島原(からゆきさん寄進の玉垣)東南アジアの都市の名と共に刻まれています。

大師堂の天如塔(からゆきさんの塔)の周囲には、たくさんの玉垣があります。天如塔の底面は正八角形になっていて、角の部分には大きめの玉垣が配置され、ここには寄進した額の大きなからゆきさん関係者の名前が刻まれています。
玉垣(120人)と周囲の石柱(12人)のに刻まれた外国在住者を分類すると、マレーシア(34人)、ベトナム(26人)、シンガポール(25人)、インドネシア(14人)、ビルマ(14人)、中国(8人)、タイ(4人)、韓国(3人)、ロシア(2人)となります。*1

アンナンは、ベトナムの総称で、漢字では、通常「安南」ですが、ここでは「阿南」と書かれています。トンキンは、ベトナム北部を指す呼称です。*1

写真の玉垣は、マレーシアの地名が刻まれています。*1
コウラカンサ(クアラ・カンサー Kuala Kangsar)
トロノ(Tronoh)
スポテノ
タパン(タパ Tapah)

同じく、マレーシアからの寄進の玉垣。
カラン(Karang)
カラシコワラ
マラッカ(Malacca)
スレンバン(Serenban)
の地名が確認できます。*1

【参考文献】
*1 倉橋 正直:愛知県立大学文学部論集. 一般教育編. (通号40)(1991)「からゆきさんの遺跡–島原の大師堂」P.30-P.33

参考文献

参考記事

島原(理性院大師堂)からゆきさんの遺跡である天如塔があります。

島原市内の南側の大師通りに、理性院大師堂があります。

本堂の横を行くと、灯台のような形をした奇妙な塔が現われます。
この塔は、「天如塔」、別名を「からゆきさんの塔」と言います。*1
「からゆきさん」とは、「唐人行(からひとゆき)」または、「唐ん国行(からんくにゆき)」という言葉が縮まったもので、幕末から明治期を経て第一対戦の終わる大正中期までの間、主に東南アジア方面にまで出かけて行って、外国人に肉体をひさいだ海外売春婦のことです。*2
玉垣には、寄進者のからゆきさんとその関係者の名前が刻まれています。

天如塔と玉垣は島原市の有形文化財に指定されています。

天如塔を建立したのは、島原で活動していた僧の広田言証師です。広田言証師は、1906年末から2年半、インドへ巡礼したとき、東南アジアの各地でからゆきさんと出会い、不幸にして異境の地で果てた娘たちのために供養を行いました。これが娘たちの帰依を呼び、からゆきさんたちの心ののよりどころとなり、多額の寄進を得、そのお金を日本に持ち帰り、天如塔を建立しました。*1

【参考文献】
*1 倉橋正直:島原のからゆきさん(共栄書房,1993)P.94-p.100,P.159-P.170
*2 山崎朋子:サンダカン八番娼館(筑摩書房,1972)P.7

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参考記事

福知山(新地裏の荒廃した神社)猪崎新地の名前が彫られています。

旧猪崎新地(福知山遊廓)の奥まったところに、城山へ続く石段があります。

石段を登っていくと、荒廃した神社があります。

燈篭に、「明治四十四年十二月吉日 猪崎新地 芸妓中...」と書かれています。遊廓の関係者が寄進したものと思われます。

神社から、旧猪崎新地方面を見たところ。遠くに音無瀬橋が見えます。

参考文献

参考記事

吉原(吉原神社)松葉屋の庭にあった久保田万太郎の句碑。

仲之町を裏門に向かって進むと、吉原神社*1 に行き着きます。

普段は人影まばらな吉原神社ですが、浅草名所七福神の一つであるため、初詣の人たちで賑わっています。

料亭松葉屋の取り壊しに伴い、松葉屋の庭にあった久保田万太郎の句碑が、吉原神社に移されました。*2
久保田万太郎は、浅草田原町の生まれの文人で、浅草の雷門の近くにも句碑があります。おそらく料亭の松葉屋に頻繁に遊びにきていたのでしょう。

「この里におぼろふたたび濃きならむ」と刻まれています。普段は見えず、水をかけると白く細い文字が黒い石肌に浮かびあがる「白粉彫り」という技法で彫られています。*1
この日は、すでに水がかけられていたのでしょうか。最初から白い文字がくっきりと現れていました。右下に小さく、「万」の一字があります。

【参考記事】
*1 風俗散歩:入谷~吉原(2005.9)吉原神社
【参考文献】
*2 石井妙子,渡辺憲司:東京人(都市出版,2007.3)P.46 「遊女の残り香を探して」

参考文献

参考記事

東向島(啓運閣願満稲荷)スーパーの奥にあります。

いろは通りに面したスーパ-マーケット。多くの買い物客で賑わっています。
昭和30年代までは、この場所に「玉の井文映」という映画館がありました。現在のスーパーはその建物を利用しています。*1

スーパーの奥に、稲荷神社があります。

病死した玉の井の娼婦や水子の供養をする稲荷神社です。*1

永井荷風の記念碑があり、荷風が描いた地図が掲示されています。

【参考文献】
*1 小針美男,川本三郎:追憶の東京(河出書房新社,2006)P.10

参考文献

参考記事

門前仲町(深川不動尊)洲崎パラダイスの額。

根津遊廓や洲崎遊廓では、成田不動尊(千葉県成田市)の信仰が盛んでした。明治2年、成田山の出張所が吉祥寺の境内に設けられ、明治11年には、不動堂が建設され、遊廓を含めた花街関係者の間で深川不動尊信仰が浸透していきました。*1

不動尊の本堂内を見回すと右手に大きな額があり、洲崎パラダイスの講中の名前が刻まれています。

額の中央には、奉納成田山 内陣五講....」、額の右側には、店の名が記述されています。

額の左側には、遊廓の関係者の名前が記されています。

【参考文献】
1* 岡崎征男:洲崎遊廓物語(青蛙房,1978)P.285-P.295

参考文献

参考記事

門前仲町(牡丹住吉神社)玉垣に洲崎の名前が刻まれています。

門前仲町の東寄り。巴橋をわたったあたりに牡丹住吉神社があります。

ビルとビルの間に住吉神社があります。案内板によると、このあたりは、深川七場所のひとつである佃があり、後に、辰巳花街として栄えました。

玉垣には、寄進した料理屋などの名前が刻まれています。

洲崎、二楽の名前があります。洲崎の人たちが信仰していたようです。

【参考文献】
*1 中沢けい:私だけの東京散歩 下町・都心篇(作品社,1995)P.31

参考文献

参考記事

倉賀野(倉賀野神社)飯盛女が寄進した玉垣が残されています。

旧道から脇道を一本入ったところに倉賀野神社があります。
境内の入口の玉垣は、もともとは、冠稲荷神社(三光寺稲荷)にあったものが移されたものだそうです。*1

倉賀野宿の飯盛女は、寛保2年(1742年)に1軒2人づつを旅籠屋に置くことが許可されたのがはじまりで、明治中頃までその営業を続けました。*1
「升屋内はな、やす、ふじ」、「金沢屋内里津、ひろ、きん」、「新屋奈美、玉屋内ふじ」などと刻まれた玉垣がそのまま残っています。*1

升屋内はな、やす、ふじ。

また、元紺屋町の糀(こうじ)屋藤治郎、田町の桐屋三右衛門、ほか、高崎宿の名ある商家、職人の名もあります。*2

【参考文献】
*1 高崎郷土花街史 P.51-P.52,P.61
*2 倉賀野神社入口にある案内板

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この記事を参照している記事

倉賀野(倉賀野神社)文久3年、三国屋つねが寄進した常夜灯。

浅草橋(篠塚稲荷神社)玉垣に料亭の名前が刻まれています。

神田川から通りを一本入ったところに、篠塚稲荷神社があります。

正面の石柱。東京柳橋組合の名前があります。

側面の玉垣。両国花火組合、料亭の「いな垣」、「田中屋」の名前が刻まれています。

両国花火は江戸の年中行事になり、主催者である柳橋の名前は全国に知れわたりました。両国花火は、柳橋の広告塔のようなものでした。*1

【参考文献】
*1 牧太郎:東京人(2000.6)「柳橋」江戸からの芸者町の灯が消えた (特集 芸者さんに会いたい 新橋、赤坂、芳町、神楽坂、浅草、東都五花街探訪) P.72-P.73

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川崎大師(エリザベス神輿)ピンクの男根。でっかいまら、かなまら!。

いよいよ祭りのメインイベントである神輿の渡御(とぎょ)の時間が来ました。まず、黒光りする男根神輿の「舟神輿」です。
「舟神輿」は、江戸時代、みかんの商いで巨万の富を得た紀伊国屋文左衛門に因み、日立造船(株)神奈川工場の有志により奉納されました。*1

圧巻は、このエリザベス神輿。浅草橋にある女装クラブ「エリザベス会館」が寄贈した神輿で、神輿の担ぎ手は、エリザベス会館の会員である女装した男性です。*2

3つの神輿(舟神輿、かなまら神輿、エリザベス神輿)が町をねり歩きます。

「でっかいまら、かなまら!でっかいまら、かなまら!」と女装した男性たちの掛け声と共に、神輿は進みます。
担がれている神輿は、上下に揺れるので、ピンクの男根が空に向かってピストン運動しているように見えます。

【参考文献】
*1 金山神社:かなまら祭配布資料(2007)
*2 杉岡幸徳:日本トンデモ祭(美術出版社,2005)P.28-P.29

参考文献

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川崎大師(金山神社のかなまら祭)満開の桜が出迎えてくれました。

今回は、川崎大師(神奈川県川崎市)の町並みと風俗を散歩します。
京急川崎大師駅から徒歩3分のところに、金山神社があります。

毎年4月の第一日曜日は、「かなまら祭」が開催される日です。今年は、満開の桜が出迎えくれました。

祭りにかかせないのが神輿ですが、ここの神輿は奇妙な形をしています。

「かなまら祭」は、川崎宿の飯盛女たちが、商売繁昌と梅毒除けを願って、金山神社の御神体である男根を持ち出して、神社で花見をしながら宴会を開いたのがはじまりとされています。日本ではあまり知られていない祭りですが、海外では、「京都祇園祭」や「ねぶた祭」よりもはるかに有名な祭りです。*1

【参考文献】
*1 杉岡幸徳:日本トンデモ祭(美術出版社,2005)P.27-P.29

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吉原(大鷲神社の酉の市)有名人の売約済みの札。

大鷲神社では、今年の酉の市が行われていました。熊手には有名人の売約済みの札がつけられています。
江戸時代、宝暦・明和年間(1750~60)にはすでに酉の祭は相当な賑わいで、それ以前から年中行事として行われていました。*1

演歌歌手の北島三郎。

平沢勝栄副大臣

石原都知事とその息子たち。

参考文献

*1
浅草鷲神社浅草 鷲神社公式ホームページ浅草鷲神社 リンク
御由緒 十一月酉の日の午前零時に打ち鳴らされる「一番太鼓」を合図に始まり、終日お祭が執り行われます…

参考記事

吉原(吉原弁財天)花立てに新吉原女子保健組合の文字。

吉原弁財天の中に弁天堂があります。

鉄柵に囲まれている弁天堂には、酉の市の熊手が飾られていました。

弁天堂の鉄柵内の左右に、小さな石の花立が立っています。右側の花立には、「吉原飲食店組合」の文字が読み取れます。

左側の花立てには、「新吉原女子保健組合」の文字が読み取れます。
戦後、GHQの命令により、公娼制度が廃止された結果、前借金で奴隷的に娼妓の身分を拘束することができなくなりました。売笑は自由意志となったので、性病予防制度も従業婦の自主的運営に任されることになりました。これによって誕生したのが「新吉原女子保健組合」です。*1

【参考文献】
*1 新吉原女子保健組合:赤線従業婦の手記(復刻版「明るい谷間」)(土曜美術社,1990)P.189

参考文献

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真金町・永楽町(大鷲神社の玉垣)桂歌丸さんの玉垣があります。

大鷲神社の玉垣は、最近作られたと思われる新しいものですが、右の角に一本だけ黒御影石でできた古い玉垣があります。

表面の上部には、「遊廓」の二文字が刻まれています。

裏面には、3cm四方の枠入れの穴があり、奉納した年月「明治四十壱年四月納」が刻まれています。大鷲神社は、関東大震災と横浜大空襲により、遊廓とともに消失しましたが、玉垣のうち完全なものを一本だけ再利用したものと推察されています。*1

落語家の桂歌丸さんの玉垣があります。桂歌丸さんが住んでいた家は、真金町の遊廓「富士楼」でした。椎名巌(いわお)少年(本名)は、富士楼を切り盛りしていた祖母に遊廓内で育てられました。巌少年は、店の女の子たちに、「坊や、坊や」と可愛がられたそうです。*2

【参考文献】
*1 中村数男:横浜の遊廓の研究(横浜開港資料館)P.40,P.77
*2 桂歌丸:週刊文春(2002.11.7)「家の履歴書397」P.70-P.73

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真金町・永楽町(大鷲神社)明治15年に現在地に移されました。

大鷲神社は、はじめ高島町遊廓の中にありましたが、高島町遊廓が真金町・永楽町に移転されることに伴い、明治15年にこの地に移されました。
大鷲神社の祭事に、酉の市があります。今年の酉の市は、11月4日、16日、28日です。

大鷲神社の中に、稲荷神社があります。
稲荷神社の賽銭箱のところに、遊廓の楼主と思われる2名の寄進者の名前が書かれています。

狛犬の裏側にも寄進者の名前が書かれています。松葉本店の松葉幸次郎は、理容館「永真軒」の顧客名簿(昭和18年7月付)に記載されており*1、当時の松葉楼の楼主であった人物であると思われます。

灯篭にも寄進者の名前が書かれています。「第三長盛」と右から書かれています。理容館「永真軒」の顧客名簿に長盛(支店)の名前があります*1 ので、「長盛の三番目の支店」という意味だと思います。下に書かれている名前は、楼主の名前であると推察されますが、判読が困難です。

横浜の遊廓建設は、「開港条約の締結(1856年)に伴い、必須条件の施設の一要素の一つとして、遊里の設置は、幕府の当事者と某領事との間の非公式折衝に成ったもの*2」とされており、都市建設の中で遊廓が建設されました。*1
作家の山崎洋子さんは、第32回江戸川乱歩賞を受賞した「花園の迷宮」の中で、横浜の遊廓と真金町・永楽町の遊廓について、次のように紹介しています。*3
「横浜の遊廓は、港崎(みよざき)遊廓(万延元年,1860年)に始まる。現在の横浜公園がその場所だ。-中略-だが、色街につきものの大火に何度か襲われ、遊廓はその都度移転した。吉田新田、高島町、そして明治15年に現在の真金町と永楽町の一部に落ち着いた。運河(現在は埋め立てられて大通り公園)を渡った向こうには、私娼街の曙町があり、そこは東京の玉の井同様、迷路のように道が入り組んでいる。しかし真金町は、柳並木の整然とした通りで区切られていた。」
【参考文献】
*1 中村数男:横浜の遊廓の研究(横浜開港資料館)P.1,P.77
*2 横浜市:横浜市史稿風俗編(臨川書店,1985)
*3 山崎洋子:花園の迷宮(1989,講談社文庫)P.32-P.34

参考文献

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今里(朝日湯)住宅街の中の銭湯。府道159号平野守口線。

生野小路郵便局の近く、大阪府道159号平野守口線の住宅街。

商店がまばらに建ち並ぶ通り沿いに、銭湯の朝日湯があります。

温泉マークのある看板。

朝日湯と書かれた煙突。

参考文献

参考記事

吉原(吉原弁財天)大門のレプリカ。福地桜痴の詩の復刻。

吉原弁財天へ立ち寄りました。入口には大門のレプリカが立っています。

右の石柱に「春夢正濃満街桜雲(しゅんむまさにこまやかなりまんがいのおううん)」、これは仲之町通りに一夜で植えられた数千本の見事な桜樹を描写しています。*1

左の石柱には「秋信先通両行灯影(しゅうしんまさにつうずりょうこうのとうえい)」とあり、享保11年(1726年)の春に急逝した、角町中万字屋(なかまんじや)の玉菊という花魁の追善供養のための盆灯篭が連なるさまを詠んでいます。*1 この燈篭は、俗に「玉菊燈篭」と呼ばれ、吉原の年中行事とされ、仲之町の桜、俄(にわか)とともに、吉原三大景容のひとつと数えられました。*2

石柱に彫られている詩は、これら「吉原三大景物」の一つづつを詠み込んだ福地桜痴の詩の復刻です。*1

*1 岡崎柾男:江戸東京伝説散歩(青蛙房,2005)P.143
*2 西山松之助:遊女(東京堂出版,1994)P.187

参考文献

参考記事

甲府(オリンピック通り)

今回は、甲府(山梨県)の町並みと風俗を散歩します。
甲府の中心街にあるオリンピック通り。青色のゲートが印象的です。

案内図。

飲食店がひしめき合っています。

反対側から。

参考文献

参考記事

松戸(平潟神社)妓楼の主が狛犬を寄進しています。

平潟遊廓の形跡を残すものに、平潟神社があります。

九十九楼(後の三井家)の名前が刻まれています。

鶴宝菜の楼主、山田文蔵が狛犬を奉納しています。山田文蔵は、立石の農家の出身で、下肥を船で運んで来て、平潟遊廓で遊びを覚えて儲かることを知り、娼婦のおつるを囲い鶴宝菜の名で店を持ちました。*1

もう一つの狛犬は、逢菜家の鈴木亀右衛門が奉納していますが、鈴木亀右衛門は、娼妓が首を吊って死んだので、それを機に廃業しました。*1

【参考文献】
*1 渡邉幸三郎:昭和の松戸誌(崙書房出版,2005)P.39

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松戸(池田弁財天)平潟遊廓の娼妓が信仰していた弁天様

松戸駅前のソープランド「角海老」から5分ほど歩いた所に、松戸市役所がありますが、市役所の隣の京葉ガスビルのビルの谷間に池田弁財天があります。
鳥居のトンネルがあります。

池田弁財天は、平潟遊廓の娼妓が、下の病気にかからぬよう、お客がうんと入るよう祈った弁天様です。*1 きりん亭猿像さんの、遊女の祈願(池田弁財天霊験記)*2 が紹介されています。

願をかける時は、奉納してある石の蛇の頭を欠いて持って帰り、めでたく成就した時は、新しい石蛇を奉納する慣わしだそうです。*1

現在は、手芸の神とも言われ、華道の先生やお弟子さんが詣でているそうです。*2

【参考文献】
*1 渡邉幸三郎:昭和の松戸誌(崙書房出版,2005)P.43
*2 きりん亭猿像:遊女の祈願(池田弁財天霊験記)(松戸史談17号)P.31

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吉原(一葉桜まつり)花魁道中。花魁ショー。

吉原のはずれの千束通りを行くと、一葉桜・小松橋通りと交差します。通りには、一葉桜(八重桜の一種)が植えられています。この日は、一葉桜まつりが行われていました。一葉桜まつりは、一葉桜が植えられた2002年から始まり、今年で4回目だそうです。

まつりの目玉は、花魁道中です。もちろん、これは、当時のものを再現したものです。禿(かむろ)、花魁、振袖新造の順です。

ステージが用意されており、そこでは、花魁ショーが行われました。写真は、花魁が杯を飲み干した場面です。

最後に、花魁の撮影タイムがありました。

参考文献

参考記事

東向島(白鬚神社)吉原の松葉屋半左衛門奉納の狛犬。

玉の井から、いったん東向島の駅へ戻り、そこから隅田川方面へ向かって散歩してみることにしました。東向島三丁目に白鬚神社があります。

漢字は、「白髭」ではなく「白鬚」のようです。大辞林には、『「髭」はくちひげ、「鬚」はあごひげ、「髯」はほおひげ、の意で書き分ける』と載っています。

案内板を見ると古い神社であることがわかります。平安時代に、現在の滋賀県にあった白鬚大明神を分霊して祀ったのが起源ですので、なんと千年以上の歴史があることになります。

神社の狛犬は、山谷の料亭「八百善」の八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が奉納したものだそうです。

参考文献

参考記事

人形町(末廣神社)400年以上の歴史を持つ神社。

人形町2丁目に末廣神社があります。

末廣神社は400年以上の歴史を持つ神社です。元吉原の総鎮守社として信仰されてきました。

神社に日本酒が奉納されています。末廣酒造という会社があるようです。

吉原移転後は、花街として繁栄したようです。

参考文献

参考記事

天王町(稲荷神社)玉垣に刻まれたカフェーの名前。

小さな稲荷神社があります。

正面の石柱に「新天地カフェー組合」と刻まれたプレートが取り付けられています。

玉垣に寄進者のカフェーの名前が刻まれています。

尾張屋橋の登り坂の途中から見たところ。

参考文献

参考記事

北千住(元宿堤稲荷神社)おばけ煙突守護社。

千住には「お化け煙突」と呼ばれる大きな煙突が町のシンボルとなっていたそうです。千住柳町はお化け煙突の麓にあったわけです。
元宿堤稲荷神社はこの「お化け煙突」の守護社となっている神社です。

正式には「千住4本煙突」と呼ぶそうです。

略記に「4本煙突」の由来が説明されています。

狛犬

参考文献

参考記事

入谷~吉原(吉原今昔図)吉原神社。妓楼の配置図。

吉原弁財天のすぐ近くに吉原神社があります。

境内には、「吉原今昔図」が掲示されています。

明治時代から現在に至るまでの、妓楼の配置が描かれています。

吉原遊廓の写真や地図、解説もあります。

参考文献

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入谷~吉原(愛護地蔵尊)吉原で働いていた女性の水子を供養。

吉原弁財天の中に愛護地蔵尊と呼ばれる吉原で働いていた女性の水子地蔵があります。

「生まれるべく体内に宿りし水子も母なる生命保護のため人工妊娠中絶によって無明の境に失われていく悲憐なる幼い霊を供養する」と石碑に記されています。

愛護地蔵尊の正面の右側の玉垣には角海老の名前が刻まれています。

周りの玉垣。「新吉原カフェー」と記されています。その横の名前はカフェーの店の名前のようです。

参考文献

参考記事

入谷~吉原(花吉原名残碑)吉原弁財天。庄司甚右衛門の碑。

途中、吉原弁財天へ立ち寄りました。ここには数多くの見所があります。

「花吉原名残碑(はなのよしわらなごりのひ)」は、吉原が、江戸唯一の幕府公認の遊郭であり、昭和33年の売春防止法が施行されるまで続いていたことを名残惜しむ碑です。

花吉原名残碑の隣には、幕府の許可を得て元吉原を開業した庄司甚右衛門の碑があります。

案内板があるので、これを読むと吉原の歴史を知ることができます。

----花吉原名残碑(はなのよしわらなごりのひ)----
吉原は、江戸における唯一の公許の遊廓で、元和三年(1617年)、葺屋町東隣(ふきやちょうひがしどなり、現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は、植物の葭(よし)の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良いう文字に改めたことによるという。
明暦三年(1657年)の大火を契機に、幕府による吉原遊廓の郊外移転が実行され、同年8月、浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び、移転前の遊廓を「元吉原」という。
新吉原は、江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和三十三年「買春防止法」の成立によって廃止された。
(後略)

参考文献

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宝山寺(宝山寺参詣)森の中の幻想的なお寺です。

旅館が立ち並ぶ石段を登り、宝山寺へ参詣することにします。鳥居までは、ゆるやかな石段が続き、幻想的な気持ちになります。とても静かです。

日頃の運動不足がたたり、石段の登りは足腰にこたえます。なんとか本堂に到着。

森の中に寺院が散在しています。生駒市街が見渡せます。

斜面の深い森に吸い込まれるように多宝塔が見えます。

参考文献

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