目黒(かむろ坂)少女の銅像。遊女・小紫の物語。

目黒不動交差点から武蔵小山方面へと抜けるゆるやかな坂道は、「かむろ坂通り」と呼ばれています。

江戸前期の延宝7年(1679年)、浪人・平井権八が辻斬り強盗の罪で鈴ケ森刑場において処刑されましたが、権八と恋仲となっていた遊女・小紫は、これを悲しんで自害しました。このとき、帰らない小紫を心配した「かむろ」がその帰り道にならずものに襲われそうになり、桐ケ谷二つ池に飛び込み自害しました。これを近くの人があわれんだことから「かむろ坂」の名称がつきました。

坂の途中にある公園は、かむろ坂公園と名づけられています。

「かむろ」にちなんだものでしょうか。少女の銅像があります。

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目黒(不動湯)目黒不動尊の近くにあります。

銭湯の「不動湯」。その名の通り、目黒不動尊の近くにあります。

鬼瓦には「不動」の文字。

堂々とした建物です。

天井が高く、柱も立派です。

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目黒(目黒競馬場跡地)競馬場の外周だったカーブを切る道。

目黒競馬場は、明治40年に開設され、昭和7年に第一回日本ダービーが開催されました。昭和8年に府中に移転しましたが、現在も競馬場の外周だったゆるやかなカーブを切る道が残されています。*1

バックストレッチ部分の直線を抜けたあたりに大きな桜の木のある公園があります。

この桜の木は、競馬場があった頃から生えていた木だそうです。当時の面影をしのぶことができます。

桜の由来。

【参考文献】
*1 赤岩州五:昭和・大正・明治の地図でいく東京懐かし散歩(交通新聞社,2009)P.44-P.47

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目黒(寄生虫館)巨大なサナダムシの標本。

目黒通りを大鳥神社から多摩大学目黒高等学校方面へ向かう坂道(金毘羅坂)を上る途中に、「目黒寄生虫館」があります。「目黒寄生虫館」は、昭和28年、亀谷了博士が開設した世界でただ一つの寄生虫の博物館です。

隠れたデートスポットとしても有名です。

2階の展示室の正面の壁には、巨大なサナダムシの標本(長さ8.8m)が展示してあります。このダナダムシの正式名称は日本海裂頭条虫といい、マス、サケ、ヤマメ類などを生に近い形で食べることによってそれらの魚にいる幼虫が人間の体内に入り、成長していくものです。*1

圧巻は、肥大した象皮病患者の陰嚢の写真です。象皮病はフィラリアという寄生虫が寄生することによって発症する病気で、江戸時代には全国的に分布し、葛飾北斎の版画や十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも登場します。西郷隆盛もこの病気にかかり、彼の陰嚢は大きかったといいます。*1

【参考文献】
*1 亀谷了:寄生虫館物語(ネスコ,1994)P.16-P.19,P.155-P.160

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目黒(エンペラー)ラブホテル史を塗り替えたホテル。

JR目黒駅から急な下り坂の行人坂を下ると、急坂が目黒雅叙園の入り口で終わって太鼓橋に出ます。目の前を流れる目黒川沿いには、桜並木の続く遊歩道が整備されていて、桜のシーズンには多くの見物客で賑わいます。
目黒川のほとりに、中世の城郭建築を模したラブホテルの「目黒エンペラー」があります。

昭和49年、「目黒エンペラー」の出現は、ラブホテル史を大きく塗り替えました。「目黒エンペラー」は、ラブホテルの代名詞となる画期的なラブホテルでした。外観だけでなく、内装もまた金をふんだんに使ったと言われ、仕掛け小道具も時代の先端をいくものでした。*1

当時の週刊誌やテレビは、競ってこのめずらしい豪華ラブホテルについて報じました。*1

ピンク映画もこのホテルを舞台に撮影され、また、テレビコマーシャルを行ったのもこの「目黒エンペラー」が最初でした。*1

【参考文献】
*1 保田一章:ラブホテル学入門(晩声社,1983)P.77-P.81

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目黒(テレクラ)乱立する看板。2階はマッサージ店。

今回は、目黒(東京都目黒区)の町並みと風俗を散歩します。

駅の北側に向かうとテレクラの看板が目に入ります。

1階のハンバーガーショップの入口の真横にテレクラの看板があります。テレクラは、会話を楽しむ場所として発祥しました。

2階はマッサージ店。飲食店などの看板が乱立しています。テレクラの入口は、このビルの左奥にあるようです。

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大洗(白ポスト)貼り紙が前面に貼られているのみ。

ひたちなか海浜鉄道の那珂湊駅。

駅前に白ポストがあります。

「白ポスト」と書かれた貼り紙が前面に貼られているのみです。

側面も裏面も真っ白。塗装を塗り替えた後、何らかの都合で文字が書けない状況となり、やむなく貼り紙をはったのでしょうか。

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大洗(スナック街)天満宮近く。カラフルな洋風の建物。

大洗の北側、那珂川を挟んだ対岸に位置する那珂湊。天満宮の近くにスナックの看板があります。

和風の佇まい。

対照的に、左側には、洋風のスナックが並んでいます。

赤、青、黄、カラフルです。

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大洗(祝町遊廓跡地)妓楼の「鹿島屋」跡地。

かつて祝町遊廓があった場所は、現在は住宅地となっていて当時の面影は残っていません。

祝町小学校(写真奥)の北側の十字路。この付近には、昭和3年頃に廃業した大和楼がありました。*1

元住吉楼(現在は空き地)と祝楼(写真奥の道路の向こう側)があったあたり。*1

力士の「鹿ヶ島」が創業した妓楼の「鹿島屋」は、現在の「シーサイドミニー」付近にありました。写真奥に見えるのは海門橋(かいもんばし)。

【参考文献】
*1 山形雄三:祝町昔がたり(山形雄三,1981)P.66-P.67

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大洗(鹿島屋大吉の墓)妓楼「鹿島屋」創建につながる相撲力士の立志伝。

祝町遊廓の有名な話の一つとして、妓楼の鹿島屋創建につながる一人の相撲力士の立志伝があります。寛政年間、那珂湊で相撲の巡業が開かれましたある日、会場に那珂湊の「樫村屋小重」というやくざの親分が会場に木戸銭も払わずに入場してきましたので、これを防ごうと鹿島出身の幕下力士「鹿ヶ島(鹿島屋大吉)」が大手を広げて立ちふさがり、力士対やくざの大喧嘩が始まりそうになりました。そこに那珂湊の廻船問屋の主人が仲裁に入り、大事には至らずにすみました。「鹿ヶ島」は十両まで昇進し引退しましたが、引退後は祝町にやってきて、喧嘩の仲裁に入ってくれた廻船問屋の主人を訪ね、資金を借りて当時売りに出されていた遊廓を買い取り、「鹿島屋」として創業しました。この鹿島屋大吉の墓は、現在、願入寺の本堂の右側にあります。*1

鹿島屋大吉の墓は、無縁仏の供養塔として利用されています。*1

墓の周りには多くの無縁仏の墓石が積まれています。

よくみると、「玄桃」、「紅葉」など、遊女や芸者の名が刻まれていることがわかります。*2

【参考文献】
*1 山形雄三:祝町昔がたり(山形雄三,1981)P.54-P.57
*2 大洗町史編さん委員会:大洗町史. 通史編(大洗町,1986)P.340-P.341

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