神宮小路の一画にある共同便所。

手書きで「便所」と書かれた木製看板。

手洗い場。

便所から見た神宮小路。

神宮小路の一画にある共同便所。
手書きで「便所」と書かれた木製看板。
手洗い場。
便所から見た神宮小路。
神宮前駅の北側すぐのところに、神宮小路の入口のゲートがあります。
石畳の呑み屋小路が続きます。
東西の通り。ラーメン屋が営業中です。
反対側(北側)の入口。
今回は、熱田( 愛知県名古屋市熱田区)の町並みと風俗を散歩します。
JR熱田駅をおりると、南側に神宮前商店街があります。すぐ隣(写真左側)は熱田図書館です。
周囲は近代的な町並みですが、神宮前商店街だけがレトロな雰囲気を残しています。
熱田図書館から神宮前商店街の建物の裏側をみると、木造3階建てであることがわかります。
建物の裏側。
北区水切町7丁目。古い町並みが残ります。
「バスハウス水切温泉」。銭湯を「バスハウス」と呼んでいます。
煙突に「バスハウス」「水」の看板。「切温泉」が無くなってしまったようです。
バスハウスの全景。
杉栄町の通りから、1本入った路地。
鮮やかな緑色の建物が残されています。城東園の遺構でしょうか。
細かな装飾もあります。
円柱部分は、薄いピンク色です。
杉栄町の通りから西の路地を入ったところに、妓楼風の建物があります。
城東園の名残の建物でしょうか。
現在は、「恋多人」という名のスナックとして営業中です。
昔の雰囲気の残る町並みです。
大曽根(松竹コーヒー)杉栄町5丁目バス停近く かつて、名古屋には、八幡園、城東園、港陽園の3ヶ所に赤線があり、その中でも北区長田町にあった城東園は、156軒、360名の最大規模でした。*1
長田町の北側に位置する杉栄町5丁目。
古い住宅地図*2 には、この建物は「松竹コーヒー」と記載されています。
モダンな造りの入口です。
松竹の屋号が現在も残されています。
【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.91
*2 善隣出版社:名古屋市北区(善隣出版社,1972) P.120
大曽根駅西側に料理旅館の十州楼があります。ここは、かつて市電(東新町-大曽根)が走っていた頃の終着駅付近で、賑わいを見せていた場所です。
十州楼は、有名な料理旅館です。
この建物は、文化庁の登録有形文化財に指定されています。
現在は、文化財保護のための修復工事のため休業中です。
女子大小路から脇道にはいったところ。
街の風運動。
コンドームの自販機です。
ストップエイズ。
女子大には、ドレスショップが何店舗かあります。パブやクラブが沢山あるため、ニーズがあるのだと思います。
派手なドレスがズラリと並びます。
歩道にも陳列されています。
価格は安価なほうだと思います。(手前の赤いドレスは2900円)
かつては女子大小路と呼ばれていた通りは、クラブの密集地帯です。現在は、「栄ウォーク街」と呼ばれています。
もともと、このあたりは学生街でした。県一高女、中京女子、育英、名電工、淑徳、も遠くなく、昼は学生たちで賑わっていました。
それが戦後になると、ぼつぼつ連れ込み旅館が増えてきて、昭和50年頃には、バー、キャバレー、飲食店、約700軒、働く女性の数、約3千人、特にバーの大型化ともいえるクラブの密集地帯となりました。
現在は、フィリピンパブが多いようです。
昼間の静まりは薄気味悪いほどですが、夜になると賑わいます。
【参考文献】
*1 大野一英:名古屋ケチケチ繁盛記(講談社,1977)P.286-P.292
「女子大」という地名は、近くに女子大があったことに由来しています。
店名に「女子大」の名が使われているコンビニ。
世界のやまちゃんの店名も「女子大店」です。
女子大らーめん。今でも「女子大」の名は健在です。
今回は、女子大(愛知県名古屋市中区)の町並みと風俗を散歩します。
栄ウォーク街(別名、女子大)の無料案内所。
「女子大無料案内所」。
こちらは、別の無料案内所。
女子大♡無料案内所。
仁王門湯の隣に駐車場となっている空き地があります。銭湯の煙突が見えます。
銭湯の脇は、路地になっています。
生活感あふれる路地です。
昔はこういう雰囲気の路地がたくさんあったのだと思います。
大須観音の東側の仁王門通りは、現在は人通りの多い商店街として賑わっていますが、路地を一本入ると昔の雰囲気が残っています。
銭湯の仁王門湯。
清潔感のある入口。
明るい雰囲気の銭湯です。
明治6年、名古屋に遊廓を設置することが、愛知県議会によって許可されました。大須の北側一帯が指定地で、「北野新地」と呼ばれていました。その後、大須観音堂裏からまっすぐ西へ一帯の広い地域が旭遊廓として、新しく生まれ変わることとなり、以前の北野新地は、元新地と呼びかえられるようになりました。旭遊廓の地域は、吾妻町が南の端で、北へ若松町、花園町、音羽町、東角町、東角町と坂を下り、紫川が北の端で、西は常盤町、東は富岡町、城代町の南北約400m、東西約200mが遊廓の地帯でした。*1
現在も、「常盤通り」という名前の通りがあります。写真の奥に見えるのは、名古屋都市高速道路ですが、このあたりが紫川があったあたり(旭遊廓の北端)でしょうか。
若宮大通りから見た常盤通り。
現在は遊廓の面影はなく、閑散としています。
旭遊廓は、時勢の進展とともに、地域の中央部にあるとの風紀上の問題が論ぜられるようになり、大正8年、旭遊廓の中村への移転の県令が出され、大正12年に歴史の幕を閉じました。*1
【参考文献】
*1 服部鉦太郎:明治・名古屋の顔(六法出版社,1973)P.63-P.67
今回は、大須(愛知県中区)の町並みと風俗を散歩します。
江戸時代、初代尾張藩主の徳川義直は質素倹約の施政方針であったため、遊女屋を禁止していましたが、料亭や芝居小屋まで禁止していたわけではありませんでした。2代藩主光友の頃には、名古屋の最初の芝居小屋である橘座ができました。
橘座があった場所は、現在の愛知産業大学工業高校のあたりです。*1
愛知産業大学工業高校の前には、橘座跡の立札があります。*1
尾張7代藩主の徳川宗春は、それまで禁止されていた遊女屋を公認し、西小路、葛(かずら)町、富士見原の3地区に遊廓ができました。3廓のうち、葛町の廓は、橘座があった愛知産業大学工業高校から約200mの古渡稲荷神社の西南に接したあたりにありました。*2
古渡稲荷神社から南西の方角を見たところ。
【参考文献】
*1 川本文彦:街道への誘い. 続(風媒社,2002)P.119-P.125
*2 斉藤光次郎:今昔名古屋旭廓(名古屋豆本第37集)P.2-P.8
駅西のビックカメラの脇の通りを行くと、「椿神社前」の交差点があります。この交差点をまっすぐ行くと「駅西銀座」です。
交差点の角には、「椿神社」があります。
駅裏が都市計画の俎上(そじょう)に上がったのは、昭和34年のことでした。もはや駅裏ではなく、新しい駅西が出現しました。*1
駅西のカナメとなって鎮座する椿神明社は、古くから椿の森として親しまれてきましたが、椿の群生は今はありません。境内のわずかな椿の花が、駅西のさまざまな幻想を盛り上げてくれます。*1
【参考文献】
*1 大野一英:名古屋ケチケチ繁盛記(講談社,1977)P.268-P.271
今回は、駅西(愛知県名古屋市中村区)の町並みと風俗を散歩します。
「駅西」は、名古屋駅西口を中心に半径900メートルの半円に抱かれる椿町などを指し、終戦直後は駅裏のヤミ市地区として名を響かせていました。*1
名古屋駅の西側のビルに囲まれて、古い建物が残されている一画があります。(写真右下)
駅へ向かう横断歩道を渡ったところにある理容室の建物。
大衆食堂の看板だけが残っています。
めし、みそ汁、おかず...。かつての駅西のエネルギーを感じさせます。
【参考文献】
*1 大野一英:名古屋ケチケチ繁盛記(講談社,1977)P.268
武蔵新田の商店街にある食品スーパーのマルエツ。このマルエツの裏側にカフェー街がありました。*1
終戦直前の昭和20年7月。当時の警視庁、憲兵隊、区長、区議会が中心となって、軍需工場で働く産業戦士相手の慰安所をつくろうと、羽田の穴守で戦災にあった業者たちに呼びかけてつくらせたのがはじまりでした。*2
昭和27年刊行の風俗雑誌*3 には、「ここの特色は、1軒の大きなアパートのような店の中に27軒の店がそれぞれに商売をしている集団的売春の家である。」と、武蔵新田の特徴が述べられています。
北西の方向から見た旧武蔵新田カフェー街全景。*1
腰廻りに石材を配しています。*1
「赤線跡を歩く」*1 に写真が掲載されていたお宅は(写真右側)は、建て換わっていました。
現在は閑静な住宅地になっています。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.44-P.45
*2 小林大治郎,村瀬明:みんなは知らない(雄山閣出版,1961)P.114
*3 人情講談(睦書房,1952.8)P.164 「東京赤線地帯・現地ルポ」
今回は、武蔵新田(東京都大田区)の町並みと風俗を散歩します。
JR京浜東北線から東急多摩川線(旧目蒲線)に乗り換えて2駅目の武蔵新田駅で下車します。駅前の商店街は、買い物客で賑わっています。
駅から徒歩1分の商店街に面した場所に銭湯の森の湯があります。
銭湯らしい、大きな建物です。
鶴の絵が描かれています。
鶴見駅から鶴見線で一駅目の国道駅は、鉄道ファンに人気のある駅です。カーブを描いている鶴見線の高架下に駅の改札口があります。
トンネルのような独特の形状をしています。
改札口は、木製です。
ガード下は、ここだけが昭和のまま時間が止まった様な雰囲気です。
本町通4丁目交差点から南西に延びる通りを100mほどいったところに、銭湯の末広湯があります。
「サウナ」のネオン看板。
入口付近。
脱衣場に入ると、広い庭園が出迎えてくれます。
本町通り4丁目に、ひときわ目をひく飲食店の建物があります。
スナック店のような店構えです。
鮮やかな緑色のタイルで装飾されています。
入口付近。
鶴見駅東口の繁華街を抜け、鶴見川を渡った本町通4丁目に、飲食街があります。
右側は空き地(駐車場)になっていますが、昔は狭い路地だったのかもしれません。
雰囲気のある入口。
「料理店」のプレートがありました。
鶴見駅東口の繁華街の飲食ビル。
「ミス日本」。
店の入口にあった「バー」のプレート。
余談になりますが、第一回目の「ミス日本」コンテストは、1950年に開催され、山本富士子さんがグランプリに選ばれました。後に大映の映画女優となった山本さんは、「絶世の美女」ともうたわれました。*1
【参考文献】
*1 井上章一:美人コンテスト百年史(新潮社,1992)P.107
今回は、鶴見(神奈川県横浜市鶴見区)の町並みと風俗を散歩します。
京急鶴見駅東口の「鶴見三業共同ビル」の南側の角。
地下街への階段の入口があります。
パブやバーなどの飲食店専門の「鶴見地下飲食街」。
この付近一帯には、「鶴見三業地会」の看板があります。
東上野2~3丁目に、キムチ横丁と呼ばれるコリアンタウンがあります。
終戦直後、各地の残留朝鮮人たちは、ひと旗あげようと続々と上京し、凄まじい勢いでアメ横のマーケットに参入しました。彼らは公権力にも果敢に抵抗したため、これに手を焼いた警察当局は、千葉県の実業家・近藤広吉に頼み込み、アメ横に近藤マーケットをオーオプンさせて、浄化作戦に乗り出しました。*1*2
近藤マーケットに追い出された朝鮮人は、東上野2丁目付近に「国際親善マーケット」を建設し、これがコリアンタウンになりました。*2*3
焼肉店をはじめとして、キムチ、漬物、乾物などを売る店などが、密集しています。
各店毎に異なる味つけを楽しめるのも魅力です。*2
キムチ横丁の北側。2棟の建物の間が生活通路になっています。
【参考文献】
*1 塩満一:アメ横三十五年の激史(東京稿房出版,1982)P.107-P.108
*2 山野車輪:在日の地図(海王社,2006)P.106,P.112-P.113
*3 東京焼け跡ヤミ市を記録する会:東京闇市興亡史(草風社,1978)P.94
御徒町駅近くにある芳賀書房上野支店。
店の入口。
2階へ上がる階段。
オリジナルガチャポン。
アメ横の上野駅寄りにビデオボックスがあります。
「ビデオBOX」という屋号のビデオボックスです。
看板に「全自動」と書かれています。
初期のビデオボックスでよく見かけた個室タイプです。
店内には、ボックス(個室)がずらっと並んでいます。ボックスの上部に貼り付けられているビデオのパッケジーを見て、客は気に入ったボックスの中に入って鍵を閉めます。千円札を入れると自動的にアダルトビデオの再生が始まる仕組みです。
アメ横のおとなのおもちゃ屋さん。
店の側面はガラス張りになっていて、商品が陳列されています。逆立ちになっている看板が面白いです。
ビニール製のダッチワイフ。
前と後、2穴です。
御徒町駅近くの昭和通り沿いに、オリエント工業(有限会社ツチヤ商会)のショールームがあります。オリエント工業は、ラブドール(ダッチワイフ)のトップブランドです。
ダッチワイフが注目されるようになったのは、1956年の日本初の南極観測隊が越冬の間の性欲処理方法として、ダッチワイフが使用されたことでした。このミス南極(隊員たちの間では「弁天さん」と呼ばれていました。)はイグルー(氷で作った簡易住居)の中に置かれましたが、使用した隊員は一人もいなかったそうです。*1*2*3
ショールームの入口。
カタログは有償(300円)です。
南極観測隊以降、ダッチワイフの研究は急速に進みました。*3
1979年、上野に創業したオリエント工業は、第一号製品の「微笑」から2007年の発売の「キャンディーガールジュエルディーバ」まで豊富なラインナップを持っています。
ラブドールのカタログには、素材の見本が添付されていますので、実際の感触を確かめることができます。
「ソフトビニール」製と「シリコン」製の2種類があります。シリコン製は、リアルな質感が得られる反面、価格が高い、破損しやすい、などの難点があります。
【参考文献】
*1 高月靖:南極1号伝説(バジリコ,2008)p.26-P.29
*2 日本風俗史新聞編纂委員会:日本風俗史新聞(日本文芸社,1999)p.175
*3 下川耿史:男性の見た昭和性相史 part2(第三書館,1993)P.208-P.209
上野には、パチンコ関連企業の事務所が集中しています。
「秘密戦隊ゴレンジャー」は、いわゆる「戦隊もの」と呼ばれるチームによるヒーロー番組の元祖です。アカレンジャー、アオレンジャー、キレンジャー、モモレンジャー、ミドレンジャーと、ヒーローを色分けしたのが特徴でした。
八代亜紀さん。心の故郷です。
ご存知、遠山の金さん。
逃亡者(のがれもの)おりん。
JR上野駅近くの昭和通り沿いに、スナックが並ぶ小さな路地があります。
ゲイバーなどが多い路地です。*1
江戸時代、上野に隣接する湯島天神界隈は、男色を売る少年たちの陰間茶屋が多い場所でした。また、敗戦後の上野には、街娼(パンパン)など1300人の商売女と約100人の男娼(オスパン)がいました。*1
男の酒場。
【参考文献】
*1 新人物往来社:歴史の中の遊女・被差別民 別冊歴史読本45(新人物往来社,2006)P.271-P.272
今回は、上野(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
JR上野駅東側の正面玄関口付近
大きな看板の薬屋さん。
その薬屋さんの看板に負けないくらい大きな「男ビデオ」の看板。
1Fから4Fまでがアダルトショップですが、男ビデオのコーナーがある模様です。
二子新地の最盛期には、芸者はたくさんあって、芸者衆は100人くらい、待合は30軒くらいありました。当時、町内会(南第四町内会)は、全部三業組合でしめていました。*1
料亭「春日」は、数年前まで当時の建物と黒板塀の遺構*2 が残っていましたが、つい最近取り壊されて駐車場になったようです。
料亭「やよい」があったあたり。*3
「草紫庵」と書かれた石柱があります。
待合ではなく、料亭だったのは、「仙寅」のみでした。料亭「仙寅」の跡地には、現在はマンションが建っています。
【参考文献】
*1 神奈川県立婦人総合センター かながわ女性史編集委員会:夜明けの航跡(ドメス出版,1987)P.250-P.251
*2 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.174
*3 高津区明細地図(経済地図社,1970)P.79
1970年の住宅地図*1 を見ると、二子新地の料亭は、10軒ぐらいが営業中だったようです。
そのうち、唯一現在も営業を続けているのが、こちらの料亭「やよい」です。
料亭「やよい」の看板。
美しい黒板壁が、当時の様子を偲ばせます。
【参考文献】
*1 高津区明細地図(経済地図社,1970)P.79
二子橋が開通した大正14年頃、建設関係者を相手にした小料理屋が神奈川側の堤防沿いにできはじめ、三業地ができました。
二子神社近くには、「二子三業組合」の銘の入った街路灯が残っています。
三業地は、二子神社西側一帯にありましたが、現在は住宅地になっています。
二子三業組合、二子芸能学校があったあたり。*2
【参考文献】
*1 散歩の達人(交通新聞社,2005.4)P.12
*2 高津区明細地図(経済地図社,1970)P.79
今回は、二子新地(神奈川県高津区)の町並みと風俗を散歩します。田園都市線の二子新地駅は、かつて花街だった頃の「二子新地」という呼び名がそのまま駅名になっています。
ちなみに、当時は、「二子新地前」という駅名でしたが、「双子死んじまえ」に聞こえたりするので、現在の駅名に変更されました。*1
案内板を見ると、二子神社の近くには、花街の名残と思われる料亭の名前があります。
二子新地駅前の大山街道。大山街道は江戸を起点として、大山(神奈川県伊勢原市)までを結ぶ街道で、江戸時代中期には、「大山詣」がブームになりました。
「旧大山街道二子の渡し場入口」と書かれた白い案内標柱があります。大正14年に二子橋ができるまでは、二子の渡しから多摩川を渡りました。
あるビルの壁面に、二子の渡しのレリーフがあります。
【参考文献】
*1 散歩の達人(交通新聞社,2005.4)P.16
旧五軒町界隈には、花街の痕跡とも言える料亭や旅館だったと思われる建物が残っています。
緑色の建物。
スナック喫茶。
3階建ての旅館。
落合橋を渡り、上り坂を登りきった高台に、芸者屋の「仲乃屋」があります。
湯河原の温泉芸者の船岡なかさんの半生を描いた「温泉芸者一代記」*1 によると、「仲乃屋」は、昭和8年頃に建てられました。
船岡なかさんは、大正13年、17歳のときに「赤ペン」に売られてきました。船岡さんの年季は昭和3年に明けましたが、すでに、そのとき、この土地で生涯、温泉芸者としていきることを決めていたそうです。ペン街は、昭和5,6年頃から遊里らしい賑わいを見せ始め、ぺン店や料亭、待合、旅館などが増えました。*1
現在も「仲乃屋」は、健在です。
「仲乃屋」東側の目の前に、「赤ペン」がありました。*1
【参考文献】
*1 井田真木子:温泉芸者一代記(かのう書房,1989)P.10,P.60,P.126
今回は、湯河原(神奈川県足柄下郡湯河原町)の町並みと風俗を散歩します。
湯河原駅の西側、千歳川と藤木川が合流する地点に落合橋があります。
この橋の南側の高台には、かつて「五軒町」と呼ばれた花柳街がありました。湯河原温泉の発展は五軒町をぬきにしては語れない程、往時殷賑をきわめていました。*1
五軒町の由来は、次の通りです。
日露戦争後、湯河原駅の西側に陸軍病院ができ、その病院の米を作るため、落合橋のふもとに水車小屋ができました。水車小屋周辺には、傷病兵の散歩場として公園ができ、人家も出来始めました。そのうちの1軒に、高等馬車の別当をしていた岩崎忠次郎という男がいました。その女房のキヌさんは、なかなの美人で、小料理屋を始めました(大正3年)。たまたま主人が馬車に塗った赤いペンキの残りを、その店の塀に塗ったことから、店は「赤いペンキの家」と呼ばれるようになりました。けれどもそれが幸いしたのか急に店は繁盛し、女房だけでは間に合わなくなり、女の子を5、6人置くようになり、増築もし、栄える一方でした。*1
「赤いペンキの家」通称「赤ペン」を真似て、新しい飲み屋も増えてきました。「白ペン」、「黒ペン」、「金ペン」、「銀ペン」といい、ペン街が形づくられました。しかし、町の人は、「ペン街」という呼び名を好まなかったため、料理屋が五軒できたので、「五軒町」と呼びました。*1
【参考文献】
*1 湯河原若葉会:湯河原のはなし 其の二(湯河原温泉観光協会,1978)P.14 「五軒町由来」
新開地に残るホテルの建物。
沖縄にあるのに、なぜか「ホテル東京」です。
歴史を感じさせる看板。
四つ角にあるホテルだったと思われる建物。
金武・新開地では、コザのような「白人街」、「黒人街」といったテリトリはありませんでしたが、白人専用の店、黒人専用の店が存在しました。白人・黒人とも自分たちの好みの音楽がかかっている店に集まり、店が気に入ると自分たちの専用の店にしました。黒人が集まる店に白人が入店したり、その逆でもケンカが発生しました。沖縄復帰が近づきつつあった頃、新開地を力づくで「黒人街」にしようという黒人集団の動きがありましたが、軍のパトロール強化により、その野望は阻まれました。*1
当時のものと思われる建物が残っています。1992年の写真*2 と比べると、道路が舗装されたこと以外は、ほとんど町並みに変化はありません。
新開地のメインの通り。
クラブSHIMA。
【参考文献】
*1 廣山洋一:KOZA BUNKA BOX 3号(沖縄市企画部平和文化振興課,2007)P.71
*2 池宮城晃,池宮城拓:沖縄返還(池宮商会,1998)P.192 「二十年目の生き残った歓楽街の姿」
今回は金武(沖縄県国頭郡)の町並みと風俗を散歩します。「金武入口」のバス停で下車。道路の向かい側は、世界最強を誇る米軍海兵隊の拠点「キャンプハンセン」です。
近年、沖縄の米兵は少なくなったものの中東戦争、イラン・イラク戦争そして湾岸戦争において、沖縄の米軍基地は後方支援や偵察など大きな役割を果たし、日米安保による基地提供とは米軍の世界戦略の一貫であったことが、現在では明白になっています。*1
「キャンプハンセン」の向かい側には、「新開地」と呼ばれる米兵相手の歓楽街があり、現在も盛況です。
「キャンプハンセン」の入口の前の通り。
西部劇の映画に出てきそうな町並みです。
繁華街への入口のゲートには、日米国旗がデザインされています。
【参考文献】
*1 池宮城晃,池宮城拓:沖縄返還(池宮商会,1998)P.190
コザの西側、中頭郡嘉手納町の国道58号線の途中に比謝橋があります。
ここに吉屋チルーの歌碑があります。
吉屋チルーは、1650年、現在の恩納村に生まれました。家ははじめは裕福でしたが、父親が尾類(ジュリ)買いに精を出しすぎて、たちまち貧困になり、そのため、13才の吉屋チルーは、仲島遊廓*2 に売られることになりました。*1
「恨む比謝橋や 情けないぬ人の わぬ渡さともて かけておきやら」という歌が刻まれています。これは、吉屋チルーが、父親に手を引かれてはるばる売られていく道中に詠んだものです。街道の比謝川にかけられた木橋、この比謝橋は、きっと無情な人が私を渡らせようと思って、かけておいたのだろう。この橋さえなければ、私は尾類(ジュリ)になぞ売られて行くこともなかったろうに、とうたっています。1
吉屋チルーは、現在でも沖縄では知らない人のない天才歌人でした。*1
【参考文献】
*1 富村順一:琉球慰安婦 天皇制下の闇の性(玄曜社,1977)P.27-P.28
【参考記事】
*2 風俗散歩(那覇):仲島の大石(2009.1)
胡屋十字路からサンサン通り(国道330号線)を南西にパラダイス通り*1 があります。すぐ隣に諸見百軒通りがあります。現在は繁華街の面影はありませんが、1978年の住宅地図*2 を見ると、クラブやカフエーが、道の両脇にずらっと並んでいます。沖縄返還後、しばらくは繁華街であったようです。
かつての繁華街の面影を残すクラブの建物。
「CLUB DIYA」。特飲街時代の建物でしょうか。
元飲食店であったと思われる民家。
【参考文献】
*1 沖縄市平和文化振興課:Koza ひと・まち・こと 写真がとらえた1970年前後 あなたが歴史の目撃者(沖縄市,1997)P.11 「歓楽街分布図(1960年頃)」
*2 善隣出版社:沖縄市・北谷村(善隣出版社,1978)P.71
センター通りと接する場所に、かつて、「ワイキキ通り」*1 と呼ばれていた通りがあります。現在は閑静な住宅街ですが、かつてのワイキキ通りは、特飲街でした。*2
1953年、米軍は、特飲街で売春行為が行われ、性病が蔓延していることから、米軍人の立ち入りを禁止(オフ・リミッツ)の措置をとりました。こうしたオフ・リミッツは、米兵向け商売で暮らしを立てていくほかない人々にとっては死活問題であったため、オフリミッツ解除のためのさまざまな努力が行われました。こうしたさなかの1956年、風俗営業にAサイン制度が導入されました。Aサインとは、「米軍による許可済み」のことで、衛生管理や従業員の健康証明などが必要でした。*3
Aサイン取得のためには、改善のための設備投資が必要であり、資金のある業者のみが申請を行ったため、風俗店の数は減少していきました。コザの諸里百軒通り、胡屋(ごや)通り、ワイキキ通りなどでは、業者が沖縄向け(日本人向け)向けの営業に転業しました。*2
飲食店だったと思われる建物。
「KOZA BUNKA BOX」*2 に写真が掲載されている白瓦屋根の民家。
逆方向から見たところ。
【参考文献】
*1 沖縄市平和文化振興課:Koza ひと・まち・こと 写真がとらえた1970年前後 あなたが歴史の目撃者(沖縄市,1997)P.11 「歓楽街分布図(1960年頃)」
*2 山崎孝史:KOZA BUNKA BOX 4号(沖縄市企画部平和文化振興課,2008)p.42-P.44「USCAR文書からみたAサイン制度とオフ・リミッツ」
*3 那覇市歴史博物館:戦後をたどる(琉球新報社,2007)P.203-P.204「小野沢あかね:Aサインバーとオフ・リミッツ」
コザ十字路から美越通り(国道329号線)を300mほど進むとバス停の「吉原入口」があります。このバス停の南東側に吉原の風俗街が広がっています。
1950年代はじめ、基地建設に伴い、沖縄各地に米兵相手の特飲街が次々とつくられていきましたが、コザ十字路の南側に後に、「照屋黒人街」と呼ばれる特飲街が成立すると、白人と黒人の対立が目立つようになりました。1952年末頃には照屋の特飲街は、黒人の縄張りとなりましたが、白人相手に商売をしていた一部の業者は、コザ十字路北東にそびえる手付かずの高台に目をつけ、そこに新特飲街が建設され、吉原が誕生しました。つまり、吉原は照屋の特飲街の黒人街化によって誕生した街といえます。*1
「吉原」という名の由来は、東京の有名な遊廓である吉原にあやかったものだそうです。名前の候補として、「美島」、「沖の島」、「三島」などがありましたが、最終的に「吉原」に決定しました。吉原創設の目的は、「白人相手の特飲街」でしたが、1954年7月8日に発令されたオフリミッツが長期化したため、苦境に追い込まれた吉原の業者たちが思いついたのが「沖縄人相手」の商売でした。*1
吉原は、現在は、風俗街として存続しています。「吉原」と書かれた信号機がある交差点は、唯一、美越通りから風俗街を一望できる場所です。ここから高台に向かって一直線に広い通りが延びています。
高台の奥まったあたり。道路が縦横に走り、風俗店が道の両側にびっしりと並んでいます。
木造の建物もあります。
【参考文献】
*1 廣山洋一:KOZA BUNKA BOX 2号(沖縄市企画部平和文化振興課,2000) P.41-P.47 「特飲街・吉原」
八重島特飲街跡の名残を伝える唯一の遺構が1軒あります。
「Waltz(ワルツ)」のネオン看板が残っています。
建物の脇には、駐車場があります。
駐車場の地面には、タイルでハートが描かれています。
八重島特飲街は、1953年の長期オフリミッツなどで打撃を受け、衰退しました。*1
【参考文献】
*1 沖縄市平和文化振興課:Koza ひと・まち・こと 写真がとらえた1970年前後 あなたが歴史の目撃者(沖縄市,1997)P.112
終戦直後の混乱の中で、米兵による婦女子の暴行事件が多発し、一方、軍施設で働く婦女子にもよからむ風評が聞こえるようになったため、1950年2月頃に、コザの住民地区から離れた八重島原(現在の沖縄市八重島1丁目)に米兵相手の特飲街がつくられました。これが「ニュー・コザ」の始まりで、1951年から53年にかけて130軒のバー、クラブが通りにでき、そこで働くホステスだけでも300人を超え、人口も1000人あまりを数えていました。*1
八重島特飲街では、他の特飲街にさきがけて性病検診が実施され、公娼が働く売春街そのものでした。当時の経営者らは、八重島特飲街を戦前の那覇にあった辻遊廓*4 の復活と考えていたようであり、辻において旧暦の二十日正月に実施されていた「ジュリ馬」と呼ばれる行事を八重島で復活させていました。*2
この場所には、数年前までクラブ跡と思われる建物*3 が残っていましたが、現在は更地になっています。
建物の上部の壁に、うっすらと看板の痕跡が残っています。
「BAR(バー)」の文字の痕跡。「R」の文字のところに穴があいているのは、看板が固定されていた跡でしょうか。
【参考文献】
*1 恩河尚:KOZA BUNKA BOX 1号(沖縄市企画部平和文化振興課,1998) P.25-P.30 「コザの時代を考える 台風によってつくられた街」
*2 嘉陽義春:KOZA BUNKA BOX 3号(沖縄市企画部平和文化振興課,2007) P.48-P.49 「新聞記事を中心に見る特飲街へのオフリミッツ発令(1951~52)」
*3 山城興勝:EDGE Vol2(APO,1996)P.2-P.3「八重島特飲街その後」
【参考記事】
*4 風俗散歩(辻):辻遊廓開祖の墓(2009.2)
銀天街通りから路地を西に入ると、かつての黒人街の名残と思われる町並みが続いています。
照屋の特飲街には当初、黒人も白人も出入りしていましたが、数年たつと黒人と白人の対立が目立つようになりました。やがて集団で行動する黒人側の圧迫を受け、1954年頃までには、白人たちはコザ十字路以北へと追い払われてしまいました。
現在も残るホテル跡*1
現在は、米兵の姿はありません。
街から黒人は去り、写真右のビローの木は2倍に成長しました。*1
【参考文献】
*1 廣山洋一:KOZA BUNKA BOX 3号(沖縄市企画部平和文化振興課,2007) P.64-P.66,P.79,P.81 「コザ十字路一帯における黒の街と白の街」
今回は、コザ(沖縄県沖縄市)の町並みと風俗を散歩します。
1948年のリビー台風と1949年のグロリア台風により、在沖米軍は施設の約半分を失い、米国統合参謀本部は、沖縄基地を再建すべきか、フィリピンや日本本土に移転すべきか決断を迫られていました。最終的には、約500万ドル(平成10年の価値に換算して約7500億円)の巨費を投じて、沖縄に恒久基地を建設することが決定されました。戦後沖縄の主要企業は、1949年から1950年にかけて次々と設立され、コザを中心とする沖縄の中部地区には、職を求めてたくさんの人が集まり、コザは「基地の街」として急速に市街化されていきました。コザ十字路の南側に位置する照屋では、1950年頃から米兵相手の水商売が始まり、53年頃からは風俗営業が30軒ほど並び、照屋黒人街が成立しました。*1
「Koza ひと・まち・こと」の「歓楽街分布図」*2 によると、照屋黒人街は、現在の銀天街通りを南東に進んだあたりにありました。
銀天街通りを進み、緩やかな坂を登ったあたり。
かつて繁華街だった頃の雰囲気を伝えるスナックの建物が残っています。
「夜の蝶」という屋号の建物。
【参考文献】
*1 恩河尚:KOZA BUNKA BOX 1号(沖縄市企画部平和文化振興課,1998) P.25-P.30 「コザの時代を考える 台風によってつくられた街」
*2 沖縄市平和文化振興課:Koza ひと・まち・こと 写真がとらえた1970年前後 あなたが歴史の目撃者(沖縄市,1997)P.11 「歓楽街分布図(1960年頃)」
真栄原社交街にある一見何の変哲もない自販機。
夜になると、赤いネオンが煌々と輝きます。
よく見ると、自販機内の蛍光灯に赤色のフィルムが巻きつけられています。
ちょんの間と言えば、店の入口のネオン管を連想しますが、真栄原社交街では自販機も艶っぽい色で誘ってきます。ネオン管の誘惑に負け、この自販機で「さんぴん茶」を購入してしまいました。
ちなみに、普通の自販機はこんな感じです。(大謝名にて)
現在沖縄に存在する大規模な買売春街は、旧辻遊郭一帯のソープランド街を除けば、ほとんどが戦後アメリカ軍基地を背景に成立したものです。その象徴的な存在の一つが、宜野湾市の真栄原です。真栄原二丁目の新町のバス亭のすぐ前に、「真栄原社交街」と書かれたアーケードがかかる横道があります。*1
住宅地の真ん中に、道路で縦横に区画され、スナックのような店舗が密集した一画があります。ここが、「真栄原社交街」と呼ばれている地域です。
車でのアセクスが多いせいか、付近には大規模な駐車場がいくつもあります。
夕方になると、社交街の中を周回する自動車が増えてきます。
【参考文献】
*1 藤野豊:忘れられた地域史を歩く(大月書店,2006)P.135-P.152
沖縄には、亀甲墓(かめのこうばか)と呼ばれる独特の形状のお墓が町のあちこちにあります。
大山から真栄原に至る途中の大謝名二丁目にある亀甲墓は、道路に面した見やすい場所に2基、向き合うように並んでいます。
亀甲墓は、俗に母胎をかたどったものであると言われています。人は死ぬと再び元のところへ戻るという期元思想のあらわれといわれています。*1
道路を挟んだ向かい側に、もう1基あります。
こちらの亀甲墓は、白く塗られているのが特徴です。
【参考文献】
*1 渡邊欣雄,岡野宣勝,佐藤壮広,塩月亮子,宮下克也:沖縄民俗辞典(吉川弘文館,2008) P.144-P.145
宜野湾市大山に、かつら専門店があります。
「カツラ」、「ツーペ」と書かれた看板。
店の窓いっぱいに、かつらが並ぶ光景は圧巻です。
琉球舞踊で使う「カツラ」でしょうか。
今回は、真栄原(沖縄県宜野湾市)の町並みを散歩します。
1983年4月にマキノ正幸が沖縄県那覇市に開校した沖縄アクターズスクールは、安室奈美恵、MAX、SPEEDなどを排出した沖縄初のタレント養成学校です。*1
現在は、宜野湾市大山に本社があります。
沖縄アクターズスクールが生んだスーパースターの安室奈美恵さんは、コギャルファッションの教祖となりました。サラサラの茶髪にパール系のルージュ、真っ黒な肌にへそ出しルック、「パンツが見えても全然OK」という超ミニスカートに厚底のブーツを履いたコギャル達は「アムラー」と呼ばれ、渋谷のセンター街などでは見ない日はありませんでした。*2
入口には、アクターズスクール出身者のタレントの写真が飾られています。
【参考文献】
*1 大西 貢司:ポピュラー音楽研究.4(2000) 90’s沖縄系-POPの諸相~沖縄アクターズスクール出身ミュージシャンを中心に(大会報告 1999年度〔日本ポピュラー音楽学会〕第11回大会(沖縄県立芸術大学)) P.115
*2 アムラー徹底研究会:コギャルの星 安室奈美恵の研究(飯倉書房,1996) P.13-P.14
前島のビル街に点在する風俗店。店の入口には、水着ギャルの写真が貼ってありますが...
建物の壁には、「環境浄化指定××..夜あそび非行のもと」の貼紙。
「客引きや呼び込み行為禁止」の貼紙。
こちらは、たて看板タイプです。
辻から若狭大通りを北東へ進むと潮渡川に出ます。川にかかる夫婦橋を渡った先のコンビニのローソンのところを右に曲がったあたり(前島三丁目)に風俗店が点在するエリアがあります。
素泊まり¥1,500.-の宿。左隣に風俗店があります。
ディープな雰囲気が漂う店の入口。
入口のドアにオリオンビ-ルのキャンペーンガールのポスターが貼ってある風俗店。
ソープランド、スナックなどが密集する辻の歓楽街には、風俗店の無料紹介所が多数あります。
派手な看板が目につきます。
紹介所のほとんどは、交差点の角にあります。
24時間営業のスーパーの建物の1階にある紹介所。
ほとんどが鉄筋コンクリートのビルに建て変わっている辻の料亭ですが、唯一、当時の建物が残っているのが、料亭「左馬」です。
料亭「左馬」は、はじめ那覇の栄町で繁盛していましたが、辻に戻って、移転開業しました。*1
現在は休業中のようです。
赤瓦屋根の立派な建物です。
【参考文献】
*1 上原栄子:辻の華. 戦後篇 上(時事通信社,1989)P.185
辻の遊廓は、那覇大空襲で焼失しましたが、戦後、バーや料亭が密集する歓楽街として再建されました。
辻のソープランド街の周辺に、料亭が現在も営業しています。
近代的な料亭の建物です。
料亭「那覇」は、1950年に那覇の沖映近くのカーブ川ぎわに開業、270人の女給がいました。料亭「那覇」は、その後、辻に移転しました。
1952年開業の料亭「松之下」。辻での建築第一号でした。経営者は、「辻の華」の著者の上原栄子さんで、まれな美貌の持ち主でした。*1
現在は、近代的なビルに建て替っています。
【参考文献】
*1 比嘉朝進:戦後の沖縄世相史 事と年表でつづる世相・生活誌(暁書房,2000年7月) P.53,P.68
今回は、辻(沖縄県那覇市)の町並みと風俗を散歩します。
琉球の遊女(尾類(ジュリ))の歴史は古く、300年以上前にさかのぼります。慶長の役(1610年)で徳川家康配下の薩摩軍に敗れた琉球王国は、それ以降日本と中国の両属の形をとり、重税に苦しめられていました。そういう時代に中国からやってきた冊封使の護衛の兵士が半年以上も那覇の租界天使館(戦前の那覇市役所付近)に駐屯していました。男盛りの若い兵士たちの中には、民家に入り込んで婦女子にいたずらをする者もいたため、政府は良家の子女の防波堤とするため、公娼制度を設けました。*1*2
1672年、尚貞王は、各地に分散していた尾類(ジュリ)を辻と仲島に集めて、遊廓を創設しました。その後、渡地にも遊廓が創設され、辻は主に中国からの冊封使や薩摩の役人向け、仲島は、首里などの王族や士族向け、渡地は旅人向けとなりました。1879年の廃藩置県以降は、百姓も遊廓に来るようになり、仲島は地方客相手、辻には、旧士族や金持ちなどが訪れるようになりました。遊廓は、第二次世界大戦中の1944年、米軍による那覇大空襲で焼失しました。*3
料亭松乃下の隣に、木々が生い茂った場所があり、石段を登っていくと、「辻遊廓開祖之墓」があります。位牌が全部で4基並んでいます。
これは、昔から葬られてあった、遊廓創設時代の遊女の遺骨を近年になって貸座敷組合の手で改装されたものです。*4
位牌は、新しいもので、数年前に再改築されたようです。一番左側にある位牌に、「うないみやらびぬ里」と書かれています。
「うない」は、琉球語で「女兄弟」を意味し、「みやらび」は、10代後半の未婚女性を示す言葉です。*3
「ぬ」は共通語の「の」の意味ですので、「うないみやらびぬ里」は、「おんなの里」とでも言えばよいと思います。
右側の3基の位牌には、それぞれ次のように書かれています。*5
花ぬ台 ウトタルヌメー(音樽ぬ前)
花ぬ台 ウミチルヌメー(思鶴ぬ前)
花ぬ台 マカトカニヌメー(真加登金ぬ前)
いずれも首里御殿の女たちと思われる名前です。「花ぬ台」は、辻町の別称のことです。*5
辻遊廓は、約300軒ある妓楼のうち、どこにも、女たちを支配する男性が一人もいませんでした。娼婦か芸者か見分けもつかぬ形で、厳しい辻だけの掟を守って穏健な雰囲気の中で日々の生活を営んでいました。*5
道路の向こう側には、「財団法人辻新思会」の建物があります。
財団法人辻新思会は、貸座敷組合をへて戦後、財団法人になった組織で、辻の神事や辻の芸能を保存継承し、その歴史・文化の経緯を今に伝えています。*6
【参考文献】
*1 那覇市総務部女性室那覇女性史編集委員会:なは・女のあしあと.近代編(ドメス出版,1998)P.366-P.367
*2 徳田安周:おきなわ千一夜 物語沖縄風俗史(南報社,1964)P.140-P.142
*3 渡邊欣雄,岡野宣勝,佐藤壮広,塩月亮子,宮下克也:沖縄民俗辞典(吉川弘文館,2008)P.60,P.488,P.534-P.535
*4 来和雀,渡嘉敷錦水:歓楽郷辻情話史集(沖縄郷土文化研究会,1970)P.16
*5 上原栄子:辻の華. 戦後篇 上(時事通信社,1989)ⅲ,P.64,P.66
【参考URL】
*6 辻新思会の情報
那覇市楚辺(そべ)の城岳小学校の西側に、古風なパーマ屋さんがあります。
現在も営業中です。
すぐ近くに、もう1軒パーマ屋があります。赤瓦屋根が美しい建物です。
手作り感のあるベニヤ板の看板。
牧志三丁目のオリオン通りに、映画看板のある古い木造民家があります。
昭和初期の映画俳優が描かれた大看板です。
建物側面には、東映の「柳生武芸帳 片目の忍者」の看板。
片目の忍者は、「柳生武芸帳」シリーズ(1961年-1963年)の第8作で、主役の柳生十兵衛を演じている近衛十四郎さんは、チャンバラの第一人者で、松方弘樹さん(長男)、目黒祐樹さん(次男)と二人の息子はともに俳優です。
「片目の忍者」には、松方弘樹さんも出演しています。
「ヒーロー」という屋号のスナックだったようです。
農連市場の北東に位置する神里原通りは、戦後(昭和20年代~50年代)の商業の中心でした。*1
神里原通りから路地を一歩入るとスナックが建ち並ぶ一画(神里原社交街)があります。
神里原通りから入った路地は、開南本通りへぬけます。
昭和初期の神里原は、昼間は商いで活況を呈していましたが、夜は暗黒街でした。夜になると酒屋台が並び、飲み屋の閉店で流れてきた酔客同士のけんかが耐えない状況でした。*1
【参考文献】
*1 比嘉朝進:戦後の沖縄世相史 事と年表でつづる世相・生活誌(暁書房,2000年7月)P.47-P.48
那覇の国際通りから南側に延びる市場中央通りの終着点に、農連市場があります。ここは、全国でも珍しい相対売りの市場です。セリで落とすのではなく、直接農家のおばあと交渉して価格を決めるのが相対売りです。農連市場は、1958年に沖縄農業組合連合会によって、開設されました。*1
見た目は、まるで戦後食料難時代にタイムスリップしたかのようなバラック小屋です。かつては、県民の台所として沖縄全土の農家がこの聖地を目指して、毎朝、野菜を運んできました。*1
新鮮な野菜が並びます。
農連市場の裏側。カーブ川沿いにバラック風の建物が並んでいます。
【参考文献】
*1 松井優史:ハイサイおばあ!(竹書房,2007)P.8-P.14
国際通りと交差する桜坂中通りは、現在道幅が拡張され、この付近は再開発されているようです。
桜坂中通りを進むと、桜坂社交街があります。
桜坂社交街は、現在はさびれてしまったものの、かつては沖縄を代表する歓楽街でした。*1
桜坂が誕生したのは、昭和52年で、那覇保険所長の当山堅一らが、桜数十本を植え、桜の名所にしようと桜坂と名付けたことに由来します。その後、56年頃には、バー、キャバレー、料理屋など78軒、ホステス約500人の歓楽街に発展し、当時は街娼や米兵に女を世話して金をもらう児童などもいました。*1
昼間は閑散としていますが、夜になると年配の酔客たちとの酔狂が朝まで続きます。*1
【参考文献】
*1 下川裕治,ゼネラルプレス:好きになっちゃった沖縄(双葉社,1998)P.18-P.19
*2 比嘉朝進:戦後の沖縄世相史 事と年表でつづる世相・生活誌(暁書房,2000年7月)P.57-P.59
古都首里の大中町に、修理劇場があります。首里劇場は昭和26年創業。*1*2
現在は、ポルノ映画館として営業しています。
建物の前面はコンクリート造りですが、後ろへ回ってみると赤瓦が美しい木造建築であることがわかります。
内部は、昭和の映画館の雰囲気です。
【参考文献】
*1 高瀬進:ピンク映画館の灯(自由国民社,2001)P.6-P.9
*2 はぁぷぅ団:新!おきなわキーワード(ボーダーインク,2003)p,164-P.165
那覇バスターミナル。島内のバス路線の起点です。
バスターミナル内に、木が生い茂った大きな岩があります。
これは仲島の大石と呼ばれているものです。この付近は昔、仲島という地名で呼ばれていて、この岩の近くには仲島遊廓がありました。
那覇には、辻、仲島、渡地の3箇所に遊廓がありました。その歴史は古く、琉球王朝の尚貞王の時代の寛文12年(1672年)に、辻、仲島の遊廓が公認されました。(渡地の遊廓の創設の年代は明らかになっていません。) その後、明治42年に、仲島、渡地の2遊廓は、辻遊郭に移転統合されました。*1
仲島の大石は、風水にかかる縁起のよい石として珍重されてきました。岩の下部には、波で浸食されて窪んだ跡がのこされており、昔はこの付近が海岸線であったことを物語っています。
案内板には、歌人の吉屋チルー(仲島遊廓の遊女)についても言及されています。
【参考文献】
*1 来和雀,渡嘉敷錦水:歓楽郷辻情話史集(沖縄郷土文化研究会,1970)P.15-P.16
今回は、那覇(沖縄県那覇市)の町並みと風俗を散歩します。
那覇空港からモノレールの「ゆいレール」に乗って、4つ目の駅の壷川駅で下車。徒歩5分のところに漫湖公園があります。
那覇市街の南に位置する漫湖は、美しい自然が保たれた干潟で、貴重な生物が生息し、渡り鳥の中継地にもなっています。1999年には、ラムサール条約の登録湿地となりました。
2004年12月の地元新聞「沖縄タイムス」*1に、「『漫湖』の発音は、内地では女性の性的な身体の部分を指す言葉なので、名前を変えてもらえないかしら。」という投書が掲載されました。
また、これより2ヶ月前の2004年10月に刊行された「VOW王国ニッポンお笑い世界遺産」*2 の中の「ディスカバー珍名ジャパン」でも、「口に出して言えない日本語」として、漫湖公園が紹介されました。
漫湖遠望。
----2004年12月に「沖縄タイムス」に掲載された投書(抜粋)*1 ----
沖縄に来て丸15年、ずーっと気になって仕方ないことがあります。それは「漫湖」「漫湖公園」の読み方です。実はこの発音は、内地では女性の性的な身体の部分を指す言葉なのです。沖縄に来て、初めて看板でこの名を見たと時、ギョッとしました。
由来のある名前なのでしょうが、名前を変えてもらえないかしら、とすら思ってしまいます。観光客もたぶんびっくりしていると思うのですが…皆さん(特に内地から来た方)どう思われますか?こんなこと気にしてるの、私だけでしょうか?
=那覇市・なっちゃん(38)主婦
【参考文献】
*1 沖縄タイムス(2004.12.15 夕刊)p.3 タ~ヴァ・メール「気になる漫湖の読み方」
*2 宝島社:VOW王国ニッポンお笑い世界遺産(宝島社,2004)P.168
西城川に沿った旭町通りは、川の側に堤防である石垣の土手があり、かつて土手の上には普通車がやっと通れるほどの道がありました。町側は桜並木で、土手の石垣の下にも道があり、上下の通りをつなく石段がところどころにあるという独特の趣をもった町並みでした。*1
大きな料亭が集中し、検番もこのあたりにありました。*1
旭町通りの川側の歩道に、地下に埋もれている古い土手の石垣を見せるようにした施設があります。この施設の傍らに昔の写真が何枚か壁にはめ込まれています。
そのうちの1枚、西城川から見た昔の町並みの写真です。
【参考文献】
*1 菁文社:みよし街並み歴史散歩 三次・十日市・八次・酒屋編(菁文社,2007)P.35-P.37
松原稲荷通り(大正町)の入口の坂道の途中から石段を降りていく昔の道があります。この道の右手の町並みは土手の斜面に建てられているので、こちらからは家の裏側を見せています。左手の家並みは、6、7軒で途切れて墓地となります。*1
その墓地に、御籠屋清三郎(おかごやせいざぶろう)の墓があります。
古い自然石の台石の正面に「げいこや中」と彫りこまれ、さらに、世話人として芸者さんの源氏名と思われる名前が13人分書かれています。「げいこや」は、「芸子屋」で、団体などを示す「社中」や「連中」の「中」です。墓の傍の由来のを書いた石碑によると、この墓は、剣術師範の御籠屋清三郎が、試合上の逆恨みから、闇討ちに遭い憤死したことに対し、芸者衆が哀悼の志により建てられたものということです。*1
御籠屋清三郎は、相当女性にもてたようです。
少し行くと、右手に狭い石段があり、松原通りに通じています。三次の町が出来て以来、何百年もの間、悲喜こもごもの思いを抱いた人たちが上り下りして磨り減った石です。とりわけ花街になってからは、不遇な女性たちの涙が沁みた石段でもあります。*1
【参考文献】
*1 菁文社:みよし街並み歴史散歩 三次・十日市・八次・酒屋編(菁文社,2007)P.30-P.31
今回は、三次(広島県三次市)の町並みと風俗を散歩します。 三次は、広島県北部、すなわち中国地方のほぼ真ん中に位置します。
巴橋西詰のバス停近くに、「松原稲荷通り」と書かれた路地の入口があります。
ここは、かつては「大正町」と呼ばれ、県北唯一最大の公認の遊興歓楽街でした。現在は、スナックが並ぶ町並みになっています。
三次の娼婦は、「三次だんご」と呼ばれていました。辞書によると「ころぶ」の意味の一つに「芸者・酌婦などが隠れて売春すること」とありますが、だんごは丸くて転がりやすい。つまりころぶので「団子」と洒落たようです。昭和33年の売春防止法施行以降は、居酒屋、バー、小料理屋などが軒を連ね、夜になると社用族などでごったがえし、ホステス嬢の嬌声飛び交い、狭い通りはまっすぐに歩けないほどでした。*1
通りの中ほどに、お稲荷さん特有の赤い鳥居の列が見え、その奥に松原稲荷神社があります。現在は周囲が空き地や駐車場となっていて、ちょっと寂しい感じです。
このお稲荷さんは、売られてきた女性たちが対岸の厳島神社参りを口実に脱走を企てることがしばしばあったため、これを防ぐために勧請されたと言い伝えられています。数年前までには、家と家との間の路地に鳥居が並んでいて、花街時代の情緒をよく残していたそうです。世界的に有名な人形作家の辻村寿三郎さんは、この一画がとても気に入っていたそうです。*1
辻村寿三郎さんは、旧満州生まれ。少年時代を大陸で過ごし、終戦の1年前の昭和19年に広島に引き揚げ、広島県三次市で終戦を迎えました。*2
辻村寿三郎さんは、育った料亭で芸者の着物や端切れに親しみ、物心ついたときには割り箸で人形を作っていたそうです。*3
【参考文献】
*1 菁文社:みよし街並み歴史散歩 三次・十日市・八次・酒屋編(菁文社,2007)P.28-P.29
*2 辻村寿三郎公式ホームページ
*3 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)「辻村寿三郎」
老松町の遊廓跡地の近くに、銭湯の稲荷湯があります。
入口は、シンプル。暖簾などは出ていません。
後ろ側に回ってみました。
内部は、余分な物はいっさい置いていなく、シンプルです。
「恋しき」は、明治5年創業の備後地方随一と言われた料亭旅館で、平成2年までは旅館として営業していました。その後、取り壊しの話も出ていましたが、経済界が保存に乗り出し、平成19年に「こころのふる里 恋しき」として再オープンしました。
明治から昭和にかけては、政治家や文化人など著名な方々が宿泊されました。
奥には日本式庭園が配置され、すばらしい枝ぶりの松や泉が配置されています。
「恋しき」で宴会を行った後、老松町の遊廓に繰り出すということもあったのかもしれません。
府中駅の北側にある旧老松町に、遊廓があり、約100mほどの道の左右に貸座敷が並んでいました。府中は、備後国の国府があった場所なので、政治上重要な土地でした。それゆえ、遊廓も古くから発展していました。*1
当時の面影を残す建物が道の両側に残っています。
逆方向から見たところ。
この場所にも面影を残す建物がありましたが、現在は更地になっています。
【参考文献】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.328
今回は、備後府中(広島県府中市)の町並みと風俗を散歩します。
東京都や京都府にも府中という地名がありますが、今回は広島県の府中です。府中へは、福山駅からJR福塩線に乗り約45分です。
駅前に白ポストが設置してあります。
比較的シンプルなデザインです。
読まない・見せない・売らない。偶然だと思いますが、郡山で見かけた白ポストの標語(三ない運動)と同じです。*1
【参考記事】
*1 風俗散歩(郡山):駅の地下道の白ポスト(2008.7)
スナックやパブが並ぶプレージャータウン。路地の角にニューハーフパブがあります。
ニューハーフパブ店の入口にたまごの自動販売機があります。(手前には風俗雑誌も)
生みたて!!新鮮たまご。自動販売機には、生産者の農家の名前も記されていて、新鮮なたまごであることがわかります。
近くの別のパブの看板。「食べてGo卵」。美味しい卵料理の店です。
風俗店が乱立する国道2号線沿いに託児所(夜間保育)があります。
「夜の保育」の看板。
入船町2丁目の飲み屋街「プレージャータウン」。ここにも託児所があります。
乳児(ニュージー)ランド。福山の飲み屋街が南半球の美しい島を思い起こさせてくれました。*1
【参考文献】
*1 勝谷誠彦:色街を呑む! 日本列島やりつくし紀行(祥伝社,2003)P.139
福山市内を横断する現在の国道2号線をはさんだ住吉町と御船町に、福山新町遊廓がありました。遊廓があった当時、国道2号線は河川運河でした。*1
住吉町の遊廓跡地。*1
国道沿いに飲食店や風俗店が並んでいます。
この写真の左側に見える有料駐車場が、遊廓の南限でした。旧日本軍の福山第41連隊は、遊廓の南側、現在のバラ公園のあたりにあったので、福山新町遊廓は軍人用の遊廓でもありました。*1
遊廓の北側は、国道2号線沿いにある御船町交番の脇の祠の奥に見える建物のあたりでした。*1
【参考文献】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.299
今回は、福山(広島県福山市)の町並みと風俗を散歩します。
福山駅の北側の東町2丁目、東ガード6番(北)の通りを歩いていると、「ヌードの第一劇場」の大看板が目に飛び込んできます。
ヌード専門の劇場です。
入口付近の「いらっしゃいませ」の看板。
近日大公貝。
笠岡の古城山の山麓。
工場の敷地の隣にホテルが建っています。
屋上には大きな広告看板。
モーテル形式の入口。
旧病院の建物の脇の路地。
窓枠にタイルの装飾のある洋風の建物があります。
2階部分。
何かのマークでしょうか。
遊廓の中心部であったと思われる場所に病院跡の建物があります。*1
1階の入口に円柱の装飾があります。まるで赤線の建物のようです。
「消えた赤線放浪記」*1 の表紙に掲載されている丸い窓。
内部の様子は、病院そのものです。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)表紙
笠岡には、かつて遊廓がありました。*1
山陽本線の線路沿いの道から踏切を渡ったところに、現在もその名残と思われる建物が残っています。
逆方向から踏切のある方向(北側)を見たところ。
別の路地にも、古い建物が続いています。
鮮やかな装飾。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)
今回は、笠岡(岡山県笠岡市)の町並みと風俗を散歩します。山陽本線の笠岡駅の南東方向にある伏越地区を目指します。
国道2号線沿いに「伏越地区」と書かれた看板があります。
伏越地区の北側を山陽本線の電車が走ります。
古城山公園へ登る道路の途中から見た伏越地区の全景。
函館山の山麓。姿見坂に銭湯の大黒湯があります。
函館市内で一番古い銭湯です。*1
入口付近。
脱衣場の床一面に畳が敷かれています。
*1 全国浴場新聞(2007.2.26)
函館と言えば函館山です。麓にあたる高田屋通りの坂道の向こう側に函館山を望むことができます。
函館山へ登る方法は、①ロープウェイ、②自動車(冬季は道路が通行止め)、③徒歩の3つの方法があります。今回は、徒歩(登山道があります。)で山頂を目指します。
7合目付近。
函館山からの夜景は世界一とも言われているそうですが、昼間の景色もすばらしいです。
宝来町のあさり坂に「あさり」という屋号の料理屋があります。
お店の人の話によると100年以上続く店だそうです。現在は、1階が肉屋2階がすきやき屋になっています。
玄関をくぐると目の前に階段が見えます。この階段は、最初の4段までが丸みをおびた形になっています。
都市研究者の岡本哲志さんは、「この階段は、通常の世界のものと違い、京都伏見の遊廓建築の階段に酷似している。」としています。*1
2階には、大部屋、中部屋が配置され、そのさらに奥に行くと小部屋となります。窓の造りも小さくなって急に暗くなります。複雑な廊下の先には2人用の小部屋が5つもあります。
岡本哲志さんは、「この2人部屋は料亭によくある形式で、男女が来店した際に通されるもので、遊廓建築の奥に行くほどプライベート性を高くする空間の仕組みが読み取れる。」*1 と興味深い分析をしています。
1人で来店した私は、この2人部屋に通され、プライベートな空間を満喫することができましが、寂しくもありました。
一番安い「梅◆和牛ロース(1人前¥2,310.-)」を注文。ご飯はお代わり無料ですので、3杯も頂いてしまいました。多額の出費でしたが、十分満足(満腹)でした。
【参考文献】
*1 岡本哲志,日本の港町研究会:港町の近代(学芸出版社,2008)p.193
函館市電に乗って、宝来町駅で下車します。明治6年、蓬莱町、豊川町、台町に貸座敷の営業許可がおりました。3つの中で、蓬莱遊廓は圧倒的に規模が大きい遊廓でした。
現在も、近くには営業中の料亭があり、花街らしい風情が残されています。
高田屋通り近くに古い建物が残されています。
手のこんだ造りです。
「菊水」と書かれた屋号が確認できます。
【参考文献】
*1 小寺平吉:北海道遊里史考(北書房,1974)P.95
*2 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)p.28
大門通りを横切る「さかえ通り」の中央分離帯。
ここに「月光仮面像」があります。「月光仮面」は、1958年(白黒テレビの時代)、テレビドラマとして放映されました。白頭巾とサングラス、風になびくマント、原付?バイクに乗った正義の味方は、一大ブームを巻き起こした国民的ヒーローでした。
「月光仮面」の作者であり、主題歌を作詞した川内康範さんは函館の出身です。
この月光仮面像は昭和49年に函館市に寄贈されたもので、カラーアニメ版として制作されたものを基に作られています。(案内板より)
台座に、理念である「憎むな、殺すな、赦しましょう」という名台詞が刻まれています。
(月光仮面の主題歌)
どこの誰だか知らないけれど
誰もがみんな知っている
月光仮面のおじさんは~
(後略)
個人的には、永井豪のアニメ「けっこう仮面」*1 の方が印象に残っているのですが...。
(けっこう仮面の主題歌)
顔は誰かは知らないけれど
肉体(からだ)はみんな知っている
けっこう仮面の姉さんは~
(後略)
【参考URL】
*1 けっこう仮面ファンサイト”Mask the Kekkou”
函館駅の東側。若松町の質屋のある通りが、「セキセン」と呼ばれるスナック街です。*1
セキセンの目抜き通り。「小料理」と書かれた看板もあります。左側は、広い空き地になっています。
細い路地に入ったところにあるスナック。
スナック街の旅館。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)p.68-P.74
函館駅近くの大門仲通り。スナックが密集するエリアです。
再開発が計画されているエリアなのでしょうか。建物はまばらです。
古びたシャッター。
交差点の角にあるスナックとパーマ屋さん。
今回は、函館(北海道函館市)の町並みと風俗を散歩します。
JR函館駅前の大門松風町は、函館の顔とも言える通りです。
松風町四つ角付近。現在、CDショップの玉光堂のある場所には、拓銀がありました。手前にある書店森文化堂は、古くからある商店です。*1
この道路をまっすぐ行くと、かつて遊廓があって栄えた大森町です。
逆方向から見たところ。
昔の商店街の雰囲気を伝える写真が商店の建物の壁に貼られています。
【参考文献】
*1 木下順一他:函館街並み今・昔(北海道新聞社,2001)P.112-P.113
青森市街南部の旭町通り。
「マニア向けビデオ、本、おもちゃ」の貼紙があります。
その上には、バイアグラの貼紙。
貼紙に書かれている浪館通りのモスバーガー附近に行ってみましたが、おもちゃやさんは見つかりませんでした。残念。
青森市内の現在の青柳2丁目あたりは、旧町名で塩町と呼ばれていましたが、明治22年に柳原遊廓ができるまでの間、東北でも一、二ともいわれる遊廓がありました。
塩町に遊廓ができたのは、元禄8年。町の発展策に旅籠町に洗濯女を置くことが許可されたのがはじまりで、寛政11年の調査によると、楼主は10人、娼妓は52人でした。*1
青柳2丁目(旧塩町)に、結婚式場のモルトン迎賓館(写真中央の三角屋根の建物のあたり)がありますが、ここには、寺山修二が中学2年から高校卒業までの5年間を過ごした映画館の歌舞伎座がありました。*2
モルトン迎賓館の前に寺山修司の案内板があります。案内板に書かれている「はくちょう会館」は、モルトン迎賓館が出来る前にあった市立の会館の名前です。
塩町のすぐ北側にある蜆貝町。明治43年の火災後、柳原遊廓は、旭町に移転しましたが、旭町は市の中心部から遠かったため、手近に遊ぶ場所として蜆貝町に三等貸座敷が繫昌しました。*1
【参考文献】
*1 肴倉彌八:青森市町内盛衰記(歴史図書社,1976)P.57-P.65,P.95-P.101
*2 阿部誠也:青森の文学その舞台を歩く 上(北の街社,2007)P.36
第三振興街裏には、スナックや風俗店が軒を連ねています。
レトロな感じの店構え。
入口は、大きな電球?で装飾されています。
電球に見えたのは、実はビール瓶でした。
青森駅前にある飲み屋街の「第三振興街」。スタンドバーが軒を連ねています。
食堂もあります。
赤線跡を歩く【完結編】*1 に写真が掲載されているスタンドバー。
東側の入口。こちらにも「第三振興街」があります。看板左側の白い建物は、公衆トイレです。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)p.56