今回は、千日前(大阪市中央区)の町並みと風俗を散歩します。

戎橋は、道頓堀の繁華街の中心部に位置します。

周辺には、グリコのネオン看板など、道頓堀の名物がたくさんあります。

東側には、ドンキホーテの巨大観覧車が見えます。

今回は、千日前(大阪市中央区)の町並みと風俗を散歩します。
戎橋は、道頓堀の繁華街の中心部に位置します。
周辺には、グリコのネオン看板など、道頓堀の名物がたくさんあります。
東側には、ドンキホーテの巨大観覧車が見えます。
道頓堀川の大黒橋近く。屋上にトルコ風呂の看板が残るビルがあります。
「トルコ孔雀」と書かれています。
1981年の資料*1 によると、ミナミ(難波駅周辺)には、約30軒のトルコ風呂が営業しており、この写真の付近には、「孔雀」、「六本木」、「男爵」の3軒の店が建ち並んでいました。
ビルの背面(道頓堀川側)。
”和風”トルコだったようです。
大坂のトルコ風呂は、条例によって、個室の天井に近い壁に20~30センチの空間(隣の部屋とのスキ間)を作るよう定められていたのが特色でした。これにより、隣の部屋の話声、シャワーの音などがソックリ聞こえるので、少々プレイのさまたげになったのですが、店側が一部屋ずつ置いて客を入れることで解決しました。*1
【参考文献】
*1 大洋図書:ミリオンMOOK全国高級トルコ・ガイド(大洋図書,1981)P.106-P.110
飛田新地の北側は、風情のある住宅地です。
住宅街の狭い路地に、銭湯の日ノ出温泉があります。
大きな煙突。
「日之出温泉」の名前の通り、朝6時から営業です。
飛田本通商店街から路地を入ったところに、アパートが連なる一画があります。
玄関付近。タイルの装飾が見事です。
玄関脇のタイル。
タイルで装飾された窓。
飛田新地の西側。高速道路の高架下に、古いアパートの建物があります。
2階建てのレトロな建物です。
全面がタイルで装飾されています。円柱のデザインも見事です。
玄関付近。
飛田新地の南端。
「かわや」と書かれた看板。飛田新地内にある公衆トイレです。
トイレの入口には、「飛田新地料理組合」と書かれた石柱が置かれています。
トイレの周辺には、ベンチや自販機があって、ちょっとした休憩所になっています。利用者は男性ばかりです。
「鯛よし百番」の斜向かいに、「慰霊碑」 と 「慈母観音 (無縁仏)」があります。碑には、「慈悲共生」と刻まれています。
慰霊碑・慈母観音は、いろいろな事情により飛田遊廓で働き、居住をしていた多くの男女 (遊女) の方々が様々な事情や世間の風評で、遊郭外に移住することもままならず亡くなられた霊が安らかなれと願い建てられたものです。(案内板より)
案内板には、「飛田(遊廓)新地料理組合の歴史」が書かれています。
明治45年の「南の大火」によって、難波新地が消失し、その後、原っぱ同然だった天王寺東松田西松田の一部に通称「飛田遊廓」が指定されました。戦中は大きな被害を受けましたが、戦後は赤線として復興しました。昭和33年「売春防止法」後は、料理組合として誕生しました。
「慰霊碑」の裏側は、飛田遊廓発祥の地の碑になっています。
今回は、飛田(大阪府大阪市西成区)の町並みと風俗を散歩します。
飛田新地の南東の角地に料亭「百番」があります。木造2階建、入母屋造、桟瓦葺の建物は、登録有形文化財に指定されています。
玄関部分付けられた唐破風。
2階には、擬宝珠高欄が巡らされています。
飛田の歓楽街の殷賑を色濃く今に伝える貴重な建物です。
旧五条楽園にある古い旅館。三階建ての建物です。
「旅館」と書かれた看板のある入口。
奇抜な洋風のデザインです。
睨みをきかしている鐘馗さん(3階部分)。
五條楽園の中心部の路地。
遊廓を思わせる木造の建物が残されています。
重厚な木造建築は歴史を感じさせます。
軒下の燈。
洋館の建物の隣に、モルタルの建物があります。
壁面下部に石材が配置されたデザイン。
屋号が書かれた看板。
西側の隣の建物はタイルで装飾されています。
高瀬川沿いに、旧五條楽園の代表的な建物である洋館があります。
京都でよく見られる角石。黄色にペイントされています。
建物の南側から。
円型の窓など、モダンなデザインです。
今回は、五条(京都市下京区)の町並みと風俗を散歩します。
旧五条楽園の中心部に残る三友楼。前回*1 も訪れた妓楼の風情を残す建物です。
鬼瓦に刻まれた「三友楼」の文字。
美しい格子。
高瀬川畔に和風の建物が映えます。
【参考記事】
*1 風俗散歩:五条(2006.5)三友楼
桜湯は、丸太町橋の近くにあるレトロな銭湯です。
大正末以降に全盛となる派手な銭湯建築の様式(唐破風や格天井)とは異なり、大正8年に建てられた桜湯の建物は貴重なものです。*1
入口には大きな暖簾。
脱衣場のロッカーと柳行李。かなり使いこまれた感じです。*1
【参考文献】
*1 林宏樹:京都極楽銭湯案内(淡交社,2004)P.46-P.47
京都御所の南東側。丸太町橋西詰め南側。
ここに女紅場跡の石碑があります。
「女紅場」には、二つの意味があって、一つは遊所の系統、一つは一般「良家の子女」を対象とする教育機関です。前者は、「遊所女紅場」と通称され、後者は、のちの高等女学校に発展します。現在の京都府立鴨沂(おうき)高等学校の前身である京都都府立京都第一高等女学校は、明治5年4月、丸太町の旧岩倉邸内に開設された英語、数学、化学などを教授する「女紅場」が発展したものです。*1
「遊所女紅場」の前身は、明治5年の芸娼妓解放令のおかげで、帰るに家なく働くに技能なしの芸娼妓の実態を収拾するための施策として考え出された「婦女職工引立会社」で、明治7年に「女紅場」と改められました。*1
【参考文献】
*1 明田鉄男:日本花街史(雄山閣出版,1990)P.146-P.150
河原町通りの今出川から南二筋目を西へ行く道筋。この先には、京都御所があります。*1
現在は住宅街ですが、この御所に近い場所に白梅図子遊廓がありました。*1
通りの南側は、本禅寺です。
通りの中間あたりの本禅寺の北側の土地が新夷町、すなわち白梅図子遊廓の跡です。*1
【参考文献】
*1 明田鉄男:日本花街史(雄山閣出版,1990)P.119-P.121
三本木の遊所は、京都では珍しい、遊女(娼婦)のいない、芸者ばかりの花街でした。その芸者たちは、豊臣秀吉の未亡人、北政所が慶長11年(1606年)に高台寺を建立、入居したころ、しばしば寺に出入りしていた舞、芸子(のちの下河原芸者)の流れを汲んでいるともいわれています。遊所の場所は、京都市上京区東三本木で、鴨川にかかる丸太町橋西詰を北へ200mの間でした。*1
三本木が有名になったのは、幕末で、芸者の質がよかったのが特徴でした。桂小五郎の妻となった「幾松」、近藤勇の情婦の一人の「駒野」、などの名が歴史に残っています。*1
現在、住宅街となっている三本木に、料亭「吉田屋」跡の碑が建っています。
「吉田屋」は、桂小五郎ら討幕の志士たちが密会をしたとされる料亭です(案内板より)。
1900年(明治33年)に設立された立命館大学は、三本木通にあった料理屋の清輝楼の二階を間借りして授業を行っていました(案内板より)。
【参考文献】
*1 明田鉄男:日本花街史(雄山閣出版,1990)P.105-P.107
今回は、烏丸(京都府京都市)の町並みと風俗を散歩します。
天正17年、柳馬場(やなぎのばんば)通りと二条通りとの道筋に、豊臣秀吉の肝いりで、「二条柳町」という遊里が作られました。遊里のまわりには、きれいな柳の並木が形成されていました。*1
路上の案内板にも、遊里のことが書かれています。
柳馬場通りと二条通りが交差するあたり。 現在は、遊里の面影はありません。
二条通り。
*1 小学館:ビジュアル・ワイド京都の大路小路(小学館,2003)P.35
勝富遊廓跡の近くにある須佐神社。
須佐神社本殿へ登る長い石段。
石段を登り切ったところの玉垣に「勝富楽園」の名があります。
玉垣は、左右にあって、反対側にも「勝富楽園」の名があります。
勝富遊廓跡地の東側は急な斜面になっています(写真は東側から見たところ)。
坂道の途中にラブホテルがあります。
高台にあるホテルの入口。
「VODシアター 1000タイトル」。
勝富遊廓跡の北側の通り。
当時の風情を偲ぶことが出来る建物があります。
洋風の彫り物細工が施された窓。
現在は、アパートとして使われています。
勝富遊廓跡地の中心部。坂を上ったところに割烹旅館があります。
壁面全体が黒いタイルで装飾されています。
アーチ型の窓。*1
窓の部分の透かし掘り。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.74-P.75
小佐世保川沿いの小佐世保、須佐、高天の三町に挟まれた三角地点に、かつて勝富遊廓(別名小佐世保遊廓)がありました。勝富遊廓の前身は、木風遊廓で、明治24年4月、勝富遊廓へ移転しました。全盛期には、部屋数が三十余もあるような豪壮な建物が建ち並んでいました。遊客の多くは海軍の上級士官でした。*1
勝富遊廓の中心部。この付近には、勝富遊廓の事務所や券番がありました。*2
「昭和十年代 佐世保市内地番図」*2 によると、通りに面して、高松楼、幸昇亭がありました。
勝富町は、傾斜地を造成し、半円状に形作られました。*3
【参考文献】
*1 池田和博:させぼの歴史を歩く(ライフ企画社,1996)P.177-P.179
*2 昭和十年代 佐世保市内地番図(佐世保市立図書館蔵)P.29
*3 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.74-P.75
塩浜町の歓楽街にレトロな飲み屋横丁があります。
太陽光が入る高い天井。
逆方向から見た看板の裏側には「毎度ありがとうございます」と書かれています。
空き瓶がディスプレイされているBAR。
今回は、佐世保(長崎県佐世保市)の町並みと風俗を散歩します。
長崎県佐世保市塩浜町の通り。居酒屋やスナックが密集する歓楽街です。
レトロなスナックが建ち並びます。
おびたたしい数の看板が密集しています。
塩浜パビリオン。
呼子港の東側の「大網引通り」と名付けられた商店街には、古い町並みが残されています。
この町の消火器箱は、すべてこの形です。
鉢植えと煉瓦塀に挟まれた配置された消火器箱。
白菜が載せられた消火器箱。
殿ノ浦の旅館は、いずれも帆船時代の料理店・船宿から旅館業を始めた、長い歴史を持つ旅館です。呼子港は長い歴史を持ち、この町は多くの映画や小説の舞台となりました。
最近は、少人数での観光客が増え、ホテルタイプの近代的な施設へ転換しています。
呼子は、いか活き造りが名物となっていて、殿ノ浦の旅館の中にも生簀(いけす)で泳いでいるイカを料理してくれる旅館があります。
対岸から見た殿ノ浦の旅館街。
今回は、呼子(佐賀県唐津市呼子町)の町並みと風俗を散歩します。
「呼子町史 ふるさと呼子」*1 には、呼子の遊廓跡の場所が図示されています。それによると、遊廓は、殿ノ浦の田嶋神社のある通りの北側、旅館街を含む海沿いの通りにありました。
藩政時代より明治期にかけて、帆船の停泊地として名高かった呼子港において、殿ノ浦は娼妓の町として、昭和30年代まで紅燈の灯が点り、その賑わいは有名でした。遊廓としての実態は、昭和33年4月の「売春禁止法」施行まで続きました。*1
現在も、古い町並みが残っています。
通りには、商店も建ち並んでいます。
1軒だけあるスナック。
【参考文献】
*1 呼子町史編さん委員会:呼子町史 ふるさと呼子 (唐津市,2005)P.50-P.51
唐津には、満島の他にもう一つ、佐志に遊廓がありました。*1
古地図*2 に、「西遊廓」と記されている通りに、遊廓の面影はありません。
なだらかな坂道をしばらく行くと、石塀を持つ古い建物があります。*1
笹と鳥の透かし模様。*1
「廊内」と書かれた電柱番号札。(「廓」ではなく、「廊」です。)
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.324-P.331
*2 野田哲雄:新版唐津市街全図(野田哲雄,1931)
唐津城の南側の町田川の河口。「場内橋」と呼ばれる歩道橋から、対岸が見渡せます。
場内橋を渡り川沿いの遊歩道を歩くと、ラブホテルがあります。
プチSMルーム完備。
千代田橋からの眺め。町田川を挟んで、西側(写真左奥)に唐津城、東側(写真右側)にラブホテルが位置しています。
割烹旅館のある満島の通り。*1
当時の面影を残す建物です。
唐津城が間近に見えます。
唐津城から見た満島。写真、右下は舞鶴橋。左奥は、虹の松原。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.324-P.331
木綿町の歓楽街の中心部に、古い旅館の建物が残っています。
今にも崩れかけそうに見える建物です。
地元の方の話によると、昭和の初め頃、この付近一帯には、女郎屋もあったそうです。
重厚な3階建ての造り。世界遺産級です。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.324-P.331
今回は、唐津(佐賀県唐津市)の町並みと風俗を散歩します。
唐津駅前の木綿町(きわたまち)は、唐津を代表する繁華街です。*1
特に、東西に走るこちらの通りには、居酒屋やスナックの店舗が密集しています。
レトロなスナック店が建ち並びます。
大きなイラストが書かれたスナック店。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.324-P.331
雑餉隈の寿町3丁目から2丁目にかけては、多くのスナックが点在するエリアです。
三叉路に面したスナック。
長屋風の建物。
風俗店も入居する飲食ビル。
今回は、雑餉隈(福岡県博多区)の町並みと風俗を散歩します。
西鉄天神大牟田線の雑餉隈駅前の商店街。昭和のかおりが残ります。
青果店を中心とした商店が数多く建ち並びます。
まるで、市場のような雰囲気です。
活気のある青果店。
本庄市東台2丁目。居酒屋などの飲食店が数店舗あります。
この先の交差点を右折した一画は、かつて「新開地」と呼ばれた場所でした。
昭和3年秋、本庄町の貸座敷は、台町の新開地に移転しました。戦後は、アメリカ軍の本庄進駐に伴い、「慰安所」が設けられました。*1
新開地は、懸賞募集した「飯玉新地」と名付けられました。*1
【参考文献】
*1 本庄市史 P.176-P.187
銀座2丁目の通称「稲荷横丁」。
四つ角のところに、レストラン「はじめや」があります。
2階部分は洋風です。
入口横は、たばこやさんのようです。
銀座1丁目の美容室へ続く路地。犬の糞お断りの張り紙があります。
銀座二丁目の民家。こちらには、立小便禁止の張り紙が多数貼られています。
手作り感のある看板。
大きな鳥居。
隣には、「元気グングン! ジンセンアップ」のホーロー看板。 脱線トリオのメンバーであった故南利明さんの笑顔が印象的です。オリエンタルカレーのCMでの名古屋弁のフレーズ「ハヤシもあるでョ~」は有名でした。
本庄市中央一丁目の通り。
レトロな理容室があります。
木造の建物が印象的な理容室。
なぜか、看板が逆さまに取り付けられています。現在は、向かい側の店舗が営業中です。
歌謡スナック「姫」の反対側には、「ミッキー」と書かれた看板のある小路があります。
幅の狭い路地に、大きな看板。
カラオケスナックのようです。
反対側からの遠望。
歌謡スナックの脇に趣のある小路が伸びています。
路地の奥には、大衆酒場や小料理屋が肩を並べています。
小路の奥まったところにある小料理屋。
逆方向から見たところ。
本庄市銀座2丁目1~2のあたりには、割烹料理店などの飲食店が密集しています。
丸窓のある建物。
古い木造の建物が建ち並びます。
和風のスナック。
今回は、本庄(埼玉県本庄市)の町並みと風俗を散歩します。
明治・大正時代、本庄は県北の養蚕地帯の中心都市でした。本庄では、蚕糸の海外輸出から糸ヘンに関するあらゆる業種と仲買、買継業者の数が多く、これらの商取引に付随して利用される料亭、貸座敷、芸妓置屋が多数存在したのもこの町の特徴でした。*1
現在の本庄郵便局があるあたりには、貸座敷の杉山楼、関口楼、山幸楼がありました。*1
山幸楼があったあたり(足利銀行近く)。
「埼玉県営業便覧」には、当時の繁華街の店列図(家並図)が記載されており、この店列図には、それぞれの商店の業種、屋号、店主名が銘記されています。山幸楼の店主は、橋本録郎と記されています。*1
「橋本」の名を配した鬼瓦。「山+文字」形式と思われる紋章の「Λ」の下に描かれているのは、「幸」の文字でしょうか。
【参考文献】
*1 田口浪三,高柳鶴太郎:埼玉県営業便覧(全国営業便覧発行所,1902)
村之湯温泉の歴史は古く、文久三年に創設されました(案内板より)。
浴槽は、縦に二つ並んでいます。
棚や鏡など、ありとあらゆるものがこの温泉の歴史の古さを感じさせます。
浴槽ニタオルヲツケヌ様イタシマセウ。
浴場ヲ綺麗ニ致シマセウ。
指宿市大牟礼の閑静な住宅街。
住宅街のど真ん中に、銭湯の村之湯温泉があります。
木造の浴場の建物は、風情があります。
浴場の隣にある温泉源。
今回は、指宿(鹿児島県指宿市)の町並みと風俗を散歩します。
指宿駅の北側、、指宿枕崎線の線路の近くに銭湯の松元温泉がありますが、その奥に小規模なスナック街があります。
鮮やかな紫色のスナック店。
奥まったあたり(線路に近い側)には、スナックが密集しています。
昭和を思わせる風情のスナックが連なります。
天文館近くの大通り(千石馬場通り)。
切妻の1階建ての霧島温泉があります。妻の部分には、木の湯号がはめこまれていて、屋根付きの湯気抜きなど、銭湯らしい落ち着いた雰囲気を残しています。*1
夜になると、切妻部分に燈が灯り、幻想的な雰囲気です。
創業は大正時代。昭和62年に内部を大改装し、現在に至っています。*1
【参考文献】
*1 鹿児島銭湯めぐり かごしま倶楽部第2巻(ハビタ,2000)P.40
新宿街の隣にある狭い路地。
入口に「この通りに小便をするな」と書かれた木製看板があります。
文化通りと二本松通りが交差するあたり。
「立小便するな」の大きな張り紙。
歓楽街の「天文館」の通りに、思わず立ち止まってしまう、うらぶれた路地があります。
見上げると「新宿街」と書かれた看板が2つ。
奥行50mほどの袋小路の両側に飲み屋が軒を連ねています。*1
密集度の高い路地。
【参考文献】
*1 清水哲男;浜地克徳 絵:天文館物語(シーナ,2009)P.6-P.7
鹿児島の歓楽街「天文館」に古い雑居ビルがあります。
雑居ビルの裏側は、裏町通りと呼ばれています。東南アジアのどこかの通りを思わせるような光景です。*1
雑居ビルの1階を貫くトンネル路地。
別の路地の入口。「ひげ船長」と書かれた看板がいい感じです。
【参考文献】
*1 清水哲男;浜地克徳 絵:天文館物語(シーナ,2009)P.10-P.11
今回は、鹿児島(鹿児島県鹿児島市)の町並みと風俗を散歩します。
鹿児島の象徴と言えば、噴煙あげる桜島です。桜島へは鹿児島港からフェリーで約15分です。
桜島の古里温泉に女流作家の林芙美子文学碑があります。
幼少時代のフミ子像。「幼少の頃、フミ子はここ桜島で過ごした」と刻まれています。
幼少時代の芙美子は、桜島の大噴火に遭遇しています。芙美子は、遅くとも大正3年10月には、鹿児島の叔母や祖母のもとに預けられていましたが、この桜島大噴火は、大正3年1月12日から約2年間も続きました。*1
大正の中ごろから昭和にかけてカフェーというものが大いに発達し、そこで働く女給が芸者に代わって都市インテリたちの新しい魅力の対象となりました。かつて女給をしたことのある女流作家は多く、一流どころでは、宇野千代、林芙美子、平林たい子、佐多稲子などがいます。*2
【参考文献】
*1 廣畑研二:甦る放浪記(論創社,2013)P.48
*2 大宅壮一:週刊読売(1958.2.25)P.26 「女流作家の愛情行路」
水俣市街の旭町の繁華街を北上すると通称六ツ角と呼ばれる六差路の交差点にいきつきます。この場所には、昭和9年に河川改修の前までは(写真左奥の国道3号線方向から写真の後方にかけて)古賀川が流れていて、現在の六ツ角の場所には、永代橋が架かっていました。
永代橋は、江戸時代からの水俣の象徴的存在で、永代橋上流の左岸には、大園の塘(うぞんのとも)といわれた歓楽街がり、料亭や妓楼が建ち並んでいました。水俣では堤防のことを塘(とも)と呼びました。大園の塘、大廻り(うまわり)の塘、百閒の塘、古賀ん塘などです。永代橋から古賀観音堂付近までの道筋(写真の後方)を古賀ん塘と呼び、古賀ん塘に沿った辺には、料亭や芸者の検番などもあり、博聚園という少し洒落た2階建ての店がありました(現在のM’sCITY付近)。*1
大園の塘があった通りには、現在は、ビジネホテルや居酒屋が建ち並んでいます。
当時、大園の塘は永代橋を挟んだ古賀ん塘とは、対照的な賑わいをみせていました。すなわち、古賀ん塘が昼に活気を見せれば、大園の塘は夜に活気を見せるところでした。古賀ん塘は、鹿児島本線が開通するまでは、日本チッソ工場で生産されるカーバイドや肥料の積み出しが盛んでした。大園の塘はこれらの船員や地元商家の旦那方などで賑わいを見せました。
「聞書水俣民衆史 第三巻 村の崩壊」*2 の口絵写真に記載されている「もと女郎屋の建物を旅館に改造した旭屋旅館」は、ナイトクラブ「おあしす」の向かい側(ビジネスホテル「藤」の隣)にありました。*3
旅館「双葉荘」。
【参考文献】
*1 水俣市史編さん委員会:新水俣市史 民俗・人物編(水俣市,1997)P.1012-P.1018
*2 岡本達明,松崎次夫:聞書水俣民衆史 第3巻 村の崩壊 (草風館,1996)P.15
*3 ゼンリン:水俣市(ゼンリン,1984)P.65
水俣市浜町のそば屋の脇の小さな飲食街。
「ひかり」、「なぎさ」、「とも」などの店の看板が2階部分に並びます。
スナック「ひかり」の裏側の路地。
トンネルのようになっている路地を抜けると(写真左側)、スナック「洋子」がある通りに出ます。
水俣市桜井町の肥薩おれんじ鉄道の線路沿いに、スナックが密集する一画があります。
狸小路と名付けられたスナック街です。
スナック街の共同トイレ。
夜の様子。
水俣市大黒町の肥後銀行水俣支店の前に「夕焼け横丁」と名付けられたスナック街があります。
駐車場脇に横たわる横丁の建物。
昭和レトロを感じるスナック街です。
味わいのある看板。
今回は、水俣(熊本県水俣市)の町並みと風俗を散歩します。
肥薩おれんじ鉄道の水俣駅から延びる駅前の通りを行くと、駅と正対する位置にチッソ(株)水俣工場の正門があります(写真右奥)。
通りの脇(写真左側)には、古びた飲食店街があります。
現在は、営業中の店舗は少ないようですが、古いからある飲み屋街のようです。
スナックの建物の右横が横丁の入口になっています。
芸者の絵が描かれたドア。
中洲の西(地下鉄空港線で赤坂駅下車)の福岡市鮮魚市場西門近くに、長浜ラーメンの屋台街があります。
周囲は、団地が建ち並ぶ住宅街です。
屋台は、道路の両側の歩道に建ち並びます。
屋台通りに暖かい灯りが連なります。
屋台ならではの味わいを満喫できる場所です。
博多の夜と言えば、屋台です。
夜になると、どこからともなく屋台がやってきて、あっという間に屋台村が出現します。
昼間は、この通り、跡形もない状態に戻ります。
屋台は、専用の駐車場で待機しています。
中洲の歓楽街には、アダルトグッズやDVDの販売店が点在しています。
こちらの店舗は、現在は別の店に入れ替わっているようですが、「DVDショップ」の看板だけが残っています。
24時間年中無休のアダルトショップですが、さすがに早朝からは営業していないようです。
夜は営業しています。
中洲の歓楽街には、多数の無料案内所があります。
解りやすい地図は、安心して町を歩くための有益な情報です。
南新地のソープ街への入口あたり。
夜になると、活気が出てきます。
中洲中島町に、老舗料亭の「老松」があります。
創業は昭和2(1927)年で、老松の店名は、芸妓出身である初代女将の源氏名に由来します。80余年、ここ中洲中島町で料亭を続けています。*1
戦前の地図*2 によると、料亭「老松」の隣には、料亭「竹葉」、さらに、上野、加代という屋号の店がありました。この付近は花街だったようです。
建物は昭和20(1945)年の博多大空襲で焼けた後、戦後の昭和22(1947)年に再建されました。*1
玄関付近。
歴史を感じさせる建物です。
【参考URL】
*1 料亭「老松」:老松の歴史
【参考文献】
*2 咲山恭三:博多中洲ものがたり 後編(文献出版,1980) 戦前(昭和十年~十二年頃)中洲(北部)詳細地図
中島浜新地の近くに、小さな稲荷神社があります。
中洲國廣稲荷神社由来が記されている案内板。
江戸末期、天保年間、筑前黒田藩は、藩の財政立て直しの為、中島浜新地(現中島町付近)に歓楽地帯を設置し、芝居や富くじを催したのが、現在の中洲町のはじまりでした。
新地の繁栄にともない、天保5年(1834)それまでは小さな社であった中洲稲荷神社が改築され、立派な神殿や石灯篭が寄進され、境内には、地元有志や芸妓の名を彫った玉垣もできました。(案内板より)
現在はビルの谷間に埋もれてしまっています。
狛犬の台座に刻まれた寄進者にアサヒビール園の名があります。
アサヒビール園は、大正12年の中洲大火災の翌年に、跡地にできたビヤホールです。*1
【参考文献】
*1 咲山恭三:博多中洲ものがたり 後編(文献出版,1980)P.134-P.135
今回は、中洲(福岡県福岡市)の町並みと風俗を散歩します。
繁華街からは離れた中洲の北端に小さな公園があります。
浜新地(北新地)の碑。かつてのこのあたりは北新地と呼ばれた花街だったところで、中洲の歓楽街発祥の地です。
旧町名を示す電柱の表示。
江戸歌舞伎の宗家7代目市川団十郎が天保5年(1834年)に浜新地で豪華な歌舞伎を興行したことを記念する碑。
伊万里市街の伊万里町甲。
大通りから少し入っところの四つ角にスナックがあります。
中央市場の隣の和風スナック。
タイルで装飾されたレトロな雰囲気の居酒屋の建物。
相生橋を渡った御船屋(現在の船屋町)には、御船屋遊廓があって、明治10年頃に隆昌を極め不夜城を現出しました。写真の通りの両側に、一力、いろは、末永屋、三浦屋、丸国、松月(のちの七福)、花月、などの貸座敷が9軒建ち並び、娼妓30名、芸妓28名の規模でした。*1*2
かつての松月(のちの七福)と思われる建物(七福旅館)。
当時の面影が残る唯一の建物です。
奥行のある大きな建物です。
【参考文献】
*1 伊万里市郷土研究会:烏ん枕 第81号(2008,伊万里市郷土研究会)P.27,P.30 「伊万里町町並み復元図(三)」
*2 伊万里商工会:伊万里案内(伊万里商工会,1927)P.73,P105
今回は、伊万里(佐賀県伊万里市)の町並みと風俗を散歩します。
伊万里の市街地をゆったり流れる伊万里川には、様々な多くの橋が架かっています。いずれの橋にも欄干には、豪華な伊万里焼の陶器や人形などが飾られています。
相生橋の南側にある 佐賀銀行の壁にはからくり時計が設置されており、定刻になるとからくり人形が動き出し ます。
からくり人形の演奏曲目は時刻によって異なります。15:00の演奏曲目は、「伊万里行進曲」です。
♪ 船を出しゃらば夜深にだしゃれ
♪ お舟屋女郎衆の涙雨
♪ 伊万里港は入船出船
♪ 並ぶ三橋恋の橋…
歌詞に登場する「船屋町」は花街として栄えました。三橋とは、市街地と花街をつないだ「相生橋」、「延命橋」、「幸橋」を指しています。*1
船屋町の遊廓は、相生橋を渡ってすぐ左に入った場所にありました。
【参考文献】
*1 西日本新聞社文化部:愛しのご当地ソング(書肆侃侃房,2006)P.64-P.67
崇福寺にのぼる道の途中に「福地桜痴生誕の地」がたっています。*1
福地桜痴は、大政奉還後、大蔵省の役人となりましたが、その後は新聞記者に転身しました。*1
桜痴の吉原好きは有名で、さと夫人との結婚当夜も吉原にでかけ帰らなかったという逸話が残っています。「桜痴」という号も深い仲になった吉原の芸者「桜知」の名に由来しています。*1
吉原で知り合った渋沢栄一の紹介で伊藤博文と出会い、それが大蔵省に入るきっかけとなりました。*1
吉原弁財天の入口の石柱には、福地桜痴の詩が刻まれています。*2
春夢正濃満街桜雲(しゅんむまさにこまやかなりまんがいのおううん)
秋信先通両行灯影(しゅうしんまさにつうずりょうこうのとうえい)
【参考文献】
*1 長崎文献社:旅する長崎学7 近代化ものがたり1(長崎文献社,2007)P.54
【参考記事】
*2 風俗散歩(入谷~吉原):吉原弁財天
長崎の市電の終着駅の崇福寺駅。川の上に設置されている駅です。
駅からは、川沿いにせり出し建物が見えます。
逆方向から見たところ。写真の右奥の市電の車両が見える場所が正覚寺下駅です。
建物の反対側。飲食店が連なる長屋風の建物です。
江戸中期、寄合町の遊女屋築後屋は、次第に勢力をのばし「角の築後屋」「中の築後屋」「新築後屋」「築武築後屋」と4軒もの店を構えるようになりました。うち、「中の築後屋」は、中の茶屋を開き、引田屋の花月楼とともに丸山を代表する茶屋(料亭)となりました。明治時期に入り築後屋は廃業。昭和46年に類焼、庭園だけになりました。*1
中の茶屋の庭園奥には、小さな祠があって、稲荷神をお祀りしています。中の茶屋の鎮守で、鳥居には「保食大神(うけもちのおおかみ)」記され稲荷神を表しています。*1
寛政2年(1790年)に奉納された手水鉢。 *1
築後屋の抱え(所属)の遊女・冨菊(とみぎく)の銘を見ることができます。*1
【参考文献】
*1 長崎文献社:長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う(長崎文献社,2007)P.26
丸山の入口を山ノ口とよぶのに対し、丸山の上手を山頭といいます。*1
山頭には、山頭温泉という銭湯があって、丸山が盛んな頃、山頭温泉の利用者は丸山の芸者衆や女性たちが中心で、寄合町の社交場でもありました。*1
かつて遊郭があった界隈に建つ銭湯です。
玄関のアール状のひさし。
【参考文献】
*1 長崎文献社:長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う(長崎文献社,2007)P.25
丸山の見番の裏手の台地には、古い建物が残っている一画です。
生活感の漂う路地。
古いモルタルの建物。
店の屋号が書かれています。*1
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.66
柳小路通りは、思案橋横丁の1本裏側の通りです。
思案橋横丁の賑やかさとは対照的に場末感が漂います。
スナックが密集する一画。
赤い提灯を店先に掲げた居酒屋もあります。
今回は、長崎丸山(長崎県長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
思案橋近くの思案橋横丁は、観光客も多い賑やかな通りです。
道の両側には、飲食店が建ち並んでいます。
1軒だけ風俗店があります。
ネオンが煌めく通りです。
江戸時代から日本唯一の対外貿易港であった長崎の居留地には、多数の外国人が押しかけて繁栄しました。
長崎居留地には、外国人男性と遊女や芸妓との間での恋愛もありました。 そのうちの一に、グスターフ・ウィンルキンズと玉菊の恋愛物語があります。稲佐悟真寺の国際墓地にウィンルキンズの墓があります。稲佐悟真寺の国際墓地にウィンルキンズの墓
アメリカ人のウィンルキンズは、貿易商社「カール・ニクル商会」の共同経営者で、1869年(明治2年)に37歳で死去しました。
花クルスの見事な墓碑。
墓碑には、墓碑を建てた恋人の日本人芸妓「玉菊」のが刻まれています。
【参考文献】
*1 長崎文献社:旅する長崎学 近代化ものがたりⅢ(長崎文献社,2008)P.52-P.53
稲佐遊廓の中でも当時からその後も一番大きくて有名な所が、遊廓の中心の十字路の西北角に存在した吉田屋でした。*1
吉田屋支店があった場所には、旧アパート(稲佐荘)の建物があります。*2
タイルで装飾された玄関。
吉田屋は、別に吉田屋本店、吉田屋支店を持ち、その三楼(写真の道路の左側に建ち並んでいました。)からの眺望は、この界隈で一番高所であるため、長崎の街が北から南まで見える絶好の見晴らし場所でした。*1
【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.32-P.36
*2 善隣出版社:長崎市(北部)・浦上・城山・西北・滑石・稲佐・立神・木鉢・神島・福田・式見(善隣出版社,1970)P.124
今回は、長崎稲佐(長崎市長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
稲佐は、幕末の「安政の五か国条約」による開国でロシア国の軍艦寄港地となり、いわゆるロシア村が形成されました。ロシア村には、ロシア水兵用休息所(マタロス休息所)があり、稲佐遊廓のはじまりとなりましたが、明治37年に日露戦争が勃発すると、ロシア軍の軍艦は一隻も来なくなりました。*1*2
その後、稲佐遊廓は、明治39年に許可となり、妓楼数14軒、娼妓115名の規模となりました。*3
東側のメインの通りの南隣の路地。
古いアパートの建物。
外国人墓地(写真右側)の境界の塀。路を隔てた反対側(写真左側)には、遊喜楼、湊楼がありました。*1
遊廓の東側のメインの通り。亀姫楼、玉姫楼、三好楼、二見楼、支楽楼、千歳楼、明月楼が道の両側に建ち並んでいました。*1
【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.32-P.36
*2 松竹秀雄:ながさき稲佐ロシア村(長崎文献社,2009)P.108,P.204
*3 博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.158 「全国遊廓案内」
篠山鉄道(現在は廃止)の篠山町駅前附近は、篠山銀座と呼ばれ、オノイ食堂、クロネコ、天女、太陽、ライオン等のカフェーが軒を並べていました。女給さんの数も多い店は、12~13人。その繁昌ぶりは、芸妓、仲居を遥かに凌ぐものがありました。*1
カフェー太陽、オノイ食堂が並んでいた通り。*2
現在もスナック店が点在しています。
料理店の裏側の路地。
この付近には、カフェーライオンがありました。*2
【参考文献】
*1 篠山町:篠山町七十五年史(篠山町,1955)P.282-284
*2 大日本職業別明細図 篠山町
京口新地跡には、もう1軒当時のものと思われる建物があります。
玄関まわりを洋風にしつらえた古い建物です。*1
背後からみると、かなり大型の建物であることが解ります。
玄関の様子。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線奇譚(ミリオン出版,2010)P.58
篠山の京口新地には、当時の妓楼と思われる建物が残っています。
阿部定事件の阿部定が在籍していた妓楼「大正楼」と思われる建物。*1*2
昭和2年、阿部定は自らの意志で芸妓から娼妓へ身を落とし、大坂の飛田遊廓へ流れ着きましたが、前借金が多くプライドの高い阿部定は店をいつくも鞍替えし、昭和5年に丹波篠山の大正楼へ移されました。*3*4
交差する道路に当たる一画をスパッと切り落として玄関にし、その道から来る客もキャッチしようという遊廓特有のつくりと考えられます。*5
玄関の家紋。
瓢箪の装飾が施されています。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線奇譚(ミリオン出版,2010)P.59
*2 木村聡:実話ナックルズ(ミリオン出版,2010.7)P.64-P.65
*3 堀ノ内雅一:阿部定正伝(情報センター出版局,1998)P.71-P.75
*4 粟津潔,井伊多郎,穂坂久仁雄:阿部定(田畑書店,1976)P.243
*5 丸山友岐子:はじめての愛(かのう書房,1987)P.74
今回は、篠山(兵庫県篠山市)の町並みと風俗を散歩します。
明治40年、篠山町付近に兵営が設置されることに伴い、その附帯施設として遊廓の設置が検討されました。遊廓の設置場所は、県警の「兵営より一里を隔離すること」を条件に物色の結果、篠山市糯ケ坪に決まりました。*1
大正5年の 「篠山町及附近之圖」*2 には、歩兵第七十連隊と京口新地が記されています。
戦後、遊廓は辛うじて残存していましたが、ついに亡び、代わりに町長のかけ声でヘルスセンターの「丹波篠山温泉」が建ちました。場所は、元遊廓の入口の田を埋め立ててつくられました。しかし、ヘルスセンターは、開業まもなく赤字つづきで閉鎖となりました。*3*4
京口橋を渡って、水路に沿って進むと遊廓ががあった一画にたどり着きます。
遊廓があった場所は水路に囲まれています。
【参考文献】
*1 篠山町:篠山町七十五年史(篠山町,1955)285-P.288
*2 西羅日出男:篠山案内記.3版(西羅日出男,1916)
*3 水上勉:日本の風景を歩く 丹波・丹後(2000,河出書房新社)P.32-P.37
*4 日本住宅地図出版:多紀郡篠山町・丹南町・今田町・西紀町(日本住宅地図出版,1980)P.12
櫻湯の脱衣場。
木製のロッカーには、柳行李(やなぎごうり)の脱衣籠がずらりと並びます。これは、伝統的な京都式です。*1
女将さんと話をしているうちに、女湯を特別に見せて頂けることになりました。姿見(大きな鏡)は男湯には無く、女湯だけにあります。
風呂場の入口のステンドグラス。
【参考文献】
*1 FASTNER(2013.8)P.34 激渋銭湯を訪ねて
福知山市街のはずれ(音無瀬橋近く、福知山市西長)に渋い外観の銭湯があります。
外観は洋風のデザイン。女将さんの話によると、明治時代に建てられたそうです。
医院のような入口。
夜の雰囲気は格別です。
アオイ通り商店街にあるスナック。店の名は「ごめん」。
店の正面は、赤く塗装されています。
城下通り近くの長屋風の建物に入居するスナック。
夜になると、あかりが灯ります。
今回は福知山(京都府福知山市)の町並みと風俗を散歩します。
福知山市街に鎮座する御霊神社は宝永2年(1705)の創祀の歴史ある神社です。
御霊神社の鳥居の脇に灯籠が2基。台座と柱の部分だけが残されています。
猪崎新地(福知山遊廓)の関係者が寄進した燈籠です。
もう1基の灯籠には女性の名前が刻まれています。
【参考記事】
*1 風俗散歩(福知山)猪崎新地
綾部市新宮町にある銭湯の松本湯。
暖簾が美しい入口です。
特徴的なのは、建物の左側の角のPOLA化粧品。銭湯に化粧品の店舗が併設されていたのでしょうか。
建物の裏側。
月見町の旧花街には、スナックの店舗も点在しています。「スナック松葉」は和風スナックのようです。
落ち着いた感じの店舗。
西側の方には、お洒落な店舗が連なっています。
和風の建物スナック「ドン・ファン」。奥み見える和風の建物は、公民館です。
今回は、綾部(京都府綾部市)の町並みと風俗を散歩します。
大正時代の市街図によると、月見町には芸妓置屋業組合事務所がありました。*1
石畳の通りの両側には、料亭風の建物が建ち並び、現在は観光スポットになっています。
「三芳」という屋号の店。
京町家で見かける「忍返し」。
【参考文献】
*1 木谷彰佑:大日本職業別明細図 綾部町(東京交通社,1933)
山側に平入りの母屋、道をへだてて海側に妻入りの舟屋がならびます。母屋のまん前の舟屋が同一人物の所有です。*1
海の中に建てられているように見える舟屋は、実は水際ぎりぎりに建てられ、舟をひきあげやすいように、地面が斜めに切り取られており、海水が2メートルほど中まで入り込む構造になっています。*1
舟屋は、舟や漁具の格納庫であり、漁具・漁網の干場であり、出漁準備の作業場でもあります。魚の料理場や干物の干場にもなります。
昔の舟屋は藁ぶきで、板や土の壁はつくらず、わらや古縄を下げた風通しのいい造りになっており、二階も低く床板をはらず、足場板を並べただけのものでした。*1
【参考文献】
*1 和久田幹夫:舟屋むかしいま(あまのはしだて出版,1989)P.4-P.8
宮津からバスで約1時間、丹後半島を北上していくと、伊根湾にたどり着きます。
深い入り江となった伊根湾を取り囲むように建ち並ぶ船小屋(舟屋)は、その数230軒。全国でも類を見ない船小屋のメッカです。*1
伊根の船小屋は重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。*1
この地域では船小屋は「舟屋」と呼ばれ、特徴ある2階建ての小屋が水際ぎりぎりに建っています。*1
【参考文献】
*1 INAXギャラリー企画委員会:舟小屋(INAX出版,2007)P.58-P.60
前掲の四軒町のトンネル路地(ろーじ)。牛乳箱が見えます。
宮津酪農組合の牛乳箱。箱の上にリンゴの置物が載っています。
隣の路地にあった宮津酪農組合の牛乳箱。こちらはかなり風化しています。
宮津牛乳の牛乳箱(伊根町にて)。
旧花街街には、スナックも点在しています。
メインストリートと交差する通りに面したスナック。
カフェー風の玄関を持つお宅。*1
「酒場」のプレート。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.98-P.99
新浜通りの和風スナックのトンネル路地(ろーじ)。四軒町と呼ばれています。
入口を逆方向から見たところ。
宮津ぴんと館は、当時の建物が再現されています。
木格子窓に当時の面影が残っています。*1*2
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.98-P.99
【参考URL】
*2 丹後広域観光キャンペーン協議会:のんびりぶらぶらホームページ 宮津市街地
新浜通りは、千本格子の花街の風情が今も残る通りです。
「全国女性街ガイド」*1 によると、新浜の遊廓は(京都の)島原遊廓そのままの遊廓であったと描写されています。
花街のメインストリート。*2
古い建物が軒をつらねます。*2
このあたりには、検番(新浜歌舞練場)がありました。
【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店)P.176
*2 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.98-P.99
今回は、宮津(京都府宮津市)の町並みと風俗を散歩します。
「丹後の宮津」は、日本三景の「天橋立(あまのはしだて)」にむすばれ、情緒の港町ともいわれました。また、色町のさかんであることも有名で、天保13年(1842年)に魚屋町海岸に「新浜廓」をひらいたことから、一段と幕末の「丹後の宮津」を売り出し、当時流行の「縞の財布」の底をはたこうと、海からも陸からも多くの遊客が集まりました。*1
宮津桟橋近くの国道176号線沿いに、宮津節の碑があります。
♪二度と行こまい丹後の宮津
♪縞の財布が空となる
♪丹後の宮津でピンとだした
宮津節の碑のある場所のすぐ隣の波止場児童遊園に「見返り柳」があります。
当時を偲ぶよすがとなっています。
【参考文献】
*1 岩崎英精:丹後の宮津(天橋立観光協会,1963)P.4-P.5
新富一丁目の新大橋通り沿いに、正金アパートがあります。
昭和の初期からあるアパートです。*1
玄関付近。
1階には、飲食店がはいっています。
*1 中央区火災保険特殊地図(戦後)新富町方面(1950,都市整図社)
新富町には、昔ながらの路地が残されています(新富一丁目)。
鰻屋のある路地の入口。以前はこの付近に待合がありました。*1
飲食店の看板のある路地。
風情のある木造母屋。
【参考文献】
*1 中央区火災保険特殊地図(戦後)新富町方面(1950,都市整図社)
新島原遊廓が廃止となった後もこの地に踏みとどまる芸妓や置屋があり、引手茶屋で残った者たちは旅館を開業したので芸妓の出先となりました。やがて新富座の開業とともに芸妓、置屋が増え、花街は脚光を浴びました。*1
現在も花街時代の名残の料亭「躍金楼(てっきんろう)」が営業中です。
料亭「松し満 」。
見番があったあたり。*2
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.111
*2 中央区火災保険特殊地図(戦後)新富町方面(1950,都市整図社)
今回は、新富町(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
新富町の地名の由来は、明治維新後、この地に出来た新島原遊廓が3年後に廃止となった後、西側にあった大富町に対して名付けられました。*1
新島原遊廓は、明治維新後、築地の外国人居留地の中に作られた「外国人のための遊廓」で、3年ほどの短い命でした。「新島原」の名は、京都の島原遊廓に由来しています。*2
新富町にある東京都中央都税事務所は、芝居小屋の新富座があった場所です。新島原遊廓が引き払って、町名が新富町と改められた後も「新島原」の名は後年まで俗称として使われました。新富座の芝居は、島原の芝居と呼ばれ、島原へ行くと言えば新富座へ行くことでした。*3
新富座の全盛時には、五丁目に市川左団次、七丁目に尾上菊五郎、坂東彦三郎、中村芝翫(しかん)が住んでいました。*4
【参考文献】
*1 竹内誠:東京の地名由来辞典(東京堂出版,2006)P.204-P.205
*2 塩見鮮一郎:吉原という異界(現代書館,2008)P.189
*3 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.111
*4 北村一夫:江戸東京地名辞典(講談社,2008)P.288-P.289
笠間駅近くに、笠間稲荷神社の御神燈があります。地震で崩壊してしまったのでしょうか。台座だけが残っています。場所は、笠間簡易裁判所近くのさくらガス(株)の隣の敷地です。
「第一御神燈」と書かれた台座には、寄進者の名が刻まれています。
新吉原京壱、吉六と刻まれています。
吉原、土手、いろは、と読み取れます。
笠間稲荷神社の講(こう=同一の信仰を持つ人々による結社)は、江戸時代から盛んでした。講は、いずれも商売繁盛を主な信仰としたもので、明治時代になるとさらに発展し、講の周期が満期となったり祈願成就すると額を奉納する場合もありました。*1
境内の絵馬殿に、これらの奉納額が納められています。
「吉原講」の奉納額
五拾軒、仲の町、の茶屋の名前が確認できます。
別の場所にあった向島の関係者の奉納額。
【参考文献】
*1 笠間市史編さん委員会:図説笠間市史(笠間市,1988)P.165