浅草(浅草世界館)顔ハメ看板。本日オールナイト。

浅草の六区ブロードウエイ商店街にあるアダルト映画館の浅草世界館。

入口には、映画のポスタが並べられています。

ちょうど、アダルト映画のポスタがバックに入るアングルに、記念撮影用の顔ハメ看板が設置されています。

「本日オールナイト」の看板。

参考文献

参考記事

浅草(初音小路)藤棚は瓢箪池の名残。長屋の飲み屋街。

凌雲閣(浅草十二階)があった時代、塔に登ると南東方向にはひょうたん池が見えました。現在のJAウィンズのあたりがひょうたんの頭で、六区交番あたりがひょうたんの胴にあたりました。頭と胴のあいだはくびれていて、そこに紐をかけるようにぎざぎざと橋が渡され、結び目のような浮島につながっていました。浮島には茶屋があって、島に渡された橋には藤棚がありました。*1

現在、ひょうたん池のあった場所は、初音小路と呼ばれる飲み屋街になっていています。

長屋に飲み屋が建ち並んでいます。

現在の初音小路の藤棚は、ひょうたん池があった頃の藤棚の名残です。*2

【参考文献】
*1 細馬宏通:浅草十二階(青土社,2001)P.38-P.40
*2 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の浅草(武揚堂,2007)P.34

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浅草(凌雲閣)別名「浅草十二階」。銅版の碑。

浅草の六区ブロードウエイ商店街。

現在のウィンズ浅草のあるあたりから西側は、昭和の初期までは、浅草公園があった場所で、ひょうたん池と呼ばれる大きな池があり、ブロードウエイ商店街のつきあたり(現在、パチンコ店がある場所)には、明治・大正時代、凌雲閣(りょううんかく)がありました。

最近になって、パチンコ店の前に凌雲閣の銅版の碑が設置されました。

東京タワー、東京スカイツリーと並んで、東京三大ツリーと呼ばれているそうです。

凌雲閣、またの名を(十二階建てだったので)「浅草十二階」は、高さ52mの高塔で、東京タワー(333m)のわずか6分の1以下の高さですが、明治一の高塔で、東京のランドマークでした。現在のタワーから比較すれば、低い塔である凌雲閣からの眺めは近景を見たときに人の形がはっきり分かる程度で、つまり、その展望台は、「人をみるという感覚」「人に見られるという感覚」を感じることのできる「適切な低さ」を持っていました。石川啄木の明治41年8月21日の日記には、浅草十二階から望遠鏡で下を見下ろしたとき、細い小路で男が淫売婦に捉るところが見える」という話が書かれています。1
「路上に客を擁して無理無体に屋内に拉し去る。歩一歩、”チョイト” ”様子の良い方” ”チョイト、チョイト、学生さん” ”寄ってらっしゃいな”」
当時、東京の私娼窟の中心は、浅草十二階下界隈でした。私娼4,000人(吉原の登録娼妓数2,409名の約1.7倍)、銘酒屋、新聞縦覧所(取締の目を逃れるため密淫売業者が編み出した業態カムフラージュの一つ)、小料理店の名目で、私娼を抱える店は700店に及んでいました。
2
【参考文献】
*1 細馬宏通:浅草十二階(青土社,2001)P.8-P.11,P.236
*2 竹村民郎:廃娼運動(中央公論社,1982)P.63

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浅草(猿若町)江戸文化・風俗発祥の地。天保の改革で移転。

天保13年(1842年)から明治中期にかけて、歌舞伎(芝居)の町として栄えた浅草猿若町は、江戸文化・風俗発祥の地といわれています。*1

今日でこそ歌舞伎は伝統芸術とか文化遺産とよばれていますが、それは明治以降のことで、江戸時代の歌舞伎の社会的地位は低く、江戸で二悪所といえば、吉原遊廓と歌舞伎芝居街のことをさしていました。歌舞伎は、水野忠邦の天保の改革により、廃絶まで考慮されましたが、北町奉行・遠山景元(遠山の金さん)の進言により、猿若町にのみ許されることになりました。*1

現在の猿若町。

江戸猿若町守田座跡の碑。

【参考文献】
*1 新美武:浅草猿若町(新美商店,1973)P.3,P.22, P.58-P.64

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浅草(神谷バー)電気ブラン。浅草の近代百年の盛衰。

今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
台東区浅草1丁目1番1号。浅草の番地の原点とも言える場所に、電気ブランディで知られた神谷バーの建物があります。関東大震災のときも、東京大空襲のときもこのビルは同じ場所にあって、猛火で内部は焼き払われたものの外側だけは焼け残りました。*1

1階の神谷バーは、壁面や調度にクラシックな洋風をとどめ、独得のムードを残しています。2階は洋風レストラン、3階が割烹で、4階に事務所があります。*1

神谷バーの歴史は、そのまま庶民の町である浅草の近代百年の盛衰に深く組み込まれています。特に、商品の電気ブランディは、のちにブランディの「ディ」を略して「電気ブラン」として商標になりました。*1

電気ブラン(360ml)を購入。

【参考文献】
*1 神山圭介:浅草の百年(踏青社,1989)P.9-P.10

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貝塚(ラーメン店)和風の建物の前面に大きな看板。

貝塚駅の東側の国道26号線沿い。

看板建築のラーメン屋さんがあります。

和風の建物の前面に大きな看板が立てられています。

ネオン管の装飾。

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貝塚(新泉牛乳の牛乳箱)建物の木目とよく似合います。

貝塚遊廓跡地近く。木造の家屋が建ち並びます。

格子の美しさが映えます。

新泉牛乳の牛乳箱があります。
新泉牛乳は、貝塚市に本社を持つ昭和18年創業の乳業メーカーの泉南乳業株式会社の商品ブランド名です。*1

木製牛乳箱は、建物の木目とよく似合います。

【参考URL】
*1 泉南乳業株式会社:泉南乳業株式会社ホームページ「泉南乳業のあゆみ

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貝塚(飲み屋街)遊廓跡地。十字路付近にあるお好み焼き屋。

貝塚遊廓の跡地の一部は、現在は飲み屋街になっています。

メイントの通りが交差する十字路付近にあるお好み焼き屋。

北側にある「スタンド」。

入口は斜めになっています。

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貝塚(遊廓跡地)洋風のカフェー建築。奇抜なデザインの建物。

貝塚遊廓跡地には、当時の建物と思われる洋風のカフェー建築がいくつか残っています。

半円形の窓が特徴的な建物。1972年に住宅地図*1 には、この建物があった場所には、「スタンド平八」「スタンド小政」「スタンドあさひ」と書かれていますので、飲食店として営業していたようです。

奇抜なデザインの建物。「バー風」があったあたり*1 です。

建物の入口は赤いタイルで装飾されています。

【参考文献】
*1 吉田地図:貝塚市(吉田地図,1972)P.12

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貝塚(貝塚遊廓跡)大正時代にできた新地。現在の近木。

江戸時代に宿場としてにぎわった貝塚寺内町には、北の二軒町と南の旅籠町等に遊廓がありましたが、大正に入って現在の近木(南海鉄道貝塚駅の西側)に移転し、新地と呼ばれました。*1

遊廓は、昭和33年3月、売春防止法の施行によって廃止され、新地の建物の大部分は建て替えられるか、取り壊されるか、あるいは改装されてしまいました。*1

当時の名残と思われる建物が残っています。

1階部分は改装されて洋風に、2階部分は和風の造りです。

【参考文献】
*1 伊藤伸史,川口義正,南川孝司:岸和田・貝塚今昔写真帖(郷土出版社,2008)P.40

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