石巻(石巻遊廓跡地)明治中期に「花街」となり「旭町」と改名。

石巻市旭町は、江戸時代は蛇田町と呼ばれ、石巻の玄関口として大いに繁盛しました。*1
大正14年10月28日の「大日本職業別明細図 石巻町」*2 によると、現在道路となっている(写真の左右)の南側入口あたりには、運河があり、それを渡る橋がかけられていました。

同じ場所を東側(運河があったと思われる場所)から見たところ。(写真の左奥は、久円寺がある方向)

明治の中期になると、蛇田町ならず隣の横町一帯は「花街」として生まれ変わります。蛇田町は酔客で賑わうようになりました。「花街」ともなれば蛇田町では無酔に聞こえるため、旭昇天の繁栄が期待できる「旭町」と改名されました。*1

北側から見た旭町。

参考文献

*1
紫桃正隆大河の四季 : 石巻地方の史談と遺聞石巻の玄関口、蛇田町盛衰記宝文堂出版販売1984
P.105 蛇田町の宿駅としての機能は、中世葛西氏の時代にすでに果たされていた。 P.106 寛…
*2
大日本職業別明細図 宮城県(大正14年発行)東京交通社1925
石巻町 「旭町」「遊廓」の記載あり。 (遊廓の南側は運河が流れており、橋がかかっている。)

参考記事

石巻(マッサージ店)美容室のビル。入口にウルトラマン。

中央一丁目の歓楽街。飲食店に混じって、青色の美容室の建物があります。

2階には、マッサージ店の看板。

1階の入口。

美容室の入口には、ウルトラマン。

参考文献

参考記事

石巻(日活パールシネマ)三本立ての看板が今も残ります。

中央一丁目の歓楽街に、成人映画館の「日活パールシネマ」が、佇んでいます。

現在は、映画上映は終了しています。三本立ての看板が今も残ります。

入場券売り場。

曲がりくねった路地のような通路を進むと映画館の入口です。

参考文献

参考記事

石巻(「ミニサロン」の看板)美容室の隣。歓楽街の西側。

中央一丁目の歓楽街の西側。美容室の隣にサロンがあります。

店の入口。

「ミニサロン」と書かれた電飾看板。

逆方向から。

参考文献

参考記事

石巻(割烹「滝川」)「縮図」のモデルの釜飯屋。

石巻市中央1丁目にある割烹「滝川」。釜めしが名物です。地元の方の話によると、徳田秋声の「縮図」のモデルとなった店だそうです。

「縮図」には、石巻の釜飯屋が登場します。*1

落ち着いた店内。

「とり釜めし昼膳」を注文。

参考文献

*1
徳田秋声縮図岩波書店1971
釜飯屋の場面P.162岩波書店1971
P.184 話がはずんでいるところへ、今日も罐詰屋の野良息子が顔を出し、ちょっとふてぶてしくも見える青年…

参考記事

石巻(徳田秋声「縮図」の舞台)かつての料亭街。

石巻は、自然主義文学の最高峰・徳田秋声「縮図」の舞台となった町です。*1
小説の中では、I町として登場します。*2
中瀬の西側は、料亭などが散在する石巻市街の中心部でした。*3

通りに面した飲食店。

飲食店の建物脇に、「『縮図』のおもかげ」と題する、案内板が建てられています。

案内板。

参考文献

*1
橋本晶写真集明治大正昭和石巻P.126国書刊行会1980
「縮図」のおもかげ 写真の説明: 仲町(中央二丁目)の「中大黒」の抱妓銀子と近郷の豪農の長男倉持と…
*2
徳田秋声縮図岩波書店1971
I町(石巻町)の描写
I町では、みんながおおぜい迎えに来ていた。その後間もなく市政の布(し)かれたこの町は、太…
*3
大日本職業別明細図第358号 宮城県東京交通社1934
中瀬の西に、春潮楼、満壽田、滝川、八幡家、鳥文、ことぶき、ひよし、亀泉、の料亭の記載あり。

参考記事

石巻(中瀬)かつては割烹も営業していた観覧場所。

今回は、石巻(宮城県石巻市)の町並みと風俗を散歩します。
石巻の中瀬(なかぜ)は、北上川河口にある中州で、石巻全体のイメージを形づくっています。

西内海橋から住吉町方面(北側)の遠望。かつては、このあたりに、川に張り出したテラスを持つ中瀬の割烹「観月」が営業していて、絶好の観覧場所でした。*1

住吉公園付近から見た中瀬。

現在、中洲には、石ノ森萬画館が建設されています。

参考文献

*1
邉見清二石巻・東松島・女川今昔写真帖郷土出版社2009
P.31 写真:中瀬から望楼方面を望む(昭和37年) 東内海橋上から中瀬の割烹「観月」越しに住…

参考記事

立町(紫稲荷大明神)寄進者のほとんどは接客業関係。

戦後の本櫓町丁には、料亭、芸者置屋が六十軒も並び、花柳界の中心町としての面目を保っていましたが、それも徐々に減り、平成不況が廃業に拍車をかけ、面影は薄れました。*1
現在は、隣接する立町のラブホテル街がこの付近にも進出し、新旧が混在した町並みになっています。

本櫓町丁のかつの本材木町側(西側)に、紫稲荷大明神があります。

奉納額。

寄進者のほとんどは、接客業関係です。

【参考文献】
*1 河北新報出版センター:忘れかけの街・仙台(河北新報出版センター,2005)P.36-P.37

参考文献

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立町(本櫓丁)藩政時代は藩士の屋敷町。明治維新後に花柳界の街。

今回は、国分町(仙台市青葉区)の町並みを散歩します。
本櫓丁は、藩政時代は藩士の屋敷町。それが明治維新後に花柳界の街に変わりました。*1

今も面影は残っていますが、最盛期は昭和40年頃でした。*1

料理屋だったと思われる建物。

現在も営業する割烹「天ぷら三太郎」。


参考文献

*1
河北新報出版センター忘れかけの街・仙台河北新報出版センター2005
本櫓丁
P.36 藩政時代は、藩士の屋敷町。それば明治維新後に花柳界の街に変わった。今も面影は残るが、昭和四十…

参考記事

原ノ町(遊廓跡地)しらゆりロード。スナック店や飲食店。

原ノ町では、明治の半ばころから、酌女(のちの酌婦)が現れ、その後、芸妓や娼妓が集まってきては花柳街をつくりあげていました。大正7年の「相馬原町案内」では、料理店4軒、芸妓屋10軒(松亀楼、栄華楼、他)が紹介されています。*1

大正15年の大日本職業別明細図*2 には、松亀楼、栄華楼のおおよその位置が記されています。昭和10年(1935年)の「原町地区商店街地図」と1971年の住宅地図*3 の両方の地図に栄華楼、会津そば屋、小柳屋などが記載されていて、それらの位置関係から、遊廓(松亀楼、栄華楼)は、山家医院があった場所にあったと思われます。現在は、数軒のスナック店や飲食店が建ち並んでいます。(写真の左側が山家医院跡です。)

山家医院は、現在は更地になっています。

この付近の通りは、現在は「しらゆりロード」と呼ばれているようです。

参考文献

*1
南相馬市教育委員会博物館市史編さん係原町市史.第11巻(特別編4)旧町村史南相馬市2008
花柳界と料理店
P.149 明治元年(1686)の戊辰戦争で、領内に新政府軍が多数入ってきたことにより「遊女」が求められ、小…
*2
南相馬市教育委員会博物館市史編さん係原町市史.第11巻(特別編4)旧町村史南相馬市2008
原町地区商店街地図昭和10年 地図で見る昔のはらまち
栄華楼、会津そば屋、小柳屋などの記載。
*3
ゼンリン原町市・相馬市・小高町・鹿島町 1971ゼンリン1971
P.23-P.24 栄華楼、会津そば屋、小柳屋などの記載。

参考記事