天王稲荷※1 に建つレトロ電柱。

現在は何も役割を果たしていないと思われますが、電柱だけが残っています。

電柱の中ほどには、何らかのネームプレートが埋め込まれていたと思われる窪みがあります。

支柱の根元部分。穴があいている部分には、電源のスイッチがあったのだと思われます。

天王稲荷※1 に建つレトロ電柱。
現在は何も役割を果たしていないと思われますが、電柱だけが残っています。
電柱の中ほどには、何らかのネームプレートが埋め込まれていたと思われる窪みがあります。
支柱の根元部分。穴があいている部分には、電源のスイッチがあったのだと思われます。
小田原城址の中にある郷土文化館。小田原を紹介する資料が展示されています。
人力車。
低学年用机と椅子。
昭和4年発行の「小田原全図」。初音新地の名が確認できます。
初音新地は、明治三十六年、東海道筋から現在の場所に移転して一廓を成したもので、妓楼は伊呂波楼、加納楼、菊本楼、松本楼、宝来楼、金昌楼の六軒ありました。*1
小田原初音新地は神奈川縣小田原町初音新地にあって、熱海線小田原駅で下車すれ…
今回は、印西(千葉県印西市)の町並みを散歩します。
JR成田線木下駅を下車し、北側へ向かうと、すぐに利根川の堤防に行きつきます。
かつて、この付近は、「木下河岸」と呼ばれ、江戸時代から明治時代にかけて利根川水運の要衝の地として栄えました。
最盛期には、50余りの旅籠屋や飲食店が軒を連ねていました(案内板より)。
また、木下河岸船頭小宿には、遊女がいました。*1
川べりにて。
大新旅館※1 では、日帰り入浴ができます。
大浴場へ向かう廊下。
大浴場の入口。卓球台があります。
古き良き昭和の面影が残る浴場。のんびりできます。
鶴見の本町通四丁目には、かつては多くの飲食店街※1 がありましたが、 現在はほとんど無くなっています。
奇跡的にこちらの一画だけが昔のままの姿で残っています。
スナック「はなぶさ」。3軒の店が連なっています。
側面はトタンです。
ニコニコ横丁飲食店街の奥に、「公衆浴場ニコニコ湯」の看板が見えます。
西側は開けていて、銭湯の建物の全景を見ることができます。
銭湯の南側には、二和川が流れています。
銭湯の入口。
残念ながら、令和4年9月30日を持って、閉店となりました(貼り紙より)。
馬込沢にある飲食店街。横丁風の共同建築です。
1階が飲食店街。2階が居住部分です。
天井部分。
最近、改修されたらしく、きれに塗装されています。
今回は、江の島(神奈川県藤沢市)の町並みを散歩します。
漁師町としての面影を残す東町の路地※1 から、頂上への道が延びています。
急な階段が続きます。
途中、平坦な場所がありますが、すぐに、急階段が続きます。
江の島ヨットハーバー方面の展望。
佐原の小野川沿いは、小江戸の風情を感じる町並みが残り、観光客にも人気のあるスポットです。その中で、3階の「カメラの三越」が異彩を放っています。
現在は、休業中です。
写真左奥は、観光スポットの町並みです。
建物の左上に取り付けられている看板。
天体望遠鏡や双眼鏡は、当時の主力商品だったようです。
今回は、西小山(東京都品川区)の町並みを散歩します。
西小山花街は、立会川の両岸300メートルの範囲にあり、花柳界の全盛は昭和10年前後で、芸妓は120人がいました。太平洋戦争が始まると戦時体制が強化のため、料亭・待合は営業停止となり、戦後再出発しましたが、戦前の勢いは失われていました。*1
料亭「寿づき」があったあたり。
その奥にも料亭がありました。
料亭「小港」「川よし」があったあたり。
P.163
西小山花街は、立会川の両岸300メートルの範囲にあった。
道後温泉から瀬戸風峠※1 を超え、さらに北側(松山市下伊台町) へ進むと、住宅街の北側に「道後城」の城跡があります。西側は赤鯉池、東側は山に囲まれています。
五層の天守。
大規模な石垣。
城跡は、元ラブホテルの建物で、2009年に競売にかけられました。*1
福生の旧赤線街のメインの通り*1※1 の東隣の通り。道幅の狭い通りにスナックが密集しています。
通りの奥まったところ。
趣のあるの和風スナック。
南端は、メインの通りと繋がっています。
菡萏(かんたん)遊廓があったメインの通りに、色鮮やかなタイルの装飾が施された建物があります。
鮮やかな水色のタイルです。
玄関部分の装飾。
まったく輝きを失っていません。
今回は、西大分(大分県大分市)の町並みと風俗を散歩します。
近代大分の発展の基礎となった菡萏(かんたん)港は、明治12年から築港工事が始まり、明治17年に完成しました。港が完成してからは、船員や出船を待つ客を相手にする遊廓が軒をつらね始め、紅灯の歴史が始まりました。菡萏(かんたん)、とは華やかな様、蓮花(はすの花)を意味するもので、明の阮林という人がこの地を見物に来たとき、地形が蓮花に似ているところからこの名が生まれたといわれています。*1
現在も、戦前からの町並みが保たれています。*2
遊廓の中央部に位置する建物。
玄関付近のタイルの装飾。
裏通りにもかすかに廓の雰囲気が残っています。*2
【参考文献】
*1 甲斐光:生石風聞録(甲斐光,1991)P.4,P.306,P345
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.80-P.81
今回は、南千住(東京都荒川区)の町並みと風俗を散歩します。
都電荒川線の終点の三ノ輪駅と国道6号線にの間に立つ梅沢写真館(旧王電ビル)に三ノ輪橋商店街(ジョイフル三ノ輪)の入口があります*1
建物の1階部分をトンネル状にくりぬくようにして商店街が続いています。
アーケードの入口。
ジョイフル三ノ輪は、荒川区随一の大商店街で。そのアーケードは、総長465mで、約130軒の商店がひしめきます。*1
【参考文献】
*1 交通新聞社:散歩の達人(2204.2)P.10-P.11
今回は、国立(東京都国立市)の街並みと風俗を散歩します。
国立の学園都市は、神田にあった東京商科大学(現在の一ツ橋大学)の国立への移転を前提に開発が行われました。これに伴い、大正15年(1926年)に国立駅が開業しました。*1
国立駅前のロータリーに「国立文教地区」の看板が掲げられています。文教地区とは都条例で指定されるもので、風営法の適用を受ける料亭・キャバレーやホテル・旅館建築、劇場、遊技場や馬券発売所など、風俗を乱す恐れがあるものが規制されます。*1
昭和25年(1950年)、朝鮮戦争が勃発すると、隣の立川市には米軍基地に多数の米兵が進駐してきました。その影響は国立にも及び、米兵相手の簡易旅館や飲食店などが出現し、いかがわしい商売を始めたため、環境を守ろうとする市民や学生を中心に、浄化運動が始まりました。国立の浄化運動の特徴は、「文教地区指定」をかかげたことでした。昭和25年のに公布された東京都文教地区建築条例に注目して、この指定の実現を運動の柱にすえ、昭和27年(1952年)文教地区の指定を受けました。*1
現在の国立駅前の「大学通り」は、並木道が続く美しい町並みとなっています。
千葉街道(国道14号線)沿いの商店。
アダルトショップです。
入口のドアは、アダルトショップらいしい雰囲気です。
看板。
野毛の飲食街。
飲み屋街が密集する一画です。
2軒ならんだ店舗。黒い柱が3本レイアウトされています。
柱は黒いタイルで装飾されています。
旧遊廓内には、スナック店が点在しています。ほとんどは本町12番地の一画です。
旧招福楼南東の四つ角付近。
スナックマナミの路地。
東側の通り。