能代(柳町)八幡神社の参道をはさんで二軒の料亭が対峙。

今回は、能代(秋田県能代市)の町並みと風俗を散歩します。
能代の遊女は、はじめのころは港に近い清助町や新町にありましたが、元禄のころに柳町に移りました。*1
八幡神社の参道をはさんで二軒の料亭が対峙しています。左には「全国花街めぐり」に代表的料亭として紹介されている「金勇」があります。*2

「金勇」の向かい側の料亭「魚松」。

柳町は、明治以降二回の大変革がありました。一回目は、明治45年7月の柳町大火とそれに続く遊廓の新柳町への移転(その後柳町は花街に変貌)。二回目は、平成元年の都市計画事業に伴うイオン(ジャスコ)の進出による町の変貌です。現在のイオン能代店の北側には、かつては、粋な看板が特徴の料亭の「二葉」、湯の色が赤いのが特徴の「アミダ湯」などがありました。*3

かつての善六小路。善六とは、旧羽後銀行(現在の北都銀行)能代支店の西向かいにあった遊女屋の屋号でした。*3

【参考文献】
*1 北羽新報社:能代港物語(北羽新報社,1974)P.67
*2 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.64-P.65
*3 能代市:のしろ町名覚(能代市,1992)P.91-P.96

参考文献

参考記事

横手(馬口労町の禁止看板)誘惑にかられる溝のような形状。

馬口労町の小路。

犬糞看板。

通りに面したところにある立ち小便禁止看板。

心理的に立小便をしたくなる誘惑にかられる溝のような形状。

参考文献

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横手(馬口労町のスナック街)スナックや居酒屋が密集。

馬口労町の南西側に、スナックや居酒屋が密集する居酒屋あがあります。

横手町市街案内圖( 昭和8年刊)*1 によると、この場所に料亭と思われる「花月」がありました。

通りはカーブを描きながら続きます。

脇道のスナック。

【参考文献】
*1 横手市史編さん近代・現代部会近代班:横手絵地図資料(横手市,2003)横手町市街案内圖

参考文献

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横手(馬口労町の料理屋街跡地)公娼廃止後。

横手にいつごろ遊廓ができたのかは不明ですが、明治6年、娼妓の稼業が許可になり、翌7年に娼妓規則が出されました。また、明治40年の「横手案内」に、7軒の貸座敷が載っています。その後、昭和3年に県議会が公娼廃止を決議、貸座敷は廃止、料理屋となりましたが、その料理屋は娼妓を酌婦としておき、酌婦は酒の酌をするだけで、芸者のような歌ったり踊ったりはできませんでした。これらの料理屋は馬口労町(現在の中央町4~7)にありました。*1

横手町市街案内圖( 昭和8年刊)*2 によると、「千歳」「水月」「大黒屋」などの料理屋らしき店の屋号が確認できます。

夜の様子。

馬口労町の看板。

【参考文献】
*1 伊沢慶治:横手の歴史(東洋書院,1979)P.190-P.191
*2 横手市史編さん近代・現代部会近代班:横手絵地図資料(横手市,2003)横手町市街案内圖

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横手(「きみまち橋」の遺構)橋を割ると馬口労町。

現在は、暗渠となっている二ノ堰川の上流に、「きみまち橋」の遺構が保存されています。場所は、現在の「横手市ふれあいセンターかまくら館」の建物の脇です。

この橋は、昭和30年に旧農業用水路「二ノ堰」に架けられたコンクリート製の橋でした。(案内板より)

当時は、この橋を割ると両側に遊廓・飲食店が建ち並ぶ横手市唯一の歓楽街(馬口労町)だったため、別名親不孝橋とも言われていました。コンクリート製の橋はまだ珍しく、馬口労町にモダンな橋が架かったという話題性、また、市民公募により命名された粋な橋名から、当時を知る人には忘れられないドラマを持ったロマンチックな橋でした。(案内板より)

「きみまち橋」を渡ると馬口労町(写真左奥)です。

参考文献

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横手(二ノ堰川に架かる橋)木製の欄干。二ノ堰川の痕跡。

今回は、横手(秋田県横手市)の町並みと風俗を散歩します。
馬口労町の近く。現在は暗渠となっている二ノ堰川に橋が残されています。「赤線跡を歩く 完結編」*1 に紹介されている「きみまち橋」から約200mほど下流の橋です。

橋の欄干部分は、木製です。

反対側(下流)は、二ノ堰川の痕跡が残されています。

写真奥に見える茶色の建物は、「横手市ふれあいセンターかまくら館」です。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.71

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角館(藤田ツル寄進の玉垣)神明社。

西勝楽町の南側にある神明社は、角館の総鎭守です。

石垣柵全部寄進と彫られた玉垣。

旧遊廓の西勝楽町の中で最も繁盛したのは竹屋で、常光院入口の北隣に建ち、この町で初めての木造三階という高楼でした。竹屋の楼主の藤田ツルは、太っ腹で温情の人でしたが、営業に逆らう行為に対しては厳竣でした。*1

晩年のツルは、因果な商売の罪滅ぼしと考えたのか、神社仏閣その他に多くの寄付を続けています。*1

【参考文献】
*1 小林定静:角館風土記(秋田文化出版社,1986)P.104-P.114

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角館(富士通名店街)モダンなデザインのスナック店。

角館の市街にある富士通名店街。

モダンなデザインのスナック店。

スナック貴江子。

長さは100mに満たない小規模な飲食街ですが、昭和の雰囲気が残っています。

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角館(割烹「登喜和」)創業の大正時代は遊廓。

角館の遊廓があった西勝楽町(通称西街)で、その区域は、北は報身寺(写真右手前のあたり)の前、南は、本明寺の前のあたりでした。*1

割烹「登喜和」。

創業の大正時代は遊廓でした。(案内板より)

現在は料亭として営業中です。

【参考文献】
*1 小林定静:角館風土記(秋田文化出版社,1986)P.101-P.102

参考文献

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角館(ママ・ジューサー)ショーウィンドウに、ペコちゃん人形。

商店街に面した電器屋さん。

ショーウィンドウに、ペコちゃん人形。その隣に「ママ・ジューサー」の箱が置かれています。

アサヒ玩具の創業は、戦後の昭和23年。昭和44年に業界初の電源を使用し、実際に料理が出来るという「ママレンジ(3900円)」を発売。玩具の歴史に新しいページを加えました。次いで、昭和49年に、押すだけで水の出る「ママポット」、昭和50年に、コックをひねると本当に水が出る「ママナガシ」、続いて、「ママクッキー」「ママウォッシャー」を発売、ママシリーズを確固たるものとし、業界では”リビングトーイ”という新語が生まれました。*1

「ママ・ジューサー」も、そのシリーズの1点です。
本物のジューサーやミキサーのように、野菜や果物を圧搾・粉砕してジュースを作るのではなく、水を混ぜるだけの遊びです。(箱の説明書きより)

【参考文献】
*1 柳谷省吾:実業の世界(1979.4)P.118-P.120 モスクワ五輪のマスコット玩具で国内独占販売の”金メダル”を獲得

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