若松飲食店街の入口に諏訪神社があります。

大正10年に建てれた玉垣。商店や芸妓家、待合の名が刻まれています。

三河亭は、「三浦繁昌記」*1 に記載のある待合です。

まからぬや洋品店。

若松飲食店街の入口に諏訪神社があります。

大正10年に建てれた玉垣。商店や芸妓家、待合の名が刻まれています。

三河亭は、「三浦繁昌記」*1 に記載のある待合です。

まからぬや洋品店。

猿島は、「記念艦館三笠」のある三笠公園隣の三笠桟橋(猿島渡船乗船場)から、約10分のところにある無人島です。

猿島は、江戸末期、江戸湾防備の一要点として、1846(弘化3)年に砲3門が設置された。ペリー来航の7年前である。明治政府による沿岸防備は、1878(明治11)年に海岸防禦取調委員会が設置され、「東京湾海門を最先とし、順序は観音崎・猿島・富津」とする意見を上申した。*1

島の北端に、砲台跡が残っています。

猿島砲台の起工は1881(明治14)年11月5日。竣工は1884(明治17)年6月30日。関東大震災によって被害を受けた猿島砲台は、一度も使用されることなく1925(大正14)年に除籍。その後、海軍に移管されて高角砲陣地となり、終戦を迎える。戦後は、観光拠点として注目され、1949(昭和24)年に海上公園として開園した。*1

今回は、横須賀(神奈川県横須賀市)の町並みを散歩します。
戦艦三笠は1902(明治35)年、英国で竣工、1905(明治38)年、日露戦争の日本海海戦で歴史的勝利をおさめ、その後、記念艦として保存されました。

最上艦橋。日本海海戦において東郷平八郎連合艦隊司令長官が戦闘の指揮をとった場所です。*1

上甲板中部の両舷にはそれぞれ4門の8cm砲が展示されています。*1

Z旗とその説明。

銚子の本城町。

周囲は立派な石垣で囲まれています。

宝永元年、大阪の豪商仲内家はこの地に来て大阪屋を号し、3つに分家して、その中で飲食を業とした方は大藤屋利兵衛を称して多いに繁盛しました。次いで東海道三島宿から三島屋三平が移り住み、また江戸近在から川口屋太平が転じ来たって、各々商売を始め、のちにこれらが大藤屋と共議して字下町に遊女屋を営業するようになりました。*1

仲内家は、移住商人たちが図って遊女屋を開く際、地所を提供しました。遊女屋は大いに盛り、松岸遊廓と並んで本城の名を挙げ、面影は戦前ごろまで残っていました。仲内家先祖が、移住の際に、下町に祀った社は大阪屋稲荷として親しまれました。*2*3

P.828
宝永元年、大阪の豪商仲内家はこの地に来て大阪屋を号し、3つに分家…
仲内清右衛門家は銚子本城(ほんじょう)町の代々の名主で、屋号が大阪屋である…
松岸駅から利根川へ向かって進むと、道沿いに、「居酒屋、カラオケバー」の看板が現れます。

スナック「ぼうがつる」。

スナック「ぼうがつる」の奥に見える建物が、カラオケバー「クリスタル」でしょうか。

「坊がつる讃歌」(ぼうがつるさんか)は、くじゅう山群の坊がつるの「あせび小屋」の小屋番をしていた「九州山小屋の会」の大学生3人が、雨の日の退屈しのぎにつくった替え歌の「賛歌」でした。*1
1978年、芹洋子さんが歌って大ヒットしました。
人みな花に酔うときも
残雪(ざんせつ) 恋し 山に入り
涙をながす 山男雪 …

今回は、松岸(千葉県銚子市)の町並みを散歩します。
松岸駅前にあるワンコップ宮内食堂。

佇まいに惹かれます。

麺類、丼もの。なんでもあります。

カツカレーとビールを注文。

銚子電鉄観音駅近く。

路上に保存状態のよいコンクリごみ箱があります。

上蓋と前面の蓋は木製です。

「昭和」な風景が残っています。

銚子駅前東側の通り。

味の店「吉原食堂」。

定食などのメニューが豊富です。

カツカレーとビールを注文。

銚子花街の濫觴は飯沼観音を中心として発生した札所順礼相手の宿屋や茶店で、この順礼者のために発達した門前町の茶店・旅籠屋等に、田中特飲街ができました。*1
銚子駅南側にある淨國寺の墓地に、「本銚子町料理店組合」(田中の旧称*2)が建立した「寄付碑」があります。*3

碑の上部には、「本銚子町料理店組合寄附連名」と書かれ、店名が刻まれています。

その下には、「外川浦料理店組合」。
外川にも、昔は遊廓がありました。*4

碑の下部。発起人。

P.394
銚子花街の濫觴は飯沼観音を中心として発生した札所順礼相手の宿屋や…
松岸遊廓の廃亡と田中
…
銚子の海難史
P.130
利根川河口に位置する大新旅館は、江戸の昔より360年の伝統をもちます。

大新旅館の7代目政次は、大新旅館を発展させた人物であった。7代目政次の時代には、徳川慶喜、伊藤博文など中央政府の要人、島崎藤村や竹久夢二といった文人など、著名な人物が大新旅館へ多数来泊しました。大新旅館は、銚子の外からの要人を迎える「迎賓館」であり、銚子の旦那衆の「社交場」としての役割を果たしていました。*1

昭和20年(1945)の空襲によって、その大部分を消失しましたが、昭和23年(1948)頃には再建し、玄関の脇にはサロンを設け、外国人を雇って営業しました。*1

大新旅館の経営者である垣内家は、紀州移民※1 を先祖とする家のひとつです。*1

紀州移民の定着
P.136<…