今回は、鶴見(神奈川県横浜市鶴見区)の町並みを散歩します。
JR鶴見線高架下にあるレストラン「ばーく」。

カツ、ハンバークなど、ボリューム満点のメニューばかりです。人気のハムカツは、4切れが1000円、2切れが800円。4切れの方が断然お得です。

ハムカツ(4切れ)とビール。そしてライス中盛を注文。

ライス中盛は550グラム。中盛なのに物凄い盛りです。大盛は1Kgだそうです。

今回は、鶴見(神奈川県横浜市鶴見区)の町並みを散歩します。
JR鶴見線高架下にあるレストラン「ばーく」。

カツ、ハンバークなど、ボリューム満点のメニューばかりです。人気のハムカツは、4切れが1000円、2切れが800円。4切れの方が断然お得です。

ハムカツ(4切れ)とビール。そしてライス中盛を注文。

ライス中盛は550グラム。中盛なのに物凄い盛りです。大盛は1Kgだそうです。

京急生麦駅の近く。国道15号線沿いに、銭湯の朝日湯があります。

立派な千鳥破風の外観。

入口。

高い天井を持つ広い空間です。

幸手市街から大正新道を北へ進み、東武日光線の踏切を超えたところにある「そば処 薮」。
看板の錆び具合が年季を感じさせます。駐車場完備です。

建物の外観は、綺麗です。

レトロ感満載の店内。

けんちんそばとビールを注文。

桜の名所として広く知られ幸手のシンボルとなっている権現堂堤ですが、現在の堤は明治の洪水とのたたかいから生まれたものでした。*1

かつての権現堂川は、いったん洪水で決壊しようものなら、すぐさま首都・東京に洪水をもたらすおそれがあったため、明治政府は、ここに新たに堅固な堤防を築きました。しかし、重なる洪水に悩まされた政府は、権現堂川を廃川とすることにしました。この計画を知った地元の人々は、堤に桜の樹を植え始め、その桜は順調に成長し、権現堂堤は生まれ変わりました。*1

桜の名所として有名となったこのころには、花見のときには、東武線浅草駅から幸手駅まで、臨時電車が出て、露天商が軒を連ね小屋掛けをし芝居などの興行も行われ、幸手の町中には検番があり芸者を呼ぶ人たちもいました。芸者衆による観桜会流し踊りも行われました。*1*2

現在も、花見の時期になると、堤には露店が並びます。

今でこそ桜の名所として広く知られ幸手のシンボルとなっている権現堂堤ですが、…
大正14年4月
大正9年から植えられた桜は見事に育ち、シーズンには多数の人手…
宿場町として栄えた幸手宿は、近代に入ってからは「商業のまち」としてて発展していきました。*1

旧日光道中の表通りは、米穀商や肥料商、呉服商などが軒を連ね、近隣からそれらの物資を集荷し東京方面を中心に販売する問屋的性格をもっていました。*1

ビニールの青木商店、洋品のタムラは、当時の地図にも記載のある大正時代から続く店です。*2

このあたり(「NOGUCHIDO」※1 の向かい)には、芸妓置屋もありました。*2

宿場町として栄えた幸手宿は、近代に入って宿場としての役割を終えた後は、商工…
久喜新道の西側に芸妓業 石村きん
交差点近くに、
小間物商 田村、
荒…
旧幸手宿の通りは、古い建物が多く残っています。

洋風のモダンな建物。

「NOGUCHIDO」と読み取れます。「大正5年頃の幸手町街並み図」*1 に記載されている野口氏の「東京用達」と思われます。

道路面に沿っている建物の1階部分に対し、2階部分は角度がつけられています。

今回は幸手(埼玉県幸手市)の町並みを散歩します。
旧幸手宿の面影を残す通りは、明治期に栄えた頃の面影が残っています。
永文商店は、明治36年に創業しました。*1

日本酒「櫻冠(おうかん)」の大瓶が展示されています。

店の脇に残るトロッコ軌道。現在も使われているようです。*1

店舗の建物の側面には、松尾芭蕉の姿が描かれ、芭蕉が詠んだ句が添えられています。

千代ケ崎砲台は、日清戦争中の明治28年に竣工したもので、長時間の敵艦との砲撃戦と籠城戦に耐えられるようにつくられました。そのため、地下部分に、弾薬庫や居住地区等が堅固に作られています。*1

砲座へのトンネル通路。*1

敵艦の射撃から防御する目的で、周囲は厚い土塁で覆われ、そのため、砲座は12m底に置かれています。*1

砲台脇の桜が見頃をむかえています。

「柳町跡の碑」※1 が建っている通りは、かつては、「一松」「㐂楽」「三好」「玉川」「分久美八」「つちや」「宮蔵」「久美八」などの旅館が建ち並ぶ歓楽街でした。*1

旅館「くらや」があったあたり。*1
旅館の風情のある意匠が残っています。

東側に路地を入ったあたりには、「きみ子」「あたご」「ユー」などの飲み屋がありました。*1

カギ型に曲がった道の先が、かつての柳町の歓楽街です。

常福寺※の北側。柳町町内会館がある通りは、愛宕山麓から久里浜台へ向かう坂道です。

戦後、浦賀港が漁港として栄えた頃、このあたりは「柳町(やなぎちょう)」と呼ばれる歓楽街でした。

柳町の碑。

まちの風情を豊かにするため、部分的に柳の木が植えられ、そのまま町名になったといわれています(案内板より)。
