お堀端通りから小田原城方面に向かった道路沿い。

町中華の「日清亭」。

年季の入った食品サンプル。

オムライスの大盛とビールを注文。
これまで、何度も巨大オムライスにチャレンジしてきましたが※1※2※3、その中でも巨大さでは群を抜いています。

お堀端通りから小田原城方面に向かった道路沿い。
町中華の「日清亭」。
年季の入った食品サンプル。
オムライスの大盛とビールを注文。
これまで、何度も巨大オムライスにチャレンジしてきましたが※1※2※3、その中でも巨大さでは群を抜いています。
小田原市中町の住宅街。
営業を始めてから約80年になる中嶋湯があります。*1
小田原の銭湯では最後の一軒となりました。
銭湯の側面。
入口のタイル絵。
小田原生まれの小説家の川崎長太郎は、昭和28・9年頃、カフェーや花街を題材にした作品(「抹香町もの」)でブームを巻き起こしました。*1
海岸寄りの場所に文学碑が設置されています。
代表作「抹香町」からの一節(冒頭部分)。
「屋根もぐるりもトタン一式の、吹き降りの日には、寝ている顔に、雨水のかかるような物置小舎に暮らし、いまだに、ビール箱を机代わりに、読んだり書いたりしている。」*2
防潮扉の向こう側は海です。
P.81
昭和13年に小田原へ引き揚げてくると、物置小屋に住み、みかん箱を机に…
P.53
川上竹六も、既に五十歳であった。弟がひとりあるだけで、女房子供なし…
本町2丁目の宮小路の風俗店のある通り。
「飛び出し坊や」の看板が設置されています。
今から50年前の1973年、高度経済成長期にあって子どもの飛び出しによる事故も多発していた状況を心配した滋賀県旧八日市市(現・東近江市)の社会福祉協議会が、「久田工芸」の久田泰平さんに声をかけ、日本初の「飛び出し坊や」が誕生しました。*1
作者の久田泰平(ひさだやすへい)さんのサイン。
浜町2丁目のかつての旅館街※1 の近く。
緑色のトタンの塀。
懐かしい便所煙突。汲み取り式便所が主流だった時代には、よく見られた煙突です。
北側の通りから。
かつて、抹香町(まっこうちょう、現在の浜町2丁目)と呼ばれた旅館街。
現在も旅館だった建物が残っています。
こちらは、「石川屋」という屋号の旅館だったようです。*1
抹香町に自然に発生した私娼が昭和初期、移転し、これを俗に新開地といいました。※1
浜町1丁目の通り。
「十王町・抹香町」の石碑が建っています。
江戸時代、東海道に散在していた遊女屋は、明治36年、初音新地※1 に移転しましたが、今まで来やすく遊んでいた人たちの中には重苦しく感じ、遊興費も高かったので、それらの人々のために自然に発生したのが抹香町の私娼でした。昭和初期、新宿のはずれの元ゴミ捨て場であった地域に移転し、これを俗に新開地といいました。*1
川崎長太郎さんの抹香町は、この新開地のことですが、昔ながらの抹香町という名で呼ばれました。芸者などの揚げ代を線香代といいますが(線香をとぼして時間を計ったため)、抹香町とはまことにそれらしい名前です。*1
川崎長太郎さんの抹香町
江戸時代、東海道に散在していた遊女屋は、明治36年…
今回は、小田原(神奈川県小田原市)の町並みを散歩します。
小田原の遊女屋は江戸時代の飯盛女に始まるもので、明治35年まで東海道筋に散在していました。泉鏡花の「熱海の春」(明治35年1月)*1 には、「31日、小田原見物、遊女屋が軒を並べてにぎやかである。」とありますが、明治32年、遊女屋を旧古新宿(こしんしく)の海側の一角の指定地に集めるという措置がとられたばかりで、「熱海の春」が描かれた明治35年には、古新宿にすでに遊廓ができかかっていました。ところが、同9年9月28日、小田原一帯を大津波が襲い、この津波でほとんどできあがっていた遊女屋は跡たかもなく押し流されてしまい、指定地替えが行われ、新玉4丁目の一廓(初音新地)が指定されました。*2
昭和4年発行の「小田原全図」※1 によると、初音新地の北側には川が流れていました。現在は暗きょになっています。
暗きょは西側へ伸びています。写真左側(南側、現在のスポーツプラザ神奈中、旧神奈中ボウル*3)が遊廓があった側。
「初音」の電柱プレート。
P.281 現神奈中ボール、新玉交番のあたり。
三十日*2
初音新地
小田原の遊女屋は江戸時代の飯盛女に始まり、明治35年ま…
西より、金晶、宝来、東海、松本、菊本…参考記事
※1小田原(郷土文化館)小田原を紹介する資料の展示。初音新地。この記事を参照している記事
相模沼田駅近くの交差点の角にある大衆食堂の「てっぺん」。
「お食事処」と書かれた暖簾。
テーブル席が中心です。
海鮮丼を注文。ものすごいボリュームでした。
相模沼田駅の西側にある西念寺。門前に地蔵が建っています。
この地蔵像は、初音新地※1※2 の菊池楼主の次男が関東大震災で命を落としたのを悼み、七回忌に建立されたものです。*1
台座の後ろ側。
「小田原町初音新地菊池楼主」と刻まれています。
P.3
この地蔵像は、安藤政吉の次男が関東大震災で命を落としたのを悼み、父…