平潟の五浦の海岸線に、「わすれじ平和の碑(風船爆弾放流地跡)」が建っています。
風船爆弾は、第二次大戦で敗色が濃くなってきた日本軍が、風船爆弾によってアメリカ合衆国を直接攻撃する作戦を展開したものでした。晩秋から約五ヶ月間が最も強くふく偏西風(太平洋上空のジェット気流)にのせて、爆弾・焼夷弾を吊るしたおびただしい数の巨大な気球を放流させましたが、戦局を左右させるほどの効果はありませんでした。*1
しかし、トルーマン大統領は、風船爆弾によって、細菌攻撃がおこなれるのでは(当時、日本の第731細菌戦部隊は、ペスト菌兵器を開発済み)との恐怖感を持っていました。再び日本からアメリカへ偏西風が吹き始める9月に入る前に戦争の決着をつけるため、トルーマン大統領は、原子爆弾使用に踏み切ったのではないか、との考察があります。*2
最終的に、日本は、ペスト菌をアメリカに散布しませんでした。それは、人道的な観点からでなく、使用した場合の敵のすさまじい報復を恐れたからです。そして大きな皮肉が起きました。細菌攻撃を恐れたアメリカは、原子爆弾という非人道的最新兵器を最後に用いました。*2
碑の台座部分の「新しい誓い」には、
殺意の武器はいらない
さようなら戦争
と刻まれています。