松江(黄色いポスト)神社の鳥居。西茶町の国道431号線沿い。

西茶町の国道431号線沿いにある須衛都久神社。

神社の鳥居のところに、黄色いポストがあります。

青少年に害のある本やDVDを投函する「白ポスト」は、白い色のポストが一般的ですが、松江では「黄色いポスト」です。

黄色なので、どこから見てもよく目立ちます。

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松江(お加代の墓)天神裏歓楽街に姐御として君臨。

松枝市内の石橋町に光徳寺があります。

光徳寺には、天神裏歓楽街に姐御(あねご)として君臨した「お加代」の墓があります。天神裏とは、現在の天神町(松江駅の西側)にあった歓楽街で、明治維新の混乱に乗じて発展しました。*1

明治元(1868)年1月、山陰道鎮撫総督に任命された西園寺公望は、新政府に対する各藩の意思を確認するため、官軍を率いて山陰道を下向しました。宿泊地ではありとあらゆる接待が行われましたが、酌婦だったお加代は、体を張って傍若無人に振る舞う一行をなだめました。

「侠女おかよの墓」と記された墓は、地蔵尊として祀られています。*1

【参考文献】
*1 荒木英信:新編松江八百八町町内物語(ハーベスト出版,2012)P.182-P.183

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松江(東本町)新大橋の北側。居酒屋やスナックの店舗が密集。

松江の繁華街は、新大橋の北側の東本町にもあります。

居酒屋やスナックの店舗が密集しています。

キャバクラなどの風俗店もあります。

夜の東本町。

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松江(伊勢宮町)歓楽街のメインの通り。華やかな看板。

伊勢宮町の歓楽街のメインの通り。

クラブなどの風俗店が密集しています。

キャバクラなどの看板が華やかです。

階段を登ったところにある看板。

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松江(旧米江旅館)国の登録有形文化財。昭和2年に完成。

新地遊廓は、第2次大戦後、遊廓の大半は旅館・料亭となり、次第に姿を消し、現在は歓楽街となっていますが、当時の面影を残す旧米江旅館の建物が、この歓楽街の一画に残されています。

旧米江旅館は当主米江大輔(明治7年~昭和25年)が7年の歳月を費やして全国各地から資材を集め、大正12年から5年かかって昭和2年に完成したと伝えられている建物でです。

現在は、テナント募集中です。

建物は、意匠的にも技術的にも優れた近代和風建築遺構で、国の登録有形文化財に指定されています。

【参考URL】
*1 松江市:松江市長記者会見・記者発表資料「登録有形文化財の登録について 旧米江旅館本館

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松江(旧松江旅館)現在は料理店

松江(伊勢宮新天地)新地遊廓跡地。居酒屋やスナックが営業中。

和多見遊廓は、明治の大火で伊勢宮町に移転し、新地遊廓と呼ばれるようになりました。現在は、飲食店街に姿を変えています。*1
昭和7年の「松江市全図」*2 には、「新地」、「遊廓」と記されている区画がありますが、ちょうど、この道路の両側あたりです。

伊勢宮新天地。

居酒屋やスナックが営業中です。

夜になると、看板に照明が灯されます。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.22-P.25
*2 地図資料編纂会:昭和前期日本都市地図集成(柏書房,1987)P.105

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松江(寿司屋の小路)ゆるやかにカーブを描く小路。細く長い溝。

和多見町の南側の寺町に、ゆるやかにカーブを描く小路があります。

寿司屋のある小路

木造の長屋の建物が連なります。

小路の中央には、細く長い溝が続いています。

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松江(和多見遊廓跡)「写真集松江」のアングル。

今回は、松江(島根県松江市)の町並みと風俗を散歩します。
和多見に遊廓ができたのは江戸時代の中期で、文化(1804-18年)から嘉永(1848-54年)の頃に全盛となり、六十数軒の貸席業があり、「和多見通いは船でする」といった安来節にも当時の名残をとどめています。*1

和多見の貸席は、明治17年の和多見大火や同26年の大水害を間接の原因として伊勢宮新地へ移転したので、この和多見の繁栄は、明治維新まででした。*1*2

「赤線跡を歩く2」の木村聡さんが、「写真集松江」のアングルを真似て撮ったアングル*2 を真似て撮影。

同じ建物を違うアングルから。

【参考文献】
*1 荒木英信:新編松江八百八町町内物語(ハーベスト出版,2012)P.282-P.283
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.22-P.25

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玉造温泉(温泉街)情緒のある風景

今回は、玉造温泉(島根県松江市)の町並みと風俗を散歩します。
玉造温泉は、古くから知られた温泉街です。

勾玉橋のかかる玉湯川の両側に旅館などが立ち並びます。情緒のある風景です。

田山花袋の「温泉めぐり」*1 には、「松江の人達たちがよく妓を伴(つ)れて行つたりするやうなところで...」と紹介されていますが、現在は歓楽街的要素はありません。

居酒屋やカフェなどが温泉街の中に散在しています。

【参考文献】
*1 田山花袋:復刻版 温泉めぐり(博文館新社,1991)P.451

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出雲(代官町の風俗店)サロンと書かれた看板のある店。

「スタンド」と呼ばれる飲み屋のある通りの角。

サロンと書かれた看板のある店があります。

「サロン」という名のサロン。

どのような内容の店なのか、詳細は不明です。

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出雲(エステの店舗)古い和風の建物。1階と2階の両方。

スナックや居酒屋などが密集する代官町の歓楽街。

古い和風の建物の1階と2階の両方が「エステ」です。

2階も店舗になっています。

和風の建物にピンク色の看板。

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出雲(今市町のスナック街)モダンなデザインの建物。

出雲駅の駅北側の今市町は、大規模な歓楽街です。

モダンなデザインの建物。

小路の奥まったとこにあるカラフルな建物。

逆方向(東側)から。道幅の狭い小路の両側に店舗が建ち並んでいます。

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出雲(日御崎の消火器箱)日御崎漁港近くの路地。

日御崎漁港近くの路地。

100m程の長さの路地に木製消火器箱が密集しています。

赤ペンキの剥げ具合が年代を物語っています。

宇龍でみかけた母屋に同化した消火期箱。

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出雲(遊女の墓)民宿の裏手の山の上にある海蔵寺。

出雲大社からバスで約30分のところに、日御崎があります。
日御崎からさらに徒歩で約10分。小さな湾を持つ宇龍に到着します。宇龍は、松江藩の外港として栄えました。

民宿「やすだ」の裏手の山の上にある海蔵寺。

お堂の脇に、遊女の墓があります。*1

海蔵寺から見た権現島。鳥居が見えます。

【参考文献】
*1 加藤貞仁:北前船(無明舎出版,2002)P.62

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出雲(阿国の墓)歌舞伎の創始者。奉納山公園。

今回は、出雲(島根県出雲市)の町並みと風俗を散歩します。
出雲大社の近くに、歌舞伎の創始者「出雲阿国」の墓があります。

出雲阿国は、大社町の鍛冶職中村三右衛門の子で、出雲大社の巫女であったと伝えられています。天正の頃、出雲大社本殿の修復勧進のため京都へ上り、世にいう歌舞伎踊りを創始しました。(案内板より)

奉納山公園には、出雲阿国の功績をたたえた塔が建てられています。周囲の円形の石垣には、中村歌右衛門、市川猿之助、水谷八重子、などの名前が刻まれています。

阿国は、晩年は大社に戻り、尼僧となって余生を過ごしました。阿国寺”連歌庵”には、阿国のレリーフがあります。

わが国の性的職業婦人の起源は巫女によって発生し、古代にあっては、売笑は必ずしも不徳の行為でもなく、酷業ではありませんでした。名神、大社といわれる神社が、その近くに遊廓を有していることは、古き巫女の存在を想わせるものです。これら巫女(巫娼)から出た遊女は、歌舞にまで関係していました。歌舞伎の源流が、出雲大社の巫女である阿国によって発したことは決して偶然ではありませんでした。*1
【参考文献】
*1 中山太郎:日本巫女史(国書刊行会,2012)P.42

参考文献

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温泉津(長久牛乳の牛乳箱)日の出のマーク。縦に2つ。

温泉津の金剛院近くの民家。

牛乳箱が縦に2つ並んでいます。

長久牛乳の牛乳箱。

日の出のマークが特徴です。

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温泉津(尾根道からの眺め)瓦屋根の茶色。温泉街を望むのに格好の場所。

 温泉街の裏手には、山がせまっています。山には何ヶ所かの登り道があって、温泉街を望むのに格好の場所です。瓦屋根の茶色が美しい景観をつくっています。瓦屋根の茶色は、ひと色ではなく、赤っぽいものや色の薄いものなどが混在しています。

温泉街から、北側に延びる谷あい。「金剛院の裏手の尾根道は、温泉津の中でも最高の眺め。」と地元の方が教えてくれました。

坂を登りきると、苔むした尾根道が続いています。尾根の左右は急峻な崖になっています。

尾根道の終点にある愛宕神社付近から見た温泉津港方面。石見らしい風景です。

参考文献

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温泉津(温泉街)置屋跡地。港町と温泉街としての賑わい。

大正時代の温泉津には、芸者仲介・検番が4軒、芸者置屋が7軒と多く、港町と温泉街としての賑わいを見せており、検番1軒で20~30任の芸者を抱えていました。*1

また、髪結い5軒、人力車夫3軒、あんま4軒、まんじゅう屋、せんべい屋などのお土産店、写真館、時計店、カフェやアイスキャンディを売る店などもあり、温泉街の風情が漂っていました。*1

大西検番があったあたり。*1

現在、薬師湯温泉があるあたりには、カフェ・芸者の「小金屋」がありました。*1

【参考文献】
*1 温泉津町教育委員会:温泉津(温泉津町教育委員会,1999)P.67-P.61

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温泉津(レトロなタバコ屋)駅前の商店街。鮮やかなたタイルの装飾。

今回は、温泉津(ゆのつ、島根県大田市)の町並みと風俗を散歩します。
JR山陰本線温泉津駅前の商店街。温泉街へは、ここから約1kmです。

レトロなタバコ屋さんの建物。

鮮やかなたタイルの装飾。

「たばこは現金で願います」と書かれたホーロー看板。

参考文献

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浜田(牛乳箱)牛のマークの牛乳箱。紺屋町商店街の裏手。

紺屋町商店街の裏手にある住宅。

クボタ牛乳の牛乳箱。

牛のマークが印象的なデザインです。

箱の中に上蓋らしきものが残っていました。

参考文献

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浜田(学校制服専門店)ビッグサイズのセーラー服。紺屋町商店街。

紺屋町商店街は浜田城の城下町として発展し、戦前は陸軍歩兵第21連隊が現在の浜田高校、浜田一中の場所にあり約2000人の兵隊がいたので、紺屋町商店街は大変な賑わいでした。*1

商店街に制服屋があります。

商店街の中心部にある学校制服専門店。

店の前に展示されているビッグサイズのセーラ服。かなり目立っています。

【参考URL】
*1 こんやまち商店街ホームページ「商店街概要

参考文献

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浜田(地蔵尊)浜田遊廓共済組合。万年ヶ鼻。

万年ヶ鼻は、投身自殺の名所だったので、宝暦年代(1751年~62年)に古い名称の「一三年鼻」を13年に一回ではなく、一万年に一回という願いを込めて改められました。*1

万年ヶ鼻の断崖絶壁の上に、大きな地蔵尊が建っています。

台座に、「昭和4年6月建立 浜田遊廓共済組合」と刻まれています。
生きる希望を失った遊女たちがこの絶壁から波間に消えて行ったのでしょうか。*2

足がすくむ断崖絶壁。

【参考文献】
*1 児島俊平:近世・石見の廻船と鈩製鉄(石見郷土研究懇話会,2010)P.72
【参考URL】
*2 浜田の風景「狐の誘い火

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浜田(下山稲荷神社)万年ヶ鼻への登り道。

江戸時代、燈明堂(今日の灯台のような役割をする施設)が設置されていた万年ヶ鼻は、投身自殺の名所でした。燈明堂跡地付近には、浜田遊廓共済組合が昭和4年に建立した地蔵尊の供養塔が建っています。*1
今回は、下山稲荷神社から万年ヶ鼻を目指します。

稲荷神社の最上部にある祠。ここから先、道はありません。

鬱蒼とした雑木林の中を登ると、2体の地蔵に遭遇しました。明治43年と大正6年建立と読めます。

藪と茨と蜘蛛の巣をかき分けて登ると、少し傾斜が緩くなり、わずかに踏み跡があります。しばらく歩くと突然眼前が開け、万年ヶ鼻の断崖絶壁が見えます(写真は海側に少しくだった所から撮影)。ここから東へ尾根沿いにトラバース(横断)すると、万年ヶ鼻です。

【参考文献】
*1 児島俊平:近世・石見の廻船と鈩製鉄(石見郷土研究懇話会,2010)P.71-P.72

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浜田(浜田遊廓跡地)「新地」の電柱プレート。明治中期まで外ノ浦にあったお茶屋。

明治中期まで外ノ浦にあったお茶屋は、交通の発達や連隊ができた関係で、明治33年から川下に移転し、遊廓と一般に呼ばれるようになりました。*1
「島根県濱田町全図」などの古地図*2*3 には、遊廓の場所が記載されています。

遊廓があったと思われる場所は、現在は閑静な住宅地となっています。

戦後は赤線となり、赤線は、昭和31年5月に廃止されました。*3
付近の電柱には、「新地」と書かれたプレートが確認できます。

下山稲荷神社から見た遊廓跡地。

【参考文献】
*1 市制40周年記念写真集編集委員会:写真集はまだ(浜田市,1982)P.151
*2 石見史談会:浜田町史(一誠社,1935)P.598-P.599「島根県濱田町全図」
*3 舟木孤舟:浜田港(三浦書肆,1914)「浜田全図」

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浜田(金刀比羅神社)江戸時代、諸国の船乗りを相手とする遊び場。

今回は、浜田(島根県浜田市)の町並みと風俗を散歩します。
浜田の松原湾は、金刀比羅神社のあたりから外ノ浦という細長い入江になっていて、船問屋が軒を連ねていました。*1
もちろん、廻船あいての遊女もいました。当時の港町の全国ランキングを示した天保年代(1830-42年)の「国々湊くらべ」には、東前頭八枚目に番付されている石見浜田のところに、「ゆう女あり」という印がつけられています。*2

鳥居には、宝暦九年(1759年)と刻まれています。

江戸時代、諸国の船乗りを相手とする遊び場であった外ノ浦は、明治に入ると、それまでの厳格な城下町としての気風が薄れることにより、繁盛することとなりました。*3
金刀比羅神社から見た港の景観を明治33年の「浜田港史」は、「この地元に妓楼あり一時繁盛を極めしも今は、浜田川下畔の花と化けり...。」 と記しています。*2

金刀比羅神社の近くにある心覚院。
心覚院の過去帳には、延享四年(1747年)丁卯月 転寿信女 遊女、白子(ネ)ズミ=遊女の源氏名」とあります。*2

【参考文献】
*1 加藤貞仁 文:北前船(無明舎出版,2002)P.62
*2 児島俊平:近世・石見の廻船と鈩製鉄(石見郷土研究懇話会,2010)P.69-P.75
*3 市制40周年記念写真集編集委員会:写真集はまだ(浜田市,1982)P.151

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