池袋駅北口を出て通り沿いにある地得ビル。

1階にある老舗映画館の「シネロマン池袋」。

都内では数少なくなった、成人映画館です。

映画館の入口。

池袋駅北口を出て通り沿いにある地得ビル。
1階にある老舗映画館の「シネロマン池袋」。
都内では数少なくなった、成人映画館です。
映画館の入口。
現在の三越百貨店新館がある場所には、かつて大型キャバレーの「美松」がありました。
昭和15年(1940年)、まだキャバレーという言葉がなかった時代(当時はカフェーと呼ばれていた。)に、大阪で「赤玉」などをやって当てた榎本正・明三兄弟が、女給が何百人もいるような「銀座会館」「美松」などの店をつくり、東京中を席巻しました。*1*2
戦後も1946年に営業を再開し、戦後を象徴する名門キャバレーとなりました。
昭和37年、保証金の高騰を理由に突然閉鎖。その後、三越に売却されました。
浅草の国際通り沿い。
韓国焼肉&エステの看板。韓国といえば、焼肉とエステですが、同じビルの中で両方を味わうことができるようです。
健康マッサージの看板。看板だけが残されていて、店舗は無い模様です。
火花。
今回は、浅草(東京都台東区)の町並みを散歩します。
花街があった浅草三丁目の東側のはずれ。このあたりまでくると、店舗はまばらになります。
昭和26年の火災保険地図*1 によると、この場所に「浅草ニュートルコ」の記載があります。
トルコ風呂と言えば、昭和26年に銀座に開業した「東京温泉」が第1号というのが、定説となっています。※1
これと、時を同じくして、浅草にも開業していたようです。
隣の歯科医院は、当時も同じ場所にありました。*1
現在は、マンションが建っています。
2000年代初め、秋葉原に続々と開店したメイド喫茶は、現在も盛況です。秋葉原から神田川を渡った神田須田町にもメイド喫茶の店舗が進出しています。
写真の店は、1階がバーで、地下1階がアニソン(アニメソングのこと)専門のカラオケ店。
同じく神田須田町のメイド喫茶。
コスチュームの展示・販売。
「大人の遊園地」がコンセプトのメイド喫茶。
釧路駅前の飲食街「鉄北センター」※1※2 の東側の棟。
テレホンクラブの看板。
テレホンクラブ「モンロー」。マリリン・モンローにちなんだ店名でしょうか。
現在は休業中のようです。店の前には荷物が山積みにされています。
釧路の栄町の歓楽街「栄楽街」。
すでに、閉店してしまっているようですが、「キャバーレー大学」の看板。
看板は、オレンジ色で統一されています。
18歳未満の方、入店お断りです。
名鉄豊川線の豊川駅から2つ目の諏訪町駅近くにあるキャバレーの建物。
複雑な形をしています。
赤と白。
1階と2階があるようです。
昭和の雰囲気漂う看板。
栄町の歓楽街の隣の通り(今治市室屋町2丁目)。ここにかつてのキャバレーの建物が残っています。
「明星観光」と大きな文字で書かれた商業ビル。黒とオレンジのコントラストが強烈です。
現在は、「カラオケランド明星」が営業中です。
入口には、キャバレーの看板。かつての栄華が偲ばれます。
三番町二丁目の「キャバレームーン」のある通り※1 の北側の通り。
キャバレー三昧。
夜になると開店します。
赤と緑のネオン看板。
今回は、松山(愛媛県松山市)の町並みを散歩します。
三番町二丁目の南側の歓楽街。飲食店が立ち並びます。
キャバレー「ムーン」。昭和40年の市街図*1 にも記載されている老舗です。
クラブムーンの大看板。
ハワイの看板。付近にハワイの店舗は見あたりません。
高松市街の片原町駅近く。フェリー通りに面したところに、大きな建物の風俗店があります。
建物とほぼ同じ大きさの大看板。
看板を取り付ける支えも重厚です。
夜になるとネオンが輝きます。
東三番街のスナック街にあるキャバレー花園。
戦後間もない頃、浜田恵美子女史が、京都、大阪の美人ホステスを動員して産馬通りに「民謡酒場」を開業したのが当たって、昭和38年、東三番街に進出。「サロン花園」と「割烹大坂屋」を新築開店しました。*1
菊地正一氏の「クラブこけし」「割烹こけし」、そしてマダム(田鶴子女史)の「湖畔グループ」と併せ、飲み屋街のビックスリーと呼ばれました。*1
花園の看板。外国人芸能人は公演活動しか行わないので、お客様の応対はできません。
今回は、前橋(群馬県前橋市)の町並みを散歩します。
諏訪橋西詰交差点の近くに、キャバレーロンドンの建物があります。
建物上部の「前橋ロンドンA館」の大看板。
入口の電飾看板。
おなじみのロンドンのマークも。
本町2丁目の交差点近く。館林の中心街です。
風俗店だったと思われる建物。
現在は休業しているようです。
駐車場の看板。
中央一丁目の歓楽街の西側。美容室の隣にサロンがあります。
店の入口。
「ミニサロン」と書かれた電飾看板。
逆方向から。
名古屋市中区の錦通り。名古屋銀行の向かいに、キャバレー太平洋の建物が残っています。現在は閉店しており、ビルの壁面には風俗広告看板が設置されています。
屋上に残る「キャバレー太平洋」の大看板。
当時は、ネオンが輝いていたのだと思います。
看板下部にはダンサーの姿が描かれており、華やかだった頃が偲ばれます。料金は3コース制。
A ¥4,000:8時まで入店のお客様。1時間1ドリンク
B ¥6,000:1時間半2ドリンク
C ¥8,000:1時間半飲み放題
イオン今池店の北東側の角に、かつて、スーパー銭湯の「スオミの湯」がありました。現在は、取り壊され、更地になっています。
「スオミの湯」は、名古屋の代表的なスーパー銭湯のハッテンバ場(3か所)、①竜泉寺ウォーターパーク、②あさひの舎、③今池スオミの湯、に紹介される有名なハッテン場でした。チェーン展開している「スオミの湯」は、純アルカリ性のお湯を使用した銭湯で、電気風呂かにジェットバス、から塩サウナや韓国エステまでありました。中年から若者まで、特に一般客が減る夜から深夜にかけては、ゲイ遭遇率はかなり高いものでした。*1
現在も残る「スオミの湯」駐車場。
当時の面影を残す遺構です。
【参考文献】
*1 Badi(1999.8)P.57「全国最新ハッテン場ガイド99」
今回は、筒井町(愛知県名古屋市東区)の町並みと風俗を散歩します。
筒井町商店街は、尾張徳川家の菩提寺である建中寺を中心に東西約300mの門前町です。*1
かつて、建中寺の前の一画には、映画館の「東松竹映劇」がありました。戦前から「八千代館」の名で営業し、戦後は一時、キャバレーに転向していました。*1
現在は、マンションになっていて、1階には、たこ焼きとカレー店が入居しています。
筒井町商店街は、かつてのような賑わいはありませんが、最近は、フランス料理店やたこ焼店ができて、昔からのうどん店や和菓子店もあるので、グルメロードとして注目されています。*1
【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.30-P.33
両替町にあるバーやスナックが入居する雑居ビル。
レトロな雰囲気を醸し出しているらせん階段。
昭和42年発行のガイドブック*1 によると、両替町には、「キャバレー金時」「クインビー」「ソワール」「エスポアール」などの高級バーがありました。
ショーのご案内。
【参考文献】
*1 梅田晴夫:全調査東海道酒・女・女の店(有紀書房,1967)P.216-P.217
北海道北見市北7条西4丁目の交差点。
カラオケスナックが入るプレハブ風の建物。
テレクラの看板。現在は休業中のようですが、看板だけが残っています。
別のカラオケスナック店の「グレース」の看板。
1969年に出来た飲食専用の「スカイビル」。
ビルの上部には、「B1キャバレー」の大看板。
現在、地下1階にキャバレーはありません。
看板だけが取り残されているようです。
宮崎の歓楽街の中央通り。
宮崎で随一のラウンジキャバレーがあります。
ピンクではありません。
玄関上の看板。
今回は、堺東(大阪府堺市)の町並みと風俗を散歩します。
堺東駅の西側の阪神高速に沿って、土居川公園があります。
園内端に大きな花時計があるのが特徴です。
土居川公園は、一時期、ハッテン場のスポットとして、マニアの間では有名な場所で、ハッテンエリアは、花時計とトイレ周辺で、トイレの扉裏などには、唖然とするような落書きもありました。*1
トイレは最近リニューアルされたようです。かつての名残はありません。
公園に隣接して建ち並ぶラブホテル。
【参考文献】
*1 バディ(2000.6)
今回は、余市(北海道余市郡)~積丹(北海道積丹郡)の町並みと風俗を散歩します。
余市の黒川町には、スナックや居酒屋が建ち並ぶ歓楽街があります。
歓楽街中心部に、かつての「キャバレーハクチョウ」の建物があります。*1*2
現在は、「よいち銀座はくちょう」という名のデイサービス施設になっています。*1
裏側から見ると、歴史のある建物であることがわかります。
【参考URL】
*1 社会福祉法人よいち福祉会:ホームページ【参考文献】
*2 日本住宅地図出版:余市郡余市町(日本住宅地図出版,1982)P.17
広小路から北側に一本入った道路沿いに、中華屋などが入居する古い雑居ビルがあります。
ビル横の道は、銭湯脇の路地へ続いています。
古い飲食店の建物。
「社交喫茶」という言葉が流行った時代があったようです。
中通の歓楽街は、れんが通りと直行する数本の細街路で形成されています。麗女通の北東側には「有楽街」と名付けられたエリアがあって、ここにはスナックやキャバレーが密集しています。
今では珍しくなったグランドキャバレー。
夜になると艶めかしい雰囲気になります。
夜の有楽街。
駅前横丁の中ほどのあたりにあるキャバレー(タレントパブ)。
入口の脇に「岩国初!!初来日」の看板。
建物側面には、自販機が2台あります。
自販機と同じ赤色の掲示板に店内の写真が掲載されています。
大門町の繁華街の中心部にモダンな近代建築が残されています。
この建物は、昭和11年に大門百貨店として建てられた4階建ての本格的な鉄筋コンクリートのビルで、戦災でも焼け残り、そのまま大門百貨店として営業を再開しました。その後昭和30年に「松菱百貨店」、昭和38年にパチンコ店となりました。*1
現在も1階にパチンコ店が営業中ですが、2階より上は、スチームセンター(サウナ)となっていた時期があったようです。
モダンな建物の外観。往時の頑丈な姿を残しています。
屋上部分には、展望台のような施設があります。
【参考文献】
*1 (株)まちづくり津夢時風:津の街なか案内((株)まちづくり津夢時風)P.29
今回は、西船橋(千葉県船橋市)の町並みと風俗を散歩します。JR西船橋駅前にランドマークのようにそびえている早稲田予備校西船橋校の手前にキャバレービルがあります。
キャバレービルは、駅前のメイン通りにあります。
キャバレーなどが入居する総合レジャービルです。
2Fフィリピン、3Fロシア、4F日本...フロア毎に国が分かれています。5Fは麻雀、6Fはカラオケです。
「飛田本通り商店街」を南へ行くと「飛田本通り南商店街」です。
「紳士の社交場」の看板があります。
現在は営業していないようですが、昔懐かしいアルサロがあります。
看板も凝っています。
点在するスナック街に、「風俗営業(カフェー)」のプレートが貼られた建物があります。
こちらの看板にある通り、数年前まで営業していた歴史のある風俗店だったようです。
昭和24年の開店から50年ということですから閉店したのは、1999年頃ということになります。
色鮮やかなタイルの装飾。
現在は、風俗店の面影はありません。
思案橋の繁華街に閉店となった大衆クラブの建物が残っています。
建物の右側が大衆クラブだったようです。
派手な電飾看板。
朽ち果てた電球。
味園ビルの東側の角には、キャバレー「ユニバース」のネオン看板が輝いています。
国内最大級のグランドキャバレー「ユニバース」は、平成23年3月15日をもって閉店しました。今後は、貸し会場、貸しギャラリーとして営業されます(貼り紙より)。
入口の装飾。
ビルの裏側には、応募の方の入口が残っていいます。
昭和初期、新宿5丁目交差点の南東側に、「トルコ芳泉」がありました。*1
「トルコ芳泉」は、公衆浴場とサウナ風呂として昭和25年にオープンした日本最初のトルコ風呂でした。サウナ風呂には、一人の個室と三人一部屋の個室があって、それぞれ一人づつサウナ嬢が白いパンツにブラジャー姿で首だけ出るサウナボックスに入れ、汗が出ると冷たいタオルで拭いてくれました。時間がくるとボックスから出てベッドに横たわりマッサージをしてくれる健康的なもので、大体1時間ぐらいでした。初めての人は友人と連れ立って三人部屋を希望しますが、何故か二回目には一人個室を求め常連となる人が多かったそうです。その後トルコ風呂は大流行し、競争が激しくなり、スペシャルサービスを行うようになって、健全なサウナは風俗営業になってしまいました。*2
現在は商業施設のビルに建て替わっています。
当時の面影はありません。
【参考文献】
*1 住宅協会:新宿区東部(住宅協会,1960)P.35
*2 武英雄:内藤新宿昭和史(武英雄,1998)P.108
「新宿二丁目東」交差点は、ゲイの街「仲通り」の入口にあたる場所です。
その「新宿二丁目東」交差点の南側に、ガラス張りのビルがありますが、この場所には2006年頃まで「ラシントンパレス」という新宿二丁目の特殊性を象徴するようなテナントビルがありました。その最上階をまるまる占めていたのは、「スカイジム」というゲイ専用のサウナで、ハッテンバ(ゲイの性の社交場)でした。*1
ラシントンパレスは、戦後新宿二丁目では一番早く建てられた大きなビルで、羅府飯店が中国名でした。*1*2
ビルの裏の路地。
路地の反対側にはアーチがあって、昔の雰囲気を伝えています。
【参考文献】
*1 竜超:消える「新宿二丁目」(彩流社,2009)P.120,142-P.143
*2 武英雄:内藤新宿昭和史(武英雄,1998)P.108
名鉄岐阜駅に近い羽根町に、75年前から当時の姿で今現在も存在している建物があります。
芸文ダンスホール。建物全体が白いタイルで覆われています。
現在は、イタリア料理店*1 となっています。
建物側面の通用口。
【参考URL】
*1 イタリア料理「Ristorante BucaLupo」:ホームページ
赤坂には、多くのキャバレーが存在しました。昭和の中頃、料亭と芸妓の減少は、同時にキャバレーやクラブの増加を意味していました。世界第一と言われたキャバレー「ミカド」は隆盛時の昭和50年中期には500人のホステスを抱え、しかもいずれも若く美人揃いでした。「美人を見たければ、夕方出勤時の赤坂ミカドの楽屋口に立て」と言われたほどに、若く美しい女性がミカドに集まりました。*1
キャバレー「ミカド」は、昭和60年に閉店し、現在は商業ビルになっています。
キャバレー「CABANA」があった付近。手前には、旧料亭の「浅田」がありました。*1
ディスコ「ムゲン」は、日本で最初のディスコとして昭和43年にオープンしました。店の前には、ローマから運んだ2体の石造が立っていて赤坂の名物となっていました。*1
「ムゲン」は、ゴーゴーダンス、モンキーダンスのメッカとなり、いい女はここで踊るのが定番となりました。客層も芸能人だけでなく、三島由紀夫、川端康成などの文化人も来訪していました。「ムゲン」は、昭和62年に幕を閉じました。*2
【参考文献】
*1 松沢光雄:繁華街を歩く東京編(綜合ユニコム,1986)P.171-P.195
*2 本橋信宏:60年代郷愁の東京(主婦の友社,2010)P.133-P.141
赤坂の東側。永田町にある首相官邸は、日本の政治の中枢です。
昭和41年、この首相官邸の裏にトルコ風呂の建設が申請されました。当時、トルコ風呂の営業地域は特定されておらず、許可さえ受ければどこでも開業できた時代だったため、トルコ風呂業者が永田町の首相官邸の近くでの営業を申請したわけです。ところが、それを知った佐藤栄作首相が大激怒。関係省庁にハッパをかけ、第15回国会に「風俗営業等取締法の一部改正」を上程して通過させ、開業を阻止しました。風俗ジャーナリストの広岡敬一さんは、どこの誰による開業申請かを探るため、所轄と思われる麹町保健所で申請書を探しましたが、書類は破棄されて不明だったそうです。*1
トルコ風呂の建設が申請された「官邸裏」とはどこだったのか、手がかりが無く不明ですが、この問題を議題としてとりあげた昭和41年6月27日の参議院地方行政委員会*2 で、市川房枝議員は「総理官邸の下」と表現しています。おそらくトルコ風呂は、官邸のある高台よりも地形的に低い場所に計画されていたのでしょう。首相官邸の南東側は崖になっていて、現在、この付近には、東横イン官邸南店などの民間のビルが建ち並んでいます。
また、同委員会で、松澤兼人委員は、「参議院会館の窓からのぞくと、大きなたれビラが、屋上から下に下がっていて、『サウナ・バス、八月一日オープン』と書いてあった。」とこのときの状況を国会で説明しています。*2
さらに、松澤兼人委員は、「きのうヒルトンホテル(現在のキャピトル東急ホテル)に参りましたら、あの角のところに何とかというビルがある。そこにサウナ・バスとかいう大きなたれビラがたれまして、八月一日オープンと、こう書いてある。」と述べています。*2
「大きなたれビラ」があったと思われる場所は、首相官邸からは少し離れていますが、官邸の北西に位置し、地形的にも低い場所にあります。この付近にトルコ風呂が計画されていた可能性もあります。
【参考文献】
*1 広岡敬一:戦後性風俗大系(朝日出版社,2000)P.211-P.212
【参考URL】
*2 国会会議録検索システム:第051回国会地方行政委員会第32号(1966.6.27)
靖国通りから北側に1本入ったソープランド街。数年前と比べるとヘルスに転業している店舗もあって、時代の移り変わりを感じます。
歌舞伎町は、トルコ風呂改名(1984年)にまつわる都市伝説の舞台にもなりました。1975年11月14日の毎日新聞(夕刊)のコラム記事「赤でんわ」によると、当時、歌舞伎町に「大使館」という名のトルコ風呂がオープンしましたが、それ以来、毎夜、大使公邸に「いま、すいてますか。」「Aちゃんいる?」といった調子で、怪しげな電話がかかってくるようになり、職員は夜も眠れないありさまとなりました。104番にトルコ大使館の電話番号を問い合わせたのを交換嬢が「トルコ風呂大使館」としばしば間違え、トルコ大使館の番号を教えたのが真相ですが、たまりかねたトルコ大使館は、1975年6月に外務省を通じ大使名で正式に電話番号の変更を申し入れ、トルコ風呂「大使館」は、「古城」と名を変えることになりました。*1
「わが国にはこの種のトルコ風呂はありません。まぎらわしい名前を使われては国のイメージにかかわるので」と大使館。「外務省から圧力があったから変えたわけではないですよ」とすました顔のトルコ風呂側。まずは、国際問題にもならず、メデタシというお話でした。*1
1975年版(昭和50年版)の電話帳で確認してみると、歌舞伎町に「ルームサウナ『大使館』」の電話番号が掲載されています。場所は、歌舞伎東京第18ビルで、電話番号は、209-1645となっています。それが、1976年版(昭和51年版)の電話帳では、「ルームサウナ『大使館』」の名は無く、「トルコ『古城』」の名前があり、場所は同じ歌舞伎東京第18ビルで、電話番号は、208-9774に変更になっています。*2*3*4
毎日新聞の記事の「トルコの大使館」の舞台は、この場所だったと考えられます。
1984年にトルコ人留学生の働きかけがきっかけとなって、「トルコ風呂」が「ソープランド」に改名*5 されましたが、それより10年も前に、すでに改名の働きかけあったわけです。
【参考文献】
*1 毎日新聞社:毎日新聞夕刊(1975.11.14)P.8「赤でんわ『トルコの大使館』 」
*2 日本電信電話公社:東京23区電話帳 職業別(生活篇 下)昭和49年12月1日現在(1975,東京電気通信局)P.404
*3 日本電信電話公社:東京23区電話帳 職業別(生活篇 下)昭和51年6月1日現在(1976,東京電気通信局)P.429
*4 日本住宅地図出版:ゼンリンの住宅地図 新宿区(1976,日本住宅地図出版)
【参考記事】
*5 風俗散歩(原宿):トルコ共和国大使館(2010.10)
原宿から明治通りを北へ行った神宮前一丁目交差点付近。
ここに、トルコ共和国大使館があります。
1984年、元トルコ人留学生が厚生大臣に直訴状を手渡しました。その内容は、「日本にあるトルコ風呂(現在のソープランド)とわが国のトルコ風呂とは全然違うのだから、トルコという名称を使うのは、やめて欲しい。」というものでした。「トルコ風呂」は、あくまで俗称であるので、厚生省としては、何もできませんでしたが、国際問題に発展しかねないこの問題に対して、トルコ風呂の業界団体である東京都特殊浴場協会がトルコ風呂に代わる新名称を公募しました。公募によって集まった2400以上の名称の中から、当時24歳の会社員の男性の「ソープランド」が採用されました。*1
一方、トルコ風呂改名には、別の都市伝説も存在します。かつて「大使館」というトルコ風呂があったという話です。電話帳に、「トルコ(風呂)・大使館」と「トルコ大使館」が併記されていたたため、本物の大使館に、トルコ風呂「大使館」あての電話がしばしばかかってきました。また、新任のトルコ大使館員が、(タクシーで)空港から大使館へ向かおうとしたところ、トルコ風呂「大使館」へ連れて行かれました。こうしたことが重なって、激怒したトルコ大使館は日本の外務省へ講義し、名称を変更することになりました。*1
【参考文献】
*1 井上章一,斎藤光,澁谷知美,三橋順子:性的なことば(講談社,2010)P.234-236
原宿駅の西側に広大な敷地を持つ代々木公園があります。代々木公園は、敗戦後の1945年にアメリカ軍に接収されたワシントンハイツが、1964年に東京オリンピックの選手村となった後、1967年に都市公園として開園したものです。
広大な敷地の中には、サイクリングコースがあります。
公園の北部にあるサイクリングセンター(通称自転車小屋)で自転車を借りてサイクリングを楽しむことができます。
この自転車小屋の裏手は、都内では有名な野外ハッテンバでした。ネットの掲示板には、「筋肉系」とジャンルを絞って、毎夜書き込みがされていました。*1
幼児車向け自転車乗り場の奥の広場もハッテンバでした。*1
【参考文献】
*1 Badi(2002.8)P.36-P.37「野外ハッテンスポット厳選紹介」
複合文化施設「たいはっくる」の北側から西の方向を見ると、道路がゆるやかなカーブを描いて続いています。
現在、キャバレーとなっているこの建物は、かつてはミリオン劇場という名の映画館でした。
周囲には高層マンションが建ち、開発が進んでいますが、この建物だけは当時のままです。
事務所入口。
今回は、紀伊大島(和歌山県東牟婁郡串本町)の町並みと風俗を散歩します。
紀伊大島は、本州最南端の潮岬がある串本町の沖合いに浮かぶ島です。紀伊大島の東端には樫野埼が大きく突き出していて、その附近には暗礁が散在しています。写真は海金剛(うみこんごう)から見た樫野埼(写真右奥)です。
明治23年(1890年)、オスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号がこの樫野埼の暗礁に座礁して遭難しました。樫野崎灯台そばにはエルトゥールル号殉難将士慰霊碑があります。
このとき、島民の献身的な救助により、69名が救助されましたが、580名の尊い命が無くなりました。日本とトルコの友好関係の起点としてこの事件が記憶されている。
引き上げられた遺体は、現在の慰霊碑がある丘(写真右上)に埋葬されました。
トルコと言えば、日本の性風俗業界ではトルコ風呂(現在のソープランド)が有名ですが、1984年にある元トルコ人留学生の抗議運動があり、日本とトルコの友好に亀裂が生じかねない事件に発展しました。その結果、「トルコ風呂」は「ソープランド」と改称され、昨今では、性風俗用語としての「トルコ風呂」の名も忘れ去られつつあります。
朝鮮戦争の激戦のさなか、朝霞の南栄通りは最も繁栄する時代を迎えました。基地の周辺には米兵相手の大きなキャバレーやクラブがそこかしこにできました。「キャバレー・サンフランシスコ」の跡地には、現在大きなマンションが建っています。*1
現在の朝霞第四中学校の正門前に、大きなマンションが建っていますが、「アメリカンリージョンクラブ」と呼ばれたキャバレーがありました。アメリカ独立記念日の7月4日には打ち上げ花火が上がりました。*2
現在、中華屋とコンビニになっているあたりには、「バー・タイガー」、「バー・ニイト」がありました。*1
「キャバレー・フラミンゴ」があった場所は、駐車場になっています。「キャバレー・フラミンゴ」は南栄第1号のキャバレー(ダンスホール)でした。*1
米軍基地があったおかげで、朝霞には、フランク永井、江利チエミ、雪村いずみ、ダークダックスという当時の新進気鋭の歌手が来ました。*1
【参考文献】
*1 中條克俊:君たちに伝えたい朝霞、そこは基地の街だった。(梨の木舎,2006)P.74-P.75,P.92-P.93,P.104
*2 郷土出版社:目で見る朝霞・志木・新座・和光の100年(郷土出版社,2007)P.91
川崎市内の繁華街を歩いていると、「ナイトイン右折」の看板を発見。
老舗のキャバレーの建物です。
帽子のマークの大看板。迫力があります。
2つ並んだゴミ箱。
竹ノ塚駅の東側。国道4号線沿いの元渕江公園では、夜な夜な露出狂のカップルが出没するといいます。*1
都心部のハプニングバーの客が店の後に訪れ、公園内の身障者用便所がプレイルームになっていると言われています。*1
トイレのドアの内側の落書き。ハッテンバとしても活用されているのでしょうか。
長文の落書き。
【参考文献】
*1 尾形誠規:東京裏地図 行かなきゃ損する都内B級スポット200選(鉄人社,2007)P.56
八代市本町の繁華街のはずれに、「キャバレー白馬」があります。
演歌歌手の八代亜紀さんは、熊本県八代市の出身ですが、16歳のデビュー前の初舞台の場所が、この「キャバレー白馬」だったそうです。*1
派手なデザインの屋上大看板。昭和の雰囲気を感じます。
ホステス募集です。
白馬専用。
【参考URL】
*1 asahi.com マイタウン 熊本 この人 八代亜紀さん(2005.6.6)
ロンドン薬研掘店。
おなじみの黄色の電飾。
面接受付中の看板。
夜になると、ネオン看板が煌々と輝きます。
駅前のスナック街のはずれに閉店したキャバレーがあります。
店の大看板。電球の数の多さは圧巻です。
側面の階段が入口です。
隣接する墓地から遠望。
【参考記事】
*1 風俗散歩(御殿場):駅前のスナック街(2009.9)
帯広駅前の銀座通りに、ひときわ目立つ店舗があります。
巨大な航空機のオブジェが貼りついています。
尾翼には鶴のマーク。今にも空に向かって飛び立ちそうです。
747。飲み放題1000円は、格安です。
帯広駅前、繁華街の銀座通り。近くには、「北の屋台」などもあり、帯広観光の中心部です。
銀座通りの中ほどに、「はせ川ビル」があります。
ビルの屋上には、「ハワイ」と書かれた大看板があります。
社交の殿堂。現在は、スナックやキャバクラなどが入居しています。
三谷温泉の中心部にあるホテル明山荘。多くの客が訪れる名門のホテルです。
ホテル明山荘の奥の駐車場となっている敷地に、昭和40年に開業した本格的なキャバレー「みなと」の建物が残っています。
「全調査東海道酒・女・女の店」には、「『みなと』は、夜になると赤、青のネオンが点滅し、三谷へきたときは、まずここへ繰り込んで酒と女に浮かれてから、アバンチュールを求めて小さなバーへくりこむのが客たちのコースになっている。」と紹介されています。
2階建てで、1階にはステージがあり、専属バンドの演奏やダンスも楽しめました。*1
【参考文献】
*1 梅田晴夫:全調査東海道酒・女・女の店(有紀書房,1967)P.216-P.217
船橋駅近くの商店街のアーケードに「ハワイ本店」の看板がありす。
細い路地に飲食店が建ち並んでいます。
路地に面して派手な看板を掲げた店があります。
入口には、女性の写真が貼ってあります。
亀戸駅北口を線路沿いに西へ行きます。閑静な住宅街です。
東武亀戸線、JR総武線の電車からも見えるこの場所に、女装者たちが集まるクラブ「エリザベス会館」がありました。*1
エリザベス会館は、エリザベス神輿*2 を寄贈したことでも有名です。
現在は、マンションに建て変わっています。
亀戸の商店街や駅ビルの「エルナード」の人たちは、エリザベス(女装愛好者)のよき理解者でした。たとえば、エリザベスのイベントで寿司大会を催すときに、寿司飯だけ売ってくれるお寿司屋さんやエリザベス割引ということで10%オフしてくれるクリーニング屋さんなどがありました。*1
駅ビルの「エルナード」は、現在は「アトレ亀戸」に代わっています。
【参考文献】
*1 内田かおる:別冊宝島 ウラ東京観光(宝島社,1998)P.66-P.71「亀戸に集まる女装者たち」
*2 風俗散歩(川崎大師):かなまら祭(2007.4)
現在3丁目にあるグランドキャバレー「白いバラ
「白いばら」は、アルバイトサロン(略称:「アルサロ」)が全盛だった昭和29年に「ニュータイガー」から転向し、オープンしました。アルサロは、明朗・安価なシステムに加えて平均年齢19歳前後というピチピチ嬢のにわか仕込のサービスが大衆の人気を集めました。*1
店の前の日本地図のパネルには、在籍の女の子の名札が貼ってあり、出身地がひと目でわかるようになっています。
女性募集の看板。
【参考文献】
*1 福富太郎:キャバレー秘史P.117-P.125
昭和26年は、わが国の風俗界に新しい風が吹いた年でした。日本で最初のトルコ風呂(現在のソープランド)が東銀座に開店しました。
「戦後性風俗体系」*1 に掲載されている写真によると4~5階建ての建物ですが、現在は新しいビルに建て替わっています。
東京温泉は、延べ1,600坪の建物で、蒸し風呂付の大浴場や30の個室、レストラン、喫茶の設備がある、豪華を極めるレジャー施設でした。東京温泉は、正統マッサージだけでしたが、ミス・マッサージは美人揃いでした。*1
開業前に、トルコ風呂のサービスガールを公募。水着審査のコンテストが行われました。*2
「東京温泉」を「トルコ風呂」と名付けたのは、内外タイムスの整理部の記者でした。トルコ協和国の蒸し風呂を連想したため、記事に「日本で初めてトルコ風呂が」と見出しをつけたことがきっかけです。結果、「東京温泉」に対しては、迷惑を及ぼしました。後になって、広岡敬一さんが「東京温泉」の二代目社長を取材したところ、「冗談じゃないですよ。うちがトルコ売春の元祖のように思われて」と憤慨していたそうです。*1
現在は、カラオケボックス等の店舗が入っています。
【参考文献】
*1 広岡敬一:戦後性風俗体系(2000,朝日出版社)P.83-P.84
*2 井上章一:美人コンテスト百年史(新潮社,1992)P.119
昭和30年代まで海岸線だった稲毛浅間神社付近*1 から数キロ離れたところに現在の海岸線である「いなげの浜」があります。
休日は家族連れで賑わいます。
海岸の東側の日焼けスポット。
ムック本によると、公園東側にある球場周辺の松林内は、ハッテンスポットとのことです。*2
【参考文献】
*1 風俗散歩(稲毛):稲毛浅間神社(2007.9)
*2 斎藤靖紀:別冊宝島(1996.11)「ウラ東京観光 決定版!」P.184-P.186 「ゲイのための無料ハッテンバ紹介」
JR本八幡駅前に老舗のキャバレーチェーンの「ハワイ」があります。この赤い看板は、よく見かけます。ハワイチェーンは、F・C(のれん分けシステム)の導入により、全国制覇を成し遂げました。*1
入口の階段に「いらっしゃいませ!」の手書きの文字。隣には、なぜか質屋の看板。
隣にはもう1軒、別のキャバレーがあります。本日「キャミソール・デー」です。
JR本八幡駅のプラットフォームから、キャバレー「ハワイ」の看板が見えます。看板の周りのランプの歯抜け具合が、店の歴史を感じさせます。
【参考文献】
*1 緒方小夜子:女の目がみたキャバレーハワイ(東京経済,1977)P.101
1991年5月、芝浦の空き倉庫に、「ジュリアナ東京」がオープンしました。ボディコンの女性が羽根扇子(ジュリ扇)を振り回しながら踊る、高さ1.2mのお立ち台が名物で、最初に扇子を持って踊りだした女性は、後に荒木師匠1 と呼ばれて有名になりました。2
「ジュリアナ東京」があった場所は、ボウリング場の「東京ポートボウル」の隣で、現在は、スポーツ用品店になっています。*3
スポーツ用品店は、当時の「ジュリアナ東京」の建物をそのまま使用しています。また、店内には、併設のカフェのカウンタ、正面の大型モニター、2階へ上がる階段など、当時のままで使用されています。3
1992年の夏頃からジュリアナ報道は過激の一途をたどりましたが、1993年4月に、お立ち台の下からの「パンチラ撮影」が禁止されると、報道は一歩進んで、「なぜ彼女たちはパンツを見せても平気なのか」と分析する方向に向かいました。4
「ジュリアナ東京」は、日商岩井の折口氏、イギリスのレジャー企業ウェムブリー社、そして東京倉庫運輸など、数社の寄り合い所帯でスタートしました。その後、数々の内紛があり、お立ち台が撤去されることにより客足が遠のき、1994年8月に閉店しました。*5
「ジュリアナ東京」があった場所(東京ポートボウルの隣)」には、東京倉庫運輸が芝浦に進出してきたときに建てた稲荷神社があります。案内板によると、進出当時、小さな祠があったものを東京倉庫運輸が稲荷神社として整備したそうです。
「ジュリアナ東京」をプロデュースした折口氏(現グッドウィルグループ6 会長)は、1994年に、六本木に巨大ディスコ「ヴェルファーレ」をオープンしましたが、やはりオーナーと意見が合わず経営から離脱。その後、人材サービス会社を起業し、介護事業の「コムスン」も傘下に収めましたが、三たびディスコ経営に乗り出す意思はないと公言しています。1
芝浦には、もう一つ、「芝浦ゴールド」というディスコがありましたが、今はマンション(下の写真)になっています。*3
【参考文献】
*2 週刊文春(2005.8.11,13)P.191「ジュリアナ東京プロデューサーが告白「羽根扇子」大流行の謎」
*3 浅妻千映子:週刊文春(2000.12.28)P.173-P.175「ポストバブルは「ジュリアナ東京」で始まった(追跡 あの店は今・・・時代の主役はスターより店だった)」
*4 岩下 久美子:文芸春秋(1993,10)P.372-P.379「ジュリアナに豚印OLはいない」
*5 桐山秀樹:文芸春秋(1994.10)P.356-P.361「ジュリアナで踊った人踊らされた人–華やかなお立ち台の裏の金銭を巡るドロドロ」
【参考URL】
*1 荒木師匠ネット
*6 グッドウィルグループホームページ
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