澤村泰彦星々のみちびき:大大雄山参道二十八宿灯平塚市博物館平成二十三年度冬期特別展図録平塚市博物館
星宿燈の建立者

星宿燈を詳しく観察すると、主に2種類があることがわかります。形状では火室の大きさの違いがポイントです。口がやや小さめの方は必ず「明治40年建之」の銘が刻まれ、東京浅草新吉原の遊廓の店や人名が記されています。もう一方の建立者には現在の小田原市の旧村名が記されてしています。つまりこれらの星宿燈はバラバラにではなく二十八宿をセットに二次にわたって建てられたものなのです。一回目は江戸時代末期の元治元年。これは12基が現存します。二回目が明治40年で「日月星宿」のように丁目を振らず同時に建てられたもの2基含め28基があります。

高森道了尊の「北極連珠」石碑

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最乗寺を開いた了庵禅師は糟谷庄(現在の伊勢原市)の人とされ、また一説に道了(開祖事業に霊力を発揮した修験行者。了庵禅師遷化の後に天狗に姿を変じ、名物となった天狗下駄の由来となった。)も師と旧交があったと言われ、故地伊勢原に高森道了尊があります。江戸時代天保期の「新編相模国風土記稿」には「松高庵」の名で掲載し、「最乗寺開山了庵、及び従弟道了居住の地なりと云う。」と紹介しています。その高森道了尊境内に江戸時代の陰陽師の手による星図を描いた石碑が建っています。星図には「北極連珠」と表題があり、銘に嘉永5年(1852)の記載があります。周縁を二十八宿が囲む図案は星曼荼羅に類似し、中に北斗七星、九曜などの星を描く点も共通します。

星の名前を頂く道標たち

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参道の両脇には、古びた石の道標が建ち、往来を見送っています 表面には一丁目から二十八丁目までを記して、人々に道程を知らせているのですが、これらには〇丁目と記したその上にもう一文字見慣れない漢字が冠されています。
面白いことにその文字は、日本や中国で用いていた古い星座(星宿)名なのです。
これらの道標はお寺が発行した古い案内書には「星宿燈」と紹介されています。
星宿燈は全部で42基あります。高さは1mほどで、 100m前後の間隔で次々に建っています。上部に四角い口を開け、背中にも丸い穴があるので、かつては桟をはめ、灯をともして、道のありかを知らせる石灯籠だったとわかります。
星宿というのは、中国や日本の星座体型では、二十八の星宿が天の赤道の方向に沿って天空を分割していました。月、惑星は星宿の中を行き来し、太陽は一年で二十八宿を一巡りするというわけでした。

吉原講と大雄山

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参道四丁目の仁王門の前には高さ2mを超える大きな石の道標が参道をはさみ二基建っています左側の台石には「新吉原講」と大きく刻まれており、吉原道了尊参拝の講があり、その人たちが道標を建立したことがわかります。由緒を示す脇の石碑の銘文を要約すると、遊廓吉原が開かれた元和年間に吉原講が結成され、以来、大雄山に詣でていた。天明2年に国府津に道標を建て、明治13年に再建したが、その道標が明治35年の海嘯(かいしょう)で崩壊したため、36年に松田に再建したということです。吉原講がかなり古くからも有力な講であったことが解ります。
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明治40年の星宿燈建立も、この吉原講が行ったと考えられそうです。

星宿燈建立者の顔ぶれ

参廿一丁目の水常楼伊藤常吉は三業組合取締役等の公職に着いてはいなかったようですが、裏で吉原を仕切った大物でした。無縁の遊女を弔った浄閑寺の新吉原総霊塔や 震災犠牲者を悼んだ吉原観音、吉原神社の鳥居など吉原各所の石造物に名を残しています。個人的に建てている供養碑もあり地位に限らずひとりの人としての信心が窺えます。吉原今昔図等の編纂に関わった吉原の荒い一鬼氏からは、子供の頃池で遊んでいると危ないと怒鳴る怖いおじいさんだったというエピソードを伺いました。

軫廿八丁目の大きなな星宿燈を建てた中米楼は、吉原では最も奥にある大路の京町二丁目にあった妓楼です。吉原細見の格付けでは中見世にランクされ星宿燈建立者の中では一、二を争う大きな店と言えます。明治の廿八丁目星宿燈を建てた中米楼は、吉原の道了信仰の指導的立場にありました。