水間鉄道の終点の水間観音駅から、さらに南へ4Kmのところに遊女の墓があります。

トンネルから脇道を入った道路沿いにあります。

文化年間(1804年~1818年)この地で非業の死を遂げた遊女、千代の墓と伝えられています。伝説によれば、貝塚の遊女であった千代が、病気にかかって郷里の紀州へ帰る途中、この地で川面に写る自分の哀れな姿に落胆し、断食の末、命果てたといわれています。これを哀れんだ村人たちが墓をたて供養しました。

案内板に貝塚遊廓の写真が掲載されています。

水間鉄道の終点の水間観音駅から、さらに南へ4Kmのところに遊女の墓があります。
トンネルから脇道を入った道路沿いにあります。
文化年間(1804年~1818年)この地で非業の死を遂げた遊女、千代の墓と伝えられています。伝説によれば、貝塚の遊女であった千代が、病気にかかって郷里の紀州へ帰る途中、この地で川面に写る自分の哀れな姿に落胆し、断食の末、命果てたといわれています。これを哀れんだ村人たちが墓をたて供養しました。
案内板に貝塚遊廓の写真が掲載されています。
今回は、貝塚(大阪府貝塚市)の町並みと風俗を散歩します。
貝塚は、バレーボールの町として有名です。
写真の道路の左側にユニチカ株式会社(旧大日本紡績株式会社、ニチボー株式会社)の貝塚工場がありました。工場の前(写真右側)には商店街があって、ユニチカの従業員で賑わっていましたが、徐々に従業員の減少で賑わいを失っていきました。*1
ユニチカ工場の表門から事務所までの一画の土地と建物は市に寄贈され、貝塚歴史展示館として活用されています。*1
貝塚歴史展示館には、女子バレーボールチームの「ニチボー貝塚」が使用していたときの体育館の床板が保存展示されています。この体育館から回転レシーブが生まれ、1961年の欧州遠征で22連勝した日紡貝塚女子バレーボールチームは、「東洋の魔女」と呼ばれました。
【参考文献】
*1 伊藤伸史,川口義正,南川孝司:岸和田・貝塚今昔写真帖(郷土出版社,2008)P.36
遊廓があった新町は、1945年(昭和20年)の空襲により壊滅。終戦後、お茶屋さんが建ち、新町は復興しましたが、次第にすたれていきました。現在はビル街になっています。*1
新町の遊女にまつわる浄瑠璃などで有名な吉田屋の夕霧太夫ですが、舞台となった吉田屋は17代続きましたが、昭和34年にやめられました。吉田屋の跡の3分の1は、フーセンウサギ本社ビル(新町2丁目2-2)となりました。*2
最後まで残っていたお茶屋の「しづ家」も昭和62年に閉店となり、現在はマンションに建て替わっています(写真右側)。*2
「しづ家」の跡地の近くに、花街だった頃の雰囲気の残る石畳の路地があります。
【参考文献】
*1 中村哲:写真で見る消えた大阪の宝(日本機関紙出版センター,2010)P.84-P.85
*2 鈴木金子:私の見てきた新町(鈴木金子,2000)P.24,P.50,P.63
江戸時代、幕府から公認された遊廓は、大阪「新町」、京都「島原」、江戸「吉原」の3か所でした。その中でも大阪の新町が最も古いと言われています。単なる遊廓として利用されるだけでなく、武士や商人たちの社交場や商談場という使われ方もしました。*1
新町遊廓は、郊外に置かれたため、遊廓の揚屋の庭園はかなり広い面積を占めていました。庭園をつくって四季の変化を味わえるようにしていた点は、江戸時代らしい余裕でした。また、新町では、客寄せに桜が植えられていました。桜の咲く時分に、太夫と天神が町の中を着飾って練り歩いたので、見物人がそれを見ようと押し寄せました。*2
近松門左衛門の人形浄瑠璃「夕霧阿波鳴渡」は、ここを舞台にした名作で、ここに植えられた桜並木は「九軒桜堤」と呼ばれました。「新町九軒桜堤の跡」という碑が新町北公園の隅に建てられています。*1
「夕霧阿波鳴渡」は、新町の遊廓を舞台にした名作で、美しい遊女の「夕霧」に惚れて通いつめてスッテンテンになり、親に勘当されていた伊左衛門の物語です。
新町北公園のすぐ近くに、歌舞伎役者の中村鴈治郎(初代)の碑があります。中村鴈治郎は、新町遊廓の妓楼扇屋に生まれました。
【参考文献】
*1 中村哲:写真で見る消えた大阪の宝(日本機関紙出版センター,2010)P.84-P.85
*2 飛田範夫:グリーン・エージ(2003.9)P.42-P.45「都市における植物文化–江戸時代の大阪(5)新町遊郭の庭園 」
今回は、堀江(大阪市西区)の町並みと風俗を散歩します。
堀江の地は、かつては、東を西横堀川(埋立。阪神高速1号環状線北行き)、西を木津川、南を道頓堀川(西道頓堀川)、北を長堀川(埋立。長堀通)に囲まれた島の地域で、中央を東西に堀江川(埋立)が流れていて、「堀江」の地名の通り「水都大阪」を象徴する町でした。
北堀江に和光寺があります。
和光寺は、元禄11年(1698年)、堀江新地が開発されるときに建立されました。
堀江新地には遊廓があって、和光寺には、芸妓がお参りに訪れました。*1
当時、浄光寺にあったた銀杏の木の影が振袖姿の高島田(芸妓や遊女が好んで結った髪型)の髪型をした美女が手を合わせている様に見えたので、「娘銀杏」と呼ばれていました。1843年(天保14年)頃より、その影はあみだ池の方向を拝み、目は堀江の遊廓を見ているようだと人々は騒ぎ始めました。これに対し奉行所が銀杏の上半分を切り落として影が見えないようにしてしまいましたが、そんな頃、和光寺境内にあった銀杏の樹が花魁の頭のように茂ってきたので、「切り落とされた娘銀杏が花魁となって現れた。」と人々は驚き、以来、「花魁銀杏」と呼ばれるようになりました。*1
現在、名物の銀杏は幹を残すのみとなっています。
【参考文献】
*1 中村哲:写真で見る消えた大阪の宝(日本機関紙出版センター,2010)P.108
尼崎から出屋敷へ向かう通り。
旅館があります。
温泉マークの看板。昭和初期の「さかさくらげ(連込み旅館)」のようにも思われますが....
実際は、ごく普通の旅館です。
尼崎市記念公園近くの道路。
貼り紙が貼られた電柱があります。
「小便をさすな!」の貼り紙。
電柱の根元には小便除けと思われる柵がたてかけてあります。
今回は、尼崎の町並みと風俗を散歩します。
JR尼崎駅のエスカレータ。
エスカレータを登り切ったところに白ポストがあります。
目立つ場所で邪魔にもならない場所に設置されています。
味園ビルの東側の角には、キャバレー「ユニバース」のネオン看板が輝いています。
国内最大級のグランドキャバレー「ユニバース」は、平成23年3月15日をもって閉店しました。今後は、貸し会場、貸しギャラリーとして営業されます(貼り紙より)。
入口の装飾。
ビルの裏側には、応募の方の入口が残っていいます。
千日前二丁目一帯は、昭和の雰囲気の残る盛り場です。
その中心にある「味園ビル」には、サウナ、ホテル、宴会場、男の遊び場がそろった総合レジャービルです。
レトロな看板。2階は、キャバレー「ユニバース」と大スナック街です。
夜になると、派手な電飾が猥雑さをかもしだします。