東京人 30(11)2015.9
特集 戦後七十年 ヤミ市を歩く。 復興はここから、見上げた空は青かった
初田香成ヤミ市とは何か
石榑督和大井町、蒲田、三軒茶屋、自由が丘、小岩
石榑督和新宿四人のテキヤと、その「組」組織で統制。

都内で最初に組織された闇市は、終戦5日目にして誕生した新宿マーケットである。この闇市を作ったのは、のちに東京都露天商同業組合の理事長となる飯島一家小倉二代目関東尾津組親分尾津喜之助であった。東口では、戦中期に整備された1900坪の交通疎開空き地に闇市ができ、マーケットは1950年代末まで不法占拠のまま同時に残存して行く。一方、西口では、安田朝信率いる安田組が、戦中期に造成された駅舎建設予定地と焼跡の身内にまたがってヤミ市を作った。現在もヤミ市の面影を残す「思い出横丁」は安田組マーケットの一部である。また1950年頃に、東口の和田組マーケットの一部が戦災復興土地区画整理事業によって整理され、三光町へ移転して誕生したのが現在の新宿三光商店街(ゴールデン街の北側部分)である。

石榑督和渋谷

渋谷の闇市の特徴は、土地の不法占拠がほとんどなかった点にある。東急のような大企業までもが地権者としてマーケットを建設していた。駅東側の渋谷第一マーケットが東急が管轄したマーケットである。一方で不法占拠によって成立した二ヶ所のマーケットが渋谷の闇市を代表するものとして記録に残っている。その一つは台湾人グループによって建設された駅前マーケットであり、もう一つは道玄坂百貨街の一部である。道玄坂百貨街の一部は、のちに「恋文横丁」と呼ばれるようになり、1962年頃までその姿を止めることになる。現在の渋谷に戦後復興期の闇市の姿を残す場所は存在しないが、1950年前後の露店整理事業を契機に闇市を起源とする店が集まり、誕生した「のんべい横丁」や「しぶちか」がその面影を今に伝えている。

石榑督和上野

上野の闇市は、他地域と同様に青空市場として始まり、縄張り争いが絶えず、「組」組織と朝鮮半島の人々が入り乱れていた。そうした状況が落ち着くのは1946年春以降である。戦中期に疎開空き地となっていた三角地帯(現アメ横センタービル)に近藤広吉によって近藤マーケットが建設された。また1947年秋には、国鉄高架下を引揚者団体である「下谷引揚者更生会」が借り受けて、露店街を作り、その一方で朝鮮半島の人たちは、東上野二丁目に国際親善マーケット(現キムチ横丁)を作って分離していった。