西早稲田2丁目。早稲田通りを南側に入った路地。
木々に囲まれたこの一画は、閑静な住宅になっています。
下宿屋の「渡辺館」。
今では少なくなった賄い付きの下宿です。
西早稲田2丁目。早稲田通りを南側に入った路地。
木々に囲まれたこの一画は、閑静な住宅になっています。
下宿屋の「渡辺館」。
今では少なくなった賄い付きの下宿です。
都内で、名画座と呼ばれる映画館で残っているのは15軒ほどです。高田馬場の「早稲田松竹」は、毎回2本立て旧作名画を流し、朝から晩までのんびりと楽しめる空間です。*1
「早稲田松竹」は、昭和26年に、松竹の封切館としてスタートし、昭和50年に2本立て名画座に路線変更しました。平成14年にいったんは休館しましたが、その後、早稲田大学の学生が中心となって、復活させました。*1
穴八幡宮の近くに、映画館の「早稲田全線座」が昭和30年代までありました。「早稲田全線座」は、映画館でしたが、実は映画館とストリップの2本立てで、上映されていました。*1*2
「早稲田全線座」で上映されたストリップは、「全スト」(一糸まとわぬストリップ)でした。劇場の前には、「憎いほど見せます!悶えます!」とお色気たっぷりの看板が立掛けられました。*2
閉館後は、自動車販売会社のショールームになりましたが、現在は空きビルとなっています。
【参考文献】
*1 散歩の達人(2006.7)P.33「復活の名画座ものがたり」,P.49「昭和33年地図で歩く」
*2 実話と秘録(広晴社,1963)P.22-P.23
早稲田大学演劇博物館は、英文学者の坪内逍遥の業績を記念して建てられた日本で唯一の演劇博物館です。*1
民俗芸能展示室(2階)。
近代展示室(3階)には、ストリップの展示もあります。(下の写真は、館内で発売(¥500.-)されている「演劇博物館」の冊子*1 のP.15)
ストリップをも芸能の一分野と認定し、歴史的資料を展示しているのは、さすが演劇博物館です。案内板のストリップという片仮名の下には、Burlesque(バーレスク)と英語が記されていて、学術研究としての対面を保っています。日本初のストリップは、1947年に帝都座五階劇場で上演されました。*2
同年に上演された「女の学校」というタイトルのストリップのポスターが常設展示されています。
森繁久彌さんの企画展示が行われていて、コミックオペラ「モルガンお雪」のポスターなどが展示されています。
【参考文献】
*1 早稲田大学演劇博物館:早稲田大学坪内博士記念演劇博物館(早稲田大学演劇博物館,2001)P.4,P.14-P.15,P.20-P.21
*2 荒俣宏:万博とストリップ(集英社,2000)P.14-P.17
昭和48年(1973年)に大ヒットした南こうせつとかぐや姫の名曲「神田川」は、”四畳半フォーク”の代表曲で、これまでのメッセージ・フォークにはっきり別れを告げた曲でした。哀愁をおびたバイオリンの音をともないながらの「ただあなたの優しさが怖かった...」というくだりが、同棲生活のあやうさをよくあらわしていました。*1
「神田川」の歌詞は、作詞をした喜多条忠さんの自らの学生時代の体験に基づくものです。喜多条忠さんは、2年生になると新入生のみち子さんと知り合い、神田川沿いの3畳一間のアパートで同棲するようになりました。写真の左側の5階建ての建物のあたりが同棲していた「神田川」のアパート跡です。*2
「神田川」の歌詞の最後「若かったあの頃、何もこわくなかった」と書き上げるまでわずか15分しかかからなかったといいます。当時、大学は、ベトナム反戦運動と授業料値上げ・管理反対闘争で揺れていて、喜多条忠さんもヘルメットをかぶり学生運動に加わり、機動隊とぶつかり、殴られたり催涙弾を浴びました。しかし、若い喜多条さんに失うものはなく、何も恐くありませんでした。「逆に恐いのは何か」と考えました。泥だらけになって、みち子さんが待つ部屋に帰ると、いつもと変わらず台所でカレーを作っている彼女の背中が見え、「俺はこういう日常にいつか埋没するのだろうか。俺にとって恐いのは、彼女の変わらぬ優しさかもしれない。」と考えました。そして、日本の自由詩の歴史上もっとも有名で、悲しく、せつない詩句が、このとき誕生しました。--ただあなたのやさしさがこわかった。*2*3
昭和49年(1974年)に公開された映画「神田川」は、この名曲「神田川」が原案となっています。大学生の誠のアパートがあったロケ地跡の石段は当時とほとんど変わっていません。*2
「神田川」の歌詞に登場する横丁の風呂屋のモデルは、西早稲田にあった「安兵衛湯」と言われています。*3
現在はマンションになっています。*4
【参考文献】
*1 世相風俗観察会:代世相風俗史年表1945→2008(河出書房新社,2009)P.195
*2 本橋信宏:60年代郷愁の東京(主婦の友社,2010)P.53-P.72
*3 テリー伊藤:歌謡Gメンあのヒット曲の舞台はここだ!(宝島社,2005)P.19
*4 新宿区住宅地図(1990)P.17
高田馬場と言えば、神田川です。高田馬場の町を東西に流れ、早稲田方面へ続いています。
高田馬場駅近くの神田川は、繁華街が隣接しているので、このような「小便・嘔吐等厳禁」の看板があります。
神田川沿いに歩いていくと、木々が生い茂る場所があります。
大便等禁止の貼紙。消えかかっていますが、「軽犯罪法違反」と書かれています。
さかえ通りに、昭和を感じさせる美容室の建物があります。
古い看板が連なっています。
2階はアパートになっていて、1階の美容室の隣がアパートの入口です。
1階の右側半分は、タイ料理の店になっています。
今回は、高田馬場(東京都新宿区)の町並みを散歩します。
高田馬場駅前の繁華街の「さかえ通り」。通りの奥まったあたりに、元ビデオ店だったと思われる建物があります。
「ビデオ」の看板だけが残されています。
個室鑑賞の店も数軒あります。
個室ビデオ店の貼紙。
JR代々木駅前に国旗掲揚塔があります。
昭和39年10月吉日と書かれています。東京オリンピックの開催は、昭和39年(1964年)10月にですので、この国旗掲揚塔はこれにあわせて作られたものと思われます。
代々木駅近くの交差点にも同様の国旗掲揚塔があります。
「昭和39年8月20日 通り町会国旗掲揚塔」と書かれています。
千駄ヶ谷の鳩の森神社近くに、千駄ヶ谷が旅館街だった頃に営業していたと思われる旅館の看板があります。
1959年の住宅地図*1 を見ると、旅館「喜鶴(きかく)」と記されています。
現在は、営業していません。
看板は、「旅館」でしたが、その後「ホテル」として営業していたようです。
現在は、周囲に旅館街の面影はありません。
【参考文献】
*1 住宅協会:渋谷区東部(住宅協会,1959)P.4
昭和25年(1950年)に勃発した朝鮮戦争によって、米兵の往来は激しくなり、売春業も繁盛しました。しかし、昭和20年代後半には、まだ新宿歌舞伎町界隈に連れ込み旅館が密集するという状態ではありませんでした。当時、連れ込み旅館の代名詞ともなった地名は、千駄ヶ谷でした。*1
旅館「白樺荘」*2 があったあたり。現在は、マンションが建っています。
千駄ヶ谷の「温泉マーク」を舞台にした梶山季之の小説「朝は死んでいた」によると、昭和30年代前半の千駄ヶ谷の旅館は、一夜の泊まり料金が高いせいもあって、夜の客は、銀座、新宿、渋谷といった一流の店に勤めている女性たちがほんどでした。一方、昼間の客は、人妻と大学生、重役と女秘書、商店主と女事務員など、時間決めの客がほとんどでした。*1
旅館「もみじ」があった場所。現在は駐車場になっています。
隆盛を誇った千駄ヶ谷ですが、昭和33年(1958年)の第三回アジア大会の開催を契機に、凋落(ちょうらく)の運命をたどることになります。アジア大会の開催は、1964年の東京オリンピック開催を射程に入れていたので、場所は千駄ヶ谷周辺。日本にとっては、戦後から脱却するワンステップという大きな意味を持っていたため、渋谷区は、「風紀がみだれていてはまずい」という理由で、千駄ヶ谷の温泉マークに自粛をうながしました。*1
これかがきっかけとなって、鳩森小学校のPTAの活動が起こりました。「鳩の森騒動」とも呼ばれるこの運動の結果、昭和32年(1957年)に代々木千駄ヶ谷地区が文教地区に指定され、連れ込み旅館の自壊は時間の問題となりました。*1*3
【参考文献】
*1 保田一章:ラブホテル学入門(晩聲社,1983)P.63-P.66
*2 住宅協会:渋谷区東部(住宅協会,1959)P.4,P.6
【参考URL】
*3 代々木商店街ホームページ:代々木まち語り
千駄ヶ谷の東京能楽堂の南側に銭湯の鶴の湯があります。
玄関付近。黄緑色のタイルがアクセントになっています。
美しい黒板塀が銭湯の東側を囲っています。
おなじみの温泉マーク。国土地理院の地形図の温泉記号で使用されているマークですが、銭湯でも定番です。
温泉マークは本来、地図のうえで、ここに温泉がありますよと示すためのマークですが、戦後、温泉マークが温泉以外の風俗営業施設に利用された時代がありました。温泉マークがくらげを逆さまにしたような形をしていることから「さかさくらげ」という隠語が発生し、「温泉マーク」「さかさくらげ」というと、当時の連れ込み旅館だと認識されていました。*1
【参考文献】
*1 金益見:ラブホテル進化論(文藝春秋,2008)P.10
原宿から明治通りを北へ行った神宮前一丁目交差点付近。
ここに、トルコ共和国大使館があります。
1984年、元トルコ人留学生が厚生大臣に直訴状を手渡しました。その内容は、「日本にあるトルコ風呂(現在のソープランド)とわが国のトルコ風呂とは全然違うのだから、トルコという名称を使うのは、やめて欲しい。」というものでした。「トルコ風呂」は、あくまで俗称であるので、厚生省としては、何もできませんでしたが、国際問題に発展しかねないこの問題に対して、トルコ風呂の業界団体である東京都特殊浴場協会がトルコ風呂に代わる新名称を公募しました。公募によって集まった2400以上の名称の中から、当時24歳の会社員の男性の「ソープランド」が採用されました。*1
一方、トルコ風呂改名には、別の都市伝説も存在します。かつて「大使館」というトルコ風呂があったという話です。電話帳に、「トルコ(風呂)・大使館」と「トルコ大使館」が併記されていたたため、本物の大使館に、トルコ風呂「大使館」あての電話がしばしばかかってきました。また、新任のトルコ大使館員が、(タクシーで)空港から大使館へ向かおうとしたところ、トルコ風呂「大使館」へ連れて行かれました。こうしたことが重なって、激怒したトルコ大使館は日本の外務省へ講義し、名称を変更することになりました。*1
【参考文献】
*1 井上章一,斎藤光,澁谷知美,三橋順子:性的なことば(講談社,2010)P.234-236
原宿駅の西側に広大な敷地を持つ代々木公園があります。代々木公園は、敗戦後の1945年にアメリカ軍に接収されたワシントンハイツが、1964年に東京オリンピックの選手村となった後、1967年に都市公園として開園したものです。
広大な敷地の中には、サイクリングコースがあります。
公園の北部にあるサイクリングセンター(通称自転車小屋)で自転車を借りてサイクリングを楽しむことができます。
この自転車小屋の裏手は、都内では有名な野外ハッテンバでした。ネットの掲示板には、「筋肉系」とジャンルを絞って、毎夜書き込みがされていました。*1
幼児車向け自転車乗り場の奥の広場もハッテンバでした。*1
【参考文献】
*1 Badi(2002.8)P.36-P.37「野外ハッテンスポット厳選紹介」
代々木公園に、東京オリンピック開催を記念した掲示があります。
アーチの奥に東京オリンピック記念宿舎があります。
この建物は、東京オリンピックのときにオランダの選手団宿舎として使用された建物です。木立にたたずむ姿は軽井沢を思わせます。*1
1964年、第18回オリンピック大会が東京で開催されましたが、そのときの選手村の跡が代々木公園になりました。
【参考文献】
*1 本橋信宏:60年代郷愁の東京(主婦の友社,2010)P.5-P.8
1964年の東京オリンピック開催後、日本の未来をいちばん鮮明に見ることができたのが原宿でした。戦後、次々に現れた「族」のうち、最新の種族として「原宿族」という言葉が聞かれ始めたのもこの頃でした。彼らは、スポーツカーや改造車、あるいはオートバイを連ねて表参道をわが物顔に走り回りました。*1
この原宿族は1967年頃に去り、原宿は、新宿の影に隠れて足踏み状態が続きました。ヒッピーファッションやミニスカートの流行の後、次に原宿に現れた「族」は暴走族でしたが、この頃既に銀座や新宿で始まっていた歩行者天国を導入により、暴走族は締め出されました。その歩行者天国に、今度は目立ちたがり屋のロックンローラー(ローラー)が1977年にフィフティーズファッション(男はリーゼントにTシャツ、女はポニーテールにサーキュラー風のスカート)で登場し、ツイストやジルバを踊りはじめました。*2
現在も、日曜日になると、ロックンローラーが代々木公園入口付近で踊っています。
踊るとスカートが大きく広がります。
ローラーの次には、「竹の子族」が登場(1979年)しました。竹の子族の特色は、「ブティック竹の子」の派手な衣装を着て、ラジカセの曲に合わせて独特の竹の子踊りを踊ったことでした。*2
【参考文献】
*1 エドワード・サイデンステッカー,他:立ちあがる東京(早川書房,1992)P.202-P.204
*2 馬淵公介:「族」たちの戦後史(三省堂,1989)P.243-P.246
ブティックが密集する竹下通りは、若者で賑わっています。
真っ赤な店構えがよく目立つ「ブテッィク竹の子」。
この店の衣装(ハーレムスーツ)をユニホームのように着ていた「竹の子族」は、一世を風靡しました。ブームが終わった後も、日本をモチーフにしたオリジナルファッションを提案。いまも根強いファンを持っています。*1*2
現在の竹下通りは、下着ショップの多さが際立っています。
路上に立つ派手なマネキン。
【参考文献】
*1 加藤明,他:原宿物語(草思社,1986)P.224
*2 馬淵公介:「族」たちの戦後史(三省堂,1989)P.249
今回は、原宿(東京都渋谷区)の町並みと風俗を散歩します。
原宿の繁華街の歴史は、進駐軍時代にさかのぼります。終戦になると、代々木の練兵場に進駐軍将校の宿舎「ワシントンハイツ」(現在の代々木公園)ができ、この進駐軍将校とその家族が買い物をする店が、原宿の表参道に発生しました。中でも人気を集めたのが、昭和25年に原宿の渋谷川(穏田川)のほとりに出てスーペニアショップ(進駐軍相手のみやげ店)の看板をあげた「キディランド」でした。兵士たちは、朝鮮戦争が始まってからは、日本を休息地としていたので、パーティが多く催され、そのときの仮装用品をまかなうキディランドは人気のある店で、帰国するときのみやげものもこの店で調達していました。このように、原宿に英字看板の店ができると、娘たちの人気を集め、たちまちのうちに原宿は新しい街となっていきました。*1
表参道の歩道に、「さんどうばし」と書かれた石柱があります。これは、穏田川が流れていた頃の橋の名残です。
穏田川は、現在は暗渠になって上はコンクリートで固められて、「キャットストリート」と呼ばれています。
部分的に石垣が残っていて、かつては川が流れていたことを伝えています。
【参考文献】
*1 松沢光雄:繁華街を歩く東京編(綜合ユニコム,1986)P.121-P.147
旧花街の東側に理髪店だった古い建物があります。
当時のままの状態で残されています。
入口には、斜め取っ手のドアがあって、美容室らしいモダンなデザインです。
サインポール。
白山花街の南側には、現在も当時の料亭の建物がわずかに残っています。
旧花街の南端に、元料亭の濱乃家の建物があります。
美しい木造建築です。
玄関付近。
2階部分に、「濱乃家」と彫り抜かれています。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.139
白山に商家が建ち始めたのは日清戦争の頃で、現在の柳町仲通りに「新開地」と呼ばれる歓楽郷ができ、陸軍砲兵工廠(現在は東京ドーム)に通う職工さんなどの往来で賑わいました。日露戦争の頃になると、樋口一葉の「にごりえ」の舞台にもなった銘酒屋ができて、はじめて酌婦がホステスとして現れるようになったのが、白山花街ができるまでの濫觴(らんしょう)でした。*1
「大正時代における白山花街分布図」*1 を見ると、現在の白山仲通りにある商店街付近は、花街の北側に位置します。
現在、その面影はありません。
花街の北東側。住宅街になっています。
付近の電柱には、「三業」と書かれたプレートがあり、当時この一帯が花街だったことが解ります。
【参考文献】
*1 浪江洋二:白山三業沿革史(雄山閣出版,1961)P.9,P.159
樋口一葉の住まいがあった白山通りを横切ると、柳町仲通り商店街に入ります。
一葉の住まいからこのあたりまでの一帯は、銘酒屋と称する私娼宿が並ぶ色町でした。一葉の「にごりえ」は、この銘酒屋を舞台とした小説で、「空壜(あきびん)か何か知らず、銘酒あまた棚の上にならべて・・・」と銘酒屋のことが描写されています。1
銘酒屋とは、酒を並べてはいるものの店の奥や2階で娼婦たちが客を遊ばせ、春をひさぐ場所。そんな女たちが一葉に手紙の代筆を頼みにくるようになりました。2
一葉日記「しのぶぐさに、次のような一節があります。*1
「となりに酒うる家あり 女子あまた居て客のとぎ(伽)をする事うたひめのごとく遊びめに似たり つねに文かきて給われとて わがもとに来る」
昔、デパートの屋上遊園地などにあった乗り物が何台も並んでいて、楽しそうな商店街です。
商店街の周囲は開発が進んで、高層マンションが間近にせまっています。
【参考文献】
*1 槐一男:一葉の面影を歩く(大月書店,1995)P.84-P.89
*2 野口碩:樋口一葉と歩く明治・東京(小学館,2004)P.55
今回は、白山(東京都文京区)の町並みと風俗を散歩します。
都営三田線春日駅の小石川方面口からでると白山通りがほぼ南北に走っています。しばらく北上すると右側に興陽社ビル(1階は紳士服コナカが出店)があります。
ビル前の右手に「一葉 樋口夏子碑」がたっています。
一葉の終いの住まいは、この碑の後方で、文京区円山福山町四番地にありました。*1
この文学碑は、樋口一葉の明治27年4月28日、5月1日の日記より筆跡を写して記念としたもので、昭和27年9月7日に建てられました(案内板より)。
碑の下には、「一葉のパンフレット、ご希望の方ご自由にお取りください。」と書かれた立て札があります。箱の中をあけてみると、興陽社が作成したパンフレット*1 があります。
JR南仙台駅から東へ2.5Kmhほど行った袋原に、スナック街があります。
長屋風の建物の1階にスナックが並んでいます。
周囲は閑静な住宅街ですが、この一画だけがスナック街になっています。
スナック、居酒屋、カラオケの店舗が営業中です。
複合文化施設「たいはっくる」の北側から西の方向を見ると、道路がゆるやかなカーブを描いて続いています。
現在、キャバレーとなっているこの建物は、かつてはミリオン劇場という名の映画館でした。
周囲には高層マンションが建ち、開発が進んでいますが、この建物だけは当時のままです。
事務所入口。
2番街の隣に、長町マーケットのアーチがあります。
戦後から昭和30年代まで、現在の2番街を含めた範囲が長町マーケットでした。近くには、青果市場があって、町の人と農家の人で賑わいました。
アーチをくぐると、古いアーケードが続いています。
「商」の1文字だけが残っています。
アーケード内部。ハートのマークの看板
2番街は、居酒屋やスナック、焼肉屋、ホルモン屋などが軒を連ねます。
もともとは、魚屋、茶屋、お菓子屋、洋装店、時計屋などの店が軒を連ねる商店街で、昭和40年頃は、現在のような飲み屋は数えるほどでした。*1
もともとは、長町マーケットと呼ばれていたようです。*1
「PUB豚」。めずらしい屋号の店です。
【参考文献】
*1 別冊東北学編集:仙台学v. 1 (別冊東北学編集室,2005)P.78-P.79
今回は長町~南仙台(仙台市太白区)の町並みと風俗を散歩します。
地下鉄長町駅から歩いてすぐ。路地入口にかかるアーチ状の看板に「2番街」の3文字が目に飛び込んできます。中には小さな飲み屋街が並んでいるようです。
上に王冠のようなデザインがあって、レトロな雰囲気です。
裏側には、「有難うございます」の文字。
飲み屋街は、L字状になっていて、逆側の出口にも同じようなアーチがあります。
【参考文献】
*1 別冊東北学編集:仙台学v. 1 (別冊東北学編集室,2005)P.78-P.79
苦竹のかつての歓楽街は、現在区画整理が行われていますが、西側の一画には、飲食店街が残っています。
石畳の小路。
隣には、もう一本の小路。
エーワン。
現在は更地となっているかつてのキヤンプシモフネの歓楽街の名残と思われる建物が残されています。
左側のスナック「デコプチ」。
右側は居酒屋「ぴーちゃん」。
建物の背面は蔦に覆われています。
今回は、苦竹(宮城県仙台市宮城野区)の町並みを散歩します。
R仙石線で仙台駅から4つ目の苦竹(にがたけ)駅で下車します。
「苦竹」の地名は、この地に「真竹」がたくさん生えていて、えぐ味があって湯替えをして炊かないと食べられないほどだったことかが由来だそうです。
すると、国道45号線沿いに近くに、突如、ゴーストタウンのような飲み屋街が現れます。
ここはには、かつて苦竹小路の呼ばれた2本の路地がありました。苦竹は、敗戦後、進駐軍の苦竹キャンプ(キャンプシモフネ)があった場所で、苦竹小路は、米兵たちのために基地の目の前の田んぼを埋めて建設した歓楽街でした。進駐軍向けのスーベニアショップ(外国人向けのみやげもの店)やバー、クラブなどの他に、飲み屋でありながら2階で売春もする、いわゆる曖昧屋と呼ばれる店もありました。*1*2
【参考文献】
*1 藤木TDC:昭和幻景(ミリオン出版,2009)P.124-P.127
*2 別冊東北学編集:仙台学v. 1 (別冊東北学編集室,2005)P.93
仙台市の南部の若林区に石名坂と呼ばれる坂道があります。400年近く前、江戸、吉原で名を売った「石名」という遊女がいました。石名は、九州の武士の娘で、浪人した父とともに仙台に来ました。生活苦から船着場の遊女宿で働いていましたが、美貌のうえ学問もあったため、有力者の口効きで、吉原に鞍替えしました。その石名が住んでいたので、石名坂と呼ばれるようになりました。*1
現在は、閑静な住宅街です。
坂の途中に円福寺があります。
境内に石名の石碑があります。
【参考文献】
*1 河北新報出版センター:忘れかけの街・仙台(河北新報出版センター,2005)P.176-P.177
仙台駅の北側に、通称X(エックス)橋と呼ばれる橋があります。X橋は、明治22年の鉄道開通で分断された東側の鉄砲町と二十人町、西側の元寺小路と名掛町の二本の通りを一本で結ぶ橋として大正7年に完成しました。正式には宮城野橋といいますが、そう呼ぶ仙台市民はほとんどいないそうです。*1
敗戦直後、仙台にも米軍が進駐し、元の小田原遊郭に米兵用の慰安施設(RAA「特殊施設協会」)が開設されました。まもなくRAAが閉鎖されると、慰安婦たちは、どっと街は出てきて、いわゆるパンパンガール(街娼)となって、X橋の周辺に集まるようになりました。*1*2
平成10年(1998年)、「アエル」(写真中央の構想ビル)の建設によって、付近の様相は一変しました。*1
付近には風俗関連の店も数軒ありましたが、建物は残らず撤去され、開発が進んでいます。
「アエル」の展望台から見たX橋(写真下部)。周辺の開発が進んでいるのがよくわかります。
X橋自体も、都市計画道路の一部として架け替えが予定されていて、完成すれば広瀬通りとほぼ同じ幅員40メートルで仙台東部に達することになります。*1
【参考文献】
*1 小野幹,高橋こうけん:40年前の仙台(無明舎出版,2010)P.42,P.72
*2 熊谷達也:懐郷(新潮社,2008)「X橋にガール」P.242
横丁には必須の公衆トイレですが、壱弐参横丁の場合も、しっかりと準備されています。
公衆トイレは、横丁のあちこちにあります。
奥まったところにある公衆トイレの入口。トイレ表示がありません。従業員用でしょうか。
外の自転車置き場の風景と、よく調和しています。
壱弐参横丁内部には、生活に関するあらゆるものが揃っています。
長い年月を経て、いかにも古びた感じに見える洗い場もその一つです。
洗い場には井戸があります。
戦後闇市の姿をそのまま残している貴重な横丁です。
今回は仙台(宮城県仙台市)の町並みと風俗を散歩します。
仙台市街の中心に、壱弐参(いろは)横丁があります。
壱弐参横丁の原形は、太平洋戦争の終戦直後、路上に現れたバラック商店や露天の集合体、すなわち、戦後の闇市です。平行する2本の路地を中心に、細い路地が入り組んで迷路状に広がって、狭い店がびっしりと並んでいます。*1*2
壱弐参横丁は、昭和21年、戦後の仙台市の公設中央市場として誕生したマーケットが原形です。*1
近年は、壱弐参横丁を活性化する動きがあって、案内図などが整備されています。案内図の隣に、「中央市場」と書かれた当時のものと思われる看板があります。
増改築をくり返した結果、約40棟の戸建ての店舗や長屋の集合体となりました。トタン屋根に混沌の歴史がにじんでいます。*1
【参考文献】
*1 藤木TDC:昭和幻景(ミリオン出版,2009)P.128-P.131
【参考URL】
*2 NPO法人まちづくりcom:ふれあい百店街・壱弐参(いろは)横丁
水戸市街の中心部。南町にショッピングセンターの「MIMO」があります。
普通は、駅前でしか目にすることがない白ポストが、ここに設置されています。
オーソドックスなタイプの箱です。
背面には、ライオンズクラブの名が書かれています。
泉町2丁目に、映画館だったと思われる「スカラ座」の痕跡を残すビルが建っています。
「ラ座」の部分だけが残った看板。
崩れ落ちた看板。
建物の裏側から。
大工町の「旦那横丁飲食店街」の西側の通り。
「ニューブルームーン」の入口階段。
看板はブルー(水色)です。
飲酒運転禁止です。
泉町3丁目の歓楽街の中心は、国道50号線の北側に集中していますが、かつては南側も歓楽街だったようです。
「第三岩崎ビル飲食街」の看板。
建物の角の部分に取り付けられた電飾看板。
側面の意匠。
大工町のソープランド街に、かつてのソープランド「クイーン・シャトー」の廃墟があります。
敷地面積600坪という都内では考えられない規模です。建物は5階建てと巨大でありながら、客室は16(1フロアあたり4室)と少なく、1部屋の広さは20畳近くありました。*1*2
「クイーン・シャトー」がオープンしたのは、1980年の9月(当時は「トルコ風呂」と呼ばれていた時代です)。総工費8億円(当時)をかけた外観、内装の豪華さは、他に類をみないものでした。待合室は4つあって、3つはこれからプレーするお客様用、1つはプレー後に休憩するお客様用でした。エレベータは行きと帰りの2基。エレベータの中にはソファーが一つ置いてありました。*3
お城のような建物の中央のトランプのクイーンの絵が描かれていて、一層豪華さをかもしだしています。
1,2階はふき抜けになっていて、8千万円もする黄金のシャンデリアが天井からぶらさがっていて、その下には噴水がありました。*3
建物へは立ち入り禁止です。
【参考文献】
*1 酒井竜次:ニッポンの廃墟(インディヴィジョン,2007)P.130
*2 中田薫:廃墟探訪(二見書房,2002)P.88
*3 ミリオン出版:全国高級トルコ・ガイド(1981,ミリオン出版)口絵,P.160-P.161
大工町のソープランド街の入口。ここには数年前まで「水戸大工町三業組合」と書かれたアーチがありましたが、現在は撤去されています。
ソープランド街には、かつてここが花街であったことの名残と思われる料理屋などが現在も営業中です。写真の寿司屋さんの隣はソープランドです。
「ムサシ」と書かれた黒板塀。
「ムサシ」の隣にあった和風のスナック。
今回は、水戸(茨城県水戸市)の町並みと風俗を散歩します。
水戸市大工町には、ソープランド街があります。
周囲はソープランドた建ち並ぶ一画ですが、その中に三業組合の建物があります。
入口付近。近代的な鉄筋コンクリ-ト造りの建物ですが、料亭の風情を感じるデザインです。
建物の後側。
柴又駅近くの踏み切りの脇にコインランドリーがあります。
一見なんの変哲もないコインランドリーですが、実は、ここは似顔絵ランドリーです。壁と天井に似顔絵がびっしりと貼られています。
たいていは一人1枚ですが、寅さんの似顔絵は数枚あります。
新聞でも紹介されました。
柴又駅近くのレトロな看板建築の酒屋さん(現在は自販機)の向こうに、煙突が見えます。
銭湯の北野浴場です。
存在感の煙突。
現在は、コインランドリーとして営業中です。
「男はつらいよ」の撮影にも使われた団子屋の「とらや」に裏手に、数年前までソープランドがありました。音楽家の戸塚省三さんの著書「東京路地裏観光」によると、ここには、「特殊浴場ソープランド『柴又キング』入口」と書かれた看板がありました。*1
ソープランドが普通の住宅の中にポツンと一軒だけ建っていて、田舎の湯治場のような雰囲気の建物でした。*1
「入口を入ると左手に洗濯機が置かれた物置みたいな部屋があって、その脇の通用口のような通路を通り抜けると、昭和三十年代の喫茶店で流行ったようなオレンジ色のアクリル扉が半開きになっていてそこが待合室だった。*1」と戸塚省三さんは当時の様子を語っています。
当時の名残と思われるプレートが残っていました。
【参考文献】
*1 戸塚省三:東京路地裏観光(二玄社,1996)P.235-P.239
今回は、柴又(東京都葛飾区)の町並みと風俗を散歩します。
駅前の広場には、「男はつらいよ」でおなじみの寅さんの銅像があります。
松竹映画「男はつらいよ」シリーズは、山田洋次原作・脚本・監督、渥美清主演で1969年に第1作が公開され、以後1995年までの26年間に全48作品が公開された国民的人気シリーズです。*1
「わたくし、うまれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎。人よんで、フーテンの寅と発します。」という、おなじみの寅さんの口上が思い出されます。
(余談になりますが、わたくし風俗散歩は、姓は風俗、名は散歩。人よんで、フーさんと発します)
銅像の台座には、「寅さんは損ばかりしながら生きている。江戸っ子とはそういうものだと、別に後悔もしていない。(中略)ごめんよさくら、いつかはきっと偉い、兄貴になるからなー。車寅次郎はそう心に念じつつ、故郷柴又の町をふりかえるのである」と山田洋次郎監督の言葉が書かれています。
帝釈天参道の入口は、駅からすぐです。
【参考URL】
*1 松竹株式会社:男はつらいよ 松竹公式サイト「男はつらいよ」とは
松阪市愛宕町に小津安二郎青春館があります。映画監督の小津安二郎さんは、9歳から19歳までの思春期を松阪で過ごしました。
当時、花街として賑わった愛宕町で遊んだ経験は、小津さんの人生に大きな影響を与えました。*1
小津安二郎青春館は、生誕100年を記念して松阪市が開設したものです。
館内には、小津安二郎さんに関する展示があります。
代表作の「東京物語」
【参考資料】
*1 小津安二郎青春館の展示資料
松阪市湊町の商店街。
鮨屋さんに成人映画のポスター。
3本立ての成人映画が上映されています。
映画館の建物の背面。松阪大映のマークが描かれています。
松阪の愛宕町には、大正から昭和にかけて20軒ほどの遊廓がありましたが、現在はバーやキャバレーが建ち並ぶ歓楽街となっています。*1
古い建物に混じって、風俗案内所などの最近の建物もあります。
和風の建物のスナック。
新旧の建物が混在する歓楽街です。
【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.184-P.187
松阪には、西の廓・東の廓の二ヶ所がありました。西、すなわち松阪の入口を川井町(かわいまち)、出口すなわち東を愛宕町といいました。双方ともに参宮街道(旧伊勢街道)沿いにあったため相当賑わったようです。特に川井町の方が町全体が遊廓で、一丁目から三丁目まで旅籠屋と遊女屋が街道の両側に向かい合わせ並んでいました。明治十年頃の遊女屋は大小合わせると20軒ほどでした。*1
松阪は戦災にあっていないため、川井町は、わずかではありますが昔のよすがを見ることができます。*1
琺瑯(ホーロー)看板のある酒屋さん。
逆方向(北西側)から。
【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.184-P.187
旧伊勢街道沿いの川井町。
古い町並みが残っています。
民家の前にある木製消火器箱。古い町並みに溶け込んでいます。
木箱の前面に「消火器」と書かれた木札が取り付けられています。
松阪駅の北西にある岡寺山継松寺。*1
北側の通用門の両側に古い商店街があります。
トタン建築の商店街が延々と続きます。
2階建ての長屋の建物。
めし。大衆食堂。
【参考URL】
*1 岡寺山継松寺:公式ホームページ「寺院概要・地図」
駅前の交差点の角に、開発から取り残された一画があります。
飲み屋が建ち並ぶ小路。規模は小さいです。
L字型に曲がって、駅前の大通りに出ます。
閉店の貼紙。昭和27年から営業していた居酒屋さんです。
今回は、松阪(三重県松阪市)の町並みと風俗を散歩します。
JR松阪駅前に白ポストがあります。
箱は、2つ並んでいます。
やぎの箱。悪書を食べてしまいます。紙の本だけでなくビデオやDVDも食べてしまいます。
箱の側面にはやぎのデザイン。
古市遊廓があった古市参宮街道に、資料館があります。
ここには、遊廓関連の資料が展示されています。
古市の娼妓たちの写真。
昭和初期まで存在していた大安旅館の展示。
麻吉(あさきち)旅館は、古市で現在も営業する昔ながらの唯一の旅館です。*1
当時、ここは麻吉料理店といって明治初年において第一級の料亭で、置いている芸者は20人あまりもいました。芸者はみな美人で、ここでの芸者は他の店にはでないほど麻吉は全盛をきわめました。*1
旅館は崖の上にたっていて、石段を下ると旅館の建物の裏側へ降りることができます。
崖下の伊勢自動車道から見た麻吉旅館。
【参考文献】
*1 中村菊男:伊勢志摩歴史紀行(秋田書店,1975)P.126,P.134
古市にある大林寺。
ここには、孫福斎(まごふくいつき)と遊女お紺の墓が立てられています。
この墓は「油屋騒動」の芝居を演じた四代目坂東彦三郎が建立したものです。「油屋騒動」は、寛永8年(1759年)、宇治に住む医者の孫福斎が古市の遊廓の油屋にあがって、ふとしたことから怒り出し、数人を死傷させた事件で、この事件は「伊勢音頭恋寝刃」(いせおんどこいのねたば)という芝居に脚色されて上演され、非常な人気を得ました。*1*2
お紺は49才で病死しました。*1
墓石に油屋の文字があります。
【参考URL】
*1 大林寺:公式ホームページ「油屋騒動」
【参考文献】
*2 中村菊男:伊勢志摩歴史紀行(秋田書店,1975)P.119-P.123
今回は古市(三重県伊勢市)の町並みと風俗を散歩します。古市遊廓跡の入口にあたるのが「間の山」の坂道です。遊廓が全盛だった大正時代の間の山は、今よりも坂が急でしたが、人力車は威勢よく行き来しました。*1
間の山の坂の途中に、「お杉・お玉の碑」があります。
お杉・お玉というのは、二人の女性が三味線を引きながら演技をしているのに対して、お客がほんのすぐ近くから小銭を投げるのですが、それを女たちがたくみにバチで受け止め、これを避けたりして体にあたらないようにする遊び場で、古市の見世物のひとつでした。*1
間の山は、井原西鶴の「西鶴織留」や中山介山の「大菩薩峠」にも登場します。*1
間の山の近くの「まちづくり実行委員会」の民家に、当時の古市の写真が掲載されています。
【参考文献】
*1 中村菊男:伊勢志摩歴史紀行(秋田書店,1975)P.108 -P.110
新宮市春日に新宮出身の小説家の中上健次さんの生家跡の案内板があります。*1*2
中上健二さんの代表作のほとんどは、故郷の新宮を中心に、熊野・紀州の風土を背景としたもので、浮島遊廓や女郎などの題材も頻繁に登場します。
小説「千年の愉楽」に登場する「天地の辻」。*1
写真の建物(新宮市人権教育センター)には、中上健二さんの展示があります。
小説「枯木灘」「奇蹟」、「地の果て 至上の時」で登場する「新地」と呼ばれた歓楽街があったあたり。*1
【参考文献】
*1 和賀正樹:熊野・被差別ブルース(現代書館,2010)P.12,P.74,P.132
*2 上原善広:日本の路地を旅する(文藝春秋,2009)P.12
大王地の旧料亭街には、スナックの建物が混在しています。
十字路の角にあるスナック。
スナックが建ち並ぶあたり。フィリピンの店もあります。
和風の建物ですが、現在はスナックとして営業中です。
江戸時代、新宮は上方と江戸を結ぶ海上の要衝で、木材や薪炭の集散地として栄えました。熊野速玉大社南側に、大王地と呼ばれる旧花街がありますが、新宮が「南国の宝石」と呼ばれたころの殷賑が見てとれます。*1
飲食店やスナックが軒を連ねますが、老舗の建物も多く残されています。
かつて、料亭だったと思われる建物が建ち並びます。
入口にタイルの装飾がある和風の建物。
【参考文献】
*1 和賀正樹:熊野・被差別ブルース(現代書館,2010)P.17-P.18
明治時代中頃まで、群馬県と和歌山県だけには遊廓が設置されていませんでしたが、日露戦争後の軍国主義華やかな時代、兵営誘致のためには遊廓の設置が必要との考えが浮上し、明治39年、日高郡白崎村糸谷、東牟婁郡大島村、東牟婁郡新宮町合筋の3ヶ所に遊廓が設置されました。新宮町合筋に設置された遊廓は通称「三本杉遊廓」と呼ばれましたが、明治45年の大火により消失し、大正2年に浮島に移転し、浮島遊廓として終戦まで続きました。*1
「浮島遊廓造成地図」*2 によると、遊廓があった場所は、現在の浮島の森の北側の公園のあるあたりで、北側の山を切り崩して土地を造成して遊廓が建設されことが確認できます。写真奥の保健センターがある場所にも妓楼が建っていました。
遊廓跡地全景。
北側の遊廓の正面の道路。道幅が途中で広くなっています。
【参考文献】
*1 熊野地方史研究会:熊野誌 第22号(新宮市立図書館)「新宮遊郭始末記」P.151-P.163
*2 新宮市立図書館(所蔵):浮島遊廓造成地図
今回は、新宮(和歌山県新宮市)の町並みと風俗を散歩します。
新宮には、熊野三山の一つである熊野速玉大社がありますが、神倉神社は、その摂社(速玉大社の管理下にある小さな神社)です。神倉神社への案内板に「熊野比丘尼」と書かれています。
比丘尼(びくに)とは、尼さんのことですが、この熊野比丘尼が布教や信者獲得を行い、熊野詣でを勧めました。*1
熊野比丘尼は、熊野三山から免許状を与えられる代わりに、布教で得た売上金を熊野三山に上納しました。*2
しかし、江戸時代元禄期以降になると、困窮のため熊野の統制から離脱し、売色行為を行う「売女比丘尼」も現れました。*3
神倉神社の入口の鳥居。自然石を積み重ねたかなり急勾配の参道が続いています。
石段を登りきるとご神体のゴトビキ岩があります。
ゴトビキ岩は性器崇拝の観点から勃起した男根と解釈されています。*4*5
ゴトビキ岩から見た新宮市街。
【参考文献】
*1 光田憲雄:江戸の大道芸人(つくばね舎,2009)P.101
*2 根井浄,山本殖生:熊野比丘尼を絵解く(法藏館,2007)P.460-P.463
*3 曽根ひろみ:娼婦と近世社会(吉川弘文館,2003)P.77-P.83
*4 町田宗鳳:エロスの国・熊野(法蔵館,1996)P.107-P.110
*5 洋泉社編集部:いちどは行ってみたい日本の聖地(洋泉社,2010)P.78-P.79
紀伊大島は、本州最南端の潮岬が太平洋の中に突き出ている半島の東側にあります。
紀伊大島と半島は串本大橋で結ばれています。
串本大橋の紀伊大島側の橋詰広場に串本節の碑があります。串本節は和歌山県を代表する民謡で、全国的にも有名です。
串本節が有名になったのは、大正十三年六月、世界一周を目指していた水上機「ダグラスDWC」取材に集まった新聞記者が、台風で長逗留を余儀なくされ、退屈をまぎらわすために開いた宴会で、地元の芸者衆が串本節を披露したときです。これが好評を博し、全国に広まりました。*1
串本節にでてくる「しょらさん」はハワイ語で恋人の意味で、「おゆき」は遊女の名前、「佐吉」は大島にあった遊廓の名前です。*1
(串本節歌詞)*1
ここは串本 向かいは大島 仲をとりもつ 巡航船
アラヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ ※
潮岬に灯台あれど 恋の闇路は 照らしゃせぬ
(※くりかえし)
わしのしょらさん岬の沖で 波にゆられて鰹釣る
(※くりかえし)
大島水谷 かかりし船は お雪見たさに潮がかり
(※くりかえし)
障子あくれば 大島ひと目 なぜに佐吉は山のかげ
(※くりかえし)
---後略---
【参考文献】
*1 饒村 曜:海の気象.53(3)(2007)「飛行機による初の世界一周と飛行船による初の世界一周–「串本節」を全国的に有名にしたダグラスDWC」P.24-P.25
大島港近くの斜面に、蓮生寺があります。
寺の山門。
大島遊廓の遊女のうち、最も優れた遊女は「お雪」の名を襲名していました。
蓮生寺の境内の墓地には、「お雪之碑」があります。
【参考文献】
*1 桧垣巧:串本町・大島区の調査報告書(高野山大学社会学研究室,1987)P.11
大島港周辺に建ち並んでいる民家の裏の路地。
風情のある建物。
ゆるやかやカーブの路地が続きます。
路地の向こう側は、大島港の海です。
紀伊大島の北西部にある大島港は、(串本大橋が出来る前までは)巡航船やフェリーが発着する港でした。明治時代の高等小学校新地理の教科書の「港」の項には、本州における良港が20港あげられていて、その最後に大島港がのっていました。*1
現在の大島港の岸壁付近はかなり広いコンクリート固めの広場になっていますが、これは明治時代の埋め立てによって造成されたもので、江戸時代の海岸線はもっと深く陸地に後退していて、「数十百」という帆船が停泊できました。*1
江戸時代、風待ちの帆船は、10日またはそれ以上も港に釘付けにされたため、大島商人らは、チョロ(女郎)舟という伝馬船に、食糧品、日用品、それに若い遊女を乗せて、風待ちの帆船の間を商いして回りました。当時の大島には船宿が32軒、旅館が6軒ありました。女郎は1人か2人ずつ民家に身を寄せており、明治の半ばくらいにその数は50~60から80人くらいいたといわれています。和歌山県下で公娼遊廓があったのでは、和歌山、御坊、新宮の3市と大島の4ヶ所でした。*1
現在、港の周辺には、旅館や元船宿と思われる建物が建ち並んでいます。
【参考文献】
*1 桧垣巧:串本町・大島区の調査報告書(高野山大学社会学研究室,1987)P.10-P.11
今回は、紀伊大島(和歌山県東牟婁郡串本町)の町並みと風俗を散歩します。
紀伊大島は、本州最南端の潮岬がある串本町の沖合いに浮かぶ島です。紀伊大島の東端には樫野埼が大きく突き出していて、その附近には暗礁が散在しています。写真は海金剛(うみこんごう)から見た樫野埼(写真右奥)です。
明治23年(1890年)、オスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号がこの樫野埼の暗礁に座礁して遭難しました。樫野崎灯台そばにはエルトゥールル号殉難将士慰霊碑があります。
このとき、島民の献身的な救助により、69名が救助されましたが、580名の尊い命が無くなりました。日本とトルコの友好関係の起点としてこの事件が記憶されている。
引き上げられた遺体は、現在の慰霊碑がある丘(写真右上)に埋葬されました。
トルコと言えば、日本の性風俗業界ではトルコ風呂(現在のソープランド)が有名ですが、1984年にある元トルコ人留学生の抗議運動があり、日本とトルコの友好に亀裂が生じかねない事件に発展しました。その結果、「トルコ風呂」は「ソープランド」と改称され、昨今では、性風俗用語としての「トルコ風呂」の名も忘れ去られつつあります。
旧白浜新地近くにあるハマギンザ街道。「食座・銀座」と書かれたゲートがあります。
スナック、居酒屋、商店が建ち並んでいます。
狭い路地にスナックが密集しています。
落ち着いた感じの和風スナック。
白浜新地には、当時の料亭か遊廓だったと思われる建物が2軒残っています。
見事な木造建築です。
現在はアパートとして使われているようです。
横から見ると、内部に中庭を有する構造であることが解ります。
白浜新地は、大正13年(1924年)に検番ができたのが、始まりで、翌大正14年(1925年)には、最初の置屋兼料亭ができました。*1
電柱に「新地」と書かれたプレートがありますので、この付近が白浜新地だったようです。
元料亭と想われる建物。
現役も営業中の料理店もあります。
【参考文献】
*1 白浜町誌編さん委員会:白浜町誌.本編下巻1(白浜町,1984)P.340-P.341
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今回は、白浜(和歌山県西牟婁郡白浜町)の町並みと風俗を散歩します。
白浜温泉は、和歌山県の南西に位置する近畿で最も有名な温泉で、海水浴場もあります。
「魚政」(写真手前)は、昭和初期から続く老舗で、当時、浜通りには、「中村屋」「魚政」「大野屋」「温泉堂」「アシベ料亭」と商店が並んでいました。*1
現在は、温泉旅館とスナックが混在する町並みになっています。
白浜館は、白浜の開発が行われた大正時代からの歴史を誇り、美しい白良浜と大量の温泉にめぐまれ温泉地でした。しかし、何もない温泉地のただ1軒の旅館ではなんのメリットもないことから、田辺新地の置屋に依頼し、客が入ったとき、巡航船で芸妓を送ってもらうようになりました。しかし、これでは長続きせず、大正13年に検番を建て、1週間交代で数名の芸妓をここに宿泊させることにしました。これが白浜検番のはじまりで、昭和に入り、白浜新地が開発されることになりました。*2
【参考文献】
*1 白浜町誌編纂委員会:町のあゆみ 白浜町誌紀要. no.4 (白浜町誌編纂委員会,1981)口絵A
*2 白浜町誌編さん委員会:白浜町誌.本編下巻1(白浜町,1984)P.340
紀伊田辺の市街を流れる会津川の中州の東側に小さな水路流れています。
母屋が密集しています。
水路に張り出すように建ち並んでいます。
表側は、ごく普通の住宅街です。
田辺新地には、現在も料亭として営業中の情緒ある建物が残っています。
「ぼんぼり」をイメージしたデザイン。
古い建物が並ぶあたり。
洋風の建物もあります。
田辺検番の芸妓・舞妓は、明治2年頃には約30名、明治末~昭和初めには120~140名で、舞踏、三味線など、田辺検番は紀州で最も優秀とされました。*1
【参考文献】
*1 田辺商工会議所:熊野検定(田辺商工会議所,2009)P.81
紀伊田辺は、古くから栄えた町だけに、昔のままの建物が多く残ります。駅周辺は地方都市らしく賑わう町ですが、奥へ踏み込むと情緒ある町並みがひろがります。
田辺新地は、大正6年、周囲に散在していた置屋や移転集合することによって出来上がりました。*1
田辺新地のゲートのところに古い建物があります。
1階はタバコ屋さんになっています。
タイル張りの壁が何ともレトロモダンです。
【参考文献】
*1 田辺商工会議所:熊野検定(田辺商工会議所,2009)P.81
今回は、紀伊田辺(和歌山県田辺市)の町並みと風俗を散歩します。
紀伊田辺は、JR和歌山駅から特急電車で約1時間の位置にある南紀地方の主要都市です。
駅前に「味小路」と呼ばれる飲食街があります。
飲食店の看板。
細い路地に看板が密集しています。
大久保駅前の病院。駅からもカラフルな看板が見えます。
細い路地にひっそりと病院があります。
看板は、大きくて目立ちます。
どこにあるかわからないほど小さく目立たない入口です。
大久保駅近くの住宅地街に、一軒の旅館があります。
風情のあるネオン管です。「旅荘」という呼び方も味わいがあります。
落ち着いた雰囲気の外観。
和風の玄関の装飾。
90年代、大久保は急増する外国人アパート需要と多発するトラブルで、外国人を受け入れるアパートは限定されていましたが、現在は外国人を歓迎する町に生まれ変わっています。町のあちこちに、「外国人OK」の看板があります。*1
不動産会社にとって、外国人はお客様です。*1
教科書会社が入っているビルの2階にある外国人OKの歯科医院。
外国人OKのワンルームマンション。
【参考文献】
*1 稲葉佳子:オオクボ都市の力(学芸出版社,2008)P.55,P.69
大久保の町にラブホテル(当時の「連れ込み宿」)が進出したのは、1960年頃からでした。背景としては、1957年に売春防止法が施行されたことがあげられます。新宿二丁目で営業していた特殊飲食街の経営者がホテル業へ転業し、歌舞伎町から職安通りを超えて大久保にまで流れ込んできました。*1
「同伴旅館(ラブホテル)をどんなとこに建てたらよくはやるか、昔からジンクスがあって、墓地か病院のそばか、さもなくば質屋の真向かいだったら繁盛間違いなし。」と言われていて、大久保にに進出したホテル経営者も真向かいが墓地の地所を選びました。*2
大久保のラブホテル街には、長光寺と金龍禅寺の2つの寺があり、いずれも細長い墓地を有しています。この墓地の近隣にラブホテルが建ち並んでいます。
写真中央部に見える森が金龍禅寺の墓地です。墓地は南側に細長く伸びていてその東側(写真左側)に、1990年頃、ラブホテルが建ち並びました。
現在は「大久保の竹下通り」と呼ばれる韓流ショップとラブホテルが混在する町並みとなっています。
【参考文献】
*1 稲葉佳子:オオクボ都市の力(学芸出版社,2008)P.163-P.164
*2 朝倉喬司:ヤクザ・風俗・都市(現代書館,2003)P.62
大久保には100円のコインロッカーがたくさんあります。ざっと見て回っただけでも10ヶ所ぐらいあります。
大規模なコインロッカー群。すべて100円コインロッカーです。
薬局とコインロッカー。
自販機とコインロッカー
彦左小路裏の通り。
レトロな旅館が2軒建ち並んでいます。
玄関のタイルの円柱。
入口には、「いらっしゃいませ」の看板。
今回は、大久保(東京都新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
彦左小路は歌舞伎町の北、職安通りを渡った線路沿いにあった二棟の長屋からなる飲み屋街でした。職安通りには、彦左小路の入口を示す看板の支柱が残されています。(写真左)*1
金網で囲われている彦左小路の跡地。場末酒場の面影はありません。
「おとめ荘」の看板が今も残されています。
このあたり一帯は、道路の拡幅工事が予定されています。
【参考文献】
*1 藤木TDC、イシワタフミアキ:昭和幻景(ミリオン出版,2009)P.74-P.75
JR東中野駅近くにある正見寺。
正見寺の墓地に、笠森お仙の墓があります。
笠森お仙は、江戸時代、谷中の笠森稲荷の門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘で、絶世の美人でした。*1
お仙は、幕府の御休息御庭者支配の倉地正之助の妻となったので、現在の倉地家の墓地にお仙の墓があります。
墓碑に倉地家のことが書かれています。
【参考文献】
*1 佐藤要人:江戸水茶屋風俗考(三樹書房,1993)P.160-P.172
新井薬師近く(上高田二丁目)の住宅街。
銭湯の花園湯があります。
コインランドリーとして営業中です。廃業してしまったのでしょうか。
裏側へ回ってみると、解体された煙突が見えました。
新井薬師の門前には、江戸時代から参拝客相手の料理屋が軒を連ねていましたが、関東大震災以前から料理屋と芸妓屋が盛んになり、大正14年に新井三業組合が創立されました。現在の柳通りの商店街の東側(写真の左側)が料亭街で、昭和初期に全盛期を迎えました。*1
現在、花街らしい雰囲気はほとんど残っていません。
芸妓置屋街は、柳通りの西側にありました。三業組合事務所(見番)は、現在の防災広場(写真奥)のあたりにありました。*1
住宅地図に記載されている旅館「おくみ」(現在はありません)は、料亭の名残かもしれません。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.187-P.188
中野駅の北側。早稲田通り手前に「四十五番街」という飲食街があります。この飲食街の成立は昭和20年代末で、通りに屋台やバラック店舗が並んでいた時代でした。*1
現在、小路の大半は解体され、再開発を待つ状態です。
写真右奥は、中野ブロードウェイマンションです。
朽ちかけた店舗の建物が残っています。
北側の通り。
【参考文献】
*1 藤木TDC、イシワタフミアキ:昭和幻景(ミリオン出版,2009)P.48-P.49
中野駅北口の繁華街「昭和新道」
「アダルトコンビニ」の看板があります。
店の入口のドアは、ランジェリーなどの写真で覆われています。
ココロに染みる名言集。
今回は、中野(東京都中野区)の町並みと風俗を散歩します。
中野新仲見世商店街に、客引き禁止看板が集中して設置されている一画があります。
通りのあちこちに看板が設置されています。看板の下部には、「新仲見世商店会」と書かれています。
狸小路と呼ばれている飲み屋街。看板の下部には、「狸小路商店会」と書かれています。
こちらは、別のデザインの看板。消火器ボックスに隠れて見えづらくなっています。
東武東上線朝霞台駅(JR北朝霞駅)近くの三原2丁目の住宅街に、銭湯の「志木浴場」があります。
銭湯では珍しい男女別々の入口。
女湯入口。
脱衣場にはテレビゲームがあって、ゆっくりくつろげます。
かつての南栄通りには、バーやキャバレーが約70軒ありました。通りの中央部に、1949年に開店した魚屋「魚太」は、南栄通りあったすべてのバー、キャバレーに氷を卸していました。*1
現在、その魚屋「魚太」はありませんが、その名残と思われる商店があります。
レトロな雰囲気の店構え。
ゲームと氷の店です。
【参考文献】
*1 中條克俊:君たちに伝えたい朝霞、そこは基地の街だった。(梨の木舎,2006)P.92-P.94
朝鮮戦争の激戦のさなか、朝霞の南栄通りは最も繁栄する時代を迎えました。基地の周辺には米兵相手の大きなキャバレーやクラブがそこかしこにできました。「キャバレー・サンフランシスコ」の跡地には、現在大きなマンションが建っています。*1
現在の朝霞第四中学校の正門前に、大きなマンションが建っていますが、「アメリカンリージョンクラブ」と呼ばれたキャバレーがありました。アメリカ独立記念日の7月4日には打ち上げ花火が上がりました。*2
現在、中華屋とコンビニになっているあたりには、「バー・タイガー」、「バー・ニイト」がありました。*1
「キャバレー・フラミンゴ」があった場所は、駐車場になっています。「キャバレー・フラミンゴ」は南栄第1号のキャバレー(ダンスホール)でした。*1
米軍基地があったおかげで、朝霞には、フランク永井、江利チエミ、雪村いずみ、ダークダックスという当時の新進気鋭の歌手が来ました。*1
【参考文献】
*1 中條克俊:君たちに伝えたい朝霞、そこは基地の街だった。(梨の木舎,2006)P.74-P.75,P.92-P.93,P.104
*2 郷土出版社:目で見る朝霞・志木・新座・和光の100年(郷土出版社,2007)P.91
今回は、朝霞(埼玉県朝霞市)の町並みと風俗を散歩します。
第二次大戦の敗戦(1945年)により、全国各地に米軍が進駐しましたが、朝霞にも米軍が進駐し、建設された米軍基地は「キャンプ・ドレイク」と呼ばれました。
その後、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、全国各地の米軍部隊が入れ替わり立ち替わり朝霞に駐留するようになり、その結果、全国から女性売春者が、米兵の後を追うようにして朝霞に集まってきました。朝霞駅南側の南栄通りは、米兵、夜の女、ポン引き、やくざ、第三国人が闊歩し、売買春は日常茶飯事の世界となっていました。当時の埼玉新聞は、朝霞を「売春の街」(1952.8.7)と報じています。*1
現在の南栄通りの交差点の角に、当時の名残の建物(「バー・コーナー」の跡)が残されています。*1
現在は、看板の文字は読み取れなくなっています。
入口付近。
【参考文献】
*1 中條克俊:君たちに伝えたい朝霞、そこは基地の街だった。(梨の木舎,2006)P.71-P.83
木辻のスーパーの「ビッグナラ」のゲートの近くに、書店があります。
店の壁面は、多数の貼紙で埋め尽くされています。
ほしのあきのポスター。その下に、「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の宮沢賢治の詩、加山雄三さんの三つの「かん」の話など。
DVD、ビデオ、何でもあります。
木辻遊廓跡に銭湯の扇湯があります。
窓の部分にも「扇湯」と書かれています。
風格のある煙突です。
レトロな雰囲気の玄関。
木辻遊廓跡。格子のある古い建物があります。
玄関に、中野牛乳の牛乳箱があります。
中野牛乳は、大正元年に大正牧場として創業。昭和28年に中野牧場に改称。個人経営の牛乳屋として続きましたが、平成3年に廃業しました。奈良町あたりの散策でよく見かける牛乳箱です。三重の中野牛乳*1 とは関係ありません。*2
箱の側面には、特徴のある行書体で「毎度有難う御座います」と書かれています。
【参考記事】
*1 風俗散歩(伊勢):中野牛乳の牛乳箱(2010.5)
*2 横溝健志:思い出牛乳箱(ビー・エヌ・エヌ新社,2008)P.171
木辻遊廓跡の近くにある称念寺。
称念寺の境内に、たくさんの無縁仏の墓石があります。
これらの墓石の中には、木辻遊廓の遊女たちのものが含まれていると言われています。
裏側。
【参考URL】
*1 奈良県ホームページ:「奈良県人権サイトガイドブック2」木辻遊郭跡と遊女の墓
元林院町の南側に位置する木辻町(きつじまち)には、遊廓がありました。昭和八年(1933年)発行の「大日本職業別明細図 第316号 奈良県」*1 には、木辻遊廓と思われる妓楼の屋号が記されています。
木辻遊廓は、養老2年(718年)に元興寺を建立する際、工人、人足等の足留め策として木辻の地に「奴婢(ぬひ)」(律令制における奴隷)を置いたことが起源で、わが国における最も古い遊廓の一つです。*2
現在、旅館として建物が残っている静観荘は、静観荘は本家岩谷楼です。*3
付近に遊廓の面影はほとんど残っていません。
玄関。
【参考文献】
*1 大日本職業別明細図(東京交通社,1937)
*2 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂,1929)p.535
【参考URL】
*3 Architectural Map「旅館静観荘」
元林院町の路地に「萬玉楼」の建物が、往時の面影をとどめています。
萬玉楼は、元林院町で広く名が知られた芸妓置屋の一つで、絹谷家五世代にわたって引き継がれました。伊藤博文ら政界人や文豪・志賀直哉ら多くの文化人がここで遊芸を楽しんでいます。*1
萬玉楼の基盤は、京都で周旋人から買い求め「歌鶴」と名付けた彦根藩士族の娘で財をなし、作られました。*1
奈良町で現存する最も古い町家の一つです。
【参考文献】
*1 勝部月子:奈良学研究.(8)(2006.1)「萬玉楼」P.107,P.112
今回は、奈良(奈良県奈良市)の町並みと風俗を散歩します。
元林院町が花街として形づくられたのは、明治5年、元林院に芸妓置屋(後に娼妓も置く)開業の許可を得た頃からでした。明治維新後、生活困窮者が都市農村を問わずあふれ、それだけでなく、士族制度の崩壊による士族の妻子の身売りもありました。「大枚80両をはたいて買い、それも彦根の士族の娘であった。十八歳、美人。」という触れ込みは、当時の人々に大いなる興味を抱かせました。*1
明治創業の料亭、明秀館のたたずまいが町並みに彩りを添えます。
正面奥の建物は、猿沢池畔にある魚佐旅館ですが、現在は鉄筋コンクリートのホテルになっています。*3
町家の格子や白壁は当時のままです。*3
【参考文献】
*1 勝部月子:花街の成立-奈良元林院の事例を通して(日本文化史研究.通号31,1999)P.45.P.48
*2 学習研究社:週刊日本の町並みNo.7(学習研究社,2004.12)P.16
*3 奈良市今昔写真集(樹林舎,2008)P.95