木浦(女郎の墓)四角く石を並べて残っています。

バス終点の木浦鉱山バス停から林道を6.9km。徒歩で約3時間かけて女郎の墓までたどり着きました。

雑木林の中に石塚が20基あまり散見されます。

木浦山は鉱山の発達に伴い成立した鉱山町で、人口は、最も多かった元禄12年(1699年)のときで568人でした。良鉱が発見されたとき、周辺の村々からの出稼ぎもあったと思われるので、こうした人の集まるときには、赤提灯や木賃宿が繁盛し、「女郎」もいました。女郎が死去したときは、葬式や埋葬など論外で、このような雑木林の中に打ち捨てられました。このように埋葬された場所には申し訳程度に簡単に川石で墓碑などが作られていることが多く、人間の末路としては極めて悲哀を感じるものです。(案内板より)

普通の人でも墓が何百年も残るのは極少ないのに、女郎の墓と言われているものが四角く石を並べて残っているのは、不思議と言われています。*1

【参考文献】
*1 米田寿美:木浦鉱山むかし物語(梅路,2003)P.155

木浦(遊廓跡地)鉱山跡「千人間府」の近くにありました。

木浦鉱山バス停から林道を登り、横岳をまくあたりまでくると、正面に天神原山(995m)が見えてきます。

しばらく行くと、「千人間府(せんにんまぶ)」と書かれた看板があります。

天神原には遊廓があり、場所は「千人間府 」の右側の谷で竹藪になっているところと伝えられています。*1

千人間府。木浦鉱山最大の坑道でした。

【参考文献】
*1 米田寿美:木浦鉱山むかし物語(梅路,2003)P.156

木浦(終点のバス停)エメリー鉱山の入口

今回は、木浦(大分県佐伯市)の町並みと風俗を散歩します。
木浦は大分県の南端(宮崎県との県境近く)にある町です。JR日豊線佐伯駅からバスで約2時間。終点の木浦鉱山バス停に到着します。

レトロなバス停です。バスは平日のみ1日3往復しかありません。

付近には、「千人間府」と呼ばれる鉱山跡や遊女の墓があります。

ここから、「千人間府」までは4.3Km、遊女の墓までは6.9Kmの道のりです。

中津(一番橋)石碑が建てられています。

幕末明治の頃、中津城近くの通称「一番橋」と呼ばれた橋で堀川を渡った場所に、銀杏町と呼ばれる公許の遊里がありました。*1

「一番橋」の現在の標柱は、昭和62年に復元されたものです。*1

この付近は舟小屋、高札場、番所など藩の重要施設があったため、おおいに賑わいました。(案内板より)

「往こうか銀杏町、戻ろうか船場、ここが思案の一の橋」と俗謡に歌われました。*1

【参考文献】
*1 ふるさとの歴史「37.幕末時代の銀杏町に残る料亭の「日田屋」の面影」

中津(桜町の花街跡)寺町の門前

現在の船町付近は、かつては桜町と呼ばれる花街でした。
明蓮寺、善教寺、天満宮の門前の要素が強く、町名も艶っぽく「桜町」と呼ばれました。(写真の案内板より)
全国女性街・ガイド*1 には次のように紹介されています。「芸者は市内中央の桜町界隈にあって275名の殷盛ぶり。但し、五分の四は芸者というより酌婦級である。」

この付近には、「中津合併検番」と「櫻券芸妓組合事務所」の2軒の検番がありました。*2

現在も料理屋が建ち並んでいて風情のある町並みです。

割烹旅館。

【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.201
*2 米村六松:最新中津町全圖(都市調査協會,1925)

中津(中津駅)福沢諭吉先生の銅像

今回は、中津(大分県中津市)の町並みと風俗を散歩します。
中津といえば、1万円札でおなじみの福沢諭吉先生の生まれ故郷です。

中津駅には、福沢諭吉先生のコーナーがあります。

「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」

明治時代、「『からゆき』国恥論」が叫ばれていましたが、明治の先駆者の中には、「からゆき国益論」を唱えるものもいて、福沢諭吉もその中の一人でした。福沢諭吉は、「文明開化」のさなかに、『学問のすすめ』を著して人々の啓発を促しましたが、福沢諭吉のとらえた「文明」とは、国防論であり、弱肉強食のための技術でした。福沢諭吉は、明治29年1月の「時事新報」に「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」という評論を書き、娼婦の海外への出稼ぎは日本の「経世上必要なる可」しと、真面目に説きました。*1

【参考文献】
*1 金一勉:日本女性哀史(現代史出版会,1980)P.211,P.234

杵築(近藤医院)呆れる程の女性遍歴

杵築の城下町には、江戸時代からの町家の遺構が数多く残されています。*1

北新町の近藤医院は、一部に洋風建築を模した部分がある明治42年の建物ですが、元は「旭屋」という屋号の遊廓の建物でした。*1*2
この建物には、日本人オペラ歌手の草分けとされる藤原義江さん(藤原歌劇団の創設者)が幼少の頃に居住していました。*3
藤原義江さんの呆れる程の女性遍歴は有名でした。雑誌の取材記事「果てしなき”性”への執念<告白>(わが老後の性生活)」*4 の中で、当時74歳だった藤原さんは、次のように述べています。
「私にはセックスの有無にかかわらず恋愛のない日はない。毎日が恋愛を食べているようなものだから。恋愛の相手の女性はそう、下は10代から上は60代まで数限りなくいたが...」

背後に建つ3階建ての客室は、大正8年の建物です。*1

内部には庭園があります。

【参考文献】
*1 杵築市:伝統的建造物群保存対策調査報告書(杵築市教育委員会,1981)P.75,P.91
*2 松川洋輔,他:日本建築学会研究報告. 九州支部.計画系(2006)「近藤医院(旭屋建物・三階楼)についての実測調査による研究」P.757-P.760
*3 藤原義江:藤原義江(日本図書センター,1998)P.13-P.15
*4 藤原義江,他:潮(1972.11)P.240-P.241「果てしなき”性”への執念<告白> (わが老後の性生活(特集))」

杵築(花魁道中)お祭りのハイライトです。

杵築は、日本唯一のサンドイッチ型城下町です。南北の高台に武家屋敷があり、その谷間に商人の町が挟まれている地形的な特徴のことをサンドイッチ型と呼んでいます。
毎年ゴールデンウィークの時期に、「きつきお城祭り」が開催されます。

お祭りのハイライトは、花魁道中です。

2組の花魁の行列が練り歩きます。夜もふけると、花魁の行列は妖艶な雰囲気を醸し出します。

最後は記念撮影。

杵築(白ポスト)和風の駅舎の脇

今回は、杵築(大分県杵築市)の町並みと風俗を散歩します。
JR日豊本線の杵築(きつき)駅は、城下町らしい和風の駅舎です。

駅舎の脇に白ポストがあります。

「青少年に有害な図書はこのポストへ入れてください。」と書かれていますが...。

新聞紙やゴミのようなものも入れられているようです。

戸部(掃部山花街跡)井伊直弼に因んだ地名

現在の花咲町(掃部山公園の東側一帯)付近には、掃部山(かもんやま)と呼ばれる花街がありました。*1
横浜駅(現在の桜木町駅周辺)周辺は、明治末期から商業の町として発展を続け、中でも横浜船渠株式会社(後の三菱重工業株式会社横浜造船所の創立は、ドック周辺の店の繁盛につながっていき、岩亀横丁などを中心に飲食店ができるようになりました。さらに会社の応接室のように、掃部花街の利用も多くなっていき、掃部山の芸妓組合は35店をもって顧客に好評でした。*2
地元の方の話によると、写真の通りには料亭が建ち並び、三味線の音が漏れ聞こえ、とても情緒があったそうです。

現在は、住宅地となっていて花街の面影はありません。

昭和31年(1956年)の住宅地図によると、この付近には、料亭の「ぼたん」「みどり」「雅の家」や芸妓置屋が建ち並んでいました。*3

掃部山公園の入口。「掃部山」の名前が唯一残っている場所です。井伊直弼が名乗った「井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼」に因んで「掃部山」と呼ばれるようになりました。

【参考文献】
*1 横浜市:横浜市史稿.風俗編(横浜市,1932)P.545-P.546
*2 中区制50周年記念事業実行委員会:横浜・中区史(中区制50周年記念事業実行委員会,1985)P.490-P.492,P.515
*3 経済地図社:西区明細地図(経済地図社,1956)P.41

戸部(松島館)岩亀稲荷の近く

岩亀稲荷の近くの商店街に、銭湯の「松島館」の看板があります。

狭いを路地を入ると、「松島館」の入口です。

紺色のシンプルな暖簾。

建物の一部に煉瓦が使われています。

戸部(岩亀稲荷)ふるあめりかに袖はぬらさじ

岩亀稲荷の入口。美しい石畳の路地が奥へと導いてくれます。

当時、横浜の遊廓の岩亀楼の寮がこの近くにあり、遊女たちが信仰していたお稲荷様が寮内にあったので、岩亀稲荷と呼ばれ、現在でも信仰が続いています。岩亀稲荷を語る上で忘れてならないのが、「喜遊」という遊女の物語です。喜遊は岩亀楼の中でもとりわけ人気のある遊女でした。ペリー艦隊の軍人の一人に、喜遊にどうしても会いたいと思う軍人がいて、軍人は、幕府の役人を通し、岩亀楼の主人に喜遊がその軍人の相手をするよう命じました。しかし喜遊は外国人の相手をすることを拒み、自ら喉を懐剣で突いて自害しました。*1

喜遊の伝承は、染崎延房の「近世紀聞」(1875年~81年)第2編の一節がもとになっています。その中に、「今の開化に比ぶる時は頑癖(ぐわんへき)なるに似たれども此頃は娼妓だも洋夷を悪(にく)む斯(かく)の如し」という記述が示しているように、幕末から明治維新にいたる歴史の転換期においては、攘夷と開国とで日本人の意見が分裂した時期でしたが、この分裂は女性の問題としてもあらわれました。異人を避ける伝統的な美徳が称賛される半面、いわゆる”らしゃめん”と呼ばれた異人の妾が出現し、開国の一面を象徴していました。当時の横浜の遊廓には、岩亀楼など15軒の妓楼に”らしゃめん”が置かれていました。*2

喜遊は、自害するとき、「露をだに厭う倭の女郎花 ふるあめりかに袖は濡らさじ」という辞世を残しました。*1

【参考文献】
*1 岩亀稲荷:「岩亀稲荷と岩亀横丁の由来」案内文
*2 磯田光一:有吉佐和子「ふるあめりかに袖はぬらさじ」(中央公論社,1982)P.223-P.224 解説

戸部(岩亀横丁)「がんき」の屋号を持つ寿司屋、サウナ

今回は、戸部(横浜市中区)の町並みと風俗を散歩します。
戸部4丁目交差点から西へ延びる通りは、岩亀(がんき)横丁と呼ばれています。

通りには、「岩亀横丁」と書かれた看板が並び、「岩亀寿司本店」という名の店もあります。

サウナがんき。

「岩亀横丁」の名前の由来は、この「岩亀稲荷」の存在と関係があります。

横浜(うなぎ屋)遊廓の大門はこの近くにありました。

反町公園の南側に、うなぎ屋の菊屋さんがあります。

西側は塀で囲まれています。

まるで、料亭のような佇まいです。

「『戦前の反町遊廓と大門通り』復元図」には、「菊屋(うなぎ)」と記載されていて、すぐ近くに反町遊廓の大門があったことになっています。大門をくぐると、道沿い左側に、鈴木楼、松吉楼、島崎楼、上総楼、右側に第二森谷楼、相川楼、石川楼、朝日楼と並んでいました。*1

【参考文献】
*1 岩田忠利:わが町の昔と今.3(「とうよこ沿線」編集室,2001)P.56 「『戦前の反町遊廓と大門通り』復元図」