今回は、久留米(福岡県久留米市)の町並みと風俗を散歩します。
久留米市街の六ツ門町に「新世界」と呼ばれる路地裏があります。

国道209号線に面した飲食店街が「新世界」です。奥には、高層マンションが建ち、この界隈も開発の波が押し寄せているようです。

一歩足を踏み入れると、そこは、昭和のまま時間がとまったかのような路地裏が残っています。

一番北側の通り。

今回は、久留米(福岡県久留米市)の町並みと風俗を散歩します。
久留米市街の六ツ門町に「新世界」と呼ばれる路地裏があります。
国道209号線に面した飲食店街が「新世界」です。奥には、高層マンションが建ち、この界隈も開発の波が押し寄せているようです。
一歩足を踏み入れると、そこは、昭和のまま時間がとまったかのような路地裏が残っています。
一番北側の通り。
戸畑駅前(写真奥はJR戸畑駅)。
昭和の雰囲気が漂う飲み屋街があります。看板には、すべて「小料理」と書かれています。
レトロな看板。
別の場所にあった小料理屋。
高岡市新横町大仏町。大佛寺にある高岡大仏は、奈良の大仏と 鎌倉大仏と並んで日本三大大仏と称されます。
その高岡大仏のすぐ近くに大仏飲食店街があります。
表通りの看板に導かれて路地を入ると、大仏飲食店街の入口があります。
30mほどの小路に飲食店が密集しています。
夜に来てみたい飲食店街です。
駅前の荻窪銀座の隣に、「アサヒ通り」と名づけられた通りがあります。
飲食店が建ち並んでいます。
ところどころ空き地があり、ちょっと寂しい感じです。
空き地になった場所からは、建物の裏側のトタン部分が見えます。
花岡遊廓跡地の東側に位置する末広町は、歓楽街となっています。
歓楽街は、「二番街」と呼ばれています。
スナックや居酒屋が点在しています。
バーの建物。
洲崎橋跡の右手(西側)の通り。
こじんまりとした一杯飲み屋が軒をつらねている一画があります。
映画「洲崎パラダイス」の舞台となったと思われる飲み屋街です。*1
スナック店が建ち並びます。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.14-P.17
草津駅前の駅ビルの南側に、飲み屋が密集する一画があります。
密集する看板。
周囲はビルが建っていますが、ここがだけが昔の面影を残しています。
「ばんから横丁」の入口に展示してある大路二丁目の昭和初期の頃の写真。
川反通りの中心部。夜になると賑わう場所です。
交差点の角にある居酒屋の「AKB23」。アイドルグループの「AKB48」を真似たと思われるネーミングですが、看板に小さく書かれている通り、店名のAKB は Akita(秋田)、Kawabata(川反)、Bijin(美人)の頭文字らしいです。
「AKB48」のような制服で接客してくれるようです。
こんな感じです。
川反(大町)四丁目から五丁目にかけてが川反飲食店の最も賑わう中心地でした。五丁目には、大町側に入る迷路のような行き止まりの路地がいくつもあって、そこにも小さな酒場がすき間なく並んでいました。*1
「川反五丁目小路」は、その名の通り、川反(大町)五丁目にある小路で、「かっぱ小路」の隣にあります。路地の片側一部はビルに建て替わっていて、昔の面影は無くなりつつあります。
「いつもあなたを待ってます。」と書かれた看板。
夜の川反五丁目小路。
【参考文献】
*1 無明舎出版:40年前の秋田市(無明舎出版,2003)P.75
昭和30年代の川反は、バーやキャバレーが次々に創業し、夜の雑踏の流れは、すれ違うのにも苦労するほどで、美経小路、かっぱ小路、祇園小路等の穴場を徘徊する若い紳士やギター片手の流し芸人で活気に溢れていました。*1
かっぱ小路の入口は、川反通り沿いにあって、小路の両側の建物は健在で、昔の雰囲気が残っています。
看板が密集する小路。
奥の行き止まりのところに、「かっぱ小路」の看板。
雪国の横丁は、夜の雰囲気も格別です。
【参考文献】
*1 黒川一男 著:川反いまむかし(無明舎出版,1995)P.10-P.11
今回は瀬戸内町(鹿児島県大島郡)の町並みと風俗を散歩します。
瀬戸内町は、奄美大島の南側に位置し、古仁屋は瀬戸内町の中心地です。市街の西側に「屋仁川通り」と呼ばれる通りがあります。*1
「屋仁川(ヤンゴー)」は、名瀬の「屋仁川」と同名です。
「奄美に生きる日本古代文化」*2 に、「ズレ(遊女)に代わるべき存在が、名瀬町と古仁屋町のヤンゴー(屋仁川)なる地域に巣食う酌婦である。」と説明されおり、ヤンゴー(屋仁川)という呼び名は酌婦がいる一帯の呼び名で、名瀬のヤンゴーと同様、古仁屋にもヤンゴーがあったことが解ります。
ヤンゴと呼ばれる一帯は、古仁屋市街の北西部の現在の町田商店の道路向かい側にあって、木造二階建て瓦葺の料亭が17~18軒ほど集まっていました。軍の進出でヤンゴ街は経済振興策となりました。*1*3
経営者には、奄美大島出身者と徳之島出身者が半々くらいであったが、女将は一人を除いて全員徳之島出身でした。料亭のなかで、「喜楽」や「朝日亭」が大きな料亭で、とくに「喜楽」では本店と支店を併せて50人ほどの遊女がいて、野菜、茶、イモなどを自給で賄っていました。*1
「昭和10年代の古仁屋における商店・事業所の分布図」*1 によると、写真の町田商店の奥に、「ミカド」、「暁」、その右側に、「若松」、「奄美屋」、さらにその奥に「喜楽」がありました。
【参考文献】
*1 編纂委員会:瀬戸内町誌歴史編(瀬戸内町,2007)P.559-P.566
*2 金久正 著:奄美に生きる日本古代文化.復刻(南方新社,2011)P.134
*3 富島甫:しまがたれ第6号(1998)「我が街古仁屋青春回想」P.14
今回は岡山(岡山県岡山市)の町並みと風俗を散歩します。
岡山市の市街地にあって最大かつ伝統的な街「表町」は、さまざま表情をもった商店街です。北側から南へ、上之町、中之町、下之町、栄町、紙屋町、西大寺町、千日前、新西大寺町と有り「表八ヶ町」と通称され、現在でもこの名で呼ばれることがあります。*1
この「表八ヶ町」の東の裏通りにあたるのが、旧町名で「内山下元町5丁目」(現在の表町2丁目4,5、内山下1丁目12,13)で、バーや喫茶店の多い町です。*2*3
現在も表町2丁目4,5付近は、スナックやバーが建ち並んでいます。
ポリバケツや洗濯機が置かれた路地の奥に「スタンド」の看板。上には洗濯物。エアコンの室外機の上には一升瓶が置かれています。
スナックのある路地。
【参考文献】
*1 協同組合連合会 岡山市・表町商店街連盟:おもてちょう「表町商店街の歴史」
*2 内山下地区連合町内会:2004年度版「内山下地区連合町内会」の地図
*3 岡山新聞社編集局:現代岡山町誌(岡山新聞社,1958)P.9-P.10
四条大橋のたもとの西石垣(さいせき)通りは、古くからの料理屋が並ぶ通りですが、今では、ヘルス通りと呼ばれています。*1
料理店と風俗店が混在した奇妙な風景になっています。
木屋町通りと西石垣通りが合流するY字路。料理屋(写真手前)の隣に風俗店(写真左奥)が並んでいます。
高瀬川にかかる於石橋を渡った路地の商店街。商店の隣に風俗店(写真奥)があります。
【参考文献】
*1 文野石平:現代(1997.11.20)P.81 「東西性風俗街道 京都神戸編」
新世界通りの東側の小路。
「18歳未満の方入店お断りします」にプレート。新旧2枚のプレートが並んでいます。
「酒場戸田村」の看板がいい味出してます。
飲み屋が建ち並んでいるのは小路の片側のみです。
スナックやパブなどが密集する旭町の歓楽街に飲み屋横丁の新世界通りがあります。
50mぐらいの長さの横丁です。
裸電球がぶらさがるアーチ。
昭和の雰囲気が漂います。
江尻町にある商店街の「清水銀座」。約500m続く大規模な商店街です。商店街の西側に「銀座小路」の入口があります。
居酒屋などが建ち並ぶ路地。
裏側には、「銀座小路」、「スナックA地点」と書かれた看板があります。
店名が並んだ看板。
今回は、富山(富山県富山市)の町並みと風俗を散歩します。
富山駅前に、「シネマ食堂街」と呼ばれる一角があります。*1
シネマ食堂街は、昭和34年、‘映画館と食堂街’という新しい一角として誕生しました。*2
当時は朝から客の絶える間なく深夜まで賑わいました。映画は成人向きに変わり、現在は、二十数店が営業中です。*2
通りには、飲食店の看板が並び立ちます。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.122
【参考URL】
*2 シネマ食堂街ホームページ
薄野の繁華街は、現在はほとんどがビルになっていて、木造の建物は非常に少なくなっています。
南5条西4丁目に、「赤線跡を歩く.完結編」*1 に写真が掲載されている飲み屋の建物が残っていました。
道路を挟んだ向かい側の飲み屋街。
裏の小路。
小路を抜けると新宿通りに出ます。
新宿通りは、昔は「三等小路」と呼ばれていました。明治25年、薄野の大火で887戸が焼失する惨事となりましたが、札幌警察署は、再建を望む白首屋を南五条と南六条の仲通りに設営しました。公娼を一等、二等と階級づけるとすれば、私娼は三等なので三等小路と呼ばれたそうです。*2
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く.完結編(自由国民社,2007)P.34
*2 熊谷秀一:札幌遊里史考史考(麗山荘,1975)P.31-P.33
岩見沢の繁華街の二条西三丁目付近。
看板の文字がかすれて読みにくくなっていますが、「祇園小路」という横丁があります。
ビルの内部の路地を通りぬけると、その奥ににもう一つのビルがつながっており、路地が続いています。
2つ目のビルの先にも路地は続いていて、路地の行き止まりの奥にスナックがあります。
「有楽トンネル」*1 を出ると、左側に居酒屋やスナックが並ぶ横丁があります。
天井から日光が入る構造になっていますが、その構造を支える木材の支柱が恐竜の背骨のように、連なっています。
建物の屋根が出っ張っている部分が、横丁の天井部分です。
建物を西側から見たところ。写真の右下が「有楽トンネル」*1 の入口です。
【参考記事】
*1 風俗散歩(留萌):有楽トンネル(2011.9)
留萌市街の繁華街は、開運町に集中しています。開運町3丁目に「有楽トンネル」と名づけられた奇妙な空間があります。
トンネルの入口に所有者の名前が彫りこまれています。
トンネルの中にある和風スナック。
トンネルを出ると飲み屋が雑居している建物の裏側に出ます(写真左下が有楽トンネルの出口)。
五条通8丁目に、ビル街の中にかろうじて残る昭和の風景「夢路小路」があります。
飲み屋街の片側だけが残り、反対側は車の駐車スペースになっています。
絵はがき「旭川街角スケッチ③昭和のにぎわい」*1 で描かれている風景です。
看板を支えているのは金属製の金具なのですが、その金具は母屋から突き出た木製の支柱によって複雑に支えられています。
【参考文献】
*1 スケッチ研究会:旭川街角スケッチ3(あいわプリント)
三条通り5丁目付近。繁華街に観光センターと書かれた看板があります。
昼間のビルは、静まりかえっています。
コンパニオン募集の看板。
夜になると、「個室付浴場」のネオン看板が点灯します。
今回は、旭川(北海道旭川市)の町並みと風俗を散歩します。
旭川市内一の盛り場である「サンロク」とは3条通6丁目一帯のことで、この付近は飲食店や風俗営業の店がしのぎを削っています。*1
4条通6丁目の道路に面した氷販売店の隣に「パリ街」*1 があります。
現在も飲食店が営業中です。
パリ街のテナント募集中の貼り紙。
夜になると「パリ街」の看板に灯りがともります。
【参考文献】
*1 木村聡:荷風!大人の新宿(日本文芸社,2004.7)P.109-P.110「赤線跡を歩く 北海道旭川編」
朝日町の裏(西側)に森山小路と呼ばれる路地があります。安来節を世に広めた功労者として有名な森山清太郎さんの実家がこの近くにあったことから、森山小路と呼ばれるようになったそうです。*1*2
朝日町界隈には、このような幅の狭い路地が縦横に延びていて、スナックが密集するエリアとなっています。
森山小路の裏の路地。
道幅は狭いので、車が入ってくることはできません。
【参考文献】
*1 松田勝三:米子ぶらり放談. 続(松田勝三,1982)P.170-P.172
*2 影井亮文:米子点描(今井書店,1983)
朝日町は、米子の夜の顔です。
朝日町界隈というと、朝日町自身は当然のこととして、東倉吉町や西倉吉町、尾高町や角盤町の一部も入り、この一角にクラブ、バー、スタンド、その他の飲食店が絶対数として圧倒的に密集しています。*1
明治45年(1912年)に、角盤町の女学校を会場として山陰鉄道開通記念全国特産品博覧会が開催されたときに、この通りが会場への通路として使われ、土産品店や飲食店や淫売屋までできたのが、この地帯が繁華街となったはじまりといわれています。12
蝶々型のエプロンを掛けた女がお客にサービスをするカフェーとそれに類似する店舗としては、「喜侭食堂」「麗人会館」「キング」「つたや食堂」「いすみ屋」などがありました。*1
現在は、飲食店ビルがいくつも出現していますが、昔ながらの木造スナックも健在です。
夜になると、ネオンひしめく歓楽街に変わります。
【参考文献】
*1 松田勝三:米子ぶらり放談. 続(松田勝三,1982)P.169-P.170,P.176-P.177
*2 船越元四郎:米子ぶらり歴史散歩(米子ぶらり歴史散歩刊行会,2006)P.74
都城には、牟田町に小規模ながら活気のある繁華街があります。
スナックなどの店舗が林立します。
十字路の角にある建物。
キャバレー。
中津市天神町の飲み屋街。
裏の通り。
スナックが建ち並びます。
所々に、表通りと裏通りを横断する細い路地があります。
横浜駅西口の近くにの「狸小路」。飲食店などが軒を連ねている一画です。
路地に入ると、ラーメン店、立飲み店、がぎっしりです。
路地はL字型に曲がっています。
逆側の出口。
凌雲閣(浅草十二階)があった時代、塔に登ると南東方向にはひょうたん池が見えました。現在のJAウィンズのあたりがひょうたんの頭で、六区交番あたりがひょうたんの胴にあたりました。頭と胴のあいだはくびれていて、そこに紐をかけるようにぎざぎざと橋が渡され、結び目のような浮島につながっていました。浮島には茶屋があって、島に渡された橋には藤棚がありました。*1
現在、ひょうたん池のあった場所は、初音小路と呼ばれる飲み屋街になっていています。
長屋に飲み屋が建ち並んでいます。
現在の初音小路の藤棚は、ひょうたん池があった頃の藤棚の名残です。*2
【参考文献】
*1 細馬宏通:浅草十二階(青土社,2001)P.38-P.40
*2 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の浅草(武揚堂,2007)P.34
貝塚遊廓の跡地の一部は、現在は飲み屋街になっています。
メイントの通りが交差する十字路付近にあるお好み焼き屋。
北側にある「スタンド」。
入口は斜めになっています。
千日前二丁目一帯は、昭和の雰囲気の残る盛り場です。
その中心にある「味園ビル」には、サウナ、ホテル、宴会場、男の遊び場がそろった総合レジャービルです。
レトロな看板。2階は、キャバレー「ユニバース」と大スナック街です。
夜になると、派手な電飾が猥雑さをかもしだします。
宮古島の市街の北側。
古い飲食店があります。
白い壁に、おにぎり、冷やし物、天ぷら、と書かれています。
ゴールデンウイスキーの看板。
勝連半島の県道8号線沿いにバー跡と思われる建物が並ぶ一画があります。
米軍施設「ホワイトビーチ」からは距離が離れていますが、店名は英文字で書かれているので、かつては米人向けの飲食街だったのかもしれません。
「RESTAURAN」の文字。
判読できませんが、店名が英文字で書かれています。
屋富祖大通りから路地に入ったところに、百メートル前後の飲食街があります。
1996年の芥川賞受賞作、又吉栄喜さんの「豚の報い」は、スナックに豚がちん入する奇想天外な場面から始まる奇妙な作品です。この作品は、1999年に映画化されましたが、「豚ちん入」のロケは、この横丁の入口にさくをして二、三十頭の豚を追いたてて行われました。撮影は、2日間かけて行われましたが、何回もくりかえすので豚も人もへとへとになったそうです。*1
屋富祖の飲み屋街は、一般に開店が遅く、明け方まで営業しています。*1
数年前まで、営業していた24時間営業のヤギ料理店*1 は、現在は看板が取り外されています。
【参考文献】
*1 琉球新報社:沖縄名作の舞台(琉球新報社,2003)P.94-P.97
屋富祖大通りの坂を登りきったあたりに、長屋の飲み屋街があります。
周囲は開発が進んでいますが、ここだけが時間が止まっているような雰囲気です。
小路の両側に飲み屋が並んでいます。
飲み屋街の路地は、L字型に続いています。
堺市街の北西から南東にかけて、フェニックス通りと呼ばれる幅50mの大通りがあります。フェニックス通りの名称の由来は、堺大空襲からの復興の象徴として植えた、126本のフェニックスの苗木です。
このフェニックス通りから1本道路を入ったところにフェニックス横丁があります。
2つの建物の間に計画的に作られた横丁です。
50mぐらい離れたところに、もう一つのフェニックス横丁があります。
2つの建物の間に路地があるという構造や看板の取り付け方も同じです。
建設中の八重洲一丁目のこの場所に、数年前まで料亭「安芸」*1 がありましたが、取り壊され新しいビルが建設中です。工事用フェンスに「八重洲一丁目飲食街」と書かれている通り、建設中のビルの裏手に飲み屋街があります。
看板が連なる飲み屋街。写真右側は工事用フェンスです。
工事用フェンスには、「八重洲のあの日」と題し、江戸時代から現在に至るまでのこの界隈の変遷が地図で示されています。
1950年頃の火災保険特殊地図。この地図によると、この付近は「中央ホテル別館」や料理屋が建ち並ぶ一画でした。
【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」
有楽町駅の南側のガード下は、飲み屋が密集する場所です。
店からあふれた客たち用に、道路に丸イスが並べられています。
ガード下の通路を南側へ進むと「ホッピー」のノボリとおびただしい数の提灯。
トンネル型ガードは、「焼き鳥横丁」と呼ばれ、わずか30,40mのかいわいに10軒ほどの店が並んでいますが、やはりこの一角では漂う煙が主役です。*1
「小松」、「登運とん」、「ふじ」、「金陵本店」は、昭和中頃から現在も続いている店です。
トンネル内には、濃い煙が立ち込めています。
【参考文献】
*1 朝日新聞社会部:有楽町有情(未来社,1981)P.81-P.85
JR線が走る遊楽町のガード下にある“有楽町コンコース”に、昭和の時代をそのままに再現した飲食店があります。
丹下左膳のポスターとミルクホールの看板。
「ミルクホール」は、明治30年(1897年)頃に各地の大学街などに現れました。当初は「新聞・官報縦覧所」と言われ、手頃な価格でミルクを飲みドーナツなどの軽食を食べながら、備え付けられた新聞や雑誌を閲覧することができました。まだ飲み慣れなかった牛乳の乳臭さを消すためにコーヒーが加えられ、一般大衆にコーヒーメニューが受け入れられることにもつながりました。*1
トリスバーの看板と理髪店。
性病科の診療所の看板。
【参考URL】
*1 UCC上島珈琲株式会社:時代を映す愛すべき空間~カフェはじめて物語・日本篇~
JR有楽町京橋口から徒歩0分のところに、「有楽町高架下センター商店会」の入口があります。
夜になると、看板に明かりが灯ります。
高架下を北に1分ほど歩くと、丸三横丁の看板があります。
JT高架を横切るわずか50mのトンネル状の小道に、味わい深い飲み屋群がぎゅ~っと詰まっています。場所は、東京国際フォーラムのすぐ隣。凄いギャップです。*1
【参考文献】
*1 散歩の達人:散歩の達人(1999.11)P.8-P.9
JR南仙台駅から東へ2.5Kmhほど行った袋原に、スナック街があります。
長屋風の建物の1階にスナックが並んでいます。
周囲は閑静な住宅街ですが、この一画だけがスナック街になっています。
スナック、居酒屋、カラオケの店舗が営業中です。
2番街は、居酒屋やスナック、焼肉屋、ホルモン屋などが軒を連ねます。
もともとは、魚屋、茶屋、お菓子屋、洋装店、時計屋などの店が軒を連ねる商店街で、昭和40年頃は、現在のような飲み屋は数えるほどでした。*1
もともとは、長町マーケットと呼ばれていたようです。*1
「PUB豚」。めずらしい屋号の店です。
【参考文献】
*1 別冊東北学編集:仙台学v. 1 (別冊東北学編集室,2005)P.78-P.79
今回は長町~南仙台(仙台市太白区)の町並みと風俗を散歩します。
地下鉄長町駅から歩いてすぐ。路地入口にかかるアーチ状の看板に「2番街」の3文字が目に飛び込んできます。中には小さな飲み屋街が並んでいるようです。
上に王冠のようなデザインがあって、レトロな雰囲気です。
裏側には、「有難うございます」の文字。
飲み屋街は、L字状になっていて、逆側の出口にも同じようなアーチがあります。
【参考文献】
*1 別冊東北学編集:仙台学v. 1 (別冊東北学編集室,2005)P.78-P.79
苦竹のかつての歓楽街は、現在区画整理が行われていますが、西側の一画には、飲食店街が残っています。
石畳の小路。
隣には、もう一本の小路。
エーワン。
松阪の愛宕町には、大正から昭和にかけて20軒ほどの遊廓がありましたが、現在はバーやキャバレーが建ち並ぶ歓楽街となっています。*1
古い建物に混じって、風俗案内所などの最近の建物もあります。
和風の建物のスナック。
新旧の建物が混在する歓楽街です。
【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.184-P.187
駅前の交差点の角に、開発から取り残された一画があります。
飲み屋が建ち並ぶ小路。規模は小さいです。
L字型に曲がって、駅前の大通りに出ます。
閉店の貼紙。昭和27年から営業していた居酒屋さんです。
旧白浜新地近くにあるハマギンザ街道。「食座・銀座」と書かれたゲートがあります。
スナック、居酒屋、商店が建ち並んでいます。
狭い路地にスナックが密集しています。
落ち着いた感じの和風スナック。
今回は、紀伊田辺(和歌山県田辺市)の町並みと風俗を散歩します。
紀伊田辺は、JR和歌山駅から特急電車で約1時間の位置にある南紀地方の主要都市です。
駅前に「味小路」と呼ばれる飲食街があります。
飲食店の看板。
細い路地に看板が密集しています。
今回は、大久保(東京都新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
彦左小路は歌舞伎町の北、職安通りを渡った線路沿いにあった二棟の長屋からなる飲み屋街でした。職安通りには、彦左小路の入口を示す看板の支柱が残されています。(写真左)*1
金網で囲われている彦左小路の跡地。場末酒場の面影はありません。
「おとめ荘」の看板が今も残されています。
このあたり一帯は、道路の拡幅工事が予定されています。
【参考文献】
*1 藤木TDC、イシワタフミアキ:昭和幻景(ミリオン出版,2009)P.74-P.75
中野駅の北側。早稲田通り手前に「四十五番街」という飲食街があります。この飲食街の成立は昭和20年代末で、通りに屋台やバラック店舗が並んでいた時代でした。*1
現在、小路の大半は解体され、再開発を待つ状態です。
写真右奥は、中野ブロードウェイマンションです。
朽ちかけた店舗の建物が残っています。
北側の通り。
【参考文献】
*1 藤木TDC、イシワタフミアキ:昭和幻景(ミリオン出版,2009)P.48-P.49
旧銀座通り(小金井街道)に面して「盃横丁」の入口があります。入口には、「男はつらいよ」の映画の看板。
横丁へ入ると、こんどは「エレキの若大将」の映画看板。
南側は、高層マンションがせまっています。
石原裕次郎さん主演の「夜霧よ今夜もありがとう」の映画看板。
新開地本通商店街の湊川公園方面へ向かって坂道を登っていくと、右手(東側)に松竹小路の入口が見えます。
松竹小路は、数ある新開地の路地の中でも最も魅力的な古い路地のひとつです。*1
不思議な造型がこの路地の魅力です。
スナック、居酒屋、カラオケ、お好み焼き屋...。
【参考文献】
*1 新開地アートストリート実行委員会:湊川新開地ガイドブック(新開地アートストリート実行委員会,2003)P.78
共同浴場の新温泉の裏側に、雰囲気のある路地があります。
右に新温泉。左には小さな飲み屋街。昭和の雰囲気が残る一画です。
入浴後に立ち寄りたくなるような居酒屋さん。
飲み屋街の路地からは、新温泉の木造の建物の裏側(写真右側)が垣間見えます。
寿町の飲食街の一画。簡易宿泊所がコンクリート建築であるのに対し、この一画だけは、トタン屋根の建物が密集しています。
居酒屋やスナックが建ち並びます。
飲食街の中央を貫く路地の両側には、飲み屋の店舗が並んでいます。
別の場所にあったスナックと思われる店。
戦前まで、現在の栄町にあった才ノ森遊廓*1 は、昭和20年7月の空襲で焼失し、その後、昭和25年に下御弓(しもおゆみ)町に移転し、その一画を柳町と命名し、昭和33年4月1日に赤線が廃止されるまで続きました。*2
「昭和10年徳山市街図」*3 を見ると、「下御弓丁」と書かれた場所は、現在の昭和通り沿いの川端町、柳町、橋本町、飯島町のあたりであることが解ります。中でも、現在も柳町の名が残る界隈は、昔の風情が残るスナックなどの飲食店舗が密集しています。
和風の古い建物をスナックに改築した建物が随所に残っています。
洋風の建物。
2軒の店舗を有する大型の民家。
【参考記事】
*1 風俗散歩(徳山):才ノ森遊廓跡地(2009.10)
【参考文献】
*2 前田麦二:徳山の思い出(マツノ書店,1985)P.42
*3 同上 P.153 「徳山商工会編 昭和10年徳山市街図」
今回は、御殿場(静岡県御殿場市)の町並みと風俗を散歩します。
御殿場は、東富士演習場など多数の防衛施設を抱える町です。戦後は、米軍の進駐により、滝ケ原(ノースキャンプ)、駒門(サウスキャンプ)、板妻(ミドルキャンプ)が設置され、これらの基地の周辺や御殿場駅周辺には、歓楽街が出現しました。*1
御殿場駅近くには、このときの歓楽街かどうかは解りませんが、御殿場駅近くに、スナックが密集する一画があります。
和風と洋風の建物が混在しています。
スナック街の奥まったあたり。
「OK横丁」と壁に手書きで書かれています。
【参考文献】
*1 平井 和子:女性学 通号5(1997)P.122-P.123 「米軍基地と「買売春」–御殿場の場合」
飲食店やスナックが密集する花園銀座商店街。COFFEEHOUSEの建物に、ファッションキャバレーの名前があります。
ピンク色の看板。
入口の階段。天使が妖艶になる聖地。
入口の看板。
嵐山新地*1 の東側(JR函館線の高架を隔てた反対側)に稲荷小路があります。
稲荷小路のアーチ。
その名の通り。奥には稲荷神社があります。
夜の稲荷小路
小樽市花園の花街エリア。JR函館線の高架近くに、嵐山新地があります。
嵐山通りに面したところに、もう一つのゲートがあります。
ゲートの裏側には「ありがとうございました。」
夜の嵐山新地。
色内1丁目に、廃業した飲食店の建物が残る一画があります。
酌婦との出合いを描いた小林多喜二の作品「その出発をした出発した女」の舞台となったあたりです。*1
通りに面して、居酒屋やスナックの建物が建ち並んでいます。
飲食店街の北端のあたり。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.36-P.37
釧路市街の栄町に、栄楽街と呼ばれる一画があります。十文字の路地の出入口にあたる場所には、それぞれ、北口、南口、西口、東口と書かれた看板があります。
東口付近。
路地の中心部。飲食店と風俗店が密集しています。
南北に走る路地。
帯広市街には、現役の小路が10ヶ所ほど点在しています。その中でも名門通り沿いの南7丁目~8丁目あたりに、3つの小路が隣り合っている一画があります。
エイト街、いなり小路、金春街、と並んでいます。
金春街。小路の右側部分の建物が少し傾いています。
スナックの店舗が密集しています。
「北栄ビル」に連なるの古いスナックの建物には、奇抜なデザインのドアが取り付けられています。*1
さまざまな色のペンキで塗られています。
小さな窓が付いている店も何軒かあります。
こちらのドアは派手な緑色です。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)口絵
今回は、帯広(北海道帯広市)の町並みと風俗を散歩します。
帯広駅前の平原通りを北へ約1Kmほど離れたところ。利根川を渡る西二条橋の近くに、飲み屋小路があります。
古いスナックの建物が並んでいます。
木村聡さんは、「消えた赤線放浪記」*2 の中で、「相当昔に廃業したと見えて、廃屋のようになっている。『全国女性街ガイド』*1 に記されている場所なのかどうかは別として、ある時期まで何かしら色町めいた一画だったような、そんな気がした。」と、ここが青線街であった可能性を示唆しています。
建物は、派手な色のペンキで塗られています。
【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.23
※帯広の項には、「赤線は西二条通りから左に入った十勝川と帯広川に入ったところに十五軒ほどあるが、それよりも駅に近い飲み屋街百軒ほどの巷の青線が流行っている。」と書かれています。
*2 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.40-P.46
京急横須賀中央駅のすぐ隣に、若松飲食店街のアーケードがあります。
道の両側にスナックが密集しています。まるで映画のセットを見ているようです。
スナックの看板が密集するあたり。
狭い路地が縦横に交差しています。
愛敬町のスナック街。熟女がお相手するちょんの間があるとの情報*1 もありますが、昼間の散歩だったので、詳細は把握できませんでした。
通りを逆方向から見たところ。
スナック店が建ち並んでいます。
艶っぽい看板。
【参考文献】
*1 俺の旅 Vol.25 (ミリオン出版,2007.10.25)P.19
丸山本通りから路地を入ったところに、石垣の上に建てられた楼閣があります。
建物の側面に階段があります。
階段を登ると楼閣の入口がありました。
店の屋号でしょうか。タイルで装飾された大きな文字で描かれています。
神宮前駅の北側すぐのところに、神宮小路の入口のゲートがあります。
石畳の呑み屋小路が続きます。
東西の通り。ラーメン屋が営業中です。
反対側(北側)の入口。
鶴見駅東口の繁華街を抜け、鶴見川を渡った本町通4丁目に、飲食街があります。
右側は空き地(駐車場)になっていますが、昔は狭い路地だったのかもしれません。
雰囲気のある入口。
「料理店」のプレートがありました。
今回は、鶴見(神奈川県横浜市鶴見区)の町並みと風俗を散歩します。
京急鶴見駅東口の「鶴見三業共同ビル」の南側の角。
地下街への階段の入口があります。
パブやバーなどの飲食店専門の「鶴見地下飲食街」。
この付近一帯には、「鶴見三業地会」の看板があります。
JR上野駅近くの昭和通り沿いに、スナックが並ぶ小さな路地があります。
ゲイバーなどが多い路地です。*1
江戸時代、上野に隣接する湯島天神界隈は、男色を売る少年たちの陰間茶屋が多い場所でした。また、敗戦後の上野には、街娼(パンパン)など1300人の商売女と約100人の男娼(オスパン)がいました。*1
男の酒場。
【参考文献】
*1 新人物往来社:歴史の中の遊女・被差別民 別冊歴史読本45(新人物往来社,2006)P.271-P.272
胡屋十字路からサンサン通り(国道330号線)を南西にパラダイス通り*1 があります。すぐ隣に諸見百軒通りがあります。現在は繁華街の面影はありませんが、1978年の住宅地図*2 を見ると、クラブやカフエーが、道の両脇にずらっと並んでいます。沖縄返還後、しばらくは繁華街であったようです。
かつての繁華街の面影を残すクラブの建物。
「CLUB DIYA」。特飲街時代の建物でしょうか。
元飲食店であったと思われる民家。
【参考文献】
*1 沖縄市平和文化振興課:Koza ひと・まち・こと 写真がとらえた1970年前後 あなたが歴史の目撃者(沖縄市,1997)P.11 「歓楽街分布図(1960年頃)」
*2 善隣出版社:沖縄市・北谷村(善隣出版社,1978)P.71
農連市場の北東に位置する神里原通りは、戦後(昭和20年代~50年代)の商業の中心でした。*1
神里原通りから路地を一歩入るとスナックが建ち並ぶ一画(神里原社交街)があります。
神里原通りから入った路地は、開南本通りへぬけます。
昭和初期の神里原は、昼間は商いで活況を呈していましたが、夜は暗黒街でした。夜になると酒屋台が並び、飲み屋の閉店で流れてきた酔客同士のけんかが耐えない状況でした。*1
【参考文献】
*1 比嘉朝進:戦後の沖縄世相史 事と年表でつづる世相・生活誌(暁書房,2000年7月)P.47-P.48
国際通りと交差する桜坂中通りは、現在道幅が拡張され、この付近は再開発されているようです。
桜坂中通りを進むと、桜坂社交街があります。
桜坂社交街は、現在はさびれてしまったものの、かつては沖縄を代表する歓楽街でした。*1
桜坂が誕生したのは、昭和52年で、那覇保険所長の当山堅一らが、桜数十本を植え、桜の名所にしようと桜坂と名付けたことに由来します。その後、56年頃には、バー、キャバレー、料理屋など78軒、ホステス約500人の歓楽街に発展し、当時は街娼や米兵に女を世話して金をもらう児童などもいました。*1
昼間は閑散としていますが、夜になると年配の酔客たちとの酔狂が朝まで続きます。*1
【参考文献】
*1 下川裕治,ゼネラルプレス:好きになっちゃった沖縄(双葉社,1998)P.18-P.19
*2 比嘉朝進:戦後の沖縄世相史 事と年表でつづる世相・生活誌(暁書房,2000年7月)P.57-P.59
今回は、新発田(新潟県新発田市)の町並みと風俗を散歩します。
掛蔵は、古くからの繁華街で、現在は中央町4丁目となっています。*1
現在も割烹や飲食店が建ち並びます。
路地にある古びたスナック。
古いプレートが残っていました。現在は民家になっています。
【参考文献】
*1 松田時次:新発田今昔写真帖(郷土出版社,2002)p.20
JR両毛線の足利駅近くの永楽町に、レトロな飲み屋街があります。
現在も食堂や居酒屋として営業中です。
交差点の角にある建物。
近くを両毛線の電車が走ります。奥に見えるのはJR足利駅です
今回は、王子(東京都北区)の町並みと風俗を散歩します。
JR王子駅から見える飲食街の「さくら新道」。
新宿のゴールデン街に似た飲み屋の長屋が延々と続きます。
飛鳥山l公園へ登る坂道の途中から見ると、建物の輪郭がよく解ります。
「さくら新道」の由来は、終戦直後、闇市だった柳小路(王子駅東口を出たところに現在もある飲食店街)にさかのぼります。
その区画整理の際、抽選に当たった店は残り、それ以外は駅の反対側の国有地に移るよう指示された場所が、さくら新道でした。*1
八幡町の北側は、戦後の時代を連想させる飲み屋横丁になっています。
スナックが寄り添う建物。
細く長い横丁。
モダンなつくりの看板。
狸小路という名の飲み屋街。
レトロな雰囲気の飲み屋街です。
奥まったところにある公衆トイレ。客引き禁止看板や、立小便禁止看板があります。
逆側から見たところ。
浜松駅の東側の駅前から八幡橋に至る間は、商業地区です。
比較的新しい「サザンクロス」商店街。
サザンクロス商店街の隣にある「サッポロ街」。
サッポロ街の中に入ります。上部から光が差し込む構造になっています。
昭和の雰囲気が残る空間です。
浜松駅の西側の千歳町の一画は大規模な飲食街です。ピンサロと思われる風俗店が多数あります。
派手な看板が人目を引きます。
風俗に栄養ドリンクはかかせません。
女の子からのメッセージ。
ソープランド街の南隣にあたる京町に、スナックや小料理屋が密集した一画があります。このあたりに青線があったとの説*1 もあります。
料理屋の看板が残っています。
建物の左側を回り込んだあたり。
「貸部屋あります。」の看板。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005) P.316
今回は、小岩(東京都江戸川区)の町並みと風俗を散歩します。
JR小岩駅南口を出てすぐ左手に地蔵通りの入口があります。
日本語、中国語、英語で書かれた客引き禁止看板。地蔵通りにはこの看板が10ヶ所近くに設置されています。
狭い道幅の路地に飲食店や風俗店が建ち並ぶ繁華街です。路地はゆるやかに曲線を描いていて、この写真のようなY字路もあります。
古い商店の建物と客引き禁止看板。
五反田の駅のガード下は、立ち飲みやが多く、サラリーマンたちの憩いの場となっているようです。中でも、池上線のガード下は、絵になる風景がひろがっています。
路地の入口の角の立ち飲み屋さん。
路地には、居酒屋などが建ち並びます。
逆方向から見たところ、向こう側にソープランドの看板が見えます。
中ノ町飲食街の中ほどに、直角に交わる形で浮世小路があります。
小路への入口の看板。花魁の絵が描かれています。
居酒屋やスナックの店舗が並んでいます。
入口の看板を内側から見たところ。花魁が服を脱いでいます。浮世小路から帰るときは、脱いだ花魁が見送ってくれるという趣向のようです。
甲府駅の北側の朝日町に、飲食店街の「新天街」があります。
飲食店の看板が連なります。
飲食店街全体が、アーケードになっています。
横から見たところ。3階建てです。
今回は、甲府(山梨県甲府市)の町並みと風俗を散歩します。
甲府駅前の「電化ビル」脇に飲食街だったと思われる一画が残っています。入口のアーチに今でも残る蛍光灯が印象的です。
角が丸みをおびた建物。
飲み屋街だった建物は、現在は、片側に残っていませんが、かつては両側にあったのかもしれません。
周辺は、近代的なビル街です。
呑んべ横丁のゲートをくぐると、古い建物があります。
朽ち果てた消火器箱。箱の内側にも「消火器」と書いてあります。
横丁のあちこちに消火器箱があります。
路地にある消火器箱は、状態が良く綺麗です。
今回は立石(東京都葛飾区)の町並みと風俗を散歩します。京成電鉄立石駅を降りてすぐの所に、飲み屋街があります。
狭い路地に飲み屋が密集している一画があります。
歴史を感じる看板。
ハートのマークの扉のお店。
蕨駅東口の駅前ロータリーに、「飲食街」と書かれたアーケードがあります。
飲食街の中央部にそびえる飲食専門ビル。スナック・パブが大半を占めていて、風俗ビルと言ってもいいくらいです。
スナックなどが入っている古い建物。ゴチャゴチャ感が何ともいえません。
複数の風俗店が入るビルの1階。
今回は、木更津(千葉県木更津市)の町並みを散歩します。
駅前から西にのびる富士見通りから路地を入ったところに、昭和の面影を残す飲み屋街があります。
路地の両側にスナックが建ち並んでいます。
明るく楽しい店。
風俗営業(バー)のプレート。
駅から南側に徒歩10分ぐらいのことろにある堂前町に、盛り場があります。
レトロな建物の居酒屋。
中華店などが入る長屋風の建物。
赤線研究家の木村聡さんは、堂前町の盛り場について、「赤線地帯の一つだったのではないか。」と推察しています。*1
ある店の入口付近。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.104
整備された新庄駅前(西口)から徒歩3分ほどのところ(若葉町のあたり)に、飲み屋街があります。
大きなアーチがあります。なぜか道路に対して横向きに設置されています。ビール会社の看板が賑やかです。
3階建ての建物もあります。
路地は、昭和の雰囲気が漂っています。
新潟港に近い山ノ下に昭和の雰囲気の残る飲み屋街があります。
「Bar」の文字がかすかに残っている店があります。
裏側の路地。
装飾が施されたドアと窓。
錦糸町は、競馬の町です。場外馬券売場WINSがあり、中央競馬のある日は近くの道路は歩行者天国になります。
歩行者天国の歩道は、お酒を飲む人たちで、活気にあふれています。
路地にも立ち飲み屋があります。
「競馬中継」の看板のある立ち飲み屋。
今回は飯田(長野県飯田市)の町並みと風俗を散歩します。
昔から「飯田の町は女の町」と言われていただけあって、大正年間から昭和初年にかけ人口2万人たらずのところに芸妓が380人、料理屋に働く人500人、娼婦など500人、妾などを合わせると、相当なものだったそうです。*1
現在の繁華街は、駅の南東側に広がっていて、道路は格子状に整然と区画されています。駅前の観光案内所で受け取った観光地図に「くつわ小路」と書かれているのが目にとまったので、まず、この界隈を散歩してみます。
情緒のある料理屋風の建物が残っています。
小路の片側は崖になっています。
向こう側に見えた建物。こちらから見ると5階建てのようにも見えます。
【参考文献】
*1 村沢武夫:飯田情話(南信州新聞社,2006)P.57
西堀地区は、その名の通り、松本城の西側の堀の外側に置かれた町ですが、現在は、スナックなどが建ち並ぶ繁華街となっています。その中でひときわ目立つ存在の古い3階建ての建物がありあす。
建物横の看板。
裏側から。
1階の通路。
近代公娼制度に基づき、明治10年に横田遊廓が建設されましたが、その陰で、裏町(松本城の東隣)などに芸者置屋街がありました。
西堀地区には、昭和の初期の頃から私娼窟があり、戦後は「特殊飲食店」として政府が認める「赤線地域」となり、10軒ほどの店がありました。
昭和31年の売春防止法が制定以降、西堀地区は夜の食堂街として栄え、暴力バーや暴力団の事務所が入り込みました。それに対して、住民たちの間で暴力追放運動が起こりました。*1
【参考文献】
*1 松本女性史の会:”買春”許すまじ(銀河書房,1984)P.17-P.18
新宿駅前に「思い出横丁」、「やきとり横丁」と看板が掲げられた飲み屋街があります。昔は「しょんべん横丁」と呼ばれていました。
もつ煮がおいしそうな飲み屋や、やきとり屋が軒をつらねています。
線路沿いの横丁は、「やきとり横丁」と呼ばれています。こちらは、明るい雰囲気です。
横丁を横断する狭い路地。人ひとりがやっと通れる幅です。
【参考文献】
*1 泉麻人:青春の東京地図(晶文社,2001)P.209