増毛郡増毛町)の町並みと風俗を散歩します。増毛は、JR留萌線の終着駅の町です。
増毛の駅前には、古くからの町並みが残っています。
駅前で目を引くのは、駅舎と向かい合うようにして建っている昭和8年建築の「旅館 富田屋」です。2階と3階の全面には、ガラス張りの縁側があります。*1
富田屋の隣に建つ「風待食堂」は、雑貨屋だった「多田商店」の建物で、現在は、観光案内所として利用されています。「風待食堂」は、昭和56年に公開された映画「駅 STATION」で駅前食堂として登場したときの名残です。*1
「風待食堂」のはす向かいに並ぶ「海榮館」「増毛館」も昭和初期の面影をとどめている建物です。*1
【参考文献】
*1 渡辺一史:北の無人駅から(北海道新聞社,2011)P.469-P.470,P.486-P.489
浦河に遊廓が許可されたのは、明治30年。場所は常盤町の奥、ウロコベツ川の河畔にありました。このあたりは、当時の浦河市街地から考えれば、ちょうど奥座敷に当たる場所です。*1
昭和9年の浦河港大観*2 の附図「浦河町市街浦河港俯瞰図」に、田中楼と桃花楼の位置が記されています。
「浦河町市街浦河港俯瞰図」*2 によると、田中楼と桃花楼があった場所は、森林事務所の先、ウロコベツ川の流れが道路から離れ、再び道路に近づくあたりですので、このあたりかもしれません。
田中楼の建物は、一部二階建てで、客部屋は9つほどありました。これに楼主の茶の間や寝間、台所、風呂などが続き、上からみると口の字型につながっていました。昭和5年浦河港の完成は、浦河に未曾有の繁栄をもたらしましたが、浦河遊廓もその恩恵を十分に受けました。浦河の成人男性以上の男でここに足を踏み入れぬ者はありませんでした。*1
【参考文献】
*1 グルッペ21うらかわ:浦河百話(共同文化社,1992)P.396-P.401
*2 浦河漁業組合:浦河港大観(浦河漁業組合, 1934)
銭湯のえびす湯。
浜町の中心部にあります。
昭和40年頃は、住民だけでなく船で浦河港に入る漁師たちも来て、多い日には300人もの客を迎えて芋の子をあらうような混雑ぶりでした。*1
入口には、えびす様のタイル絵。
【参考文献】
*1 小野寺信子,河村和美,髙田則雄,続浦河百話編集委員会:続浦河百話(同文化社,2013)P.401
浦河市街にある映画館の大黒座。大正7年の創業です。*1
当時、浦河の最も一般向きな娯楽機関としては、大衆館、大黒屋の2館がありました。大衆館は松竹、新興キネマの製作品を上映、大黒座は日活系に属していました。*2
魚期市中の賑わう際は、ほどんど毎夜ぶっ通しの興行で、映画の他に地方民謡・レビュー、浪花節等の出し物を配合した興業でした。*2
様々な旅芸人一座が全国を回っていた時代、会場は、大黒座のような映画館でした。*3
小規模な映画館が存続にかかわる岐路に立たされている中、大黒座はデジタル映写機器を導入し営業を継続しています。*1
【参考URL】
*1 浦河大黒座 公式サイト
【参考文献】
*2 浦河漁業組合:浦河港大観(浦河漁業組合, 1934)P.53
*3 小野寺信子,河村和美,髙田則雄,続浦河百話編集委員会:続浦河百話(同文化社,2013)P.318-P.321
今回は、浦河(北海道 浦河郡浦河町)の町並みと風俗を散歩します。
浦河の浜町には、昔、料亭があって、歌や踊り、三味線、太鼓などで客を楽しませる芸者さんをたくさん抱えていました。*1
料亭(割烹)は、「若松」「海月」「藤本」「一力」「ぎおん」、カフエーは、「クロマツ」「若松」「大洋」「キング」「坊ちゃん」「アケミ」「銀座会館」「エリモ」「ミナト」「末広」「明月」「金星」「嬢ちゃん」「一二三家」「マスミ」「酒場殿様」「思い出」などがありました。*2
料亭「海月」があったあたり。*1
浦河の花柳界の殷賑を極めた理由の一つに、「若松」と「海月」がきっこうして互いに譲らなかったことがあげられます。*2
料亭「若松」があったあたり。*2
浜町通りの中心部の交差点。この付近にカフエー「坊ちゃん」がありました。*2
*1 石田明:街並に生きた人びと 昭和初期の浦河(石田明,1992)P.185-P.187
*2 小野寺信子,河村和美,髙田則雄,続浦河百話編集委員会:続 浦河百話(浦河町,2013)P.399-P.404
大通りに面した場所にあるホテル「叶屋」。大正14年の大日本職業別明細圖にも記載されている老舗旅館です。
この日は、工芸展が開催されていました。
裏口から見た旅館の外観。風格があります。
叶屋の手書き看板。
かつて料亭などが建ち並んでいた境川東側の通り。わずかに居酒屋やスナックなどが点在しています。
看板に書かれている「白菊」は、この通りのすぐ近くに蔵元がある地酒メーカーです。
「丸実チキン」。鶏肉店のようですが、店内にテーブルもあります。
「やきとり」の提灯。
今回は、茂木(栃木県芳賀郡茂木町)の町並みと風俗を散歩します。
大正14年の茂木町の市街図*1 によると、逆川の東側の役場周辺に、三河家、増村家、白井家、瓢家などの料亭がありました。
三河家があったと思われるあたり。
料理店のプレートが残っています。
逆川の西側の小学校の北側には、芸妓見番の他、新三河、住吉家、若船家、新若船、福本などの料亭がありました。*1
茂木芸妓見番株式会社は、大正10年に設立。大正12年1月「下野新聞」の謹賀新年の広告には、町内の料理屋の一覧が示されるなど、賑わいを見せました。*2
【参考文献】
*1 木谷賀:大日本職業別明細圖 栃木町・馬頭町・氏家町・烏山町・茂木町・益子町・真岡町・久下田町・壬生町・藤岡町・矢板町・鹿沼町・大田原町・西那須野・古峯原(東京交通社,1925)
*2 茂木町史編さん委員会:茂木町史 第6巻 通史編2(茂木町,2000)P.354-P.355
門前通りの東側。
モダンなデザインの建物があります。
入口のドアに「サ」「ウ」「ナ」の3文字。
2階部分の窓。洒落たデザインです。
門前通りを北側に入ったところに、スナックが密集した一画があります。
昭和を思わせるモダンなスナック店。両側の店舗とは建物がつながっています。
反対側から見たところ。
長屋風のスナック店。
今回は、真岡(栃木県真岡市)の町並みと風俗を散歩します。
真岡の警察署があった裏のあたりは、有名な芸者屋の町でした。*1
右に向かってゆるやかに曲がる道がありますが、ここが「門前」と呼ばれていた通りの入口です。
長蓮寺と般若寺の2つの寺院の門が通りに面していたので、門前の名で呼ばれるようになりました。*2
門前通りは、真岡の町が開かれる頃の道が残されている通りです。周囲の道路が東西と南北に通っている中で、門前通りだけは南西から東北にゆるやかなカーブを描いています。これは門前通りが計画通りではなく、自然の道であることを物語っています。*2
門前通りの奥まったあたりにあるスナック。
【参考文献】
*1 田村豊幸:栃木県真岡町のこと(近代文芸社,1982)P.58-P.63
*2 真岡市史編さん委員会:真岡市史案内 第5号(真岡市教育委員会,1986)P.74-P.79 「真岡の町、周辺の道路の変遷」
桜町3丁目の医院。交差点に面したところにあります。
駐車場の敷地の小さな池があって、そこに、小便小僧が立ってます。
この日は、水は出ていませんでした。
気持ちよさそうです。
明治42年発行の「土浦名勝案内」によると、「田町は粋人町として明治20年頃は花に酔い、柳に戯れる人の出入多かりし」あって、賑わいが続いていました。
阿弥陀堂周辺は、かつての盛り場でした。(町名由来柱の説明より)
田町は、水戸街道に沿い、南は堀を隔てて武家町である築地に接していて、田町川(築地川)及び北門に通じる水路があるので船頭達を客とする料亭や旅籠屋が発達しました。(町名由来柱の説明より)
阿弥陀堂の隣の古い飲食店の建物。かつての盛り場の名残かもしれません。
【参考文献】
*1 永山正,土浦市企画部広報課:土浦町内誌(土浦市教育委員会,1989)p.32-P.34
中城町は、土浦の代表的な町人町です。
中城町で一番古い伝説を持っているのは、天満宮です。
史料によると、天満宮では毎年3月11日から5日間、馬市(駒市)が開かれていました。駒市で金をつかんだ早速散在したとみえて、俗に食傷新道という花柳街が生まれて、明治の末に日進楼、霞月楼などが設けられる環境がつくられていました。*1
日進楼、霞月楼の名が刻まれた玉垣。
【参考文献】
*1 永山正,土浦市企画部広報課:土浦町内誌(土浦市教育委員会,1989)p.12-P.14
桜町の風俗街には、スナックなどの飲食店が混在しています。
大通りに面したスナック店。
ヘルス店隣の飲食店だったと思われる建物。
古い市街図が残っています。現在は無くなっている風俗店の店名が数多く確認できます。
今回は、土浦(茨城県土浦市)の町並みと風俗を散歩します。
JR土浦駅東口の階段下に白ポスト。箱の側面には、「伸びよう伸ばそう青少年」の標語。
白ポストは西口にはなく、東口だけにあります。
右側の箱の側面。
石岡駅前のカラオケスナックなどが入るビル。
「コンパニオン」、「仲居さん」と書かれた看板。
反対側の通路から見たところ。
よくみると、下に「募集」の文字。コンパニオン、仲居さんの募集看板でした。
石岡市国府2丁目の通り。
鈴の宮稲荷神社。
石岡民俗博物館の展示資料によると、石岡の遊廓「新地八軒」は鈴の宮稲荷神社の隣にありました。
金丸通り商店街。
石岡市街にある本浄寺。
ここに、天狗党幹部の小四朗が「おふくろ」と慕った女将のいくの墓があります。*1
紀州屋いくの墓。*1
墓石の風化が激しく、解読できません。
【参考文献】
*1 石岡市史編纂委員会:石岡の歴史 市制三十周年記念 (石岡市,1984)P.169-P.172
今回は、石岡(茨城県石岡市)の町並みと風俗を散歩します。
市街の西のはずれにある石岡市立民俗資料館。
元治元年(1860年)、水戸藩内抗争から発展した天狗党は、筑波山に挙兵しますが、それより以前、石岡の遊廓「新地八軒」は、天狗党幹部の藤田小四朗や竹内百太郎の同志糾合のための足場となっていました。
新地八軒の見取り図。
とくに、妓楼紀州屋の女将いくは、小四朗から「おふくろ」と呼ばれ慕われていました。
北海道北見市美芳町7丁目にある銭湯の美好湯。サウナの看板が印象的です。
北国らしいビル銭湯です。
入口には、牛乳石鹸の暖簾。
銭湯の煙突。
北海道北見市北7条西4丁目の交差点。
カラオケスナックが入るプレハブ風の建物。
テレクラの看板。現在は休業中のようですが、看板だけが残っています。
別のカラオケスナック店の「グレース」の看板。
1969年に出来た飲食専用の「スカイビル」。
ビルの上部には、「B1キャバレー」の大看板。
現在、地下1階にキャバレーはありません。
看板だけが取り残されているようです。
1965年(昭和40年)に本格的に始まる北見市の中部地区土地区画整理事業の関係で、1966年(昭和41年)、稲荷神社付近の料理店が、同区画整理のため取り壊され、稲荷神社は5条から幸町に移転。稲荷神社跡は、現在のロータリーに姿を変えました。*1
1968年(昭和43年)、映画、ボウリング、料飲店街が入った娯楽センター「東宝ビル(4階建て)」が5条西2に完成しました。*1
翌1969(昭和44年 )、木造平屋建ての「稲荷小路」が料飲店ビルに集約(稲荷小路都市改造)、札幌以北では初という料飲店だけが入った「スカイビル」が5条西3にお目見えしました。*1
スカイビルに次いで、エイトビル、ユニオンビル、プラザジョイフルビルなど次々と料飲店テナントビルが誕生しました。*1
写真はエイトビル。
【参考文献】
*1 北海道社交飲食環境衛生同業組合:北海道社交飲食環境衛生同業組合北見大会記念誌(北海道社交飲食環境衛生同業組合,1996)P.83
戦後、市内の飲食店街は、市勢の発展とともに盛り返し、稲荷小路、銀座街、狸小路、稲荷仲店、千歳小路など、飲み屋小路(横丁)が誕生しました。
狸小路は、昭和29年、あけぼのマーケット跡にできた「狸小路」は、現在は「狸小路名店街」となっています。
横丁は、トンネル路地になって続いています。
反対側の入口。
【参考文献】
*1 北海道社交飲食環境衛生同業組合:北海道社交飲食環境衛生同業組合北見大会記念誌(北海道社交飲食環境衛生同業組合,1996)P.77-P.78
大正十年、野付牛(北見)の町は、ハッカと木材景気で沸き立ち、歓楽街も大へんにぎわっていました。そんななかで、明治42年創業の割烹「梅乃家」が十万円を投じて六百坪の大建築を落成しました。大正14年発行の「北海道及花街」によると、梅乃家は単に一流であるばかりでなく、「全道地名料理店番付」の小結の地位を占めていました。*1
梅乃家のゆかりの品として、幸町の稲荷神社拝殿前の灯籠があります。
その裏にこの灯籠を寄進した梅谷豊三郎と芸妓の桃太郎、萩子、千代香、小萩、茶目、富士丸などの名が辛うじて判読できます。
もう一つの灯籠。花月亭、大正亭などの名が判読できます。ピアソン記念館に展示されていた「野付牛明細圖(昭和4年発行)」*2 に記載されている料亭かもしれません。
【参考文献】
*1 清水昭典:ふるさとの歴史を訪ねて(北見市,1996)P.264-P.266
【参考記事】
*2 風俗散歩(北見):ピアソン記念館
今回は、北見(北海道北見市)の町並みと風俗を散歩します。
北見の歓楽街の北側(幸町7丁目)にあるピアソン記念館。
ピアソン宣教師夫妻は、1888年(明治21年)に来日、伝道をつづけました。北見では、略註付旧・新約聖書出版の偉業を成し遂げ、遊廓設置阻止に成功し、多くの婦女子を救いました。
婦人穚凡会記録には、遊廓設置に反対した記録が残されています。道内において開拓地遊廓が設置されたなかったのは、野付牛(北見)だけであり、これは北見市の誇りです。
ピアソン記念館内に展示されていた北見市街図。割烹「梅の家」があったこの一画は、北見の花街の中心でした。
江別市の歓楽街(5条5・6丁目)のはまなす温泉。
現在は、休業中のようです。
サウナ&ラドン。効能が多い温泉です。
油田型の煙突。
江別市の歓楽街は、5条5・6丁目にあります。
5条会館。
水色のタイルで装飾された雑居ビル。
スナック・パブ専用です。
江別市街の五条一丁目通り。写真の左奥に見える森は、王子製紙江別工場の敷地です。
昭和レトロな飲食街ビル。
昔ながらの横丁の雰囲気です。
密集する飲み屋の看板。
かつて遊廓があった六軒町にある理容室。
正面から見ると右側と左側に色分けされているように見えます。
上の写真の拡大写真。正面に屋号か記されて、右側半分が「理容院」。左側半分が「美容院」となっています。
左側の美容室部分の窓。タイルで装飾されています。
今回は、江別(北海道江別市)の町並みと風俗を散歩します。
江別の条丁目地区は、江別駅前から北西方面に位置し、東は千歳川、西は江別神社、南が函館本線、北は王子製紙に囲まれた母町(ぼちょう)と呼ばれる街区です。母町と呼ばれたのは、明治11年の開村以降、石狩川沿岸農村の消費都市として栄えた江別街区の発祥の地であったからです。明治30年代に入ると貸座敷(遊廓)や本格的な劇場・千歳座が開業し、昭和39年に着工の富士製紙江別工場(現王子製紙)の進出がこの街区の面貌を大きく変えました。*1
当時の市街地図*2*3 によると、遊廓(貸座敷)は、現在の江別市5条3丁目の一画にありました。
王子製紙の進出により、当初、郊外であった貸座敷地区は、人家のどまんなかになり、江別小学校の通学路に面し、妖女が太股を露わにしていました。*1
貸座敷は六軒で、千歳楼、寿楼、若竹楼、武蔵楼、栄楼、改進楼で、この一画を六軒町と呼びました。六軒町には料亭や飲み屋が軒を並べました。*1
五条4丁目と3丁目の間の通り。
【参考文献】
*1 藤倉 徹夫:えべつ百話 下(ユベオツ書房,2007)P.75-P.79
*2 江別市役所総務部:えべつの歴史=増刊号=(江別市,2005)P.13
*3 江別市役所総務部:えべつ昭和史(江別市,1995)P.833
深川の遊廓は、明治33年に開業し、またの名を佐藤遊廓といいました。
遊廓が廃止される頃(昭和30年頃)は、六条二番・三番に西岡楼、深川楼、全盛楼、鶴川楼、蛇の目楼、稲川楼、旭楼の計7楼がありました。*1
郷土史家の杉山四朗さんが、現地を訪れ「遊廓があった場所はこのあたり…」と想像してみた場所。*2
現在は、緑町公園になっています。
六条二番と三番の境界の道路。写真の左側は緑町公園。
六条三番に隣接する深川神社(写真右側)がある通り。
【参考文献】
*1 田輝海:写真集明治大正昭和深川(国書刊行会,1980)P.95
*2 杉山四郎:族・語り継ぐ民衆史(北海道出版企画センター,1997)P.300-P.301
深川市4条6の交差点。
昭和の雰囲気を残す理容室の建物です。
建物の側面のドア。
北空知料飲店組合のプレート。美容室の建物に飲食店が併設されていたようです。
深川市4条6にある居酒屋&スナック貝。
長屋風の建物の飲み屋。
深川市3条6の郵便局の隣にあるスナック「おれの店」。古い住宅地図*1 には「ニューハワイ」と記載されています。
すなっく「おれの店」の看板。
【参考文献】
*1 深川市街戸別明細図(北海道立図書館所蔵)
今回は、深川(北海道深川市)の町並みと風俗を散歩します。
深川駅前(深川市2条)に、小規模な飲み屋街があります。
飲み屋街の中心部の十字路。
緩やかにカーブを描いてスナックが建ち並んでいます。
西側の一画。
旧花街の三間通り沿いにある旅館「日南子」。素泊まり2500円とリーズナブルです。
どっしりとした木造三階建て。
古地図「昭和10年当時の三間通り」*1 によると、この付近には芸者置屋や料亭と思われる「㐂乃家」という屋号の店がありました。
裏側から。
【参考文献】
*1 日南市産業活性化協議会:油津(鉱脈社,1993)P.246-P.247
マグロ景気盛んな昭和初期、三間道路(三絃道路とも書く)では、人力車に乗った芸妓衆が行き交う姿が目をひき、料亭での三味や太鼓の音は、毎夜遅くまでひびいて不夜城のようでした。*1
「昭和10年当時の三間道路」*1 によると、写真のスナックが入るビル(第三丸山ビル)の隣あたりに検番と人力車屋がありました。
戦後は、三間道路に特殊飲食店が軒を並べましたが、昭和33年の売春防止法の成立により、赤線と呼ばれたこの地帯の灯も消えてしまいました。*1
現在は、スナック街になっています。
【参考文献】
*1 日南市産業活性化協議会:油津(鉱脈社,1993)P.246-P.247
油津市街には、通りの名が書かれた看板があちらこちらに設置されています。
「花街通り」の看板には、付近に東遊廓があったことが説明されています。
東遊廓は、油津の東海岸にありました。昭和ヒトケタのころは、埋め立ててなかったので、海ぎわにその家並みがありました。海からながめると、向かって左から菊屋、大黒屋、丸山楼、布袋屋、石坂屋と立ちならんでいました。写真は、昭和6年発行の油津町商工会案内に掲載されている「海上ヨリ見タル東遊郭」から転載されたものと思われます。*1
花街通りの看板は、さらに奥へ続きます。
看板の矢印によるとこのあたりまでが花街通りだったようです。
【参考文献】
*1 日南市産業活性化協議会:油津(鉱脈社,1993)P.245-P.248
今回は、油津(宮崎日南市)の町並みと風俗を散歩します。
「堀川運河」は、飫肥藩により1686年につくられ、油津港発展の礎となりました。
運河にかけられている堀川橋はアーチ状の石橋で、地元では親しみを込めて「乙姫橋」と呼ばれています。
1992年(平成4年)秋、渥美清、後藤久美子、風吹ジュンら主演「男はつらいよ」のロケーションが油津堀川を中心に繰り広げられ、同年12月から新春にかけて上映されました。*1
反対側(上流)から見た堀川運河。
【参考文献】
*1 日南市産業活性化協議会:油津(鉱脈社,1993)P.239
延岡の遊廓は、明治21年に設置が認可され、綿幸、宝来屋、麹屋が最初の妓楼でした。*1
場所は、五ヶ瀬川の北岸で、紺屋町から四・五町(一町は109m)の所にあって、麦原新地と呼ばれていました。*2
大正12年の「延岡市街地圖」*3 を見ると、紺屋町の通りをそのまま東側へ進み、日豊本線の線路を超えた線路脇のとろこに寺院があり、その寺院の東隣の五ヶ瀬川沿いに、「新地遊廓」の記載があります。
「延岡市街地圖」に記載されている線路脇の寺院が来迎寺(写真の右手前)だとすると、遊廓はこの寺院の奥にあったことになります。
寺院の奥の通り。
五ヶ瀬川からの遠望。
【参考文献】
*1 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂, 1929年)P.637-P.638
*2 宮本啓介,塩伝次郎:新撰大延岡案内(平和印刷所,1926)P.167-P.168
*3 延岡市街地圖(1923)延岡市立図書館所蔵
延岡市桜小路の住宅街の商店。
商店に銭湯が併設されています。
現在は、休業中のようです。
「亀井湯」の看板。
延岡市本町1丁目の銭湯の「喜楽湯」。
水色の板壁が美しい木造銭湯です。
本日は、残念ながら定休日でした。
窓枠も水色に統一されています。
博労町の商店街。人通りが多く賑やかな商店街です。
モダンな商店の建物。昭和34年の住宅地図によると「米本商店」と記されています。
「吉田精肉店」の建物。
タイルの装飾が鮮やかです。
今回は、延岡(宮崎県延岡市)の町並みと風俗を散歩します。
延岡の花柳界は、紺屋町、博労町が明治、大正時代の中心でした。*1
戦前の住宅地図*2 によると、この通りにも料亭や置屋が建ち並んでいました。
旅館だったと思われる建物。昭和34年の住宅地図*3 によると、旅館「福龍」と記載されています。
玄関部分にタイルで装飾された円柱があります。
花街時代を彷彿させる鮮やかさです。
【参考文献】
*1 延岡市史編さん委員会:延岡市史(延岡市,1963)P.476-P.480
*2 あがた会:空襲前延岡小学校々区住居地図 あがた会30周年記念制作(あがた会,1996)
*3 住宅地図刊行会:延岡市住宅詳細地図(住宅地図刊行会,1959)P.6
宮崎の遊廓は、宮崎市吾妻町にありました。*1
昭和5年の古地図*2 には、大淀川に面したあたりに「吾妻新地遊廓」の記載があります。
現在は、道路南側(写真右側)にマンションが建ち並び、北側には観光ホテル(写真左側)があります。*3
「赤線跡を歩く2」*3 で、「妓楼か料亭の通用口だったのだろうか」と紹介されている石造りの塀と門。通用門の部分には、自販機がはめ込まれています。
通用門上部の紋章。
付近の電柱のプレートには、「新地支」と書かれています。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.160
*2 地図資料編纂会:昭和前期日本都市地図集成(柏書房,1987)P.120「宮崎市街地図」
*3 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.78-P.79
橘通西の横丁「六番街」は、食品市場の通りの路地からソープランドの建物脇に通じています。*1
居酒屋が建ち並ぶ細い路地です。
出口に近いあたり。ソープランド「琥珀」の看板が見えます。
反対側の入口。夜になるといい雰囲気です。
成人映画館の「宮崎ロマン」。
ロマン入口。写真の右側は、「人情横丁」です。
ハードポルノ三本立。
絶賛上映中です。
スナック街の奥にある共同便所。
入口正面の文字が欠けて無くなっていますが、トイレであることを示す文字が書かれていたのだと思います。
手洗い場。
小便は、仕切りの無いタイプ。異臭を放っています。
木造モルタルの母屋を改造した「スナック貴子」
「スナック貴子」の正面は一見何の変哲も無い木造モルタルの建物ですが、裏側へ回るとレトロ感がアップします。
奥まったところになるスナック。
夜の「スナック貴子」。
路地裏の飲み屋街。飲み屋の看板に混じって風俗店の看板が見えます。
焼酎の広告のある横丁の入口。右隣に風俗店の募集看板。
反対側から見たところ。建物の側面に風俗店の入口があります。
お座敷サロン。
宮崎の歓楽街の中央通り。
宮崎で随一のラウンジキャバレーがあります。
ピンクではありません。
玄関上の看板。
今回は、宮崎(宮崎県宮崎市)の町並みを散歩します。
歓楽街の中心部にある「人情横丁」。横丁の入口で、女将さんが三味線を演奏していました。
風情のある看板。
黄色い提灯が特徴です。酔客で毎晩賑わいます。
昼間は、一転して静かな通りです。
石堂川沿いには、戦後、大規模なバラック群がありました。*1
「電柱歴史案内」によると、第二次大戦敗戦直後、大陸へ帰ろうとする人々が続々と博多港へ終結してきました。ところが、米国とロシアによって二つの祖国(韓国と北朝鮮)が成立。それに続く朝鮮戦争の混乱によって帰国を諦めた人々は、再び日本各地へ散っていきましが、そのままこの地に残った集団もあって、昭和30年代まで巨大な難民キャンプの様相を呈していました。この石堂川を挟んで、西岸に韓国系、東岸に北朝鮮系と一応のすみわけがありました。
石堂川東岸に隣接して、大津町商店街という日本人商店街がありましたが、商店街の中には、朝鮮系食材を扱う店が数軒ありました。大津町商店街は、その後再開発により「博多せんしょう」という商業施設に移転しましたが、その際、いくつかの店舗は「博多せんしょう」前の道路に面したところに店舗を構えました。*1
闇市時代からある飲食店。*1
【参考文献】
*1 島村恭則:〈生きる方法〉の民俗誌(関西学院大学出版会,2010.3)P.61,P.66,P.125-P.128
博多の祇園町の万行寺。
ここに、遊女の名月の墓があります。
門をくぐったすぐ右側の奥まった場所。
信仰深かった遊女・明月の初七日に墓から蓮の花が咲いたという伝説が残っています。
須崎町の須崎問屋街周辺には、古い商業ビルが残っています。その中で、茶色のタイルの円柱を持つ建物は、異彩を放っています。
かなり太い円柱です。問屋を営んでいた建物でしょうか。
こちらは、ゲストハウスを営む店舗。茶色の円柱が見えます。
飲食店の建物の玄関部分の装飾。
今回は、博多(福岡県博多区)の町並みと風俗を散歩します。
前回*1 訪問した「大浜」の赤線跡を再び散歩します。
繊細なタイル使いをとどめるお宅。両隣はマンションです。*2
玄関部分の装飾
タイルで装飾された丸窓。
建物の細部にわたって、タイルの装飾が施されています。
【参考記事】
*1 風俗散歩(博多):大浜の赤線跡(2012.11)
【参考文献】
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.37
中洲の人形小路。
狭い路地に飲み屋が密集しています。
2階部分に看板が取り付けられています。
T字路になっているあたり。
中洲の繁華街の「さつま富士」の大看板。「多門通り」の入口です。
居酒屋やスナックが建ち並ぶ通りです。
ビルの2階から。
反対側(中洲大通りに面した側)の入口。
今回は、中洲(福岡県福岡市博多区)の町並みと風俗を散歩します。
「南新地」は、中洲エリアの南端に位置し、戦前は、料亭や待合が密集する歓楽街でした。*1
現在もバス停に「南新地」の名が使われています。
現在の南新地は、九州随一のソープランド街ですが、わずかに料亭だったと思われる和風の建物が残っています。
高い塀が長く続きます。
南新橋を渡ったところに残る和風の建物。
【参考文献】
*1 咲山恭三:博多中洲ものがたり 後編(文献出版,1980)「戦前の中洲(南部)詳細地図」
池袋の三業地の中心部。写真の右側が料亭「寿々代」です。通りの奥に三社稲荷神社の鳥居が見えます。
三社稲荷神社は、三業組合の関係者によって奉られています。*1
稲荷神社の灯籠。
寄進者と思われる料亭の屋号が確認できます。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.189-P.193
三社稲荷前の通りの1本東側の通り。
竹が使われている塀。
料亭「寿々代」の建物です。
東京料亭組合連合会のプレート。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.189-P.193
JR池袋駅西口から北へ向かって進み、トキワ通りを超えて北へ進むと、「三業通り」と呼ばれる北西へ向かう通りがあります。この通りの西側に昭和3年から始まった花柳界がありました。
町会の名前に「三業」の名前が見られます。
三業通りというのは、この通りに面して池袋三業会館(見番)の建物があったからです。(写真のビルが旧池袋三業組合があった場所)
当時の面影を残す割烹料理店の建物。
「三業支」の電柱のプレート。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.189-P.193
ロサ会館の裏側の通り。
池袋では、風俗紹介所と思われる18禁マークだけが看板に描かれた事務所を見かけます。
大きな看板。
紹介所ですが、派手な装飾は無く、18禁マークの看板だけが取り付けられています。
三島駅近くの道路沿いに、古い木造の建物が残っている一画があります。
理容室の建物です。
理容室の看板が、郷愁を誘います。
理容室脇の路地。
三島市街の中央町の八坂神社の西側にある細い通りの町並みを昔は唐人町と言いました。*1
現在も、唐人町の地名の名残が見られます。
寛延元年(1748年)朝鮮使節が来朝し、将軍に謁見の途路、正使は旅籠に宿泊しましたが、随員は、ここに宿泊したことから、唐人町と呼ばれるようになりました。*1
140mほどで大通りに出ます(左側は東京三菱UFJ銀行)。*1
【参考文献】
*1 土屋寿山,稲木久男:ふるさと三島(土屋寿山,1989)P.140,P.146
江戸時代から300年の歴史を持つ三島町中通りの三島宿場女郎は、大正時代には、時代に減少傾向となりましたが、大正末期に各地に遊廓設置の機運が高まったことを機会に、三島遊廓の設立が検討され、町の風紀上最も影響の少ないと考えられる旧宿場の西南の地(現在の清住町)を買収して三島新地、すなわち三島遊廓を設置しました。*1
三島遊廓があったと思われる場所。
三島遊廓設置時点で、その貸座敷業組合員は、稲妻楼、尾張楼、万寿楼、井桁楼、新喜楼の五楼に減少し、戦時中にもかかわらず最後まで営業を続けたのが新喜楼経営の村岡氏でした。
電柱のプレートには、「新地」の名が確認できます。
旧三島遊廓の近くにある貯水池。
【参考文献】
*1 三島市誌編纂委員会:三島市誌 中巻(三島市,1959)P.433-P.434
源兵衛川は、三島市街を約1.5キロ流れるの美しい清流です。
伊豆箱根鉄道駿豆線の三島広小路駅近くでは、鉄道の線路と平行して、「源兵衛川水辺の散歩道」が整備されています。
「水辺の散歩道」から見た駿豆線の電車。
「水辺の散歩道」は、線路の下をくぐって、源兵衛川を飛び石伝いに横断します。写真右上の水色の建物は、「ヘルス銀座」です。
線路の下をくぐると、源兵衛川の川原に出ます。ここも遊歩道の一部(近道)です。
今回は、三島(静岡県三島市)の町並みと風俗を散歩します。
三島は、古くより「水の都」と呼ばれ、市内各所で富士の湧水が噴出してすばらしい水辺環境を有しています。
白滝公園脇を流れる桜川は、三島の市街を流れる川の一つです。
川沿いにたたずむ「ホテル桜川」。
その奥の旅館は、外壁の工事中でした。
素泊まり3000円の看板。
江東区深川江戸資料館。江戸深川の町が再現されています。
土蔵が町並みから突出してたち、その右手前二棟は長屋、奥に火の見櫓が見えます。*1
船宿の猪牙舟(ちょきぶね)。
天保の終わり頃の深川の町が再現されています。*1
【参考文献】
*1 藤沢周平:深川江戸散歩(新潮社,1990)P.58-P.67
深川の北側(江東区平野)の浄心寺に洲崎遊廓の関係者が寄進した供養塔があります。
カフェー組合の名。
貸座敷と刻まれています。
台座には、妓楼の屋号が刻まれています。
清澄庭園の東側に、レトロな2階建ての長屋建築が残っています。
2階建てですが、所々3階建てに建て増しされいて、全体としては3階建てと言ってよいと思います。
壁面の装飾。
1階部分は、商店が入っています。
深川には、「東海道四谷怪談」の第4幕の舞台「深川三角屋敷」が実在します。現在、三角形のビルが建っている場所です。*1*2*3
お岩の妹であるお袖は、夫の与茂七は殺されたと信じ込み、敵討を誓ってくれた直助と暮らしています。
二人の夫婦生活は深川の三角屋敷で営まれましたが、三角屋敷の辺りには、直助屋敷とも直助長屋とも呼ばれる淫売婦の巣がありました。*4
現在の深川一丁目五番地のあたりです。
三角屋敷があった場所の三角形の底辺部分。
反対側は高速道路に面してします。
【参考文献】
*1 塩見鮮一郎:四谷怪談地誌(河出書房新社,2008)P.161-P.163
*2 花咲一男:川柳雑俳江戸岡場所図絵(有光書房,1974)P.38
*3 新創社:東京時代map.大江戸編(光村推古書院,2005)P.45,P.47
※ 「江戸岡場所図絵」*2 には、江戸時代の古地図に●印で岡場所があった場所が記されています。これと「東京時代map」*3 を重ね合わせることにより、現在の場所を推定することができます。
*4 高田衛, 吉原健一郎:深川文化史の研究 下(東京都江東区総務部広報課,1987)P.238
辰巳新道には、2か所にトイレがあります。
公衆トイレではなく、従業員用です。
東側にもう一つのトイレ。
気分が悪くなったときは、バケツにしてから女子トイレに流します。
門前仲町2丁目にある辰巳新道。昭和の風情が残る飲み屋横丁です。
辰巳新道は、昭和26年に屋台を集め、一軒三坪が基本の長屋として作られ、当時は、花屋、菓子屋、紳士服テーラーなどもありました。*1
写真の「鳥信」は、辰巳新道の中でも古い店だそうです。*1
提灯。
門前仲町駅の南側。巴橋から、銭湯の建物が見えます。
重厚な建物。
銭湯の入口。
裏側にも通りがあります。こちらからだと、立派な煙突が見えます。
今回は、深川(東京都江東区)の町並みみと風俗を散歩します。
地下鉄東西線の門前仲町駅の南東方向に釣船橋があります。
乗船場の看板。
越中島川には、釣り船や屋形船が停泊しています。
江戸の深川の思わせる風景です。
西浅草に、東京遺産ともいえそうなホテルがあります。
あちこちに庭石が配置されている和風のホテルです。
料金は、1席、2席、...と時間帯や宿泊・休憩に関係ない、コマ数単位の料金体系となっています。
残念ながら、昨年閉店しました。
西浅草(国際通りの西側)は、ラブホテルが散在する一画です。
競馬中継が楽しめるホテルもあります。
ホテルと同じ屋号のカラオケボックスが道路を挟んで並びます。
国際通りに面したカラオケボックス。
浅草寺の西側に、「モボモガ御用達」と書かれた看板があります。
路地を進んだ先に古物商店の入口。
大正ロマンを切り口にした骨董店です。*1
店内は写真撮影OKとのことです。
地下の売り場にある白黒テレビ。
【参考文献】
*1 東京蛍堂ホームページ