足尾(遊廓跡地)籬のある遊廓は足尾では1軒だけでした。

大正時代、足尾銅山が全盛だった頃、渡良瀬川の川を渡った向原地区に、遊廓の「斎藤楼」がありました。
江戸・明治の吉原のような籬(まがき)のある遊廓は、足尾では「斎藤楼」1軒だけでした。*1
大正2年(1913年)発行の足尾全体の鳥瞰図「足尾銅山全圖」*2 には、渡良瀬川の崖の上に張り出すように斎藤楼の建物が描かれています。

大正5年(1916年)発行の足尾町商業案内便覽圖*3 に「斎藤楼」の位置が記されています。現在の足尾橋の約100m下流のこのあたりに橋があり、遊廓はこの道を進んで右へ入った高台にありました。

遊廓があった向原地区は、現在は住宅地になっています。

向原地区の全景。

【参考文献】
*1 三浦佐久子:足尾万華鏡(随想舎,2004)P.151-P.152
*2 森田淳:足尾銅山全圖(1998,森田淳) 大正2年発行の足尾銅山全圖の復刻版
*3 足尾商業案内便覽圖復刻委員会:足尾町商業案内便覽圖(足尾商業案内便覽圖復刻委員会,1992) 大正5年発行の足尾町商業案内便覽圖の復刻版

参考文献

参考記事

足尾(松原地区)明治40年の地図に芸者屋の記載。

足尾銅山全盛時代には30軒からの妓楼がありましたが、大火で全滅し、その後は、芸者とダルマ(私娼)が生まれました。*1

通洞駅前の案内板には、「明治40年発行 栃木県営業便覧」による松原地区の町並みが掲載されていて、地図には、「末広屋 芸者」「大和屋 芸妓」「中橋 芸者屋」などの記述があり、この一帯が花街だったことがわかります。

芸者屋の末広屋があったと思われるあたり。

見番に籍を置く芸妓たちは娼婦ではありませんでしたが、鉱山の町という場所柄だけに芸妓一筋に貫いたという話はあまりなく、お座敷の宴会が終わったあと、懇ろになった芸妓と奥の小座敷にしけこんで、交わりをしました。数年前に火事で焼けてしまいましたが、姿見橋近くの割烹旅館「一丸」の奥の方にも小座敷がいくつもありました。*2

【参考文献】
*1 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂, 1929)P.214-P.215
*2 三浦佐久子:足尾万華鏡(随想舎,2004)P.151-P.152

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参考記事

足尾(大便用の個室) 社宅の共同便所。浅草紙を思わせるなチリ紙。

トタンの仕切り板に囲まれて大便用の個室が3つ並んでいます。

染付古子便器の大便器が当時のままで残されています。ここには、トイレットペーパーは無く、昔の浅草紙(落紙)を思わせるようなチリ紙が置かれています。
わが国において、用便後に紙で拭くのが全国的に一般化したのは昭和30頃で、それ以前の農山漁村では、植物の葉などを使用しており、紙の使用は都市部のみでした。足尾銅山は、山の中にあったとはいえ、膨大な数の尻を拭く葉っぱは到底得られず、明治の初期から紙で拭いていました。*1

花柄がデザインされた小判形大便器。
染付古子便器の場合、大便器には、角形と小判形の2種類がありました。角形の大便器は、下の箱、金隠しともに四角い形で、江戸時代の木製便器を模してつくられました。小判形の大便器は、金隠しが丸い形で下の箱が小判形のもので、陶器土で四角い形をつくるのが難しいため石膏型でこの形になりました。*2

夏場の便所は大変だったそうで、便槽にはたくさんのウジ虫がはい回り、換気の設備がないので刺激臭が鼻だけでなく目にもきました。大勢の人が使うので日ごとに糞尿の液面は上昇し、それにつれて例の「おつり」の危険性も高くなりました。冬場になると今度は便が凍ってうず高い山になり、お尻に触れそうで不安になりました。*1

【参考文献】
*1 本田 正男:鉱山研究(2010.3)P.7 「鉱山便所考 鉱夫の便所・役宅の便所」
*2 INAXライブミュージアム企画委員会:染付古便器の粋(INAX出版,2007)P.4

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足尾(染付古便器)青色のトタン板に囲まれた共同便所。

青色のトタン板に囲まれた共同便所。

掃除の行き届いた男子用のトイレに、染付古便器が2つ並んでいます。
「染付古便器」は、白地の素地に酸化コバルトで絵付けし焼成したもので、明治中期から昭和初期にかけて瀬戸(愛知県)や信楽(滋賀県)でつくられました。小便器には、①朝顔形(口が手前に向けて開いた小便器)と②向高(向こう側が高くなった置便の底に穴をあけたもの)の2種類があり*1*3 、写真のものは①朝顔形です。*1

鉱夫長屋の便所では、装飾のない小便器が使われることが一般的でしたが、足尾銅山の場合は、花柄の小便器も使われました。*2

現在からみると、実用品というより工芸品の趣があります。*2

【参考文献】
*1 INAXライブミュージアム企画委員会:染付古便器の粋(INAX出版,2007)P.4
*2 本田 正男:鉱山研究(2010.3)P.2 「鉱山便所考 鉱夫の便所・役宅の便所」
【参考URL】
*3 株式会社LIXIL:INAXライブミュージアム 窯のある広場・資料館 染付古便器について

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足尾(社宅の消火器箱)社宅の風景に溶け込んでいます。

砂利道、石垣、木製電柱などがそのまま残る社宅の風景。

木製消火器箱が社宅の風景に溶け込んでいます。

長屋の棟毎に、1~2か所づつ取り付けられています。

ペンキ塗りたての消火器箱。「消火器」の白い文字が書かれる前の段階です。

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足尾(渡良瀬地区の社宅跡)大正・昭和の風景と町並み。

今回は、足尾(栃木県日光市足尾町)の町並みと風俗を散歩します。
東京から約3時間半の場所に、銅山の遺構を有する足尾町があります。足尾がもっとも栄えた時期は大正5年で、人口は3万8千人。県内では宇都宮に次ぐ人口規模でした。川沿いの平地や斜面には規則的に並んだ平屋の長屋住宅が現在もいくつかの地区に残されています。*1

渡良瀬地区(足尾駅の北東にある渡良瀬橋を渡った向こう側の地区)は、大正・昭和の風景と町並みが残り、今なお生活が息づいている地域です。*1
足尾銅山では、ひとり者の坑夫は飯場住まいで、結婚して所帯を持つとこの長屋に住むことができました。当時の近郷近在の農家の娘たちは、足尾の坑夫の嫁となり、足尾の長屋の新居で暮らすことが夢でした。長屋が建って間もない頃は、建物も新しいし、新婚にとっては六畳ひと間でも夢のような文化住宅で、家賃のいらない長屋住宅で貯金もできました。しかし、坑夫の仕事が大変に辛いものであり、いずれは珪肺(けいはい)という職業病に侵され、まかり間違えば早く後家になるなどということは、娘の頃は考えも及びませんでした。*2

足尾の長屋のつくりは、江戸の長屋のつくりとほぼ同じで割り長屋(建物の棟方向に壁を造って区分)でした。足尾の場合は一棟五軒が圧倒的に多く、立地条件に合わせて建てられました。*2
長屋には共同の水場もあります。

共同浴場もあります。

【参考文献】
*1 伊東 孝:CE建設業界(通号692,2010)知られざる「100年」プロジェクト 足尾銅山(その2)大正・昭和の風景と街並みが息づく町
*2 三浦佐久子:足尾万華鏡(随想舎,2004)P.93,P.95

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富山(東新地跡)桜木町をしのぐ不夜城。いたち川流域。

江戸時代の初期、富山の色町は、飯盛女が許可されていた旅籠町、自然発生的にできた岡場所の稲荷町、北新町の3か所でした。1841年(天保12年)、旅籠町の妓楼をすべて北新町へ移したことから北新町は城下最大の色町となりました。*1
その後、北新町は、維新を迎えて誕生した桜木町*4 に一部が移ったため、ややさびれましたが、それでも桜木町につぐ繁栄を保っていました。しかしここもすっかり町なかに取り囲まれ、なにかと悪影響が出てきたので、1895年(明治28年)、富山県庁はこの色町を清水町に移転することを命じました。*1

清水田んぼを埋め立てて作られた東新地(あずましんち)は、南町、仲の町、北の町と三筋の町に区画され、東廓(ひがしのくるわ)とも呼ばれました。桜木町から移った妓楼もあって、桜木町をしのぐ不夜城になりましたが、規模の小さいものがほとんどで、格式のある妓楼はみな桜木町に残りました。そこで必然的に、桜木町は芸をうる芸妓本位を特色にし、東新地の方は、からだを売る娼妓本位を特色とし、ふたつの廓はそれぞれの特色を分け合いながら発展をつづけました。*1

「いたち川流域に繁栄した戦前の町並」*2 を見ると「加賀屋」、「楽園」など、現在の料亭の屋号が記されています。村田屋は、東新地の頃から営業しているそば屋さんです。

料亭「川柳」。*2

阿部定事件(昭和11年に起きた猟奇的殺人事件)の犯人の阿部定は、事件発生の約10年前、この東新地の平安楼という芸妓屋で働いていました。*3

【参考文献】
*1 坂井誠一:わが町の歴史・富山(文一総合出版,1979)P.179-P.183
*2 島原義三郎,中川達:鼬川の記憶(桂書房,2004) 付録の地図,P.276
*3 堀ノ内雅一:阿部定正伝(情報センター出版局,1998)P.60
【参考記事】
*4 風俗散歩(富山):桜木町

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参考記事

富山(ちんまの湯跡地)東新地の銭湯。隣には古い美容室。

鼬(いたち)川の東側を流れる奥田用水。この奥田用水の東側に東遊郭(東新地)がありました。
かつては、川幅も広く水量も豊で、架かる橋の名が見返り橋、橋ぎわに柳があって、廓の街としては舞台がすべて揃っていました。*1

奥田用水沿いのこの場所には、数年前まで「ちんまの湯」と呼ばれた銭湯の建物が残っていましたが、現在は駐車場になっています。「ちんまの湯」という変わった名前は、昔、この辺りから馬に乗って帰るときの賃(料金)からきているそうです。*1

花街東新地があった当時、銭湯の人の出入りは大変だったようで、銭湯の奥さんの話によると、昭和33年に売春防止法が施行される前までは夜遅くまで人が歩いていて、灯もきれいで、銭湯も3時頃まで営業し、着物を着たきれいどころもよく来ていたそうです。*1

銭湯の隣には古い美容室の建物があります。

【参考文献】
*1 島原義三郎,中川達:鼬川の記憶(桂書房,2004)P.273-P.274

参考文献

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富山(金毘羅神社)東廓二業組合。明治41年建立の標柱。

富山市街を流れる鼬(いたち)川と奥田用水の間に、町中にポツンと金刀比羅神社があります。

明治41年建立の標柱。

東廓中と彫られています。

鳥居の裏側には、「東廓二業組合」。つまり、遊廓の関係者がこれを寄進したことを示しています。昔は、現在の4倍くらいの広さで、向かって右には庭と大木があり、お参りの人が多く、裏がすぐ遊廓だったため、その人達もよくきていい雰囲気でした。*1

【参考文献】
*1 島原義三郎,中川達:鼬川の記憶(桂書房,2004)P.232-P.233

参考文献

参考記事

富山(桜木町の標識柱)ピンクビラのものと思われる剥がし跡。

松川沿いの大通り。標識柱に、ピンクビラのものと思われる剥がし跡があります。ここから桜木町の歓楽街はすぐそこです。

桜木町の歓楽街。居酒屋や風俗店が軒を連ねています。

この付近の標識柱には、必ずと言ってよいほど剥がし跡があります。

密集度の高い剥がし跡。

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