市街にある柳井温泉。レトロな佇まいです。

入口には「ゆ」の看板。

建物の側面には、煉瓦塀があります。

煙突と屋根。

市街にある柳井温泉。レトロな佇まいです。
入口には「ゆ」の看板。
建物の側面には、煉瓦塀があります。
煙突と屋根。
天神裏のスナック街。
建物の前面に鮮やかな緑色の園円柱を持つ建物があります。
玄関付近。
料亭風の建物です。
菅原神社(柳井天満宮)裏には、 スナック街がひろがっています。
天満宮の東側の路地。
和風建物ですが、スナックとして改装されているようです。
写真の奥のオレンジ色に見えるところが、柳井天満宮です。
「全国遊廓案内」*1 によると、柳井町遊廓(石原遊廓)は、山陽本線の柳井津駅(現柳井駅)から約十丁、(旧地名で)柳井町字石原にありました。
石原遊廓は、明治42年に新市(しんいち)遊廓地から移転してきたもので、貸座敷は十数軒ありました。*2
明治44年の「最新柳井町市街図」*3 によると、片野川の西側に6つに区画された一画があり、「遊廓地」と記されています。地図によると、遊廓地は堀で囲まれていたようです。
遊廓地であったと思われる一画は、現在の東土手通りの片野川に接したあたりです。ここから道幅が広くなっています。(写真手前)
旧遊廓地の周囲にめぐらされていた堀の痕跡が残されています。現在、堀は埋められ、道路になっています。
同じ場所から、南側をみたところ。
【参考文献】
*1 南博:代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.137
*2 鎌原成治:柳井案内(藤田文友堂,1910)P.
*3 富士秀太郎:最新柳井町市街図(富士秀太郎,1911)
今回は、柳井(山口県柳井市)の町並みと風俗を散歩します。
白壁の町並みで有名な柳井市街には、随所に古い町並みが残されています。
レトロな理容室の建物が健在です。
東土手通りの廃業したパーマ屋さんの建物。この先には石原遊廓がありました。
看板にうっすらと「美容室」の文字が確認できます。
室積は、かつて北前船の寄港地として、瀬戸内海で有数の港町として栄えました。その南端にある象鼻ヶ岬は、御手洗湾を望む風光明媚な観光スポットです。
象鼻ヶ岬の突端に大師堂(旧海蔵寺)があります。
大師堂の境内に、性空上人(平安時代中期の天台宗の僧)にかかわる「遊女の歌碑」があります。現在の碑は新しいものですが、右隣にあるものが、以前の歌碑です。*1
性空上人は、生身の普賢菩薩を拝みたいと祈念していたところ、ある日夢の中で「摂津国(現在の兵庫県)の江口に行くべし」とお告げがありました。性空上人がその地を訪ねると、遊女が「周防なる室積の中の御手洗に風は吹かねどもっさら波立つ」と歌い出し、上人が目と瞑るとその遊女が普賢菩薩となりました。*1*2
なぜ、遊女が普賢菩薩になるのか、その理由を脇田晴子さんは、「遊女の『癒し』の機能といったものに対する男性たちの都合の良い憧憬(しょうけい)の表れで、身を犠牲にして男たちに奉仕する美しい女たちは、男の目から見れば、観音とも普賢とも映ったに違いない。」と考察しています。*2
尚、室積には、大黒屋とゑびすやの2軒の遊女屋があり、このうち大黒屋については、大黒屋十五朗、本名佐内十五朗という人物が室積南町で遊廓を経営していました。*3
【参考文献】
*1 國廣哲也:光市史跡探訪 第1集(光市文化財研究会,1987)P.22
*2 脇田晴子:女性芸能の源流 傀儡子・曲舞・白拍子(角川書店,2001)P.110-P.112
*3 光市地方史研究会:光地方史研究29(光市立図書館,2003)P.6,P.9
島田市(しまだいち)は、その地名の通り、現在の島田市郵便局(写真、左側手前)から熊野神社前に至る約250mの道路を媒体として定期的に市が立っていた場所です。*1
天明8年(1788年)の紀行文「江漢西遊日記」の9月28日の項に、「此処には、市町(いちまち)とて芝居もあり、遊女なども来り居(いる)と云。....芝居を出て右の方に行けば、明家(あきや)を俄(にわか)に竹と打付けて、コウシ(格子)として遊女四五人並ぶ。何れも赤き装束なりき。」という記述があります。夜遅くまで、かなりの人出で賑わい、それを当て込んで遊女小屋や見世物小屋が立っていました。*1*2
同じ場所から南側を見たところ。
熊野神社方面へ向かって50mぐらい歩いてみますが、市が立っていた頃の面影は残っていないようです。
脇道を入ったところ(大雲寺付近)にある民家。
【参考文献】
*1 國廣哲也:光市史跡探訪 第1集(光市文化財研究会,1987)P.52-P.53
*2 司馬江漢:江漢西遊日記 東洋文庫461(平凡社,1986年)P.90-P.93
岩田駅から島田駅方面へ向かって山陽本線沿いの道を約2Km。さらに、山間部の道路を1.6Km行くと伊藤公資料館があります。
今年は、伊藤博文没後100年にあたります。
初代総理大臣伊藤博文と言えば、旧千円札の顔として有名です。
伊藤博文のもう一つの顔は、彼の一生を通じての女好きでした。花柳界の美女を何人も引き入れて、それだけ取り上げても長編小説ができあるほどでした。*2
薩長連合が成立したとき、博文は長崎の薩摩藩邸へしばしば出かけましたが、薩摩が目的か女郎屋が目的かがわからないほど、長崎丸山の遊廓へ通いました。このときの指導者は高杉晋作で、晋作は、軍艦を買うために藩から預かってきた軍用金で妓楼を買いきって豪遊しました。明治初年、横浜の富貴楼*5 が一時政治の中心となったことがありましたが、このとき博文が愛した女はおびただしい数にのぼりました。その後博文は、本格的に新橋で遊びはじめました。「紅燈秘話新橋三代記」*4 によると、いきあたりばったり手当たり次第に手を出したといいます。*3
【参考URL】
*1 光市観光協会:伊藤公資料館
【参考文献】
*2 星新一:明治の人物誌(新潮社,1978)P.99
*3 末永勝介:近代日本性豪伝 伊藤博文から梶山季之まで(番町書房,1969)P.15-P.43
*4 つや栄:紅燈秘話新橋三代記(妙義出版,1957)P.27-P.31
【参考記事】
*5 風俗散歩(桜木町):料亭「富貴楼」跡地(2007.8)
今回は、光(山口県光市)の町並みと風俗を散歩します。
JR岩田駅は、光駅から東に2駅隣の駅です。
駅の入口に設置されている白ポスト。珍しい手書き文字です。
4本足の白ポストです。
徳山港からフェリーに乗って、大津島へ向かいます。大津島には、「回天」の訓練基地がありました。「回天」は、魚雷を改造し、中に人間が入って操縦することができるようにした特攻兵器です。
回天記念館前には、回天のレプリカが展示されています。
隊員たちから「回天の母」として親しまれていた、旅館「松政」のお重さんの説明パネルが展示されています。
戦局が厳しくなった昭和19年11月、「松政」*1 で、若い12名の士官の会合がありました。お開きの時間が近づいたとき、大広間から聞こえてきた「同期の桜」の大合唱は、お重さんの胸を激しく揺さぶるような魂のこもったものでした。この日が回天の隊員の壮行会であったことをお重さんが知ったのは、翌年3月の新聞を見たときで、隊員28名の写真の中に顔見知りの隊員の顔を見つけたとき、お重さんはその写真の上にボロボロと涙を落としたといいます。いくらお国のためとはいえ、お重さんにはあまりにむごいことのように思われました。*2
回天訓練基地へ向かうトンネルが現在も残されています。
【参考記事】
*1 風俗散歩(徳山):旅館「松政」(2009.10)
【参考文献】
*2 小川宣:語り継ぐ回天(赤坂印刷,2005)P.232-P.233
徳山駅から徒歩10分ほどの戎町3丁目に銭湯の文化湯があります。
モルタル造りの建物。
「ゆ」と書かれた大きな看板は、目立ちます。
文化湯のプレート。
才ノ森遊廓の近くの飲食店を営んでいたお虎さんは、通称「海軍ばあさん」*1 と呼ばれ、水兵たちに慕われていました。同じ頃、二代目「海軍ばあさん」として海軍の世話をしていたのが、「松政」(松政旅館)のお重さんです。*2
お重さんは、明治39年生まれで、大正15年から徳山駅近くの高級割烹料亭「松政」に勤めるようになりました。太平洋戦争の末期、人間魚雷「回天」の隊員から「お母ちゃん」と慕われていたお重さんは、後に、「回天の母」と呼ばれるようになりました。*3
「松政」は、糀町1丁目付近にありました。*4*5
昭和46年7月、「松政」は閉鎖になりました。*3 現在、その付近は、ピピ510に建て変わっています。*4
昭和33年の住宅地図*4 によると、現在のピピ510の脇の路地には、「ブラジル」、「マドラス」、「志のぶ」、「松の家」、「ゆかり」などの飲食店と思われる屋号が記されています。隣の松政旅館とともに、この界隈は繁華街だったようです。
路地をぬけて西側にまわり込んだあたりの雑居ビルには、風俗店と思われる店舗が入居しています。
【参考記事】
*1 風俗散歩(徳山):才ノ森遊廓跡地(2009.10)
【参考文献】
*2 小川宣:語り継ぐ回天(赤坂印刷,2005)P.229-P.231
*3 宮本雅史:回天の群像(角川学芸出版,2008)P.169-P.176,P.192
*4 中国文化図鑑:徳山市・南陽町詳細住宅案内図(徳山市東松原町,1958)P.17
*5 マツノ書店:昭和十年徳山市街明細図(マツノ書店,1996)
戦前まで、現在の栄町にあった才ノ森遊廓*1 は、昭和20年7月の空襲で焼失し、その後、昭和25年に下御弓(しもおゆみ)町に移転し、その一画を柳町と命名し、昭和33年4月1日に赤線が廃止されるまで続きました。*2
「昭和10年徳山市街図」*3 を見ると、「下御弓丁」と書かれた場所は、現在の昭和通り沿いの川端町、柳町、橋本町、飯島町のあたりであることが解ります。中でも、現在も柳町の名が残る界隈は、昔の風情が残るスナックなどの飲食店舗が密集しています。
和風の古い建物をスナックに改築した建物が随所に残っています。
洋風の建物。
2軒の店舗を有する大型の民家。
【参考記事】
*1 風俗散歩(徳山):才ノ森遊廓跡地(2009.10)
【参考文献】
*2 前田麦二:徳山の思い出(マツノ書店,1985)P.42
*3 同上 P.153 「徳山商工会編 昭和10年徳山市街図」
徳山駅前の通り。片側3車線の幅広い道路です。
第二次大戦中、徳山には海軍燃料廠があったため、大空襲を受け、市街の大半は焼野原となりましたが、戦後は抜本的な都市計画が実行され、道路が拡幅されました。
街の中心部の栄町付近には、才ノ森遊廓がありました。それまで遠石にあった遊廓が大正2年にこの地に移転したものです。海軍燃料廠ができてからは、軍艦が頻繁に入港するようになり、遊廓は水兵たちで賑わいました。遊廓の近くで飲食店を営んでいた「おとら婆さん」は、海軍が好きで、水兵を殊のほか愛し献身的に世話をしたので、「海軍の母」として、幾度か表彰されました。*1
おとら婆さんは、艦隊が入港すると軍艦旗を掲げて目印として、若い水兵の面倒をみました。安く食べさせ、遊廓で遊ぶ金のない者には金を貸してあげました。*2
現在の商工会議所付近が遊廓街の中心でしたが、現在、その頃の面影はありません。
徳山小唄には、次のような歌詞があります。*1
アゝ昔しゃ才ノ森 狐が鳴いた
今じゃ島田の花が咲く
泊めて帰さぬ花が咲く 花が咲く
才ノ森遊廓は、昭和20年7月の空襲で焼失しましたが、その後、昭和25年に下御弓(しもおゆみ)町に移転し、その一画を柳町と命名し、昭和33年4月1日に赤線が廃止されるまで続きました。*1
【参考文献】
*1 前田麦二:徳山の思い出(マツノ書店,1985)P.42-P.43,P.157,P.150
*2 小川宣:語り継ぐ回天(赤坂印刷,2005)P.231
徳山市街の二番町交差点。
「徳山の思い出」*1 によると、二番町に色狂女(いろきちがい)の「松重の婆さん」というのが住んでいました。松重の婆さんは、いつもハマカをはいて、顔におしろいを真っ白にぬって、巡査に恋焦がれて街中を徘徊していたので、徳山では知らない者はいませんでした。若いときは学校の先生だったので、インテリで字がうまく、遊廓の女郎たちの恋文の代筆をしては小遣いをもらっていたそうです。
その二番町の交差点から南側の路地を入ったところに、「みぎた旅館」があります。
現在は、割烹・旅館で、素泊まり(1泊3000円)もできます。内部には庭もあって料亭のような雰囲気です。
昭和の雰囲気を今に残す玄関先。
【参考文献】
*1 前田麦二:徳山の思い出(マツノ書店,1985)P.92
今回は、徳山(山口県周南市)の町並みと風俗を散歩します。
江戸時代、遠石では、徳山藩最大のイベントである祭市が頻繁に行われ、旅茶屋の芸子たちには、遠石八幡宮での芝居興行終了後の踊り舞などの仕事が付与されました。室積(山口県光市)や大阪からは、遊女も集まりました。*1
この頃の遠石の遊廓は、ふだんは客は少なく、祭りのときになると大勢の客が集まり、どこからか遊女が集まり、仮部屋を作って畳を敷くというものでした。藩政時代は、貸した畳を単位にして税金を徴収しました。*2
遠石の遊廓は、大正2年、才ノ森(現在の栄町の商工会議所のあるあたり)に移転しました。遠石八幡宮の参道の大鳥居は、才ノ森遊廓の「大光楼」の楼主だった国廣藤太郎という侠客(きょうかく)の親分が、昭和2年に50歳を祝って寄進したものです。*2
遠石八幡宮からは、山陽新幹線と石油コンビナートが見えます。
1904年(明治37年)、沿岸に海軍燃料廠(しょう)が設けられ、徳山の発展の基礎が築かれました。戦後、その跡地に出光石油化学(株)が進出し、埋め立てにより工場の敷地も拡充され、現在に至っています。
【参考文献】
*1 吉積 久年:山口県地方史研究第92号(2004.11)P.1-P.16「徳山遠石の祭市と芝居興行 明和期から終焉の文久期まで」
*2 前田麦二:徳山の思い出(マツノ書店,1985)P.40,P.42
駅近くにある銭湯の龍城温泉。 木造の建物で、かなりねんきの入った建物です。
残念ながら、本日はお休みでした。
2階部分。迫力満点です。
側面の煙突部分。下部は煉瓦でてきています。
伝馬町ので見かけた制服屋さんの看板。
ショウウィンドウ。
商店街の中でも目立つ存在です。
2階部分は、モダンな造りになっています。
岡崎市の東側。中町大門通りがあります。この付近に中町東遊廓がありました。
東遊廓は、大正12年に、伝馬町と板屋町の遊廓から約36軒が移転してできました。*1
大門通りを進むと、途中から道幅が広くなっている場所があります。当時の家並みを再現した地図「遊廓の店舗配置」*1 を見ると、このあたりが遊廓の入口であることがわかります。地図には、門柱と思われるマークが記されていますので、おそらく、この場所に大門があったのでしょう。
遊廓の西側を南北に貫く吾妻通り。吾妻通りの中ほど(写真中央)から右側(東側)へ延びる通りが高砂通り。*1
羽衣通りの北側(写真左側)には芸者置屋がずらっと並んでいました。*1*2
写真は、銭湯の東湯があった場所から東側を見たところですが、遊廓地の面影は残っていません。
【参考文献】
*1 岡崎地方史研究会:写真集明治大正昭和岡崎 ふるさとの想い出229(国書刊行会,1981)P.55 「遊廓店舗の配置」
*2 名古屋郷土出版社:岡崎いまむかし(名古屋郷土出版社,1989)p.74-P.75
岡崎の遊廓は、伝馬町と板屋町の2箇所にありました。*1
板屋町には、現在も古い民家の建物が残っています。
通りの両側に木造民家が建ち並んでいます。
2階部分。
通りを曲がったところにももう1軒。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.84
今回は、岡崎(愛知県岡崎市)の町並みと風俗を散歩します。
岡崎城の東側に位置する伝馬町は、江戸時代、宿場町として栄えました。
伝馬町の旅籠には、飯盛女を置く旅籠も現れ、以降、岡崎は「岡崎女郎衆」で有名な宿場となりました。*1
伝馬町は、明治22年に東海道線が開通すると宿場の機能が薄れ、かつての旅籠は遊廓などに変わっていきました。岡崎は、商人が多く人の往来が多かったので、遊廓は繫盛し、「伝馬の遊廓」として有名になりました。*1
交差点の角には、大正時代から続く映画館の「常盤館」(後に、岡崎東宝→岡崎東映→グランド劇場)がありましたが、現在はコンビニに建て変わっており、敷地には「西本陣跡」の碑が建っています。
【参考文献】
*1 名古屋郷土出版社:岡崎いまむかし(名古屋郷土出版社,1989)p.70,P.72
御殿場市の南部にある富士岡地区。近隣には、富士岡公園、富士岡中学校、陸上自衛隊駐屯地などがあります。
富士岡は、その名が示す通り、富士すそ野の丘陵地に立地することから富士岡と名づけられました。*1
富士岡公園からは、さえぎられることなく、富士山の雄姿が望めます。
富士岡中学校。昭和60年に現在の場所に移転・建築されました。
富士岡中学校は、移転前は、駒門の現在の陸上自衛隊駐屯地(かつての米軍のサウスキャンプがあった場所)にありました。
1950年の朝鮮戦争勃発に伴い、米軍はサウスキャンプを拡大。隣接する富士岡中学校の運動場などが接収され、鉄条網を隔てて中学校と米軍キャンプが接するようになりました。同時に特飲街やパンパンハウスが中学校をぐるりと囲むようになり、水道施設が未整備であったため、女性たちが校内へ水汲みに来たり、鉄棒に布団を干していったりしました。また、昼間からジャズが流れ、米兵との性行為が校舎の2階から生徒たちの目にも入ってきました。このような状況は、昭和28年(1953年)までの約6年間続きました。*2*3*4
【参考文献】
*1 「角川日本地名大辞典」編纂委員会:角川日本地名大辞典 22静岡県(角川書店,1982)P.836
*2 平井 和子:女性史学(11)(2001)「米軍基地買売春と反「売春」運動–御殿場の場合」
*3 勝間田二郎:御殿場・裾野・小山郷土誌 下巻(勝間田二郎,1997)P.764
【参考URL】
*4 第15回国会予算委員会 第13号議事録(1952.12) 岩間正男、矢嶋三義委員の現地報告
JR御殿場駅の東側、乙女峠に登る途中にある二の岡地区は、明治初期から別荘地として開け、「東海道の軽井沢」と呼ばれていました。*1
「御殿場町二ノ岡及其附近別荘略図」*2 によると、二の岡フーズ(二の岡ハム)の東側には、外国人別荘が集中する一画がありましたが、現在、その面影はありません。
二の岡公民館脇に、名前が読み取れないほど風化した碑が建っています。
この付近は、現在も地蔵堂という地名で呼ばれており、付近に地蔵堂がありました。*2
お堂の再建の碑でしょうか。当時の別荘の所有者の名*2 が刻まれています。
【参考文献】
*1 静岡郷土出版社:御殿場・裾野いまむかし(静岡郷土出版社,1989)p.46
*2 御殿場市史編さん委員会:御殿場市史 第7巻(御殿場市,1980)付図「御殿場町二ノ岡及其附近別荘略図」
御殿場市街の北側に、銭湯の玉の湯があります。
町工場のような重厚な煙突です。右側は、銭湯の設備の建物です。
入口はシンプルなデザインです。
脱衣場は、畳のスペースがあって、くつろげます。
駅前のスナック街のはずれに閉店したキャバレーがあります。
店の大看板。電球の数の多さは圧巻です。
側面の階段が入口です。
隣接する墓地から遠望。
【参考記事】
*1 風俗散歩(御殿場):駅前のスナック街(2009.9)
今回は、御殿場(静岡県御殿場市)の町並みと風俗を散歩します。
御殿場は、東富士演習場など多数の防衛施設を抱える町です。戦後は、米軍の進駐により、滝ケ原(ノースキャンプ)、駒門(サウスキャンプ)、板妻(ミドルキャンプ)が設置され、これらの基地の周辺や御殿場駅周辺には、歓楽街が出現しました。*1
御殿場駅近くには、このときの歓楽街かどうかは解りませんが、御殿場駅近くに、スナックが密集する一画があります。
和風と洋風の建物が混在しています。
スナック街の奥まったあたり。
「OK横丁」と壁に手書きで書かれています。
【参考文献】
*1 平井 和子:女性学 通号5(1997)P.122-P.123 「米軍基地と「買売春」–御殿場の場合」
小樽市内には、17軒*1 の銭湯があります。
その銭湯群の中でも北側に位置する都湯。長橋十字路近くにあります。
銭湯の建物を横から見ると、独特の形をしていることがわかります。
入口は、鮮やかな水色のタイルで装飾されています。
中央に湯舟が配置されています。湯舟の深さはかなり深いです。(1m近くあったような気がします。)
【参考文献】
*1 ゆっくりじっくり小樽観光ガイドブック(小樽観光協会,2009)
飲食店やスナックが密集する花園銀座商店街。COFFEEHOUSEの建物に、ファッションキャバレーの名前があります。
ピンク色の看板。
入口の階段。天使が妖艶になる聖地。
入口の看板。
嵐山新地*1 の東側(JR函館線の高架を隔てた反対側)に稲荷小路があります。
稲荷小路のアーチ。
その名の通り。奥には稲荷神社があります。
夜の稲荷小路
小樽市花園の花街エリア。JR函館線の高架近くに、嵐山新地があります。
嵐山通りに面したところに、もう一つのゲートがあります。
ゲートの裏側には「ありがとうございました。」
夜の嵐山新地。
小樽市相生町。緩やかな下り坂です。
古い理容室の建物に緑色の牛乳箱。
「北のおいしさ開拓使」と書かれている保証牛乳の牛乳箱。
明治時代、北海道が農業(牧畜)を中心に開拓が進められてきたことを想わせるキャッチフレーズです。
緑色が鮮やかです。
小樽には、町の海側を走るもう一つの鉄道として、手宮線がありました。現在も手宮線の遺構が色内町に残されています。
飲食街跡の建物*1 の裏側。
線路沿いは保存活動が進み、綺麗に整備されています。
色内1丁目12-12には、料亭「新松島」がありましたが、残念ながら平成11年に解体され、現在はマンション(写真左奥)に建て替わっています。*2
料亭「新松島」は、映画「はるかノスタルジィ」で、少年時代の綾瀬が娼婦の母親に会いに行くときの娼家街入口の撮影で使用されました。*3。
映画「はるかノスタルジィ」では、作品の随所に小樽の美しい町並みが紹介されています。石田ひかりさんのヌードも話題になりました。
【参考記事】
*1 風俗散歩(小樽):色内町の飲食街跡(2009.9)
【参考文献】
*2 小樽再生フォーラム:小樽の建築探訪(北海道新聞社,1995)P.39
*3 小樽駅観光案内所:はるかノスタルジィin小樽ロケーション・イメージマップ(1991)
色内1丁目に、廃業した飲食店の建物が残る一画があります。
酌婦との出合いを描いた小林多喜二の作品「その出発をした出発した女」の舞台となったあたりです。*1
通りに面して、居酒屋やスナックの建物が建ち並んでいます。
飲食店街の北端のあたり。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.36-P.37
今回は、小樽(北海道小樽市)の町並みと風俗を散歩します。
別名「裕次郎ホーム」と呼ばれている小樽駅4番ホーム。
「裕次郎ホーム」には、石原裕次郎さんの等身大パネルが設置されています。
等身大パネルの脇には、「1978.5.15 石原裕次郎この場にたつ」と書かれたプレートがあります。
石原裕次郎さんは、1934年12月28日兵庫県神戸市に生まれ、幼少期を北海道小樽市で過ごしました。
釧路市街の栄町に、栄楽街と呼ばれる一画があります。十文字の路地の出入口にあたる場所には、それぞれ、北口、南口、西口、東口と書かれた看板があります。
東口付近。
路地の中心部。飲食店と風俗店が密集しています。
南北に走る路地。
今回は、釧路(北海道釧路市)の町並みと風俗を散歩します。
釧路市内には、石川啄木ゆかりの場所が数多く残されています。
石川啄木は、「釧路新聞社」に就任のため、明治41年、23歳のときに、釧路駅に着きました。初めの頃は夜な夜な桃源郷の気分で紅灯の巷に遊びました。*1*2
喜望楼は、当時釧路第一級の料理屋で、啄木が釧路に来て初めて芸妓というものを知った場所でした。現在、喜望楼があった場所は、佐野碑園となっており、園内に喜望楼跡の碑が建っています。*2
料亭鹿島屋は、当時の新聞記者がよく集まった場所で、助六、市子などの芸妓がいて、啄木の艶種記事「紅筆便り」の取材源でした。「武冨私道」と呼ばれる緩い坂道の途中にありました。*2
坂を登りきったところに、「武冨私道」と書かれた小さな石碑(写真右下)が残っています。明治40年代は小さな酒場が並んでいて、啄木は何度もこの坂を上り下りしました。*1
【参考文献】
*1 永田秀郎:路街並み今・昔(北海道新聞社,2005)p.62,P.68-P.69
*2 鳥居省三:石川啄木 第2版(釧路市,1981)P.19,P.176-P.177
砂浜草原が広がる野付半島。後方に知床連峰が見えます。
幻の歓楽街伝説を追って、野付半島を南下します。30分ほど歩くと、ここから先は車両乗入れ禁止となります。
さらに歩くこと約1時間。野付半島の南端部にたどり着きました。わずかに漁業施設が点在するのみで、周囲は一面の草原と湿地です。
さらに道を進むと、周囲に湿地が増え、歓楽街「キラク」があったとされる砂嘴(さし)からは徐々に遠ざかってしまいます。「キラク」があった方角を遠望し、この地点から引き返すこととします。
【参考文献】
*1 なるほど知図帳日本編集部:歴史の足跡をたどる日本遺構の旅(昭文社,2007)P.20-P.27
知床半島と根室半島のちょうど中間に野付半島があります。
野付半島は、鳥の羽根のような形をした砂嘴(さし=潮流で運ばれた砂が長い年月で堆積した地域)で、その大きさは全長28Kmに及び、日本最大です。大部分は、砂浜草原と湿地原で構成されています。
半島の中央部にあるネイチャーセンターに、「幻の歓楽街『キラク』」の説明があります。
「キラク」は、江戸時代末期まで、交易や漁業の拠点として栄え、40~50軒の家がありました。そこには遊廓があり、多くの女性が住んでいました。*1*2
ネイチャーセンターからは、距離16Kmの近くて遠い島である国後島(ロシア領)を望むことができます。
【参考文献】
*1 なるほど知図帳日本編集部:歴史の足跡をたどる日本遺構の旅(昭文社,2007)P.20-P.27
*2 朝日新聞北海道版(1995.1.22)P.20
標津市街の国道244号線沿いにスナックが密集しているエリアがあります。
はまなす通り。
現在は、寂れています。
元スナックと思われる建物にあった演歌師お断りのプレート。
今回は標津(北海道標津郡)の町並みと風俗を散歩します。標津(しべつ)町は、知床半島と根室半島の中間に位置し、国後島(ロシア領)が見える町として有名です。
市街を南北に貫く国道244号線は、町のメインストリートです。
「標津ひとむかし」の「明治から大正の標津市街略図」*1 によると、敬栄寺沿いの通りの龍雲寺の向かい側の四つ角に、遊女屋が1軒ありました。
龍雲寺は昭和40年に南六条西1丁目に移転し、跡地には電報電話局(当時)が設置されました。*2
現在は、NTT根室標津ビルとなっています。(写真右側)
これらの位置関係から、遊女屋は、現在のパチンコ店がある場所にあったことになります。
【参考文献】
*1 北海道標津町郷土研究会:標津ひとむかし(北海道標津町郷土研究会,1991)P.134-P.135
*2 標津町史編纂委員会:標津町史第1巻(標津町史編纂委員会,1968)P.1018-P.1019
厚岸の遊廓は、明治10年頃から創業し、明治30年頃には当時としては場末にあたる現在の若竹町1丁目から梅香町正行寺門前にかけて7軒の貸座敷が営業していました。
その後、町の発展と風紀上の見地から現在の湾月町1丁目、北大実験場登り口付近、厚岸水産高校のグラウンド(写真右側)の南西側に移転しました。遊廓の入口には角柱の門が立ち、柳や桜も植えられ、銭湯、そば屋、タバコ屋、人力車も開業しました。*1
大正11年の「厚岸市街電話分布圖」*2 には、新開楼、金利楼、丸新楼、観月楼などの妓楼の位置が記載されています。
遊廓の中心部であったと思われるあたり。写真奥は、厚岸水産高校の校舎です。
昭和に入り、貸座敷は3軒に淘汰され、戦後は金利楼の一部が「初音」の看板で細々と営業していましたが、売春防止法の施行により廃業し、アパートに転業。昭和40年頃に取り壊され、その後は住宅地と海産物干場になりました。*1
現在も遊廓跡地は、海産物干場として使われています。
*1 菊池善雄:朱化石No.5(1988)P.15-P.17 「厚岸の遊廓(貸座敷業)」
*2 久保事務所:厚岸市街電話分布圖(久保事務所,1922)
今回は、厚岸(北海道厚岸郡)の町並みを散歩します。厚岸(あっけし)は、釧路と根室の中間に位置する町です。
町の南部は太平洋に面していて、その突端には愛冠(アイカップ)岬があります。
愛冠岬。ロマンチックな名前です。
駐車場脇に、松原のぶえさんが歌った「愛冠岬」の歌碑が設置されています。
松原のぶえさんは、1979年「おんなの出船」でデビューし、第21回日本レコード大賞・新人賞を受賞。
第43回NHK紅白歌合戦では「愛冠岬」で7回目の出場を果しました。*1
岬からの眺めは雄大です。
明治2年(1869年)、政府は北方開拓のための開拓使を設置し、北海道の開拓・移民に力を入れました。
根室開拓史の特徴は、殖民を目的とした遊廓が設置されたことです。札幌で最初の遊廓が出来たのが明治5年であるのに対し、根室で最初の遊廓(花咲楼)の開業は明治3年。根室の遊廓の実績が札幌の半御用遊廓のお手本となりました。*1*2
何よりも先駆けて遊び場を作ってやることは、時の開拓使判官のイキな人柄によるものといえます。根室移民にとって、唯一の不安のはけ口は遊廓であり、相当以上に繫盛したことはいうまでもありません。*2*3
明治8年(1875年)にロシアとの間で結ばれた「千島樺太交換条約」で、千島列島が日本領となると、根室の街は急速に栄えました。
遊廓も発展し、明治9年に弥生町に区画設定、明治12年に平内町に移転、明治24年、花園町に移転しました。*4
昭和4年の根室市街地図*5 によると、花園町の遊廓は、常惺寺から格子状になっている道路を南西方向に5区画のところ、三吉神社の南東側にありました。
写真の左奥の緑地は、三吉神社です。坂を下ると根室湾に行き着きます。
遊廓跡地の民家。
【参考文献】
*1 根室市:根室市史(根室市,1968)P.553
*2 小寺平吉:北海道遊里史考(北書房,1974)P.178
*3 宮内令子:商家の女(北海タイムス社,1982)P.118-P.119
*4 根室商工会議所:懐かしのねむろ(根室商工会議所,1980)
【参考記事】
*5 風俗散歩(根室):根室市歴史と自然の資料館
根室市街の中心部の弥生町は、かつてカフェーなどが建ち並ぶ繁華街の中心地でした。
銭湯の寿湯。
雪国らしく、入口は二重扉です。
脱衣場にある事務用のロッカー。風情はありませんが、安心感があります。
今回は、根室(北海道根室市)の町並みと風俗を散歩します。
花咲港近くに、「根室市歴史と自然の資料館」があります。この資料館には、根室の動植物の標本や考古学や民俗学的な資料が多数展示されています。
明治~昭和時代の根室市街の様子を知る資料が展示されています。
根室市街の弥生町の繁華街の地図。カフェーなどで使用されていたマッチ箱が貼り付けられていて、解りやすい展示です。
根室市街図(昭和4年)。花園町にあった遊廓の妓楼の名前が記されています。
【参考URL】
*1 根室市歴史と自然の資料館 ホームページ
駅前の飲食街。風俗店の看板が賑やかです。
お座敷キャバの看板。
名門通りのクラブ。
店の前にお姉さんの看板です。
帯広駅前の銀座通りに、ひときわ目立つ店舗があります。
巨大な航空機のオブジェが貼りついています。
尾翼には鶴のマーク。今にも空に向かって飛び立ちそうです。
747。飲み放題1000円は、格安です。
帯広駅前、繁華街の銀座通り。近くには、「北の屋台」などもあり、帯広観光の中心部です。
銀座通りの中ほどに、「はせ川ビル」があります。
ビルの屋上には、「ハワイ」と書かれた大看板があります。
社交の殿堂。現在は、スナックやキャバクラなどが入居しています。
西二条通り(平原通り)を北へ進み、帯広川を渡ったあたりに、帯廣大明神があります。この西側に木賊原(とくさわら)遊廓がありました。*1
木賊原遊廓は、明治31年に許可され、明治36年には貸座敷5軒を数えるに至りました。場所は、北四条西六丁目のあたりだったとされています。*2
現在、この付近は、住宅街になっています。
大正11年の帯広市街全図*3 を見ると、北四条を流れる伏古別川(十勝川の支流)がJ字形のカーブを描いて流れる北四条のあたり(地図の右上)に「遊」、「廓」の二文字が記されています。
伏古別川が、十勝川と合流する地点(遊廓があったと思われる場所の北側)に、木賊原(とくさわら)樋門があります。木賊原の名が残る場所の一つです。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.45
*2 帯広市史編纂委員会:帯広の生い立ち(帯広市史編纂委員会,1952)P. 98
【参考URL】
*3 帯広市図書館ホームページ 帯広市街全図(大正11年)
帯広市街には、現役の小路が10ヶ所ほど点在しています。その中でも名門通り沿いの南7丁目~8丁目あたりに、3つの小路が隣り合っている一画があります。
エイト街、いなり小路、金春街、と並んでいます。
金春街。小路の右側部分の建物が少し傾いています。
スナックの店舗が密集しています。
「北栄ビル」に連なるの古いスナックの建物には、奇抜なデザインのドアが取り付けられています。*1
さまざまな色のペンキで塗られています。
小さな窓が付いている店も何軒かあります。
こちらのドアは派手な緑色です。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)口絵
今回は、帯広(北海道帯広市)の町並みと風俗を散歩します。
帯広駅前の平原通りを北へ約1Kmほど離れたところ。利根川を渡る西二条橋の近くに、飲み屋小路があります。
古いスナックの建物が並んでいます。
木村聡さんは、「消えた赤線放浪記」*2 の中で、「相当昔に廃業したと見えて、廃屋のようになっている。『全国女性街ガイド』*1 に記されている場所なのかどうかは別として、ある時期まで何かしら色町めいた一画だったような、そんな気がした。」と、ここが青線街であった可能性を示唆しています。
建物は、派手な色のペンキで塗られています。
【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.23
※帯広の項には、「赤線は西二条通りから左に入った十勝川と帯広川に入ったところに十五軒ほどあるが、それよりも駅に近い飲み屋街百軒ほどの巷の青線が流行っている。」と書かれています。
*2 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.40-P.46
横須賀にある三笠公園には、日露戦争の日本海海戦で活躍した戦艦三笠が保存展示されています。戦艦三笠の前の銅像は、日本の連合艦隊を指揮した東郷平八郎海軍大将です。
記念館三笠は、第二次世界大戦終結まで、神国日本の霊験あらたかなシンボルでした。*1
戦艦三笠の前に、軍艦マーチ(行進曲「軍艦」)の記念碑が建っています。
碑文によると、軍艦マーチは、明治30年(1897年)に軍楽師だった瀬戸口藤吉により作曲され、世界三大行進曲の一つに数えられる希有の名曲として音楽史を彩っています。
世界三大行進曲とは、
①星条旗よ永遠なれ(アメリカ、スーザ作曲)
②旧友(ドイツ、タイケ作曲)
③軍艦行進曲(日本、瀬戸口藤吉作曲)
のことですが、根拠は不明で、どちらかと言うと、国内で言われていることのようです。*2
昭和20~30年代、パチンコ店の開店時は必ず軍艦マーチが流れていました。パチンコ店で最初に軍艦マーチを流したのは、昭和26年、有楽町のガード下に開店した「メトロ」という店で、元海軍航空隊のオーナーは、店内にあふれる米兵とその腕にぶら下がって歩く街娼たちを苦々しく思い、その腹いせに軍艦マーチをかけたそうです。*1*2
軍艦マーチは、キャバレーでも使われました。*2
昭和50年代、全国組織のピンクキャバレーとして名高い「トロント」の新宿グラマー店では、6時の開店と同時にホールいっぱいに軍艦マーチが流れ、ホステスさんの呼名点呼が行われます。この間、客が店内に入ってきます。30分以上続いた点呼が終わるとふたたび軍艦マーチが流れ、サービス開始となりました。*3
【参考文献】
*1 杉山一夫:パチンコ誕生(創元社,2008)p.103-P.106
*2 谷村政次郎:行進曲『軍艦』百年の航跡(大村書店,2000)P.185-P.190
*3 和田平介:キャバレー日記(晩声社,1981)P.29-P.30
ドブ板通りの洋服店は、店の前の路上にマネキンを置くというスタイルが定着しているようです。横須賀という土地柄、マネキンは外国人仕様です。
美しい外国人女性。
セクシーなマネキン。
タトゥーを入れたマネキン。
ドブ板通りの裏通り。通りの入口の柱に「和平」と書かれています。横須賀らしい題材です。
通りの側面にコンクリートの壁が続いています。
小便禁止の張り紙。横須賀らしく英語でも書かれています。
こちらは、日本語です。
ドブ板通りの裏通りの銭湯の大黒湯の隣に洒落たアパートがあります。
入口の階段の側面の壁はタイル絵で装飾されています。
右側にもタイルの絵。
階段の踊り場にあった「OFF LIMITS JAPANESE ONLY」の張り紙。
京急横須賀中央駅から歩いて1~2分のところ(若松町1丁目)に金星(きんせい)劇場があります。とにかく、建物の概観には圧倒されます。
看板には、「金星★劇場」、「KINSEI THEATER」と書かれています。中央の★のマークはインパクトがあります。
ポルノ映画館の雰囲気たっぷりです。
入口には、「オールカラー成人映画」。まだ、カラーの映画が珍しかった時代のものでしょうか。
入口付近。きっぷ売場下のタイルがいい感じです。
京急横須賀中央駅のすぐ隣に、若松飲食店街のアーケードがあります。
道の両側にスナックが密集しています。まるで映画のセットを見ているようです。
スナックの看板が密集するあたり。
狭い路地が縦横に交差しています。
今回は、横須賀(神奈川県横須賀市)の町並みと風俗を散歩します。
京急横須賀中央駅前の大滝町付近は、横須賀市内の一番の繁華街となっています。
徳寿院から見た市街。
大滝町には、明治時代、公認の遊廓がありました。遊廓があった場所は、現在のさいか屋デパートがあるあたりで、昔は、この付近までが海で、つまり横須賀軍港の海岸線上に遊廓がありました。
さいか屋本館付近。
【参考文献】
*1 港町から 第2号 / 「港町から」編集委員会(街から舎,2009.4)P.61
岩槻区本町4丁目。
銭湯の「雛の湯」。人形の町らしい屋号です。コインランドリーが併設されています。
ビル型銭湯です。
宮造りの銭湯に見られるような高い天井ではなく、簡素な内装です。
岩槻市街にある「岩槻名店街」。
シャッターが閉まっている店が多く、閑散としています。
ふと見ると、壁に貼紙が貼られています。(写真右側)
風俗、水商売の女の子大募集です。
県道324号線沿いの電柱で見かけたバイアグラの貼紙。
ラブホテル街は、夜になると美しく光り輝きます。
メインの通り。
南国のリゾートのような風景。
まるで光の芸術です。
ホテル街には、人目をひくための看板や広告塔が乱立しています。
こちらの屋上には自由の女神像が設置されています。
特にインターチェンジの出口周辺は、看板が密集しています。
夜になるとネオンが光り輝きます。
巨大な広告塔。
今回は岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)の町並みと風俗を散歩します。
岩槻は「人形のまち」として全国的に有名です。
岩槻は「ラブホテルのまち」としても有名です。インターチェンジ近くに巨大なラブホテルが乱立しています。
閑静な住宅街にラブホテルが隣接しています。
道路沿いには、大規模なホテルが建ち並んでいます。
二本木遊郭があった場所から徒歩20分ほど南にある蓮台寺。
ここに、白拍子だった「檜垣」の供養塔があります。*1
「年ふればわが黒髪も白河の水はぐむまで老いにけるかな」
檜垣の若い頃の話は、これといって残っていませんが、美しかった黒髪もすっかり白くなった晩年に、白川べりで旧友と交わるという、零落した身の上を詠んだものです。*1
供養塔を囲む玉垣の入口の2本石柱には、二本木遊郭の楼名が刻まれています。白拍子だった「檜垣」の墓に詣でると、下の病気をしないとか、安産をし、母乳の出が良くなるとかで、今も甘酒や餅が供えられているそうです。平安時代の白拍子「檜垣」と二本木遊郭の結びつきを感じます。*1
【参考文献】
*1 猪飼隆明:遅咲きの女たちの遺言(熊本出版文化会館,2006)P.355-P.358
二本木遊廓にあった東雲楼は、廓中第一流の大籬(おおまがき)としてその名を全国に知られた遊廓でした。構内は広く、数棟の巨屋が軒をならべて建ち、広大な庭園を有していました。*1
東雲楼の一部の建物が現在も残っています。*2
残念ながら近日中に取り壊されることが決定されているようです。
1900年(明治33年)、東雲楼の娼妓たちが待遇改善を求めてストライキを決行。東雲楼は、一躍有名になりました。*3
玄関の床のタイル。
当時のままと残されているレンガの塀*2
【参考文献】
*1 津留豊:熊本の遊びどころ(舒文堂河島書店,2006)P.37(明治42年発行の同名の書籍の復刻版)
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.59
*3 佐渡資生:味と歓楽五〇年 くまもと夜話(味と歓楽50年出版委員会,1984)p.171
今回は、熊本(熊本県熊本市)の町並みと風俗を散歩します。
JR熊本駅前の通り(国道22号線)を東へ行くと、白川と平行して坪井川が流れています。橋から見て南側が二本木遊廓があった方角ですが、川沿いに古い旅館の建物があります。
古い木造の建物が川沿いに建ち並んでいます。
バラック風の建物です。
こちらは、3階建てです。
松原親和通りのゲート近くに、ストリップ劇場の「さがDX」があります。
現在、営業しているかどうかは不明です。
「男の館」。
入口には、ちょうちんが並んでいます。
セクシーな踊り子さんです。
佐賀市内の中心部にある松原親和通りは、古くからの繁華街です。
昭和30年刊行の「全国女性街ガイド」*1 の佐賀の項には、「赤線は、下今宿と町端れの新地と呉服町通りの裏に点在しているが、色艶のない里である。それより、松原神社周辺の飲み屋の方がおもしろい遊びができる。」と書かれています。
曲線を描いて路地が続いています。現在は片側が空き地になってしまいましたが、当時は両側に飲み屋さんがずらっと並んでいたのだと思います。
路地の奥まったあたり。
屋根の上に物干し場のある建物。
【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.189-P.190
室園橋は、大正9年に造られた石橋です。
橋の欄干の内側には、三星楼、萬春楼、真松楼、砕月楼、三浦屋などの楼名が刻まれています。いずれも、「全国遊廓案内」*1 に記載されている楼名です。
北側の石橋の欄干にも楼名が刻まれています。風化が進み、かなり読みづらくなっています。
こちらの欄干は、鮮明に楼名が読み取れます。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)p.453-P.154「全国遊廓案内」
佐賀市の遊廓は、上芦町(現在の高木町)にありましたが、貸座敷が県庁の近くにあることによる風紀上の悪影響を理由に、明治16年、上芦町の貸座敷は廃止され、明治22年に佐賀市今宿町に遊廓が移転・再開されました。*1
1933年(昭和8年)発行の「大佐賀最新市街全図」*2 によると、現在の今宿町のバス停の南側に「室園遊廓」(今宿遊廓の別名?)と書かれた場所があります。
実際にその場所へ行ってみると、小さな石橋があります。
石橋には、室園橋と彫られていています。
室園橋は2つあります。同名のもう一つの室園橋は北側にあります。
【参考文献】
*1 佐賀県女性と生涯学習財団:さがの女性史(佐賀新聞社,2001)p.275
*2 地図資料編纂会:昭和前期日本都市地図集成(柏書房,1987)P.108
佐賀市内を旧長崎街道が横断しています。
長崎街道を東へ進むと、思案橋があります。
思案橋は、「遊廓へ”行こうか戻ろか”と思案したので名付けられた」という遊郭への門前橋であることが多いのですが、佐賀の思案橋も例外ではなく、ここから南に折れたところに今宿遊廓がありました。
思案橋のたばこやさん。
愛敬町のスナック街。熟女がお相手するちょんの間があるとの情報*1 もありますが、昼間の散歩だったので、詳細は把握できませんでした。
通りを逆方向から見たところ。
スナック店が建ち並んでいます。
艶っぽい看板。
【参考文献】
*1 俺の旅 Vol.25 (ミリオン出版,2007.10.25)P.19
今回は、佐賀(佐賀県佐賀市)の町並みと風俗を散歩します。
古い旅館などが点在する愛敬町の路地。
銭湯の松乃湯があります。前面は、奇抜なデザインの建物です。
銭湯の建物の左脇に、もう一つ別の建物が隣接しています。
「御家族湯」と書かれた看板。家族だけで楽しめる別棟の銭湯ということでしょうか。
諫早駅前に白ポストがあります。
ポストの幅(直径)がスリムな少スペース型です。
駅前のバスターミナルに設置されている白ポスト(写真の右下)は、別タイプです。
白ポストにいたずらをしてはいけません。
諫早駅から、バスで約20分。「トンネル上」という名前のバス亭で下車します。近くに大村線のトンネルがあるので、この名がついたのだと思います。
トンネルの上の道を登っていくと、ラブホテルの入口があります。
さらに、山道を登ると別のホテルがあります。この一画にはラブホテルが集中しています。
まるで、南国のリゾート地のような風景です。
厚生町に、かつて旅館が建ち並んでいた一画があります。
古い建物も残っています。
現在も営業中の「恵比須屋旅館」。
地元の方に話をお伺いしたところ、昔、このあたりには遊廓があり、遊廓内には小さな川が流れていて、遊客は船に乗って遊廓へ来たそうです。
今回は諫早(長崎県諫早市)の町並みと風俗を散歩します。
諫早市街の中心部を流れる本明川沿いにスナック街があります。
路地を入ると、スナックが密集しています。
スナック店と思われる店の前の「只今の料金」と書かれた看板。
出島は、鎖国時代、西洋に開かれた唯一の窓口として、日本の近代化に大きな役割を果たしました。1
出島の表門には、「傾城(けいせい)之外女入事」(遊女以外の女性は、出島に出入りしてはならない。)と書かれた立札があり、厳重な警備がしかれ、出入りできる者はごくごく限られていました。つまり、女性としては丸山遊女のみが、日常的に外国人と接することができたわけです。丸山遊女の存在により、西洋の近代文明は、いちはやく市中に広まり、同時に、日本という国の具体的な姿が遠い西洋に紹介されました。2
カピタン部屋は、オランダ商館長(カピタン)の事務所や住居として使用された出島で最も大きな建物です。1
1809年に渡来したカピタンのブロムホフは、遊女「糸萩」を出島に呼び入れ、糸萩は、1812年に女児を出産しました。2
カピタン部屋には、女中部屋が再現されています。
女中部屋は、遊女たちが使用する部屋でした。
【参考文献】
*1 長崎さるく:「出島」パンフレット
*2 白石広子:長崎出島の遊女(勉誠出版,2005)P.5,P.20,P.52,P.93
思案橋商店街の裏側の路地。
頭上の「トイレ」と書かれた大看板。蛍光灯で照らされていますので、解りやすいです。
商店街組合専用のトイレです。1階が男子用、2階が女子用。
立小便禁止の貼り紙。
丸山本通りから路地を入ったところに、石垣の上に建てられた楼閣があります。
建物の側面に階段があります。
階段を登ると楼閣の入口がありました。
店の屋号でしょうか。タイルで装飾された大きな文字で描かれています。
寄合町の本通り。明治末期の唯一の地図である「長崎丸山町、寄合町全遊廓細見図」*1 によると、当時は、この通りの両側に遊廓がびっしりと建ち並んでいました。
坂の途中に1軒だけ、当時の佇まいを残している建物があります。
「三島屋」という屋号の店だったこの建物は、現在はアパートとして使用されているようです。
玄関付近。
【参考文献】
*1 山口雅生:廓の娘(長崎花月史研究所,1973)
丸山町の東側。料亭杉本家跡(現・料亭青柳)の近くに、長崎丸山花街跡の碑があります。
丸山は、寛永19年(1642)年、幕府の命により、長崎奉行所が長崎市内に散在していた遊女屋を1ヶ所に集め、公認の遊廓をつくったことにはじまります。
丸山は、江戸の吉原、京の島原と並ぶ日本三大遊廓の一つでした。
丸山とは、丸山町と寄合町をあわせた花街の総称です。L字型の町域でした。現在の丸山公園のあたりがL字の角の部分にあたり、ここから丸山町は東に向かって、寄合町は南に向かって傾斜を持って形成されていました。
今回は、長崎丸山(長崎県長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
見返り柳は、花街からの帰り道、男たちが未練を断ち切れず、振り返る姿から名付けられました。見返り柳は、京都島原の花街入口にある柳がはじまりと言われ、その後、江戸の吉原や長崎丸山に伝わり、いつしか花街入口のシンボルとなりました。*1
見返り柳と思切橋の案内板。
橋銘が刻まれた思切橋の欄干。
思切橋は、山の口を流れていた小さな溝にかかる橋でした。思案橋で行こうか戻ろうかを思案し、ここで思い切って花街へ繰り出す。あるいは、花街からの帰り道、思いを断ち切って家路を急ぐなどど言われるようになり、いつしか思切橋と名付けられました。*1
江戸時代、丸山は現在の丸山町と寄合町の総称でした。長崎人はシンプルに「山」と呼んでいたため、これが丸山の入口を山の口という所以でもあります。*1
【参考文献】
*1 長崎文献社:長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う(長崎文献社,2007)「長崎游学マップ3」P.13
軍艦島には、その歴史を通して常に遊廓があったと言われています。*1
大正時代、島の南部のプール跡あたりに木造3階建ての遊廓の建物がありました。*2
島の南部のエリアは、手配師労働者を掌握し派遣していた、いわゆる「納屋」と呼ばれる組織が密集していた地域でもあり、その最奥に遊廓がありました。*1*2
その後、遊廓は、まだ木造商店街が建ち並んでいた31号棟附近に移動しました。遊廓は3軒あり、「遊廓森本」、「遊廓本田」は日本人向け、「遊廓吉田」は大陸からの抑留者専門で、当然のように従業員も大陸からの人たちでした。その後、このエリアの木造商店街は、昭和31年(1956年)の台風により壊滅的な被害を被ったため、日給住宅の1階などに移転しました。*1
跡地にできた31号棟は、防潮棟として建設されたもので、堤防のカーブに沿って「くの字」に曲がるその外観は、まさに堤防と呼ぶに相応しいルックスでした。*1
島の南端にあった木造3階建ての遊廓は、日給社宅の1階に移転しました。*2
日給社宅は、大正7年(1918年)に建設された鉱員用のアパートです。現存するものでは国内で2番目に古い高層鉄筋アパートで、建設当時は国内最高層の建物でした。*1
(写真左奥の祠のように見える建物は、端島神社の神殿です。)
【参考文献】
*1 オープロジェクト:軍艦島全景(三才ブックス,2008)P.14,P.68-P.69
*2 阿久井喜孝,滋賀秀実:軍艦島実測調査資料集(東京電機大学出版局,1984)p.115,P.647
軍艦島には、居住空間の確保の必要性から、高層鉄筋アパートが数多く建設されました。
30号棟は、日本で最古の鉄筋アパートです。この建物が造られたのは大正5年(1916年)で、東京でさえもレンガ造りの建物が主流の時代でした。*1*2
アパートの屋上は唯一のデートの場所で、高い建物の屋上ほど秘密めいていて格好の場所でした。ただ、狭い島なので、「誰かさんと誰かさんが...」という噂は、あっという間に広がるので、隠し事などほとんどできないのも現実でした。*2
島民が最も多かった昭和34年(1959年)に建設された3号棟は、島の岩礁の最上部に建てられました。課長以上の職員や医師など、身分の高い人のためのアパートでした。屋上は全島で一番高い場所に位置していたため、他の建物からの視線に気兼ねすることもなく、若者達の格好なデートスポットとして利用されました。*1
島には坑員と家族が生活するために必要なものは、火葬場とお墓以外は何でも揃っていました。理容院、美容院、パチンコ屋、雀荘、それにビールなども飲める社交場もありました。*2
50号棟は昭和2年に落成開館した「昭和館」という映画館でしたが、建物の大半は平成3年の台風で崩壊してしまいました。*1
北側から見た70号棟(端島小中学校)と65号棟(報国寮)。
端島小中学校(写真左)は、地上7階建てで、1階から4階までが小学校、5階及び7階の一部が中学校、6階に図書室と講堂、7階の一部に化学実験室などの特殊教室があり、給食配膳用のエレベータも設置されていました。*1
報国寮(写真右)は、島内最大戸数を誇った鉱員住宅(屋上に保育園)で、戦中に建設されました。物資が不足していた時代に建設された建物としては国内最大規模の建物で、このことは、炭坑施設が当時国家から手厚い保護を受けていたことを物語っています。*1
【参考文献】
*1 オープロジェクト:軍艦島全景(三才ブックス,2008)P.10,P.30,p.40,P.86
*2 後藤惠之輔,坂本道徳:軍艦島の遺産(長崎新聞社,2005)P.15,P.72-P.73,P.112
軍艦島の南側には、炭坑施設が集中していました。上陸して、まず初めに目に入るのが、ベルトコンベアーの支柱跡です。精選された石炭は、このベルトコンベアーによって貯炭場に蓄えられ、石炭運搬船に積み込まれました。
入坑桟橋への入口部分。ここから垂直の坑道を地下606mまで降下しました。
鉱山の総合事務所跡。れんが造りの建物です。
仕上工場跡。1階が作業場で、2階には食堂や風呂がありました。
長崎港から「軍艦島クルーズ(上陸コース)」で上陸を目指します。
船に揺られること約1時間。南西の方角に軍艦島の雄姿が見えてきました。
ドルフィン桟橋から上陸開始です。
ついに、軍艦島に上陸しました。感激です。
今回は、軍艦島(長崎県長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
軍艦島は、長崎半島の野母崎地区の沖合いにある島で、正式名称は、端島といいます。長崎港から船で約1時間です。
長崎港には、軍艦島の模型が展示されています。島の断面図が示している通り、軍艦島は海底炭坑を有する島です。
島の南東側は、鉱山施設があるエリアです。南端には、プールがありました。
島の北側には、鉄筋コンクリート造りの住居が密集しています。日給社宅(写真中央)は、島内でも特に古い住宅です。
三条市の信濃川近くに、「三条競馬場」という名のバス停があります。
三条競馬場は、5000人収容のスタンドを持つ競馬場でしたが、現在は廃止され、正門前のスタンドだけが残され、現在は場外馬券発売所として活用されています。
後ろ側から見たところ。
今後は、馬術競技用の施設として活用されるようです。
三条市の八幡町。古い町並みに煙突が見えます。
銭湯の高砂湯です。
入口に雁木があります。雪国らしい銭湯の佇まいです。
現在は、休業中のようです。
本寺小路の路地を入ったところに、風俗店の看板が残されています。
かすやビル。スナック、ランジェリーパブの他にマッサージ店やサロンもあったようです。
入口は、看板の奥のこの階段です。
現在は、休業中のようです。
本寺小路に、花街の風情漂う通りがあります。
見事な木造三階建て建築です。
2階、3階部分。
裏側から見ると、こんな感じです。
今回は、三条(新潟県三条市)の町並みと風俗を散歩します。
歓楽街、本寺小路の繁栄は、元禄年間に東本願寺三条掛所が建立され、その門前町として賑わうようになって以来のことで、寛政2年(1790年)、女抱旅籠の営業許可が下りてからは、一大歓楽街として発展しました。明治3年当時の地図によると、現在の石川書店(写真、右手前)のところから、浄円寺に向かって、平野屋、秋田屋、田中屋、大阪屋、亀屋、中川屋、向かい側の輪宝寺から通りの西側には、珠数屋、広川、信濃屋、小高屋、京枡屋、日野屋、大黒屋、小市屋、三浦屋、などの女抱旅籠がありました。*1
本寺小路を逆方向(浄円寺側から南)をみたところ。昭栄通り、青玉小路が出会うあたりから現在の331号線に至る通りの両側にも女抱旅籠が並んでいました。*1
通りにあったアパート風の建物。
料亭「信水」。
*1 中越の郷土史編集室:三条ッ子別冊1 「本町・本寺小路の今昔」(1986,中越の郷土史編集室)P.10-P.20
温泉街の中心部に、駅前DX劇場があります。周囲の山並みによく溶け込んでいます。
ハート型の窓が印象的です。
派手な電飾。
サーミロミロ。非常に解りやすいです。
今回は、鳴子温泉(宮城県)の町並みと風俗を散歩します。
鳴子温泉は、平成19年6月8日付け交通新聞社発行の月刊「旅の手帖」温泉番付において、東の横綱に認定されました。*1
古い温泉番付を見ると、前頭7枚目にランキングされているものもあり*2 古くからも名湯であることが解ります。
温泉街の旅館に混じってスナック風の建物が並んでいます。
「洋酒 喫茶」と書かれた看板が残っていた店。
営業中のスナックがある通り。
【参考URL】
*1 鳴子温泉郷観光協会:”ゆったりくつろぐ湯と森の里”鳴子温泉郷
【参考文献】
*2 木暮金太夫:錦絵にみる日本の温泉(国書刊行会,2003)p.83 「大日本温泉一覧(明治29年)」
脇町には、古い建物が残されています。
パーマ屋さんの建物があります。
「花嫁着付、パーマ」と書かれた看板。
美容業組合のプレート。
貞光から吉野川を下流に下った脇町に、脇町劇場オデオン座があります。脇町劇場は昭和9年に芝居小屋として、建てられました。
その後、1995年に取り壊される予定でしたが、山田洋二監督、西田敏行主演の映画「虹をつかむ男」(1996年公開)の舞台となったことがきっかけとなり、脚光を浴び、文化的価値が見直され、創建時の姿に修復され、一般公開されることになりました。*1
オデオン座の中には、「虹をつかむ男」の当時のロケの様子などの写真が展示されています。
2階客席から見た内部。
【参考文献】
*1 「脇町劇場オデオン座」パンフレット
貞光は、脇町とともに、「うだつのある町並み」として有名です。「うだつ(卯建)」は、二階の壁面から突き出した漆喰塗りの袖壁です。江戸時代は火よけ壁とも呼ばれ、防火の役目を果たしていましたが、明治時代になると防火よりも装飾に変わってきました。裕福は商家は、冨の象徴として、この「うだつ」を競ってあげました。「うだつがあがらぬ....」の語源にもなっています。*1
うだつのある町並みには、木製牛乳箱が似合います。
毎日牛乳の牛乳箱。
「毎日ボン牛乳」のうち、青色文字の「ボン」だけが鮮明に残っています。
【参考文献】
*1 清水安雄:美しい日本のふるさと 中国四国編(2008,産業編集センター)P.163-P.167
貞光町の中心部からやや南寄りに、貞光温泉があります。
銭湯の建物は、看板のある場所から少し奥に入ったところにあります。
入口のドア。入浴剤は曜日毎に替わります。
銭湯の建物を後方から見たところ。