飯沼観音の五重塔の近くの「元祖今川焼さのや」の向かい側にある衣料店。

店の脇にコンクリゴミ箱が残されています。大型で、前面の木製扉など、保存状態良好です。

後ろ側から。

上蓋も開閉可能です。

飯沼観音の五重塔の近くの「元祖今川焼さのや」の向かい側にある衣料店。

店の脇にコンクリゴミ箱が残されています。大型で、前面の木製扉など、保存状態良好です。

後ろ側から。

上蓋も開閉可能です。

圓福寺(飯沼観音)の五重塔の近くに、元祖今川焼さのやがあります。

さのやは、1907年の創業。さのやの今川焼は、銚子で知らない人はいないほどの名物となっていて、1日に1000個以上売れる日もあるそうです。*1

店内。

今川焼とかき氷を注文。

利根川に面した通町にある源長食堂。食堂だけでなく米穀店も営んでいるようです。

南側が店の入口です。

エアコンはありませんが、潮風が入る、ここちよい空間です。

冷やし中華そばとビールを注文。

国木田独歩詩碑※1 から、さら西へ向かいます(写真左奥は海鹿島海岸)。

坂を下る途中に、竹久夢二詩碑があります。

竹久夢二※2※3は、明治末期から大正にかけて活躍した叙情画家であり詩人です。宵待草(よいまちぐさ)は、海鹿島海岸にひっそりと咲き乱れる宵待草によせて、わが身の悲恋をうたった詞です。*1

宵待草の詞は、ヴァイオリン奏者・多忠亮が曲をつけることにより、唱歌として日本中で人気を得て、後々まで歌いつがれていきました。

国木田独歩詩碑
明治文壇に不朽の足跡を残した国木田独歩をしのんで、海鹿島…
銚子電鉄に乗って海鹿島(あしかじま)駅で下車。徒歩約10分のところに、国木田独歩の碑があります。

自然石を活用した詩碑で、「山林に自由存す」の一節が刻まれています。*1

なつかしき わが故郷は何処ぞや 彼処にわれは 山林の児なりき
(懐かしい私の故郷はどこにあるのか。ここでは私は山林を愛する自由の児であったことよ。)*1

慶応4年9月播州龍野藩の神龍丸が銚子沖で難破しました。*2※1
この船に乗っていた国木田専八は、銚子に滞在中、新生村(現在の銚子市新生町)の淡路善太郎の妹まんと知り合い、明治4年7月、ふたりの間に独歩が生まれました(案内板より)。

国木田独歩詩碑
明治文壇に不朽の足跡を残した国木田独歩をしのんで、海鹿島…
P.399
怒涛さかまき暗礁乱立する銚子近海は、今もって難破するものが絶えな…
円福寺本殿の前庭一隅に「竜王殿」と呼ぶ小堂に、大きな外国婦人の立像が安置されています。*1

案内板によると、この立像は、国木田独歩の父である専八が乗船した龍野藩の神龍丸の船首像だそうです。

当時の像を写したと思われる写真。

現在、像は綺麗に修復されています。
この立像は、観音堂裏の花街、田中町※1 の女性たちの信仰を一手にあつめたそうです。*1

P.399
怒涛さかまき暗礁乱立する銚子近海は、今もって難破するものが絶えな…
銚子駅から観音駅方面へ向かう途中。

松の湯は、銚子で唯一残る銭湯です。昼間の時間帯から営業しています。

お湯で洗濯できます。

道路側にまわると煙突がよく見えます。

今回は、銚子(千葉県銚子市)の町並みを散歩します。
銚子駅前の通り「シンボルロード」の街路灯の柱の壁面には、国際信号旗の模様が埋め込まれています。

国際信号旗は、船舶の通信のために、世界共通で使われている旗で、 アルファベットの文字旗26枚、数字旗10枚、代表旗3枚、回答旗1枚の 40枚で構成されています。 一つの信号旗によってアルファベットや数字、街路灯には、銚子 「C H O S H I」、 シンボルロード 「S Y M B O L R O A D」 と表示されています(駅前の案内板より)。
柱に縦に配置された信号旗。「C H O S H I」と書かれています。

柱の周囲に配置された信号機。 「S Y M B O L R O A D」と書かれています。

せみの抜け殻。

松岸駅から利根水郷ラインを銚子方面へ向かうこと徒歩約20分。

海鮮丼が名物の郷土料理店です。

舟盛りの海鮮丼は、少し値が張って¥1,800です。

「海鮮丼(舟)」とビールを注文。

良福寺に松岸遊廓の開新楼の楼主だった宇野澤宇兵衛の墓が建っています。寺の中でも最も大きく作られています。*1

明治31年(1898)に銚港神社に奉納された石灯籠には松岸遊廓の貸座敷、開新楼、新盛楼、稲松楼、銚港楼の4軒が確認できるが、開新楼は経営不振に陥った貸座敷を買得した宇野澤宇兵衛によって開業されたと伝えられています。*1

明治後期以降、昭和16年(1941)の遊廓解散まで松岸遊廓において営業を続けていた貸座敷は、第一、第二開新楼の2軒であった。特に第二開新楼は、建物の壮麗さから、昭和初期の遊廓案内書(全国花街めぐり)では「龍宮城」などと形容されました。*1

92歳で去った宇野澤宇兵衛の墓には「遊廓再興居士」としるされています。*2

P.73
良福寺の過去帳に遊女の記載が初めてあらわれるのは享保9年(1724)の…
P.9
楼主宇野澤宇兵衛翁は、新盛楼を買収し、増築、造園、業務拡大、娘芝居…