帯広駅前の銀座通りに、ひときわ目立つ店舗があります。

巨大な航空機のオブジェが貼りついています。

尾翼には鶴のマーク。今にも空に向かって飛び立ちそうです。

747。飲み放題1000円は、格安です。

帯広駅前の銀座通りに、ひときわ目立つ店舗があります。
巨大な航空機のオブジェが貼りついています。
尾翼には鶴のマーク。今にも空に向かって飛び立ちそうです。
747。飲み放題1000円は、格安です。
帯広駅前、繁華街の銀座通り。近くには、「北の屋台」などもあり、帯広観光の中心部です。
銀座通りの中ほどに、「はせ川ビル」があります。
ビルの屋上には、「ハワイ」と書かれた大看板があります。
社交の殿堂。現在は、スナックやキャバクラなどが入居しています。
西二条通り(平原通り)を北へ進み、帯広川を渡ったあたりに、帯廣大明神があります。この西側に木賊原(とくさわら)遊廓がありました。*1
木賊原遊廓は、明治31年に許可され、明治36年には貸座敷5軒を数えるに至りました。場所は、北四条西六丁目のあたりだったとされています。*2
現在、この付近は、住宅街になっています。
大正11年の帯広市街全図*3 を見ると、北四条を流れる伏古別川(十勝川の支流)がJ字形のカーブを描いて流れる北四条のあたり(地図の右上)に「遊」、「廓」の二文字が記されています。
伏古別川が、十勝川と合流する地点(遊廓があったと思われる場所の北側)に、木賊原(とくさわら)樋門があります。木賊原の名が残る場所の一つです。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.45
*2 帯広市史編纂委員会:帯広の生い立ち(帯広市史編纂委員会,1952)P. 98
【参考URL】
*3 帯広市図書館ホームページ 帯広市街全図(大正11年)
帯広市街には、現役の小路が10ヶ所ほど点在しています。その中でも名門通り沿いの南7丁目~8丁目あたりに、3つの小路が隣り合っている一画があります。
エイト街、いなり小路、金春街、と並んでいます。
金春街。小路の右側部分の建物が少し傾いています。
スナックの店舗が密集しています。
「北栄ビル」に連なるの古いスナックの建物には、奇抜なデザインのドアが取り付けられています。*1
さまざまな色のペンキで塗られています。
小さな窓が付いている店も何軒かあります。
こちらのドアは派手な緑色です。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)口絵
今回は、帯広(北海道帯広市)の町並みと風俗を散歩します。
帯広駅前の平原通りを北へ約1Kmほど離れたところ。利根川を渡る西二条橋の近くに、飲み屋小路があります。
古いスナックの建物が並んでいます。
木村聡さんは、「消えた赤線放浪記」*2 の中で、「相当昔に廃業したと見えて、廃屋のようになっている。『全国女性街ガイド』*1 に記されている場所なのかどうかは別として、ある時期まで何かしら色町めいた一画だったような、そんな気がした。」と、ここが青線街であった可能性を示唆しています。
建物は、派手な色のペンキで塗られています。
【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.23
※帯広の項には、「赤線は西二条通りから左に入った十勝川と帯広川に入ったところに十五軒ほどあるが、それよりも駅に近い飲み屋街百軒ほどの巷の青線が流行っている。」と書かれています。
*2 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.40-P.46
横須賀にある三笠公園には、日露戦争の日本海海戦で活躍した戦艦三笠が保存展示されています。戦艦三笠の前の銅像は、日本の連合艦隊を指揮した東郷平八郎海軍大将です。
記念館三笠は、第二次世界大戦終結まで、神国日本の霊験あらたかなシンボルでした。*1
戦艦三笠の前に、軍艦マーチ(行進曲「軍艦」)の記念碑が建っています。
碑文によると、軍艦マーチは、明治30年(1897年)に軍楽師だった瀬戸口藤吉により作曲され、世界三大行進曲の一つに数えられる希有の名曲として音楽史を彩っています。
世界三大行進曲とは、
①星条旗よ永遠なれ(アメリカ、スーザ作曲)
②旧友(ドイツ、タイケ作曲)
③軍艦行進曲(日本、瀬戸口藤吉作曲)
のことですが、根拠は不明で、どちらかと言うと、国内で言われていることのようです。*2
昭和20~30年代、パチンコ店の開店時は必ず軍艦マーチが流れていました。パチンコ店で最初に軍艦マーチを流したのは、昭和26年、有楽町のガード下に開店した「メトロ」という店で、元海軍航空隊のオーナーは、店内にあふれる米兵とその腕にぶら下がって歩く街娼たちを苦々しく思い、その腹いせに軍艦マーチをかけたそうです。*1*2
軍艦マーチは、キャバレーでも使われました。*2
昭和50年代、全国組織のピンクキャバレーとして名高い「トロント」の新宿グラマー店では、6時の開店と同時にホールいっぱいに軍艦マーチが流れ、ホステスさんの呼名点呼が行われます。この間、客が店内に入ってきます。30分以上続いた点呼が終わるとふたたび軍艦マーチが流れ、サービス開始となりました。*3
【参考文献】
*1 杉山一夫:パチンコ誕生(創元社,2008)p.103-P.106
*2 谷村政次郎:行進曲『軍艦』百年の航跡(大村書店,2000)P.185-P.190
*3 和田平介:キャバレー日記(晩声社,1981)P.29-P.30
ドブ板通りの洋服店は、店の前の路上にマネキンを置くというスタイルが定着しているようです。横須賀という土地柄、マネキンは外国人仕様です。
美しい外国人女性。
セクシーなマネキン。
タトゥーを入れたマネキン。
ドブ板通りの裏通り。通りの入口の柱に「和平」と書かれています。横須賀らしい題材です。
通りの側面にコンクリートの壁が続いています。
小便禁止の張り紙。横須賀らしく英語でも書かれています。
こちらは、日本語です。
ドブ板通りの裏通りの銭湯の大黒湯の隣に洒落たアパートがあります。
入口の階段の側面の壁はタイル絵で装飾されています。
右側にもタイルの絵。
階段の踊り場にあった「OFF LIMITS JAPANESE ONLY」の張り紙。
京急横須賀中央駅から歩いて1~2分のところ(若松町1丁目)に金星(きんせい)劇場があります。とにかく、建物の概観には圧倒されます。
看板には、「金星★劇場」、「KINSEI THEATER」と書かれています。中央の★のマークはインパクトがあります。
ポルノ映画館の雰囲気たっぷりです。
入口には、「オールカラー成人映画」。まだ、カラーの映画が珍しかった時代のものでしょうか。
入口付近。きっぷ売場下のタイルがいい感じです。
京急横須賀中央駅のすぐ隣に、若松飲食店街のアーケードがあります。
道の両側にスナックが密集しています。まるで映画のセットを見ているようです。
スナックの看板が密集するあたり。
狭い路地が縦横に交差しています。
今回は、横須賀(神奈川県横須賀市)の町並みと風俗を散歩します。
京急横須賀中央駅前の大滝町付近は、横須賀市内の一番の繁華街となっています。
徳寿院から見た市街。
大滝町には、明治時代、公認の遊廓がありました。遊廓があった場所は、現在のさいか屋デパートがあるあたりで、昔は、この付近までが海で、つまり横須賀軍港の海岸線上に遊廓がありました。
さいか屋本館付近。
【参考文献】
*1 港町から 第2号 / 「港町から」編集委員会(街から舎,2009.4)P.61
岩槻区本町4丁目。
銭湯の「雛の湯」。人形の町らしい屋号です。コインランドリーが併設されています。
ビル型銭湯です。
宮造りの銭湯に見られるような高い天井ではなく、簡素な内装です。
岩槻市街にある「岩槻名店街」。
シャッターが閉まっている店が多く、閑散としています。
ふと見ると、壁に貼紙が貼られています。(写真右側)
風俗、水商売の女の子大募集です。
県道324号線沿いの電柱で見かけたバイアグラの貼紙。
ラブホテル街は、夜になると美しく光り輝きます。
メインの通り。
南国のリゾートのような風景。
まるで光の芸術です。
ホテル街には、人目をひくための看板や広告塔が乱立しています。
こちらの屋上には自由の女神像が設置されています。
特にインターチェンジの出口周辺は、看板が密集しています。
夜になるとネオンが光り輝きます。
巨大な広告塔。
今回は岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)の町並みと風俗を散歩します。
岩槻は「人形のまち」として全国的に有名です。
岩槻は「ラブホテルのまち」としても有名です。インターチェンジ近くに巨大なラブホテルが乱立しています。
閑静な住宅街にラブホテルが隣接しています。
道路沿いには、大規模なホテルが建ち並んでいます。
二本木遊郭があった場所から徒歩20分ほど南にある蓮台寺。
ここに、白拍子だった「檜垣」の供養塔があります。*1
「年ふればわが黒髪も白河の水はぐむまで老いにけるかな」
檜垣の若い頃の話は、これといって残っていませんが、美しかった黒髪もすっかり白くなった晩年に、白川べりで旧友と交わるという、零落した身の上を詠んだものです。*1
供養塔を囲む玉垣の入口の2本石柱には、二本木遊郭の楼名が刻まれています。白拍子だった「檜垣」の墓に詣でると、下の病気をしないとか、安産をし、母乳の出が良くなるとかで、今も甘酒や餅が供えられているそうです。平安時代の白拍子「檜垣」と二本木遊郭の結びつきを感じます。*1
【参考文献】
*1 猪飼隆明:遅咲きの女たちの遺言(熊本出版文化会館,2006)P.355-P.358
二本木遊廓にあった東雲楼は、廓中第一流の大籬(おおまがき)としてその名を全国に知られた遊廓でした。構内は広く、数棟の巨屋が軒をならべて建ち、広大な庭園を有していました。*1
東雲楼の一部の建物が現在も残っています。*2
残念ながら近日中に取り壊されることが決定されているようです。
1900年(明治33年)、東雲楼の娼妓たちが待遇改善を求めてストライキを決行。東雲楼は、一躍有名になりました。*3
玄関の床のタイル。
当時のままと残されているレンガの塀*2
【参考文献】
*1 津留豊:熊本の遊びどころ(舒文堂河島書店,2006)P.37(明治42年発行の同名の書籍の復刻版)
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.59
*3 佐渡資生:味と歓楽五〇年 くまもと夜話(味と歓楽50年出版委員会,1984)p.171
今回は、熊本(熊本県熊本市)の町並みと風俗を散歩します。
JR熊本駅前の通り(国道22号線)を東へ行くと、白川と平行して坪井川が流れています。橋から見て南側が二本木遊廓があった方角ですが、川沿いに古い旅館の建物があります。
古い木造の建物が川沿いに建ち並んでいます。
バラック風の建物です。
こちらは、3階建てです。
松原親和通りのゲート近くに、ストリップ劇場の「さがDX」があります。
現在、営業しているかどうかは不明です。
「男の館」。
入口には、ちょうちんが並んでいます。
セクシーな踊り子さんです。
佐賀市内の中心部にある松原親和通りは、古くからの繁華街です。
昭和30年刊行の「全国女性街ガイド」*1 の佐賀の項には、「赤線は、下今宿と町端れの新地と呉服町通りの裏に点在しているが、色艶のない里である。それより、松原神社周辺の飲み屋の方がおもしろい遊びができる。」と書かれています。
曲線を描いて路地が続いています。現在は片側が空き地になってしまいましたが、当時は両側に飲み屋さんがずらっと並んでいたのだと思います。
路地の奥まったあたり。
屋根の上に物干し場のある建物。
【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.189-P.190
室園橋は、大正9年に造られた石橋です。
橋の欄干の内側には、三星楼、萬春楼、真松楼、砕月楼、三浦屋などの楼名が刻まれています。いずれも、「全国遊廓案内」*1 に記載されている楼名です。
北側の石橋の欄干にも楼名が刻まれています。風化が進み、かなり読みづらくなっています。
こちらの欄干は、鮮明に楼名が読み取れます。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)p.453-P.154「全国遊廓案内」
佐賀市の遊廓は、上芦町(現在の高木町)にありましたが、貸座敷が県庁の近くにあることによる風紀上の悪影響を理由に、明治16年、上芦町の貸座敷は廃止され、明治22年に佐賀市今宿町に遊廓が移転・再開されました。*1
1933年(昭和8年)発行の「大佐賀最新市街全図」*2 によると、現在の今宿町のバス停の南側に「室園遊廓」(今宿遊廓の別名?)と書かれた場所があります。
実際にその場所へ行ってみると、小さな石橋があります。
石橋には、室園橋と彫られていています。
室園橋は2つあります。同名のもう一つの室園橋は北側にあります。
【参考文献】
*1 佐賀県女性と生涯学習財団:さがの女性史(佐賀新聞社,2001)p.275
*2 地図資料編纂会:昭和前期日本都市地図集成(柏書房,1987)P.108
佐賀市内を旧長崎街道が横断しています。
長崎街道を東へ進むと、思案橋があります。
思案橋は、「遊廓へ”行こうか戻ろか”と思案したので名付けられた」という遊郭への門前橋であることが多いのですが、佐賀の思案橋も例外ではなく、ここから南に折れたところに今宿遊廓がありました。
思案橋のたばこやさん。
愛敬町のスナック街。熟女がお相手するちょんの間があるとの情報*1 もありますが、昼間の散歩だったので、詳細は把握できませんでした。
通りを逆方向から見たところ。
スナック店が建ち並んでいます。
艶っぽい看板。
【参考文献】
*1 俺の旅 Vol.25 (ミリオン出版,2007.10.25)P.19
今回は、佐賀(佐賀県佐賀市)の町並みと風俗を散歩します。
古い旅館などが点在する愛敬町の路地。
銭湯の松乃湯があります。前面は、奇抜なデザインの建物です。
銭湯の建物の左脇に、もう一つ別の建物が隣接しています。
「御家族湯」と書かれた看板。家族だけで楽しめる別棟の銭湯ということでしょうか。
諫早駅前に白ポストがあります。
ポストの幅(直径)がスリムな少スペース型です。
駅前のバスターミナルに設置されている白ポスト(写真の右下)は、別タイプです。
白ポストにいたずらをしてはいけません。
諫早駅から、バスで約20分。「トンネル上」という名前のバス亭で下車します。近くに大村線のトンネルがあるので、この名がついたのだと思います。
トンネルの上の道を登っていくと、ラブホテルの入口があります。
さらに、山道を登ると別のホテルがあります。この一画にはラブホテルが集中しています。
まるで、南国のリゾート地のような風景です。
厚生町に、かつて旅館が建ち並んでいた一画があります。
古い建物も残っています。
現在も営業中の「恵比須屋旅館」。
地元の方に話をお伺いしたところ、昔、このあたりには遊廓があり、遊廓内には小さな川が流れていて、遊客は船に乗って遊廓へ来たそうです。
今回は諫早(長崎県諫早市)の町並みと風俗を散歩します。
諫早市街の中心部を流れる本明川沿いにスナック街があります。
路地を入ると、スナックが密集しています。
スナック店と思われる店の前の「只今の料金」と書かれた看板。
出島は、鎖国時代、西洋に開かれた唯一の窓口として、日本の近代化に大きな役割を果たしました。1
出島の表門には、「傾城(けいせい)之外女入事」(遊女以外の女性は、出島に出入りしてはならない。)と書かれた立札があり、厳重な警備がしかれ、出入りできる者はごくごく限られていました。つまり、女性としては丸山遊女のみが、日常的に外国人と接することができたわけです。丸山遊女の存在により、西洋の近代文明は、いちはやく市中に広まり、同時に、日本という国の具体的な姿が遠い西洋に紹介されました。2
カピタン部屋は、オランダ商館長(カピタン)の事務所や住居として使用された出島で最も大きな建物です。1
1809年に渡来したカピタンのブロムホフは、遊女「糸萩」を出島に呼び入れ、糸萩は、1812年に女児を出産しました。2
カピタン部屋には、女中部屋が再現されています。
女中部屋は、遊女たちが使用する部屋でした。
【参考文献】
*1 長崎さるく:「出島」パンフレット
*2 白石広子:長崎出島の遊女(勉誠出版,2005)P.5,P.20,P.52,P.93
思案橋商店街の裏側の路地。
頭上の「トイレ」と書かれた大看板。蛍光灯で照らされていますので、解りやすいです。
商店街組合専用のトイレです。1階が男子用、2階が女子用。
立小便禁止の貼り紙。
丸山本通りから路地を入ったところに、石垣の上に建てられた楼閣があります。
建物の側面に階段があります。
階段を登ると楼閣の入口がありました。
店の屋号でしょうか。タイルで装飾された大きな文字で描かれています。
寄合町の本通り。明治末期の唯一の地図である「長崎丸山町、寄合町全遊廓細見図」*1 によると、当時は、この通りの両側に遊廓がびっしりと建ち並んでいました。
坂の途中に1軒だけ、当時の佇まいを残している建物があります。
「三島屋」という屋号の店だったこの建物は、現在はアパートとして使用されているようです。
玄関付近。
【参考文献】
*1 山口雅生:廓の娘(長崎花月史研究所,1973)
丸山町の東側。料亭杉本家跡(現・料亭青柳)の近くに、長崎丸山花街跡の碑があります。
丸山は、寛永19年(1642)年、幕府の命により、長崎奉行所が長崎市内に散在していた遊女屋を1ヶ所に集め、公認の遊廓をつくったことにはじまります。
丸山は、江戸の吉原、京の島原と並ぶ日本三大遊廓の一つでした。
丸山とは、丸山町と寄合町をあわせた花街の総称です。L字型の町域でした。現在の丸山公園のあたりがL字の角の部分にあたり、ここから丸山町は東に向かって、寄合町は南に向かって傾斜を持って形成されていました。
今回は、長崎丸山(長崎県長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
見返り柳は、花街からの帰り道、男たちが未練を断ち切れず、振り返る姿から名付けられました。見返り柳は、京都島原の花街入口にある柳がはじまりと言われ、その後、江戸の吉原や長崎丸山に伝わり、いつしか花街入口のシンボルとなりました。*1
見返り柳と思切橋の案内板。
橋銘が刻まれた思切橋の欄干。
思切橋は、山の口を流れていた小さな溝にかかる橋でした。思案橋で行こうか戻ろうかを思案し、ここで思い切って花街へ繰り出す。あるいは、花街からの帰り道、思いを断ち切って家路を急ぐなどど言われるようになり、いつしか思切橋と名付けられました。*1
江戸時代、丸山は現在の丸山町と寄合町の総称でした。長崎人はシンプルに「山」と呼んでいたため、これが丸山の入口を山の口という所以でもあります。*1
【参考文献】
*1 長崎文献社:長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う(長崎文献社,2007)「長崎游学マップ3」P.13
軍艦島には、その歴史を通して常に遊廓があったと言われています。*1
大正時代、島の南部のプール跡あたりに木造3階建ての遊廓の建物がありました。*2
島の南部のエリアは、手配師労働者を掌握し派遣していた、いわゆる「納屋」と呼ばれる組織が密集していた地域でもあり、その最奥に遊廓がありました。*1*2
その後、遊廓は、まだ木造商店街が建ち並んでいた31号棟附近に移動しました。遊廓は3軒あり、「遊廓森本」、「遊廓本田」は日本人向け、「遊廓吉田」は大陸からの抑留者専門で、当然のように従業員も大陸からの人たちでした。その後、このエリアの木造商店街は、昭和31年(1956年)の台風により壊滅的な被害を被ったため、日給住宅の1階などに移転しました。*1
跡地にできた31号棟は、防潮棟として建設されたもので、堤防のカーブに沿って「くの字」に曲がるその外観は、まさに堤防と呼ぶに相応しいルックスでした。*1
島の南端にあった木造3階建ての遊廓は、日給社宅の1階に移転しました。*2
日給社宅は、大正7年(1918年)に建設された鉱員用のアパートです。現存するものでは国内で2番目に古い高層鉄筋アパートで、建設当時は国内最高層の建物でした。*1
(写真左奥の祠のように見える建物は、端島神社の神殿です。)
【参考文献】
*1 オープロジェクト:軍艦島全景(三才ブックス,2008)P.14,P.68-P.69
*2 阿久井喜孝,滋賀秀実:軍艦島実測調査資料集(東京電機大学出版局,1984)p.115,P.647
軍艦島には、居住空間の確保の必要性から、高層鉄筋アパートが数多く建設されました。
30号棟は、日本で最古の鉄筋アパートです。この建物が造られたのは大正5年(1916年)で、東京でさえもレンガ造りの建物が主流の時代でした。*1*2
アパートの屋上は唯一のデートの場所で、高い建物の屋上ほど秘密めいていて格好の場所でした。ただ、狭い島なので、「誰かさんと誰かさんが...」という噂は、あっという間に広がるので、隠し事などほとんどできないのも現実でした。*2
島民が最も多かった昭和34年(1959年)に建設された3号棟は、島の岩礁の最上部に建てられました。課長以上の職員や医師など、身分の高い人のためのアパートでした。屋上は全島で一番高い場所に位置していたため、他の建物からの視線に気兼ねすることもなく、若者達の格好なデートスポットとして利用されました。*1
島には坑員と家族が生活するために必要なものは、火葬場とお墓以外は何でも揃っていました。理容院、美容院、パチンコ屋、雀荘、それにビールなども飲める社交場もありました。*2
50号棟は昭和2年に落成開館した「昭和館」という映画館でしたが、建物の大半は平成3年の台風で崩壊してしまいました。*1
北側から見た70号棟(端島小中学校)と65号棟(報国寮)。
端島小中学校(写真左)は、地上7階建てで、1階から4階までが小学校、5階及び7階の一部が中学校、6階に図書室と講堂、7階の一部に化学実験室などの特殊教室があり、給食配膳用のエレベータも設置されていました。*1
報国寮(写真右)は、島内最大戸数を誇った鉱員住宅(屋上に保育園)で、戦中に建設されました。物資が不足していた時代に建設された建物としては国内最大規模の建物で、このことは、炭坑施設が当時国家から手厚い保護を受けていたことを物語っています。*1
【参考文献】
*1 オープロジェクト:軍艦島全景(三才ブックス,2008)P.10,P.30,p.40,P.86
*2 後藤惠之輔,坂本道徳:軍艦島の遺産(長崎新聞社,2005)P.15,P.72-P.73,P.112
軍艦島の南側には、炭坑施設が集中していました。上陸して、まず初めに目に入るのが、ベルトコンベアーの支柱跡です。精選された石炭は、このベルトコンベアーによって貯炭場に蓄えられ、石炭運搬船に積み込まれました。
入坑桟橋への入口部分。ここから垂直の坑道を地下606mまで降下しました。
鉱山の総合事務所跡。れんが造りの建物です。
仕上工場跡。1階が作業場で、2階には食堂や風呂がありました。
長崎港から「軍艦島クルーズ(上陸コース)」で上陸を目指します。
船に揺られること約1時間。南西の方角に軍艦島の雄姿が見えてきました。
ドルフィン桟橋から上陸開始です。
ついに、軍艦島に上陸しました。感激です。
今回は、軍艦島(長崎県長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
軍艦島は、長崎半島の野母崎地区の沖合いにある島で、正式名称は、端島といいます。長崎港から船で約1時間です。
長崎港には、軍艦島の模型が展示されています。島の断面図が示している通り、軍艦島は海底炭坑を有する島です。
島の南東側は、鉱山施設があるエリアです。南端には、プールがありました。
島の北側には、鉄筋コンクリート造りの住居が密集しています。日給社宅(写真中央)は、島内でも特に古い住宅です。
三条市の信濃川近くに、「三条競馬場」という名のバス停があります。
三条競馬場は、5000人収容のスタンドを持つ競馬場でしたが、現在は廃止され、正門前のスタンドだけが残され、現在は場外馬券発売所として活用されています。
後ろ側から見たところ。
今後は、馬術競技用の施設として活用されるようです。
三条市の八幡町。古い町並みに煙突が見えます。
銭湯の高砂湯です。
入口に雁木があります。雪国らしい銭湯の佇まいです。
現在は、休業中のようです。
本寺小路の路地を入ったところに、風俗店の看板が残されています。
かすやビル。スナック、ランジェリーパブの他にマッサージ店やサロンもあったようです。
入口は、看板の奥のこの階段です。
現在は、休業中のようです。
本寺小路に、花街の風情漂う通りがあります。
見事な木造三階建て建築です。
2階、3階部分。
裏側から見ると、こんな感じです。
今回は、三条(新潟県三条市)の町並みと風俗を散歩します。
歓楽街、本寺小路の繁栄は、元禄年間に東本願寺三条掛所が建立され、その門前町として賑わうようになって以来のことで、寛政2年(1790年)、女抱旅籠の営業許可が下りてからは、一大歓楽街として発展しました。明治3年当時の地図によると、現在の石川書店(写真、右手前)のところから、浄円寺に向かって、平野屋、秋田屋、田中屋、大阪屋、亀屋、中川屋、向かい側の輪宝寺から通りの西側には、珠数屋、広川、信濃屋、小高屋、京枡屋、日野屋、大黒屋、小市屋、三浦屋、などの女抱旅籠がありました。*1
本寺小路を逆方向(浄円寺側から南)をみたところ。昭栄通り、青玉小路が出会うあたりから現在の331号線に至る通りの両側にも女抱旅籠が並んでいました。*1
通りにあったアパート風の建物。
料亭「信水」。
*1 中越の郷土史編集室:三条ッ子別冊1 「本町・本寺小路の今昔」(1986,中越の郷土史編集室)P.10-P.20
温泉街の中心部に、駅前DX劇場があります。周囲の山並みによく溶け込んでいます。
ハート型の窓が印象的です。
派手な電飾。
サーミロミロ。非常に解りやすいです。
今回は、鳴子温泉(宮城県)の町並みと風俗を散歩します。
鳴子温泉は、平成19年6月8日付け交通新聞社発行の月刊「旅の手帖」温泉番付において、東の横綱に認定されました。*1
古い温泉番付を見ると、前頭7枚目にランキングされているものもあり*2 古くからも名湯であることが解ります。
温泉街の旅館に混じってスナック風の建物が並んでいます。
「洋酒 喫茶」と書かれた看板が残っていた店。
営業中のスナックがある通り。
【参考URL】
*1 鳴子温泉郷観光協会:”ゆったりくつろぐ湯と森の里”鳴子温泉郷
【参考文献】
*2 木暮金太夫:錦絵にみる日本の温泉(国書刊行会,2003)p.83 「大日本温泉一覧(明治29年)」
脇町には、古い建物が残されています。
パーマ屋さんの建物があります。
「花嫁着付、パーマ」と書かれた看板。
美容業組合のプレート。
貞光から吉野川を下流に下った脇町に、脇町劇場オデオン座があります。脇町劇場は昭和9年に芝居小屋として、建てられました。
その後、1995年に取り壊される予定でしたが、山田洋二監督、西田敏行主演の映画「虹をつかむ男」(1996年公開)の舞台となったことがきっかけとなり、脚光を浴び、文化的価値が見直され、創建時の姿に修復され、一般公開されることになりました。*1
オデオン座の中には、「虹をつかむ男」の当時のロケの様子などの写真が展示されています。
2階客席から見た内部。
【参考文献】
*1 「脇町劇場オデオン座」パンフレット
貞光は、脇町とともに、「うだつのある町並み」として有名です。「うだつ(卯建)」は、二階の壁面から突き出した漆喰塗りの袖壁です。江戸時代は火よけ壁とも呼ばれ、防火の役目を果たしていましたが、明治時代になると防火よりも装飾に変わってきました。裕福は商家は、冨の象徴として、この「うだつ」を競ってあげました。「うだつがあがらぬ....」の語源にもなっています。*1
うだつのある町並みには、木製牛乳箱が似合います。
毎日牛乳の牛乳箱。
「毎日ボン牛乳」のうち、青色文字の「ボン」だけが鮮明に残っています。
【参考文献】
*1 清水安雄:美しい日本のふるさと 中国四国編(2008,産業編集センター)P.163-P.167
貞光町の中心部からやや南寄りに、貞光温泉があります。
銭湯の建物は、看板のある場所から少し奥に入ったところにあります。
入口のドア。入浴剤は曜日毎に替わります。
銭湯の建物を後方から見たところ。
駅前から続く成人映画の看板群*1 に釣られて歩いていくと、貞光劇場の入口のゲートに行き着きます。
昭和7年の開業以来、上映を続けています。建物の外観も内装もほぼ当時のままです。*2
1953年の「君の名は」が上映されたときは、連日、貞光駅まで行列ができ、劇場は全盛期を迎えました。しかし、その後テレビ放映が始まり、客足は遠のき、ここ十数年は、安くフィルムが借りられる成人映画が中心となっています。*2
建物の側面は、美しい黒板で覆われています。
【参考URL】
*1 風俗散歩(貞光~脇町):成人映画の看板(2009.6)
【参考文献】
*2 徳島新聞(2007.11.23)P.1 一宇街道物語(5)「貞光劇場 人々の笑い・涙を刻む」
今回は、貞光~脇町(徳島県美馬市)の町並みと風俗を散歩します。
JR貞光駅の駅前の通りに貞光劇場の映画のポスターが貼られています。
1階にたばこ屋さんがある民家。町のあちこちにポスターが貼られています。
専用のポスター貼り付けスペースがあります。
神社の玉垣にもポスター。映画のポスター専用に作られたと思われる木製の掲示板があります。
JR土讃線旭町駅で下車し、町並みを散歩します。旭町は、昔ながらの路地裏など、下町を感じさせる風景が残っています。
旭町駅近くのV字路。角のな建物は、昔は商店だったようです。*1
交差点の道の形そのままに建てられた不動産屋の建物。*1 まるで、船の舳先(船首)部分のようです。
旭上町の旭西部公民館の入口へ続く坂道と、写真右奥のV字路を含めると、五叉路ということになります。
その場所から約10m離れた地点から逆方向(北東方向)を見ると、こちらも路地が迷路のように入り組んでいます。*1
右側の路地は奥でさらに2叉に分岐していますので、それも含めると五叉路。まさに、「ラビリンス旭」です。
【参考文献】
*1 高知遺産プロジェクト:高知遺産(グラフィティ,2005)P.36-P.41
上町五丁目の通りに面して路地の入口があります。
建物に挟まれた細い空間が続きます。
路地を抜けると、突然、広場に出ます。
ここは、共同の物干し場のようです。現在の町では、忘れ去られてしまった「共同空間」が現在も健在です。*1
【参考文献】
*1 高知遺産プロジェクト:高知遺産(グラフィティ,2005)P.41
高知には、かつて「上の新地」と「下の新地」の2つの遊廓がありました。「上の新地」は、市街の西側(現在の玉水新地*1)に位置していたのに対し、「下の新地」は、市街の東側の市電「知寄町二丁目」停留所から、南側に5分ほど歩いた位置にありました。*2
県道35号桂浜宝永線に面した場所に駐車場があります。
駐車場の隅に小さなお稲荷さんがあります。
お稲荷さんの脇に、「昭和五年三月 植櫻樹記念」と刻まれた石碑が放置されています。*2
周囲の町並みに遊廓あったことの面影はありませんが、その中で、この石碑は唯一の下知遊廓の痕跡といえます。
【参考URL】
*1 風俗散歩(高知):玉水新地(2009.6)
【参考文献】
*2 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.272-P.274
玉水新地には、洋風の建物もあります。
スナックみち。スナックの建物だったようです。
路地を入ったところにあるタイルで装飾されたスナックの建物。
「カフエー」のプレート。
思案橋から水路沿いの道を行くと、和風旅館やモダンなデザインの建物が混在する一画に出ます。ここが旧玉水新地です。
新地の東側にモルタルの旅館が建ち並ぶ一画があります。
旅館「若水」の昼間の様子。
夜も営業中です。
高知市内には、旧町名の由来を説明する案内板があちこちにあります。
旧本町筋の西端を南に折れたところに、思案橋番所がありました。
実際にその場所に行ってみると、思案橋と書かれた小さな橋があります。橋の桁間は、わずか1m程です。
思案橋の名前の由来は、この橋から先は、いくつかの道が分岐していたので、どの道を通るか「思案」したのだとか、この橋の先にはる玉水新地に行くかどうか迷うので、「思案橋」になったのだとか、いろいろな説があります。*1
大正15年につくられた橋です。
【参考文献】
*1 高知遺産プロジェクト:高知遺産(グラフィティ,2005)P.88-P.89
今回は、高知(高知県高知市)の町並みと風俗を散歩します。
山内一豊が築いた高知城は、現在は高知県庁がある町の中心部です。旧本町筋は、城下町がつくられたとき、最初にできた基本となる道路です。現在も市電が走る高知市の中心市街地です。
交差点に、白ポストがあります。
白ポストは、駅前に設置されているケースが多いのですが、高知の白ポストは、県庁前の交差点に設置されています。
上部の帽子のような形状とコンクリートの台座。郵便ポストにそっくりです。
宇和島市築地町の北側(住吉町2丁目)にあるホテルコーラル宇和島。
駐車場の隅に石碑があります。
「築地建設記念」と彫られています。
石碑には、「昭和四年宇和島市港湾改修ノ進捗ニ伴ヒ須賀川附替ノ議決スルヤ河身北陽ヲ貫クヲ以テ市長山村豊次郎深ク之ヲ憂ヒ関係業者ヲ融通シテ花街移転ノ計画を樹ツ...(後略)」と移転の経緯が説明されていて、この碑が、築地花街が建設されたことを記念して建てられたことがわかります。
須賀川は、降雨の際の大量の土砂が港の機能を失わせることから、幕藩時代から伊達家により附替が計画されていましたが、昭和の時代になりようやく実現されることとなりました。そのとき問題となったのが須賀川の付替えによりその場を失うことになる北陽花街の移転問題でした。移転先の築地が未開の地であることから、反対意見があり、結局、築地に移転する業者と北陽に残る業者に分かれることとなりました。*1
昭和6年の古地図*2 を見ると、建設中の須賀川と北陽、築地の両花街が記されています。
【参考文献】
*1 宇和島市誌編さん委員会:宇和島市誌(宇和島市,1974)P.200-P.217
*2 宇和島市街地図(1931)
北新町から須賀川沿いを歩いていくと、凹凸神堂があります。
凹凸神堂は、世界最高の性文化財資料館です。*1
お前とわたしは石臼夫婦。重ねて廻して子をつくる。
石臼を散りばめた庭園があります。
中央の大きな石臼の上には、男性のシンボルが...。
【参考URL】
*1 多賀神社、凹凸神堂ホームページ
北新町にある料理屋「月ヶ瀬」の隣にある民家。
花街の時代を想わせます。
2階部分に手摺りがある家です。
玄関付近。
大正時代初頭、宇和島の商工業は著しく発達し、それに伴い須賀川の川端に花街が形成されました。川端花街の芸妓は、しだいに娼妓化したため、散在していた料理屋や置屋を須賀川左岸の藤江に集めて、川端遊廓(北陽花街)が作られました。*1
北陽花街は、「北新地」とも呼ばれました。同じ頃、元結掛には、「南新地」という花街がありました。*2*3
「北新地」の名残でしょうか。北陽花街があったと思われる場所は、旧町名では、北新町と呼ばれていました。
旧町名「北新町」の範囲。
かつては、藤江と呼ばれていた地域の一部でした。
【参考文献】
*1 栗本露村,浅井伯源:宇和島案内(宇和島案内発行所,1933) P.50-P.54
*2 河野一水,松本麟一:写真集明治大正昭和宇和島(国書刊行会,1983)p.106
*3 矢野和泉:目で見る宇和島・北宇和・南宇和の100年(郷土出版社,2003)p.46
道後温泉の風俗街の中心部に風俗店が多数入居するビルがあります。広場から見える威容は圧倒的です。建物の外観はマンションですが、風俗店の看板が乱立しています。
風俗雑誌などで、風俗店が多く入居している雑居ビルを「ヘルスビル」と呼称している場合がありますが、このビルの場合は、ビル名そのものが「ヘルスビル」です。
1階には、案内所が入居しています。
夜になると、各階の看板が煌々と輝きます。道後温泉は、ネオン坂のスナック街が衰退した代わりに、ヘルスのような風俗店が活況を呈しているようです。
道後温泉内の飲食店などが建ち並ぶ通りにストリップ劇場の「ニュー道後ミュージック」があります。
建物の左手にある事務所の入口。
入口付近。
ネオン看板が美しい劇場です。
今回は、道後温泉(愛媛県松山市)の町並みと風俗を散歩します。
明治時代、夏目漱石「坊ちゃん」で描写された旧松ヶ枝遊廓跡地は、その後は、ネオン坂歓楽街と呼ばれるスナック街に生まれ変わりました。*1
現在は、そのネオン坂の看板も取り去られ、新しい町に生まれ変わろうとしているようです。
坂に沿って、かつての赤線跡の建物が建ちならんでいます。坂を登りきると、寺院の敷地につきあたります。*2
寺院の前にあったかつての妓楼の建物*1 は、無くなって駐車場になっていました。
坂の中ほどに残されていた妓楼の建物*1*2 も現在はありません。ここ数年で急激に様変わりしたようです。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.90-P.91
*2 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005.6)P.283-P.285
国道437号線から通りを1本入ったところ(神田町付近)に、銭湯の煙突が見えます。
現代風のお洒落な建物です。
入口の電球。「女」の文字もモダンなデザインです。
残念ながら、本日は休業でした。
住吉町の商店街の北側。理容室脇に、商店街の入口と思われるゲートが残っています。
木造家屋が建ち並ぶ小路。
京都で見かけるようなトンネル状の小路です。ここを通り抜けると商店街に出ます。
トンネルの出口(商店街側)。
三津浜には、稲荷新地と呼ばれる遊廓がありました。場所は、旧お船場(現、住吉2丁目11)で、現在は住宅地や工場用地となっています。現在は埋め立てられていますが、当時は、この写真の道路部分(写真右側)は運河でした。*1*2
三津浜には、十軒茶屋と称する花街が住吉町にありました。伊予鉄道の三津駅が出来てから住吉町は賑わうようになり、貸座敷も開業されましたが、風紀上の理由から稲荷新地に移転し、三津の遊廓となり、大正から昭和初年が最も盛大でした。*3
こちらの寿司屋の付近までが、遊廓があった場所だったと思われます。*1
遊廓内には、稲荷神社があり、よく信仰されていました。*3
古地図*2 によると、稲荷神社があった場所は、内港へ向かうこの通りの東側(写真右側)です。
旧地名の名残と思われる「稲荷」と書かれた電柱のプレート。同じ場所に、「シンチ」と書かれた電柱もありました。
【参考文献】
*1 しあわせづくり三津浜地区推進委員会:三津浜ふるさと散歩道(しあわせづくり三津浜地区推進委員会,1999)P.6
*2 松山市立中央図書館:御津の歴史移り変わり「三津濱町図」
*3 三津浜郷土史研究会:三津浜誌稿(三津浜郷土史研究会,1960)P.37
今回は、三津浜(愛媛県松山市)の町並みと風俗を散歩します。
三津浜は、戦国時代、水軍の根拠地で、江戸時代は軍港として栄えました。三津浜港の東側は、御船場(造船所)と呼ばれ、作事小屋、材木小屋、舟道具小屋などが建てられていました。*1
現在も、その名残として、造船所や材木置き場があります。
明治維新により、軍港だった御船場辺りが開放され、石油売買所や配電所などが出来ました。*1
近年は、フェリー船の進出により、トラック輸送が主流となりました。内港に着く渡海船は少なくなり、漁協の漁船がけい留されています。*2
【参考文献】
*1 三津浜郷土史研究会:三津浜誌稿(三津浜郷土史研究会,1960)P.36
*2 しあわせづくり三津浜地区推進委員会:三津浜ふるさと散歩道(しあわせづくり三津浜地区推進委員会,1999)P.8
1988年、日活、ポルノ映画から撤退し、「ロッポニカ」の新ネーミングの元に新たな映画製作配給がはじまり、これにより、にっかつ上映館は、「ロッポニカ」の名称に変更になりました。しかし、この「ロッポニカ」も半年で終了。映画館は譲渡もしくは閉館となりましたが、唯一、高松の映画館のみ「ロッポニカ」の名前が残っています。
現在は、ロマンポルノの資産を引き継いだ「エクセスフィルム」(新日本映像株式会社)の成人映画が上映されています。
新作成人映画の他、ロマンポルノも上映されています。
「セーラー服色情飼育」は、1982年の日活ロマンポルノ作品。可愛かずみさんのベッドシーンはラスト3分のみでした。*1
本日上映作品のポスター。なぜか「セーラー服色情飼育」は無く、代わりに、「セーラー服百合族」のポスターが貼られていました。
「セーラー服百合族」は、レズをライトな遊び感覚で捉えた女子高生の姿を描いた作品で、主演は、山本奈津子さん、小田かおるさん。 百合族という言葉が社会現象にまでなりました。*1
ちなみに、小田かおるさんは、ミス日本グランプリの経歴の持ち主。結婚・出産後は、ヌード写真集で復帰し、村西とおる監督のAVなどにも出演しました。*2
【参考文献】
*1 ロマンポルノを愛する会:日活ロマン帝国の逆襲(成星出版,1997)P.32-P.33,P.76-P.77 ,P.304
*2 週刊ポスト(2002.8.23・30)P.228 「日本列島大捜索 あの美女アイドルは今?」
片原駅前の通りを西へ進むと、三越別館の建物に突き当たります。
現在の三越別館があるあたりは、戦前までは「浮世小路」と呼ばれ、「笹まき」、「円まん」、「山水」といった料亭や劇場が建ち並び、エロ、グロの暗躍地帯でもありました。*1
OS劇場があったあたり。*1
付近にあった風俗店。
【参考文献】
*1 荒井とみ三:高松繁昌記.第1-2巻(讃岐郷土史研究会,1960-1963)P.67
*2 井上正夫:古地図で歩く香川の歴史(同成社,2008)付録地図
琴電片原駅前の飲み屋横丁は、かつて「パラダイス」と呼ばれていました。かつてのこのあたりに赤線がありました。*1
現在は、横丁らしい雰囲気が残るのは、この一画のみです。
再開発の計画があるのか、付近には空き地が目立ちます。
以前には、多数のスナックが密集していたようです。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記 その色町は今・・・・・・(ミリオン出版,2005)P.291-P.294
ソープランド街の南側に、東浜恵比寿神社があります。
正面の鳥居の左右の柱には、「一天泰平」、「萬民快楽」と刻まれています。*1
玉垣には、新地睦会に所属する戦後の特飲店45軒の屋号が刻まれています。*1
右から、「敷島」、「三日月」、と彫られています。「敷島」は、八重垣遊廓時代にもあった妓楼の屋号です。*2
「三日月」は、1970年の住宅地図*3 に記されている「旅館三日月」*4のことでしょうか。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.84
*2 南博:近代庶民生活誌.第14巻(三一書房,1993)P.143 「全国遊廓案内」
*3 善隣出版社:ゼンリンの住宅地図 高松市(善隣出版社,1971)P.13
*4 風俗散歩(高松):城東町の赤線時代の建物(2009.5)
現在、ソープランド街となっている城東町には、かつては八重垣遊廓がありました。
この一帯は、明治維新後に埋め立てされ、明治5、6年の頃に八重垣遊廓が新設されました。*1
八重垣遊は、昭和20年の空襲で全焼しましたが、赤線の時代をへて昭和40年代の後半にソープ街へと変貌を遂げました。*2
ソープランドに混じって、赤線時代のものと思われる古い建物が残っています。
パラダイスビルの隣にある民家。1970年の住宅地図*3 には、「旅館三日月」と記されていますが、売防法施行以前は、赤線の建物であったと思われます。
「バーバラ」という屋号の店があったあたり。*3
料亭のような雰囲気です。
【参考文献】
*1 長尾折三:高松新繁昌史(宮脇開益堂,1902)P.65,P.68
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.84
*3 善隣出版社:ゼンリンの住宅地図 高松市(善隣出版社,1971)P.13
城東の風俗街の東浜港寄りの風俗ビルの1階に無料案内所があります。
「ご自由にお入り下さい。」と書かれています。どうやら無人の案内所のようです。
こちらの案内所では、女性が出迎えてくれます。
女性に見えたのは、人形(ラブドール?)でした。
土庄町の通称「迷路のまち」と呼ばれているあたり。
肥田牛乳の牛乳箱。肥田牛乳は、小豆島地元の乳業メーカーです。
別の場所にあった肥田牛乳の牛乳箱。
こちらの箱は、牛乳瓶入りです。
土庄町本町の西光寺から南西にむけて、迷路のような曲がりくねった路地が続いています。
この界隈は、「迷路のまち」として紹介されています。*1
木製消化器箱のある民家。
大ぶりの箱は迫力があります。
消火栓もレトロです。
【参考URL】
*1 小豆島迷路のまち実行委員会:迷路のまちホームページ
土庄町本町には、昭和の初期、花街があり、赤松楼など有名な料亭がありました。*1
土庄町の中心部を縦断する県道26号線沿いに、狭いの路地の入口があります。
昭和3年の土庄の古地図*2 によると、西光寺の北西に芸妓検番がありました。
地元の方に話しをお伺いしたところ、この路地は「さかえ小路」と呼ばれ、小路の中ほど(写真の奥のクーラーが付いている家のあたり)に芸妓検番があったそうです。この路地は「さかえ小路」と呼ばれ、当時はたいへん賑わったそうです。
花街時代の名残でしょうか。現在もスナックの店舗があります。
西光寺(写真、左側)の向かいに、旧酒喜旅館の建物が残されています。現在は営業していませんが、建物は当時のままです。*2
花街時代の町並みの雰囲気が伝わってきます。
【参考文献】
*1 和田仁:目で見る小豆島の100年(郷土出版社,2000)P.51
*2 井上正夫:古地図で歩く香川の歴史(同成社,2008)p.82
今回は、土庄(香川県小豆郡)の町並みと風俗を散歩します。土庄(とのしょう)は、瀬戸内海に浮かぶ小豆島の西北部に位置します。
土庄港のバスターミナル脇には、「二十四の瞳」に登場する大石先生と12人の子供たちのブロンズ像があります。
土庄へは、高松港からフェリーで約1時間です。
土庄港に、白ポストがあります。大石先生がこれを見たら、さぞかし、びっくりされることでしょう。
横から見ると、ピサの斜塔のように傾いています。
かつては、本牧の代名詞ともなったチャブ屋(外国人を客とした娼館)ですが、その起源は、江戸時代末期、外国人遊歩新道沿いにできた茶屋にさかのぼると言われています。*1
「横浜チャブ屋物語」*1 には、山手警察署裏手の通りに本牧のチャブ屋街があったと書かれていますが、少し南側に寄りすぎているような気がします。
昭和8年の「本牧・小港方面街並図」*2によると、チャブ屋があったのは、旧東泉橋と旧西泉橋のY字路(写真の奥のあたり。当時の道路の形状が残されている場所)付近で、このY字路から東側に延びる通りがチャブ屋街のメインの通りでした。
イトーヨーカドーがあるこのあたりが、チャブ屋街のメインの通りがあった場所と思われます。
大通り沿いには、モリヤホテル、バイオレットホテルがありました。*2 チャブ屋が密集するメインの通りとは別に少し離れた場所にもチャブ屋は散在していたようです。
【参考文献】
*1 重富昭夫:横浜「チャブ屋」物語(センチュリー,1995)P.11-P.12,P.86
*2 中区制50周年記念事業実行委員会:横浜・中区史(中区制50周年記念事業実行委員会,1985)P.687
本牧通りを北側に入った路地。奥にアパートがあります。
奥行きのあるアパートです。前面はモダンなデザインになっています。
1階には、スナックの店舗が入っています。
入口のドアがたてかけてありました。
本牧通り沿いに、レンストランの「ゴールデンカップ」があります。1960年代、グループサウンズ(GS)の「ザ・ゴールデン・カップス」は、ここで誕生したました。 *1
本牧には、かつて”アメリカ”がありました。第二次大戦直後から1982年3月に返還されるまでの36年間、本牧は、約70万平方メートルに及ぶ広大な土地を米軍に接収されていました。ベトナム戦争時以降、本牧にGIがくりだすようになり、夜になると、米兵や米兵目当ての女たちがたむろして異様な雰囲気の町となりました。米兵の中には、プロやアマチュアのミュージシャンもいて、「ゴールデンカップ」は夜毎にぎわうようになっていきました。*2
建物の裏側。時代を感じさせます。
物置に、「ゴールデンカップ」の文字。
【参考URL】
*1 「ゴールデンカップ」ホームページ
*2 和久井光司:ザ・ゴールデン・カップスのすべて(河出書房新社,2005)P.21-P.22,P.30
JR京浜東北線山手駅のすぐ近くにある根岸外国人墓地。
明治35年に開設されました根岸外国人墓地は、現在は、きれいに整備されていますが、長い間、忘れ去られていた外国人墓地でした。昔、ここには小さな木の十字架がびっしりと立てられていました。そのほとんどは、戦後間もない時期に死んだ嬰児で、進駐軍兵士と日本人女性の間に生まれたハーフです。その数900体。*1
1999年、片翼だけの「天使の翼」を模した像が建立されました。*1
おびただしい数の十字架は一掃されましたが、片翼の天使は、歴史の真実を語り伝えてくれています。*1
*1 横浜タイムトリップ・ガイド制作委員会:横浜タイムトリップ・ガイド(講談社,2008)P.116,P.127
根岸森林公園近くの通り。落ち着いた感じの住宅街です。
古い理容室の建物を発見。
木造の作りは、温かみがあります。
小さめですが、レトロ感があります。
今回は、根岸~本牧の町並みと風俗を散歩します。
JR京浜東北線根岸駅の北側に、横浜の都心では最大級の根岸森林公園があります。この公園は、本格的な近代競馬の先駆となった根岸競馬場の跡地です。
公園の北側に、根岸競馬場の一等観覧席が残されています。
根岸競馬の初開催は、1880年(明治13年)で、このとき、現在の天皇賞の先触れとも言える天皇花瓶競争が創設されました。観覧席には、有栖川宮、伊藤博文、各国外交官や居留外国人などで、鹿鳴館外交の一翼を担っていました。*1
案内板。
【参考文献】
*1 馬の博物館 編:根岸の森の物語(神奈川新聞社,1995)P.43
割烹「まじま」や料亭跡の建物が残っているエリアの東側は、スナックや飲食店が建ち並ぶ繁華街になっています。
スナックが密集する路地。
四つ角にあるスナック。
スナックの建物脇に、「包丁、ハサミ、研ぎます」の看板。
割烹「まじま」の近くに、料亭だったと思われる建物が2軒ほど残されています。
奇抜なデザインの塀です。
隣の路地にあった別の建物。
玄関の電球。
今回は、平井(東京都江戸川区)の町並みと風俗を散歩します。
平井三業組合は1937~38頃に組織され、戦前は、芸妓250人、芸者置屋45軒、待合30軒以上あり、かなりの規模の花街でした。太平洋戦争時の空襲で壊滅状態となりましたが、その後復興しましたが、時代とともに、接待の仕方や遊び方が変わったため、昭和50年代の中頃に幕を閉じました。
現在は「まじま」だけが、当時の面影を残したまま割烹として営業中です。
高い塀で囲まれています。
当時のままと思われる中庭。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.239-P.240
国道23号線から1本海側の通り、この通りをまっすぐ行くと、若宮公園を経て三谷海水浴場へ行き着きます。
道路沿いの民家に、西宝牛乳の牛乳箱があります。
西宝牛乳は、三河三谷の乳業メーカーです。
牧場直営。
料理旅館「青柳」の近くに、芸妓組合の建物があります。
1階にコンパニオン募集の看板が取り付けられています。
温泉に、お座敷コンパニオンはなくてはならない存在です。
正式には、「三河温泉芸妓屋業協同組合」といいます。
三谷温泉の近くに、料理旅館などが建ち並ぶ花街の風情を残した通りがあります。
料理旅館「青柳」。現役で営業中です。
玄関脇の丸窓。
裏口付近の路地。
明山荘のある中心部から北へ向かって坂を下ります。
坂の途中にレトロなバーの建物が連なっています。
バー「田園」の入口。
バー街の建物を後ろから見るとこんな感じです。
三谷温泉の中心部にあるホテル明山荘。多くの客が訪れる名門のホテルです。
ホテル明山荘の奥の駐車場となっている敷地に、昭和40年に開業した本格的なキャバレー「みなと」の建物が残っています。
「全調査東海道酒・女・女の店」には、「『みなと』は、夜になると赤、青のネオンが点滅し、三谷へきたときは、まずここへ繰り込んで酒と女に浮かれてから、アバンチュールを求めて小さなバーへくりこむのが客たちのコースになっている。」と紹介されています。
2階建てで、1階にはステージがあり、専属バンドの演奏やダンスも楽しめました。*1
【参考文献】
*1 梅田晴夫:全調査東海道酒・女・女の店(有紀書房,1967)P.216-P.217
三河温泉は、三河湾に面した風光明媚な地にある由緒ある温泉地です。
三河温泉バス亭のある場所が温泉街の中心地です。みやげもの屋さんが並びます。
「海の観光地」として愛知県下でも有名です。
松風園。
今回は三河三谷(愛知県蒲郡市)の町並みと風俗を散歩します。JR三河三谷駅は、蒲郡駅にあり、三谷温泉などの観光地があります。駅前から海に向かって寂れた商店街があります。
通りに面して、閉店した商店の建物があります。
看板に書かれている「デジボーグ」「アストロン」は、時計メーカーのセイコーのブランド名です。
1980年。「聖子のピコレ」の頃の松田聖子さんでしょうか。ペンキ絵はかなり磨耗しています。