三本木(東三番街)昭和40年代に発達した呑み屋街

大正初期以降、戦時中を除き昭和三十年代中期まで、花柳街の老舗が繁栄しましたが、昭和40年代になると、キャバレー、スナック、バー等の登場となり、呑み屋街が発達しました。*1
その中で、東三番街は、現在も残る呑み屋街です。写真右側の焼肉の「食堂園」は、1977年の住宅地図*2 にも掲載されている店です。

カラフルなスナックの店舗が建ち並びます。

看板が密集。

反対側の入口。一方通行の出口です。

参考文献

*1
江渡武多朗十和田市流通業界今昔物語附・十和田市流通業界のぞきみて歩きの記 皆さんの新聞社1976
P.60-P.61 飲み屋街のビックスリー
 戦後間もない頃、浜田恵美子女史が、京都、大阪の美人ホステスを動員して産馬通りに「民謡酒場」を開業…
*2
日興出版社十和田市住宅地図日興出版社1977
P.27 産馬通り。東三番街。

参考記事

※1三本木(産馬通り)料亭「一心亭」跡地。町の中心街。

三本木(産馬通り)料亭「一心亭」跡地。町の中心街。

三本木町(現在の十和田市)は馬産の町として知られ、に、明治17年(1884)に陸軍省軍馬育成所が設置され、馬せり(馬市)のときは、まるでお祭りのように人が集まり、周辺の旅館・商店は産馬で潤いました。馬主は、料亭に上がり込み、百円の札ビラを切るので料亭の主人は釣り銭に困るほどでした。*1
産場通りは、町の中心街で、代表的なものに、一心亭(産馬通り)、忍亭(五丁目東裏)がありました。*2

当時、本通り現東映付近に料亭「一心亭」がありました。*3
現在、その面影はありません。
「一心亭」は、魚屋の「一心太助」からとって「一心亭」と名付けられました。*4

「産馬通りでサンバを!」というアイディアで、毎年、「十和田サンバカーニバル」が開催されています。

産馬通りから北へ入った通りは、かつての料亭街でした。

参考文献

*1
むつ小川原産業活性化センターむつ小川原ガイド馬と歩む奥州路むつ小川原産業活性化センター リンク
馬市と産馬通り  馬産の町として知られていた十和田市(当時は三本木町)に、陸軍省軍馬育成所が設置さ…
*2
江渡武多朗十和田市流通業界今昔物語附・十和田市流通業界のぞきみて歩きの記 皆さんの新聞社1976
P.15 料亭方面
料亭方面を探訪すると、代表的なものに、一心亭(産馬通り)、忍亭(五丁目東裏)があった。共…
*3
日刊東北社写真集「なつかしの三本木」 のしおり日刊東北社1977
P.10 ◎料亭一心亭 今は裏手にあるが当時本通り現東映付近にあった一心亭。 ◎島田楼 元新地通り現西十…
*4
太素顕彰会十和田(旧三本木)開拓の秘話太素顕彰会1986
P.32 「一心亭」は、新潟の方の人で、舟で料理か何かの商売をしていたと言いますが、三本木に来て、その…

参考記事

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三本木(東三番街)昭和40年代に発達した呑み屋街

三本木(国際会館パチンコ中央店)1950年創業。2階は「三十番街」。

十和田市稲生町の繁華街。道路沿いにレトロなパチンコ店。

同じビルにスナックや飲食店も同居しています。

ビルの2階は、「三十番街」という飲食街になっています。

1951年創業。

参考文献

参考記事

三本木(三本木町遊廓跡地)「新地通」と書かれた電柱番号札。

今回は、三本木(青森県十和田市)の町並みを散歩します。
「全国遊廓案内」*1 によると、三本木町遊廓は、三本木町新地(しんち)に、貸座敷が3軒ありました。昭和29年の地形図*2 を見ると、西一番町の理念寺(写真右側)の西側に「新地」の記載があり、昭和9年の警察関連の資料*3 には、三本木町の貸座敷として、金助屋、島田楼、近盛楼の3軒が記載されています。

この付近には、「新地通」と書かれた電柱番号札が広範囲に分布しています。

当時、「新地通り」という通り名が、現在の西十一番町に存在し、そこには島田楼がありました。*4

西十一番町付近。

参考文献

*1
日本遊覧社全国遊廓案内日本遊覧社1930 リンク
三本木町遊廓
P.51  三本木町遊廓は、青森県三本木町新地にあつて、東北線古間木駅で十和田鉄道に乗換へ三本木駅で下…
*2
地理調査所三本木 応急修正版 (五万分一地形圖 ; 八戸 13號)地理調査所1954
理念寺の西側、北園小学校の東側に、「新地」の記載。
*3
中村元吉警察史余話第一集売春三百年史中村元吉1959
昭和九年公娼廃止時の諸統計 三本木町
屋号  氏名   娼妓数 三本木 金助屋 大坂ミヨ 二 島田楼 昆ソメ  二 近盛楼 武部サシ 三 …
*4
日刊東北社写真集「なつかしの三本木」 のしおり日刊東北社1977
P.10 ◎料亭一心亭 今は裏手にあるが当時本通り現東映付近にあった一心亭。 ◎島田楼 元新地通り現西十…

参考記事

青森(旭町の旅館跡)旭町遊廓跡地。「旭旅館」の屋号が残る建物。

かつて旭町遊廓があった青森市旭町1丁目。
戦後は、遊廓はカフェーや料理屋となり「赤線」地帯として残存しましたが、昭和33年に売春防止法が施行。遊廓は旅館や居酒屋となりました。今は当時の面影はほとんどありません。*1*2
「旭旅館」の屋号が残る建物。

現在は、企業の事務所として使われているようです。

元旅館「豊川」。*3

腰廻りには、鮮やかな青色の石材。

参考文献

*1
中園裕青森・東津軽今昔写真帖 : 保存版郷土出版社2010
P.32 明治43年の大火で柳原(現・港町)にあった遊廓は全焼、その後、旭町に復活する。戦後、…
*2
青森市常盤町町会常盤町発展史町会創立六十周年記念青森市常盤町町会1986
P.15-P.17 旭町一帯の発展のきっかけとなったのは、明治43年の青森大火である。当時堤川端柳原にあった遊…
*3
東交出版社最新青森市住宅明細図東交出版社1966
P.59 宝来町。旅館が密集している一画。旅館吉福、旅館第二吉福、旅館第三吉福、みやぎ荘(み…

参考記事

青森(煮干しラーメンの店)青い森鉄道のガードをくぐった道路沿い。

青森市街を南下する旭町通り。青い森鉄道のガードをくぐって約200m。道路沿いにラーメン店があります。

とにかく大きな文字です。木村屋ラーメン。

外は氷点下ですが、店内はしっかり暖房がきいていてポカポカです。

煮干しのだしがきいたラーメンは350円。大盛りを頼んでも450円です。

参考文献

参考記事

青森(中央古川通りの風俗店)呑み屋横丁の1階。

中央古川通り沿いの呑み屋横丁※1 の1階の風俗店。看板が密集しています。

サロンタイガー。

女性募集の看板。

路地の電飾看板。

青森(中央古川通り沿いの横丁)商業施設「フェスティバルシティアウガ」の東側。

今回は、青森(青森県青森市)の町並みを散歩します。
駅前の商業施設「フェスティバルシティアウガ」の東側の商店街「中央古川通り」沿い。1階に風俗店が入る横丁があります。

建物の右側の路地を進むと、スナックが2軒あります。

左側の通り。

奥まったところにあるスナック。

参考文献

参考記事

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青森(中央古川通りの風俗店)呑み屋横丁の1階。

武雄(スナック店)温泉街

武雄温泉の温泉街の北東側にスナック街があります。温泉街の中心部からは少し離れた場所です。

静かな住宅街の中のスナック。

フロンティア横丁。

ピンク色の建物。

参考文献

参考記事

武雄(旅館「白さぎ荘」)現在も残る太鼓橋

かつての満州楼の旅館「白さぎ荘」。旅館内部には当時の面影が残っています。

中庭に架かる太鼓橋。遊廓の特徴的な構造を残しています。終戦の1年ほど前、満州楼は海軍の病舎になったときの「兵隊さんがお礼に毎朝、太鼓橋を拭き掃除してくれて、お陰で漆がはげた」という話が旅館に伝わっています。*1

中庭を有しているのも遊廓の特徴的な構造です。ここからも太鼓橋が見えます(写真右下)。

宿泊した部屋。

参考文献

*1
朝日新聞社染めた看護服 太平洋戦争下、国内医療の現実朝日新聞.西部版朝日新聞社2015.8.2
P.4 終戦の1年ほど前。武雄の女郎屋さんを全部、海軍が借り上げて病舎にしていましたですね。私の病舎は…

参考記事

※1武雄(旅館「白さぎ荘」)満州楼跡