全国 > 東京都 > 荒川区 日暮里尾久南千住 南千住二丁目 1浄閑寺の永井荷風の詩碑 南千住6丁目 2理髪店 西日暮里2丁目 3ラブホテル街 4旅館「とよた」 西日暮里3丁目 5富士見ホテル 西尾久6丁目 6質屋 7荒川遊園 西尾久2丁目 8花街跡のスナック 9待合「満佐喜」跡地 10寺の湯跡 南千住一丁目 11弁天湯 12ジョイフル三ノ輪の路地」 13三ノ輪新開地 14三ノ輪商店街 東日暮里6丁目 15繊維問屋街

日暮里

尾久

南千住

タクソノミー(分類)

南千住6丁目 南千住一丁目

吉原

尾久(質屋)大きな看板。高い塀で囲まれいます。

尾久は質屋が多い街です。

こちらの質屋さんは、高い塀で囲まれいます。

塀に書かれた質屋の名。

表通りには、人目を引く大きな看板があります。

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質屋 西尾久6丁目

尾久(花街跡のスナック)昭和の雰囲気が残る商店街。

かつて待合などがあったあたりは、現在は住宅地になっていますが、ところどころにスナックの建物があって、花街の風情がわずかに感じられます。

寿司屋とカラオケスナック。昭和の雰囲気が残っています。

商店街にある「喫茶&スナック」。

演歌歌手のポスターが所狭しと貼られています。

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スナック 西尾久2丁目

尾久(待合「満佐喜」跡地)阿部定事件の現場。

尾久の東京女子医科大学く。周囲は、商店街と住宅地です。

このあたりは、尾久三業の待合などがあったエリアです。

待合の「満佐喜」があったあたり。阿部定事件の舞台となった場所です。阿部定事件とは、昭和11年、阿部定という31歳の女性が、待合「満佐喜」で男と一週間もいつづけた末にその男を絞殺し、さらに、その股間のイチモツを根元から切り落として懐に携え逃亡したという事件です。*1

現在は、このような事件があった現場とは思えない閑静な住宅街となっています。

【参考文献】
*1 壬生篤:荷風!vol.2(日本文芸社,2004)P.75-P.79 阿部定事件の現場をゆく

尾久(荒川遊園)尾久三業近くの遊園地。

あらかわ遊園は、大正11年に開園した遊園地です。
当時のあらかわ遊園の案内には、「東京に最も近き避暑地」と紹介されています。*1

大正時代に開設された遊園地の中には、多摩川遊園地、本牧花屋敷、など付近に寺社が多く集まる地域があり、遊園地の開園と同時期にニ業地あるいは三業地が立地する場合がありましたが、あらかわ遊園の場合も同様で、近くに尾久三業が立地していました。

「遊園地」と書かれた電柱番号札。

墨田川からのあらかわ遊園の遠望。

【参考URL】
*1 あらかわ遊園ホームページ
*2 安野 彰,篠野 志郎:日本建築学会計画系論文集(1998)「遊園地取締規則」にみる明治・大正期の東京近郊の遊園地の概念–都市娯楽施設の史的研究 P.165

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遊園地 西尾久6丁目

尾久(寺の湯跡)尾久三業の礎。碩運寺。

今回は、尾久(おぐ、東京都荒川区)の町並みと風俗を散歩します。
尾久は、明治時代以前は農村(ムラ)でしたが、大正時代に急速にマチ化が進行しました。そのきっかけとなったのが、大正2年の王子電車(現、都電荒川線)の開通と翌3年に開業した「寺の湯」でした。*1

寺の湯は、碩運寺の住職松岡大機が鉱泉を掘り当て、「寺の湯」と称した温泉を開業したもので、のちに、「不老閣」として独立しました。やがてその人気にあやかるようにして、この地にいくつもの温泉旅館が開業し、このことが尾久三業の礎となりました。*1

こうして登場した花街・尾久産業地を中心に、その後は尾久地区の商店街が発展しました。*1

付近の電柱番号札には、「新地」の名が見られます。

【参考文献】
*1 八木橋伸浩:都市周縁の考現学(言叢社,1995)P.166-P.167

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共同浴場 西尾久2丁目

日暮里(ラブホテル街)高架沿いに密集しています。

日暮里駅周辺は、最近になって再開発が行われた結果、高層ビルや高層マンションが林立する町並みとなりましたが、西日暮里方向には、昔からあるラブホテル街が健在です。

日暮里駅北側。

日暮里のラブホテル街は高架沿いに発達しています。

「風俗デリバリーの利用OK」。

日暮里(旅館「とよた」)竹で装飾されています。

舎人ライナーの高架が横切る日暮里駅前の近代的な町並みに混じって、古びた旅館の建物が1軒あります(写真奥)。

繊維街として発展した頃の日暮里には、このような旅館がたくさんあったのかもしれません。

モルタル造りの建物。

玄関付近は、竹で装飾されています。

日暮里(繊維問屋街)コスプレ人気で活況を呈しています。

JR日暮里駅前の放射11号線から三河島通り(尾竹橋通り)に交差する付近までの日暮里中央通りの両側は、日暮里繊維問屋街と呼ばれ、ここは、大正から昭和初期にかけて「東の日暮里、西の吹田」と呼ばれた繊維ウエイスト工業の中心地でした。繊維ウエイスト工業というのは、古繊維、つまりボロ繊維を専門に集めて加工し再製品化するリサイクル業のことで、再生工場はそのまま問屋としての機能を持っていました。最近のヤングたちの古着志向はリサイクルへの希望と言えます。*1
さらに、近年のコスプレ人気により、コスプレ用素材を専門に扱う店も現れ、秋葉原から近いこともあり、活況を呈しています。下の写真は、ステージ衣装やよさこい衣装などを専門に扱う「奥山」さんです。

日暮里駅前の店。

日暮里繊維問屋街は学生やミセスが足しげく通う町です。

ダンス用衣装専門の店もあり、艶めかしい雰囲気が漂います(西日暮里にて)。

【参考文献】
*1 婦人画報社:のぞいてみたい東京の六大問屋街(婦人画報社,1998)P.25-P.34

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商店街 東日暮里6丁目

日暮里(富士見ホテル)「夕焼けだんだん」の階段の上。

今回は、日暮里(東京都荒川区)の町並みを風俗を散歩します。
JR日暮里駅の西側にある「夕焼けだんだん」は、谷中では有名な夕焼けの絶景スポットです。

夕焼けだんだんの階段の上に、「富士見ホテル」の大看板があります。

細い路地をいくと、奥に富士見ホテルがあります。

ひっそりとしたホテルの入口。

吉原(浄閑寺の永井荷風の詩碑)明治の文化また灰となりぬ。

今回は、三ノ輪~吉原(台東区)の町並みと風俗を散歩します。
三ノ輪の浄閑寺は、かつての吉原遊廓の近くにあって、遊女の遺体の「投げ込み寺」としても知られる寺です。

ここに永井荷風の詩碑があります。

これは「震災」と題した詩ですが、ここで震災というのは、大正12年9月1日の関東大震災のことです。死者9万9千500人、行方不明4万4千300人、母屋全壊12万8千戸、半壊12万6千500戸。そして消失がなんと44万7千100戸。地震の規模はマグニチュード7.9でした。*1

荷風の詩「震災」に、
或年大地震にゆらめき
火は都を焼きぬ
江戸文化の名残烟(けむり)となりぬ
明治の文化また灰となりぬ
とあるように、関東大震災で立ち上った火はみごとに江戸の都を焼き尽くしてしまいました。吉原は、すでに明治44年の「吉原大火で」江戸伝来の吉原の文化的残照は消滅していましたが、それでもなお、震災までの大正期は、まだわずかに江戸・明治の名残が漂っていましたが、それさえも無残に震災は奪い去りました。*1

その後、吉原は昭和20年の東京大空襲を経て、新しい「廓」として生まれ変わりました。
------永井荷風「震災」------
今の世の若きひとびと
われにな問ひそ今の世と
また来る時代の芸術を
われは明治の児ならずや
その文化 歴史となりて葬られし時
わが青春の夢もまた消えにけり
団菊はしおれて櫻癡は散りにき
一葉落ちて紅葉は枯れ
緑雨の声も亦耐えたりき
圓朝も去れり 紫朝も去れり
わが感激の泉 とくに枯れたり
われは明治の児なりけり
或年大地震にゆらめき
火は都を焼きぬ
柳村先生既になく
鴎外漁史も亦姿をかくしぬ
江戸文化の名残烟となりぬ
明治の文化また灰となりぬ
今の世のわかき人々
われにな語りそ今の世と
また来む次代の芸術を
くもりし眼鏡ふくとても
われ今何をか見得べき
われは明治の児ならずや
去りし明治の世の児ならずや
【参考文献】
*1 渡辺英綱:新編・新宿ゴールデン街(ふゅーじょんぷろだくと,2003)P.227-P.232

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文学 南千住二丁目

南千住(理髪店)、赤、青、白、三色のタイル。

南千住6丁目の路地に、赤、青、白の三色看板の理髪店があります。

理髪店の入口。

美しい三色のタイル。

入口の上部に2本の円柱。こちらも三色です。

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理・美容室 南千住6丁目

南千住(弁天湯)商店街の近くにあります。立派な庭園。

ジョイフル三ノ輪(三ノ輪橋商店街)に隣接して、銭湯の弁天湯がありあます。

道路に面した大きな看板。

銭湯の入口。午後1時から営業しています。

脱衣場には、立派な庭園があります。

大正時代、新開地と呼ばれた私娼街があった頃、娼婦たちは、午後3時頃になると新開地にある弁天湯へ出かけるのが日課でした。*1
【参考文献】
*1 三木克彦:北奇譚幻の銘酒屋街(三木克彦,2004)P.4

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宮型銭湯 南千住一丁目

南千住(ジョイフル三ノ輪の路地」)新開地の名残?。

ジョイフル三ノ輪(三ノ輪橋商店街)*1 を歩いていると、商店街の左右には何本かの路地があることに気が付きます。

商店街の左右に突如として路地が現れます。

このような幅の狭い路地もあって、ごみごみした雰囲気です。

石畳の路地。

大正4~5年頃、新開地(現在のジョイフル三ノ輪)に、銘酒屋街が出現し、数ヶ月後に「花柳界指定地」が取り消され、銘酒屋は突然姿を消しましたが、その後に移ってきた一般の住人は、建物を住居型に改造してして住みました。Aさんの家は、商店街の中程を北へ折れてすぐの幅約3メートルの横丁を入った2階建て6軒長屋の3軒目でした。二間間口の家のガラス戸をあけると、広さ三畳か四畳の土間があり、銘酒屋が使っていたころはここは畳敷きで、抱え娼婦の生活の場であり、表に面した入口から通る客を呼び込んだり稼業の場でもあり、隣室は、抱え主の居住空間で、娼婦接客の場所は2階でした。*2
【参考記事】
*1 風俗散歩(南千住):三ノ輪橋商店街(2011.4)
【参考文献】
*2 三木克彦:北奇譚幻の銘酒屋街(三木克彦,2004)P.5-P.6

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路地・坂道 南千住一丁目

南千住(三ノ輪新開地)武家屋敷跡につくられた私娼街。

ジョイフル三ノ輪(三ノ輪町商店街)の中ほどに、区立瑞光公園があります。

商店街と直行する広い道路のような形状の公園です。公園の片隅に案内板があります。(写真右)

江戸時代、この付近には、伊勢の亀山藩石川家の屋敷がありました。明治政府は、屋敷が取り払われた跡地を鴨取場としましたが、追剥ぎなどの犯罪が頻発する物騒な土地でした。そこで、政府は、大正6年、鴨取場を埋めて、「花柳界指定地」にして銘酒屋の営業を許可しました。銘酒屋とは酒類を売っているように見せかけ、密かに売春をしている店のことで、この銘酒屋街は「新開地」と呼ばれ、約500軒の銘酒屋が建っていました。ところが、この銘酒屋街は、開業数ヶ月後、建物だけを残して1軒残らずどこかへ行ってしまいました。土地の人はこれを「幻の銘酒屋街」と呼びました。*1*2

かつての「新開地通り」は、現在のジョイフル三ノ輪商店街です。*2

【参考文献】
*1 三木克彦:北奇譚幻の銘酒屋街(三木克彦,2004)P.1-P.5
*2 東京都荒川区土木課:荒川区土木誌(荒川区,1955)P.50,「荒川区主要道路一覧図」

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私娼・青線 南千住一丁目

南千住(三ノ輪商店街)荒川区随一の大商店街。

今回は、南千住(東京都荒川区)の町並みと風俗を散歩します。
 都電荒川線の終点の三ノ輪駅と国道6号線にの間に立つ梅沢写真館(旧王電ビル)に三ノ輪橋商店街(ジョイフル三ノ輪)の入口があります*1

建物の1階部分をトンネル状にくりぬくようにして商店街が続いています。

アーケードの入口。

 ジョイフル三ノ輪は、荒川区随一の大商店街で。そのアーケードは、総長465mで、約130軒の商店がひしめきます。*1

【参考文献】
*1 交通新聞社:散歩の達人(2204.2)P.10-P.11

タクソノミー(分類)

商店街 南千住一丁目