八戸(新むつ旅館)元遊廓の建物で営業中です。

八戸駅から2駅隣の小中野駅から徒歩10分ほどの場所に東北屈指の歓楽街と言われた小中野新地がありました。

新むつ旅館は、明治30年、貸座敷「新陸奥楼」として開業しました。ただの遊廓ではなく、20畳の宴会場と5つの部屋があり、芸者2人、遊女3人を抱え、芸者遊びが出来る遊廓でした。昭和32年の売春防止法施行後は、建物をそのまま生かし旅館として時を刻んできました。*1

同じ通りを北側から見たところ。

昭和のはじめに建てられたと思われる旅館。

【参考文献】
*1 rakra(2008.1)

参考文献

参考記事

八戸(駅前のストリップ劇場)雰囲気のあるブリキの塀。小沢代表のポスタ。

今回は、八戸(青森県八戸市)の町並みと風俗を散歩します。
新幹線の駅がある八戸駅からJR八戸線に乗り、2駅目の本八戸駅で下車します。
本八戸駅前にあるスリップ劇場。ストリップ劇場にしてはめずらしく派手な装飾のない建物です。

雰囲気のあるブリキの塀。

入口のゲートには、小沢代表のポスタ。

入口附近。

参考文献

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浅草(サンバカーニバル)雨の中でのパレードでした。

毎年8月の最終土曜日に浅草サンバカーニバルが開催されます。パレードは、馬道通りから雷門通りにかけて行われます。
浅草サンバカーニバルは、1980年、俳優の伴淳三郎さんの発案で始まりました。*1

今年は、あいにくの雨(時々豪雨)の中でのパレードとなりました。

パシスタと呼ばれるパレードの中のソロダンサー。どこのチームも魅力的です。

タンガと呼ばれる衣装で、背中にたくさん羽を背負っています。

【参考URL】
*1 浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)ホームページ

参考文献

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浅草(ひさご通りの看板)娼婦、男。かつての「十二階下」。

花やしきから、北へ、ひさご通りに入ります。ひさご通りの中程、米久のあるあたりに看板があります。

近くにラブホテルがあるので、「街娼」が出没するのも納得できます。
この附近には、明治~大正時代、十二階(凌雲閣)があり、十二階の周辺は、「十二階下」と呼ばる魔窟でしたが、現在もこの伝統が受け継がれているのかもしれません。

ひさご通りの入口附近に、もう一つの看板があります。文言はほとんど同じですが、一箇所だけ、「街娼」が「娼婦」という言葉に置き換わっています。

よく見ると「娼婦」の隣に、誰が書いのか「男」の文字。

参考文献

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浅草(浅草観音温泉)バンビさんは動きません。

浅草観音温泉に入ってみます。
銭湯は、男湯と女湯の入口が分かれているのが普通ですが、ここの銭湯の入口は一つです。ロッカーがたくさん並ぶ廊下を過ぎるとその先で、男湯と女湯の入口があります。

バンビの乗り物があります。しかし、横には、「バンビさんは動きません。」の貼紙。

脱衣所にある「マナーのお願い」の貼紙。

コンクリート造りで、天井が高いのが印象的です。天井は緑色、柱は赤色に塗られています。中央に円形のタイル張りの湯船があり、タイルで人魚の姿が描かれています。

参考文献

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浅草(浅草観音温泉)蔦の絡まる銭湯。男は黙ってサッポロビール。

浅草寺本堂の前を西へ向かうと浅草観音温泉の建物が見えてきます。建物の屋上には、「浅草観音温泉」と書かれた大看板があります。
左に、浅草ビューホテル、右に花やしきのタワーが見えます。

蔦の絡まる銭湯。

「男は黙ってサッポロビール」の看板。三船敏郎のCMが懐かしいです。

入口の横に、「極端に不潔な方、入場お断り」の貼紙があります。

参考文献

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浅草(仲見世)水茶屋は、江戸時代の流行の発信基地でした。

今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
江戸時代、明暦の大火により元吉原の遊廓が現在浅草寺の後方に移されたことによって、浅草寺界隈は人手で賑わうこととなりました。

仲見世の風景。

さまざまな店が並び、賑わいを見せています。

仁王門近くに、江戸時代に水茶屋が建ち並び賑わっていたことを示す案内板があります。
表参道が吉原通いの主要通路であったことが、境内の繁栄につながり、参道に沿って水茶店が出現し、水茶屋女が評判となるようになりました。
当時の水茶屋女の容姿の代表的なものとして、衣装には贅を尽くし、特に前掛けに工夫をこらし、江戸の流行の原動力となりました。

【参考文献】
*1 上坂倉次:あさくさ仲見世史話 門前町繁昌記(浅草観光連盟,1985)P.27-P.38

参考文献

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瀬上(青柳神社)男上(男根)と女神(女陰)が原型をとどめています。

瀬上駅近くに青柳神社があります。

森林の中に大きな社があります。

境内の社の裏手に、多くの石祠がありますが、そこに性崇拝の跡が見られます。やはり、遊廓町としての名残と思われます。*1

女神(女陰)。

【参考文献】
*1 小林金次郎:ふくしま散歩 福島郷土文化風物誌 県北編 改訂版(西沢書店,1977)P.184

参考文献

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瀬上(瀬上町遊廓跡)当時の建物が現存しています。

全国遊廓案内によると、瀬上町遊廓には、今加楼、備中楼、八幡楼、花月楼、今出楼、普豊楼の6軒の貸座敷があり、約45名の娼妓がいたそうです。*1
国道4号線沿いの「瀬上中央」バス停から北へ50メートル。信号機のところを右に入ったところに、花月楼の建物が現存しています。*2*3

花月楼は、昭和15年頃に、石倉造りの部屋を増築し、13人ものお姉さんたちに揃いの飾り着をつくり、歌いはやし踊らせたそうです。*3

裏口の上部に「花月」の文字が確認できます。

表側へまわると、石蔵の前は広い敷地になっています。

【参考文献】
*1 南博編:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.41
*2 薄井三男:福島公娼史(薄井三男,1993)
*3小林金次郎:ふくしま散歩 福島郷土文化風物誌 県北編 改訂版(西沢書店,1977)P.181-P.183

参考文献

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瀬上(瀬上宿)宿場町だった場所。瀬上宿の看板。

今回は、瀬上(福島県福島市)の町並みと風俗を散歩します。
JR福島駅から阿武隈急行線に乗り換え、3つ目の駅が瀬上ですが、今回は、一つ手前の福島学院前で下車します。国道4号線沿いに歩くと瀬上宿の看板があります。このあたりが、かつての宿場町だったようです。

付近は、ビジネスホテルが1軒あるだけで、宿場町の面影はありません。

「瀬上中央」バス停。

「瀬上中央」バス停から50mほど北の薬師前という地名のあたり。国道わきに古い石造りの建物が見えます。

参考文献

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新町(於菊稲荷神社)遊女が献額した絵馬が残されています。

旧中仙道から北側に路地を入ったところに、於菊稲荷神社があります。

於菊稲荷神社の名称の由来は、今から250年前に隆昌を誇った新町宿の大黒屋とう宿屋にいた遊女のお菊からきています。お菊は重い病にかかりましたが、この社で一心に祈願したところ病が回復しました。*1

遊女が献額した絵馬が残されています。

かむろつき遊女の参詣図

【参考文献】
*1 「上州路」編集部:月刊上州路 No.251 P.38「新町の観光スポット」(1995.3)
*2 千木良英一:月刊上州路 No.251 P.16-P.17「新町宿のれこれ」 (1995.3)

参考文献

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新町(諏訪の湯)中に入ると凄いです。

新町駅近くに古い銭湯があります。

入口付近。何とも言えない荒廃した雰囲気です。

建物の隣の広場には、雑然と物が置かれています。

中に入るとさらに凄いです。

参考文献

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新町(駅前の古い旅館)

JR新町駅前に、小規模なスナック街があります。

古い旅館の建物があります。

歴史を感じる看板。

美しい板塀です。

参考文献

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新町(ビデオショップ)鑑賞室が別棟になっています。

今回は、新町(群馬県高崎市)の町並みと風俗を散歩します。
JR新町駅前の国道沿いにレンタルビデオショップがあります。

ビデオ鑑賞だけでなく、お昼寝としても利用できるようです。

品揃えも豊富です。

ビデオ鑑賞やお昼寝は、ショップから30mほど離れ別棟(1枚目の写真のショップの左上に写っている建物)で行います。郊外型の立地を生かした業態といえるかもしれません。

参考文献

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豊橋(有楽町の赤線跡)当時の建物が現存しています。

小池駅から東側のコンビニのミニストプのところの交差点を西に曲がると、赤線があった有楽町に行き着きます。

当時の建物が現存しています。

落ち着いた感じの和風の建物がずらっと並びます。

1軒だけ洋風のアパート風の建物がありました。

参考文献

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豊橋(小池駅近くの古い旅館)当時のままで営業中です。

豊橋鉄道渥美線の小池駅近くに古い旅館が2軒あります。

そのうちの1軒、大黒屋は当時のままで現在も営業中の旅館です。

玉川旅館。

風情のある入口付近。

参考文献

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豊橋(小池の制服屋)高級女学生制服。

JR豊橋駅から豊橋鉄道渥美線に乗り、2駅先の小池駅で下車します。小池駅の西側の通り。

広い通りに面して、制服屋があります。

高級女学生制服。

ショーウィンドウ。

参考文献

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豊橋(東田仲ノ町旧赤線地帯)現在も旅館が営業中です。

豊橋に古くから存在する吾妻遊廓は、明治43年に吉田の宿場から遊廓になりました。*1
昭和2年の「豊橋市街地図」を見ると、吾妻町の正方形の区画の東側、つまり、赤線があった東田仲ノ町のあたりに、「遊廓」の2文字が記されています。
戦後は赤線に移行しました。*2

売防法以降は、料理屋に転向し、仲居という名の接客婦を置いた時期があり、その結果、取り締まり当局の集中攻撃を受け徹底的に検挙されてしまい、その後は普通の旅館に転向したと言われています。*3

現在も現役で営業中の旅館が何軒かあるようです。

往時を偲ばせる建物が残っています。

*1 全国遊廓案内
*2 木村聡:赤線跡を歩く2 P.102-P.103
*3 全調査 東海道 酒・女・女の店P.202

参考文献

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豊橋(東田仲ノ町公園)公園の向こう側は赤線地帯でした。

市電の競輪馬場前駅の南側に東田仲ノ町公園があります。

競輪馬場前駅から道路を歩くと、突然、緑が多いY字路に出会います。ここが東田仲ノ町公園です。

公園の向こう側は赤線地帯でした。現在も和風の旅館が建ち並びます。

公園の中には、神社があります。

参考文献

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豊橋(市電)豊橋駅前から市電に乗ります。

今回は豊橋(愛知県豊橋市)の町並みと風俗を散歩します。
豊橋は、路面電車のある町です。JR豊橋駅前に市電の駅があります。

市電が町を走ります。

道路との併走区間が延々と続きます。

競輪場前駅にて。

参考文献

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上諏訪(フランス座)温泉地のストリップ劇場

上諏訪駅の北側の湖岸通り三丁目付近は、観光ホテルが建ち並ぶエリアです。温泉地には、ストリップ劇場があることが多いですが、上諏訪にもありました。フランス座です。

夜になると、ネオンが煌々とともります。

入口付近。

「ヌード劇場フランス座」の看板。

参考文献

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上諏訪(大手見番)邦楽教室として営業中です。

大手花街の路地を入ったところに、大手見番があります。

現在も見番として存続しているようです。

邦楽教室としても営業中です。

夜の様子。

参考文献

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上諏訪(大手花街跡)大踏切を渡ると花街でした。

JR上諏訪駅の南側にある通称大踏切。この踏切を渡るとすぐにY字路があります。右は並木通りへ向かう通り、左は大手の通りです。

大正後期には、この通り沿いに料亭が並んでいました。*1

逆方向から見たところ。奥に大踏切があります。

大手の通りから路地に入ったところにあるスナック。

【参考文献】
*1 藤森弘子:まぼろしの花街大手(長野日報社,2007)P.23

参考文献

参考記事

上諏訪(衣乃渡遊廓跡地)未舗装の不整形な広場

衣乃渡橋近くを歩いていると、木造民家や倉庫のような建物が点在する広場*1 に出ました。
場所は、「並木地区公民館衣乃渡分館」の隣です。地元の方に話をお伺いしたところ、このあたり一帯は、遊廓街だったと教えてくれました。

敷地内はほとんどが未舗装です。

小さな稲荷神社もあります。

広場の西端にある木造民家。

【参考URL】
*1 赤羽康男、山田毅:臼井吉見の「安曇野」を歩く17 尚江と女性たち
(「市民タイムス」ホームページ)

参考文献

参考記事

上諏訪(衣之渡川)河口まで歩くと諏訪湖です。

今回は、上諏訪(長野県諏訪市)の町並みと風俗を散歩します。諏訪の市街の南側を衣之渡(えのど)川が流れます。
「全国遊郭案内」によると、上諏訪町字衣之渡には、衣之渡遊郭がありました。*1

県道衣之橋。「衣之渡川」の標柱があります。

県道衣之橋から、下流(諏訪湖方面)を見たところ。

衣之渡川沿いを河口まで歩くと諏訪湖に出ます。

【参考文献】
*1 南博他編:近代庶民生活誌 第14巻「全国遊廓案内」(三一書房,1993)P.87

参考文献

参考記事

長野(旧鶴賀新地近く)ラブホテルが数軒あります。

旧鶴賀新地から権堂町へ向かう通り。

道幅の狭い通りに面してラブホテルがあります。

旧新地の西側の通りにも1軒ラブホテルがあります。

シンプルな看板。

参考文献

参考記事

長野(東鶴賀の民家)まるで時間が止まってしまったかのようです。

東鶴賀の旧鶴賀新地の跡地の西側の通り。

古い木造建築の民家があります。

まるで、自動車が建物に突っ込んだ状態のまま時間が止まってしまったかのようです。

自動車の中には、ゴミがぎっしりと詰まっています。

参考文献

参考記事

長野(東鶴賀の民家)旧新地の敷地に残る木造建築

旧鶴賀新地の敷地に木造建築の建物があります。

裏の通り(北側)に建物の入口があります。旧新地関係の建物であるかどうかは不明ですが、立派な木造建築の建物です。

入口付近。

東側から見た2階部分。

参考文献

参考記事

長野(鶴賀新地跡地)当時の区画がそのまま残っています。

昭和11年の「長野市中部地図」を見ると、鶴賀新地の場所がはっきりと記されています。

格子状に配置された6つの区画が新地の場所だったようです。

南北に延びる通り。

道幅の広いメインの通りは、権堂町へ向かうあたりから、急に道幅が狭くなります。

参考文献

参考記事

長野(鶴賀新地跡地)稲荷神社の敷地内に碑があります。

今回は、長野(長野県長野市)の町並みと風俗を散歩します。
長野電鉄の権堂駅で下車し、東側へ進むと東鶴賀町に着きます。東鶴賀町は、かつて鶴賀新地があった場所です。

通りに面して、稲荷神社があります。

稲荷神社の敷地内に鶴賀新地の碑があります。

こういう碑があると解りやすいです。

参考文献

参考記事

高田(栄町遊廓跡)現在は、遊廓の面影はありません。

高田には、「高田市街図」*1 を見ると、駅の北側に栄町遊廓の場所が記されています。それによると北本町二丁目の「一本橋」を渡ったところに遊廓がありました。

幅の広い道路で囲まれた一画が、遊廓があった場所です。

現在は、遊廓の面影はありません。

遊廓の北側にあった水路。

【参考文献】
*1 高田市街図(高田新聞社印刷部,1930)

参考文献

参考記事

高田(仲町六丁目付近)雁木には牛乳箱が似合います。

仲町六丁目付近。民家や商店が建ち並びますが、ここでも雁木造りが延々と続きます。

雁木造りの柱に牛乳箱があります。

目立つ位置に取り付けられています。

前と後ろに取り付けられた牛乳箱。

参考文献

参考記事

高田(料亭街「宇㐂世」)落ち着いた風情の建物です。

仲町の通り。かつては海産物問屋街だったそうです。

路地に入ると、料亭が何軒か並ぶ一画があります。

黒板塀が美しい、風情のある建物です。

料亭の入口。

参考文献

参考記事

高田(仲町の商店街)雁木造りの飲食街

今回は、高田(新潟県上越市)の町並みと風俗を散歩します。高田の飲食店は、駅の東側の仲町に集中しています。

雪国らしい雁木(雪よけの屋根)のある飲食店街です。

高田の雁木通りは、16キロにも及び日本一の長さであると言われています。

雁木の下に飲食店が建ち並んでいます。

参考文献

参考記事

三春(化粧坂)庚申坂遊廓はこのあたりにありました。

新地跡のある弓町への分岐点をさらに南に数分歩くと、大きな桜の木があります。このあたりは化粧坂と呼ばれています。

古い井戸があります。

化粧坂とは、いかにも遊女の里らしい名前です。このあたりが昔の岩城街道の入口であり、庚申坂の遊廓がありました。

庚申坂の遊廓の移転の話は、明治20頃から出始め、結局明治29年に新町弓町に移転し、「新地」と呼ばれるようになりました。
三春では、旧名の庚申坂も忘れられず、新地と庚申坂の両方の呼び名が昭和31年の赤線廃止まで続きました。

----岩城街道口の地蔵----
三春城下に通ずる旧街道六ヶ所に一体ずつ合わせて六地蔵が立っている。正徳5年(1715年)建立である。傍らに古くから旅人が湯をいやした大井戸がある。番組町から分かれる岩城街道は、登り坂で、頂上に庚申様を祀る堂があり、庚申坂と呼ばれていた。文政9年(1826年)、小川にかかる石橋の修理の際、温泉同様の水が湧き出し、湯場として繁盛した。明治29年湯場は、弓町に移転し、遊廓庚申坂、または新地と呼ばれ、昔の庚申坂は古庚申坂と呼ばれるようになった。
【参考文献】
*1 山崎義人:ふくしま散歩<県中・県南版>(不二出版,1977)P.127-P.128

参考文献

参考記事

三春(弓町の新地跡)3軒の建物が現存します。

弓町にかつて新地の遊廓だった建物が現存しています。*1
廃屋になっている建物もありますが、昔の面影が残っています。

一番手前の建物の入口付近。

建物は全部で3軒あります。こちらは2軒目の建物。

一番奥にある建物。

【参考文献】
*1 山崎義人:ふくしま散歩<県中・県南版>(不二出版,1977)P.128

参考文献

参考記事

三春(庚申坂)せり場近くに遊廓がありました。

今回は、三春(福島県田村郡)の町並みと風俗を散歩します。
磐越東線三春駅で下車し、約1km行くと三春町の中心部です。

さらにそこから県道門沢三春線を進み、Y字路を右へ進むと、左側に庚申坂と呼ばれる坂の入口があります。

この地には、昔、せり場があり、付近には遊廓もあり、繁盛しました。

庚申坂(新地)への入口。この坂を登ると、遊廓(新地)があった場所に行き着きます。

参考文献

参考記事

郡山(堂前町の飲み屋)斜めドア。斜めの手すり。

堂前町の交差点。

斜めに配置された入口のドア。手すりは斜めの2本配置されています。

「いらっしゃいませ」の看板。

昭和初期、大阪府議会が、「遊廓のトイレと消毒所はタイル張りにすること。」と決議したのがきっかけで、全国の遊廓にまたたくまにタイルが普及しました。*1
「日本のタイル」*1 には、昭和6、7年に出入りの業者が施行したとされる、三春町の庚申坂遊廓の「島屋」のトイレ内部のタイル張りの写真が掲載されています。

参考文献

参考記事

郡山(旭湯)電話帳に載っていない銭湯です。

郡山駅近くの旭町通りに、銭湯の旭湯があります。ビル型の銭湯ですが、少し老朽化しているようです。
郡山には、電話帳に載っている銭湯が2軒あるのですが、この銭湯は電話帳に載っていません。入るのにちょっと勇気がいる銭湯です。

なぜか、入口に「出会いパーティ」の貼紙。

内部は、お世辞にもきれいとは言えない状態で、雑然としています。

がらんとした浴槽。床のタイルは、ところどころ、剥げていいて老朽化が進んでいます。

参考文献

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郡山(麓山公園)旅籠屋の遊女が詠んだ句。

郡山市の中心部に麓山(はやま)公園があります。この公園は、文政年間(1818~1829年)に、庶民の手で作られたという珍しい生い立ちの公園です。*1
文政年間の郡山は宿場町として栄え、多くの飯盛女たちが遊客を招くほどの振興の町でした。このときの殿様は、二本松藩9代藩主の丹羽長富でしたが、遊び好きだった長富は、この地に別邸を建築する計画を立てました。しかし、子女を寵愛し政務を怠る日々が続いたため、家臣に諌められ、文政8年に別邸建築の話はお流れとなりました。長富は、藩主を隠退しましたが、自力で庭園を建設しようという郡山町民の意気が燃え上がり、庭園建設が実現したのでした。*1

麓山公園の出島になっているところに、二基の句碑が立っています。
これは、文化・文政時代に栄えた佐渡屋という旅籠屋の遊女の「鶴司(つるじ)」と「あやめ」が詠んだ句碑です。*1

鶴司が詠んだ句。
「巳の日にも小松引きせんわが背子と」
側面には、佐渡屋内鶴司と記されています。反対側の側面には、文政九年(1836年)と刻まれています。*1

こちらは、「あやめ」が詠んだ句碑。
「みつくさし瑞沼山のおとこへし」と刻まれています。*1

【参考文献】
*1 山崎義人:ふくしま散歩<県中・県南版>(不二出版,1977)P.17-P.22

参考文献

参考記事

郡山(本町一丁目)郡山宿の面影。井上園茶店付近。

慶長9年(1604年)に徳川幕府の命により奥州街道が開設され、そのとき郡山宿が開村しました。*1
本町一丁目2と14の間の通りは、ここだけがわずかに屈曲していて、郡山宿の面影を感じることができます。

「史料で見る女たちの近世」*1 によると、郡山宿の旅籠屋には飯盛女がいて、現在の本町一丁目の野田文具店から井上園茶店にかけての道路上に引手茶屋がありました。

井上園茶店付近。

今でも古い商店が残っています。

【参考文献】
*1 草野喜久:史料で見る女たちの近世(歴史春秋出版,2004)P.242,P.274

参考文献

参考記事

郡山(駅の地下道の白ポスト)三ない運動。

今回は、郡山(福島県郡山市)の町並みと風俗を散歩します。JR福島駅は、新幹線が停車する駅だけあって、駅舎は立派です。

ローカル線のプラットフォームへの乗り換え途中の地下道に、白ポストがあります。

正面には、オ-ソドックスな標語。

影に隠れて見えない側面には、三ない運動の標語。

参考文献

参考記事

福島(狸小路)レトロな雰囲気の飲み屋街です。

狸小路という名の飲み屋街。

レトロな雰囲気の飲み屋街です。

奥まったところにある公衆トイレ。客引き禁止看板や、立小便禁止看板があります。

逆側から見たところ。

参考文献

参考記事

福島(森永の牛乳箱)箱の中央部分の「ホモ」のマーク。

仲間町の路地。古い民家があります。

森永の牛乳箱があります。

箱の側面には「フルーツヨーグルト」。

箱の中央部分の「ホモ」のマーク。

参考文献

参考記事

福島(仲間町)北裡花街があった場所です。

福島の花街は、仲間町にあって、現在は、この付近は、現在は、北裡商店街と呼ばれていますが、かつては北裡花街がありました。

花街らしいアーチがあります。

現在も料亭が数軒あります。

わずかながら花街の面影が残っている路地。

参考文献

参考記事

福島(福島稲荷神社)狛犬の台座に「見番」の文字。

料亭街近くに福島稲荷神社があります。稲荷神社としては、規模が大きい方だと思います。

大きな狛犬があります。

狛犬の台座に「三業組合 福島見番」の文字が見えます。

待合や料亭の屋号が多数刻まれています。

参考文献

参考記事

福島(一本杉遊廓跡地)駅の南側に位置する矢剣町。

今回は、福島(福島県福島市)の町並みと風俗を散歩します。
駅の南側に位置する矢剣町には、「一本杉遊廓」がありました。道幅が旧に広くなる一画があります。

道幅の広い道路は、しばらく行くと元の狭い道幅に戻ります。

逆方向から見たことろ。奥に見えるのは、新幹線の福島駅です。

東側には、新幹線の高架が見えます。

参考文献

参考記事

柏崎(湯の街通り)スナックやマッサージ店が軒を連ねます。

柏崎は、1949年に温泉が噴出し、湯の街として発展してました。

スナックやマッサージ店が軒を連ねます。

ピンサロらしき店。

アーチを逆から見たところ。

参考文献

参考記事

柏崎(金刀比羅神社)妓楼の屋号が刻まれた玉垣が残っています。

金刀比羅神社には、妓楼の屋号が刻まれた玉垣が残っています。明治42年刊行の「柏崎華街志」の「柏崎華街細見記」*1 には、「港楼」、「豊島楼」、「都楼」など、20の妓楼の屋号が掲載されています。
港楼の玉垣。

豊島楼の玉垣。

金刀比羅神社は、2007年(平成19年)7月16日に発生した「新潟県中越沖地震」で被害を受け、翌月の8月9日に玉垣の撤去作業が行われました。*2
撤去された玉垣の跡が残っています。

山積みにされた玉垣。「都楼」と刻まれています。今回の地震で貴重な玉垣が多数失われたようです。

【参考文献】
*1 小田金平:柏崎華街志(1909) 附録P.5-P.6
*2 神道青年全国協議会ホームページ:新潟県中越沖地震対策本部の設置

参考文献

参考記事

柏崎(金刀比羅神社)遊廓の歴史を記す碑があります。

遊廓跡地の西隣に金刀比羅神社があります。

金刀比羅神社は、遊廓と密接な関係があったようです。神社の敷地に遊廓の歴史を記す碑があります。

境内に大きな社殿はありません。2007年(平成19年)7月の新潟県中越沖地震の影響かもしれません。

神社の境内から、遊廓跡地方面を見たところ。

-----新花町と金刀比羅神社(碑文)-----
柏崎の花街は、明治時代、現在の西本町にありました。西から風が吹く柏崎にとって盛り場が町の西側に位置するのは火種を常に風上に抱えている状態であり、度々大火に見舞われました。付近一帯の貸座敷がすべて消失した1911年の桐油屋火事を契機に県からこの地に貸座敷運営許可を与えられ、四国讃岐の本殿より遷宮された金刀比羅宮を基点に遊廓や料理店などが新たに建設されました。

参考文献

参考記事

柏崎(柏崎遊廓跡地)新花町

今回は、柏崎(新潟県柏崎市)の町並みと風俗を散歩します。
新花町には、柏崎遊廓がありました。地図で見ると、四角形に区切られた区画があります。

近くには、柏崎温泉のバスの停留所があります。

通りの幅はかなり広く、中央分離帯は緑地帯になっています。

メインの通りが交差するあたり。

参考文献

参考記事

長岡(殿町三丁目付近)客引き禁止看板

長岡駅の西側に位置する殿町三丁目界隈は、飲食店などが集中する繁華街です。

花の町通りのアーチに、「客引き排除推進のまち」垂れ幕があります。

この看板は、繁華街のあちこちにあります。

ある雑居ビルの看板。

参考文献

参考記事

長岡(遊廓跡地にある旅館)現在も営業中です。

長岡の新遊廓跡地に、数軒の旅館が現在も営業中です。

豪華な木造建築の旅館。

向かい側にもう1軒あります。

旅館風の建物のお宅。

参考文献

参考記事

長岡(新遊廓跡)現在も当時の区画が残されています。

今回は、長岡(新潟県長岡市)の町並みと風俗を散歩します。
長岡市文治町(現在の山田3丁目付近)は、かつての長岡遊廓(新遊廓)があった場所です。*1
長岡の遊廓の歴史は古く、元和2年に先手村(現在の千手町)に18軒の茶屋を許可したことに始まります。*2
また、石内町にも遊廓ができ、これを「北廓」と呼び、先手村の遊廓は「南廓」と呼ばれるようになりました。明治40年(1907年)風紀上の問題から「北廓」と「南廓」を文治町に移転し、「長岡新遊廓」と称しました。*2*3

昭和18年の長岡市の市街地図*4 を見ると、文治町のところに「遊」「廓」の2文字が記されていています。長岡花街誌*2 に掲載されている「新遊廓地図」と見比べてみると、現在も当時の区画が残されていることがわかります。

西仲之町、東仲之町と呼ばれた東西の通りと久松小路、助六小路と呼ばれた南北の通りが交差するあたり。遊廓の中心部であったと思われます。

文治町の旧地名は、公民館の名前に残されています。

【参考文献】
*1 南博、他 編:近代庶民生活誌 第13巻(三一書房,1992)P.92「全国遊廓案内」
*2 永田直治郎:長岡花街誌(面白社,1912) 口絵,P.6-P.9
*3 細貝隆司:長岡郷土史(長岡郷土史研究会,1993)P.106-P.117
*4 地図資料編纂会編 :昭和前期日本都市地図集成(柏書房,1987)p.98

参考文献

参考記事

浜松(サッポロ街)新旧の商店街が並びます。

浜松駅の東側の駅前から八幡橋に至る間は、商業地区です。
比較的新しい「サザンクロス」商店街。

サザンクロス商店街の隣にある「サッポロ街」。

サッポロ街の中に入ります。上部から光が差し込む構造になっています。

昭和の雰囲気が残る空間です。

参考文献

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浜松(千歳町の飲食街)派手な看板が人目を引きます。

浜松駅の西側の千歳町の一画は大規模な飲食街です。ピンサロと思われる風俗店が多数あります。

派手な看板が人目を引きます。

風俗に栄養ドリンクはかかせません。

女の子からのメッセージ。

参考文献

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浜松(旅籠町)風情のあるラブホテル

駅の中心部に近い旅籠町。二葉遊廓ができる前までは、旅籠町が色町でした。
旅籠町屋台置き場の近くに、ラブホテルの看板があります。

住宅街の中にあります。

風情のあるラブホテルの佇まいです。

入口付近。

参考文献

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浜松(鴨江旅館街)旧赤線

今回は、浜松(静岡県浜松市)の町並みと風俗を散歩します。
浜松には、かつて二葉遊廓(二葉園)がありましたが、現在は、鴨江町の旅館街にその名残を留めるのみとなっています。

赤線廃止後は、鴨江旅館街として、ステッキガール専門の旅館として営業していました。*1

逆方向から見たところ。メインの通りの中央部分には緑地帯が設けられています。

現在も営業しているビジネス旅館「豊本」は、遊廓時代に、営業していた「豊本楼」*2 の名残かもしれません。

【参考文献】
*1 梅田晴夫:全調査 東海道 酒・女・女の店(有紀書房,1967)P.179-P.181
*2 南博:近代庶民生活誌14(三一書房,1993)P.81「全国遊廓案内」

参考文献

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沼津(吉田温泉)円形の浴槽が1つ。特異な空間です。

吉田町の永大橋の近くに銭湯の吉田温泉があります。五角形の形の建物が印象なコンクリート造りの銭湯です。

入口はシンプルです。何ともいえない雰囲気です。

建物の後ろ側。煙突は珍しい四角形の形状です。

内部はガランとしています。余分な設備は何一つなく、円形の浴槽が中央に1つあるだけ。特異な空間です。

参考文献

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沼津(上本町、下本町)旧花街

沼津市街の上本町と下本町は、戦前は花街でした。*1

そば屋の安田屋の隣には、芸妓検番がありました。*2

仲千代稲荷神社の前には、芸者屋がありました。*2

芸者置屋があった通り。*2

【参考文献】
*1 沼津郷土史研究談話会:沼津史談 No.14(沼津郷土史研究談話会,1974)P.26 「沼津市の歩み五十年写真集」
*2 沼津市立図書館:戦災前沼津町並み(思い出模型図)←図書館の郷土資料室の壁に貼ってあります。

参考文献

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大雄山(沼津道了講の玉垣)割烹旅館、沼津芸妓寮組合。

沼津(緑新地遊廓跡地)現在の沼津千本病院付近

全国遊廓案内*1 によると、沼津駅の西南約十六丁、乗合自動車の「千本入口」または「幸町新地入口」で下車したところに、緑新地遊廓がありました。現在は、「幸町」という名前の停留所があります。
昭和3年の「沼津市全図」には、現在の沼津千本病院付近に「緑新地遊廓」と表記されています。

川沿いに道を行くと、沼津千本病院があります。

沼津千本病院。

周囲は、閑静な住宅街です。

参考文献

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沼津(駅南側の繁華街)沼津なのに京都のような名前です。

沼津駅南側に小規模な繁華街があります。

飲食店が建ち並ぶ一画。

祇園小路。沼津なのに京都のような名前です。

レトロな雰囲気が漂う路地です。

参考文献

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沼津(駅北口周辺の横丁)赤線跡を思わせる町並みです。

沼津駅北口に、飲食店が集中しているエリアがあります。

法善寺横丁。大阪に同じような名前の飲み屋横丁があったような気がします。

入口の看板。

屋根から光が差し込んでいて、明るい雰囲気です。

参考文献

参考記事

小倉(駅前の成人映画館)Ⅱは薔薇族専門です。

小倉駅前の繁華街に、成人映画館があります。向かい側にはビジネスホテルがあります。

名画座Ⅰと名画座Ⅱがあります。

名画座Ⅰは、成人映画館。

名画座Ⅱは薔薇族専門です。
伊藤文學さんは、1971年に男性同性愛専門誌「薔薇族」を創刊し、社会的少数者としての同性愛者の立場を訴え、その後「薔薇族」という言葉は、同性愛者の代名詞として定着しました。

参考文献

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小倉(駅周辺のおもちゃ屋)レトロな雰囲気の店舗

小倉駅周辺には、おとなのおもちゃ屋さんが乱立しています。
駅前のビルの角にあるこちらの店舗はレトロ感が漂っています。

入口の階段。

京町の店。

ピンクの看板が印象的な店。

参考文献

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小倉(募集看板)今も現役営業している模様です。

京町のちょんの間街には、「コンパニオン募集」などの貼紙があちこちに貼られています。今尚、現役である証とも言えそうです。

「アルバイト募集」の貼紙。

郵便ポストにも貼紙。

「新京町料飲協同組合」の貼紙。

参考文献

参考記事

小倉(京町の飲み屋街)スナックや小料理屋が密集しています。

ソープランド街の南隣にあたる京町に、スナックや小料理屋が密集した一画があります。このあたりに青線があったとの説*1 もあります。

料理屋の看板が残っています。

建物の左側を回り込んだあたり。

「貸部屋あります。」の看板。

【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005) P.316

参考文献

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門司(カフェー調の建物)新町赤線跡。

新町(現在の錦町2丁目)の路地。

カフェー調の建物の建物が残っています。*1

美しい赤色のタイルです。

緑との相性も抜群です。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.44-P.45

参考文献

参考記事

門司(新町赤線跡北側)現在の錦町2丁目

門司港駅の東側の新町(現在の錦町2-21の小児科病院の裏手の狭い路地)に、赤線街がありました。*1
入口は、鍵の手のように路地が曲がっています。

古い木造の建物が連なっています。

1階部分は華やかな感じになっています。

裏側の通りから見ると、木造3階建てであることが解ります。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.44-P.45

参考文献

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門司(馬場遊廓跡)東本町

JR門司港駅の北側の東本町。金属製のアーチがあります。

このあたりには、馬場遊廓がありました。*1
昭和3年の「門司新市街圖」には、現在の現在の東本町2-4のあたりに「遊廓」と記されています。*2

料理店がはいっている古い建物。

「馬場」と書かれた電柱のプレート。

*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,2002) P.44-P.45
*2 大淵善吉:門司新市街圖(1928)

参考文献

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門司(甲宗八幡神社)近隣治安状況の悪化

甲宗八幡神社は、源平合戦の時代から伝わる、由緒ある神社です。

残念ながら、近隣治安状況の悪化のため、裏参道(裏階段)は封鎖されています。

鳥居のある裏参道(裏階段)のすぐ隣にラブホテル「バンビ」があります。ラブホテルの存在が治安状況の悪化に関連しているのかもしれませんが、詳細については不明です。

封鎖された裏階段。

参考文献

参考記事

門司(ラブホテル)関門トンネルの手前にあります。

門司で有名なものと言えば関門トンネルですが、その関門トンネルの入口の山腹にラブホテルの大看板があります。

関門トンネルの手前の右を入るとホテルに到着です。

ホテルの全景。アパートのような建物です。

入口付近。

参考文献

参考記事

門司(門司港駅前の白ポスト)白ポストもレトロ調です。

今回は、門司(福岡県北九州市門司区)の町並みと風俗を散歩します。
鹿児島本線始発駅である門司港駅は、駅舎のみならず門司港駅一帯が「レトロ」地区として有名です。

電話ボックスもレトロなデザインですが、その右隣にもう一つレトロなボックスがあります。

レトロ調の白ポストです。

ポストの上にデザインされているのは、国指定重要文化財の「旧・門司三井倶楽部」の建物でしょうか。

参考文献

参考記事

萩(芳和荘)何と書いてあるかは、宿泊した翌朝に教えてもらえます。

芳和荘の内部に入ると眼前に飛び込んでくるのが、この光景です。建物は2階建てで、口の字型になっています。建物の遊廓時代は、「長州楼」と呼ばれていたそうです。

正方形の建物の内側には廊下があって、ぐるりと一周できます。

遊廓建築の特徴と言える中庭。

2階の欄干の板には、文字が彫られています、何と書いてかるかは、宿泊すると、翌朝、芳和荘のご主人が教えてくれます。

参考文献

参考記事

萩(芳和荘)築100年の元遊廓の建物。

築100年近く建つ萩市松本川近くにある芳和荘。昔は遊廓で、外観や廊下に昔の建築物がそのまま残っています。*1

築100年の木造建築です。

歴史を感じさせる看板。

北側からの遠望。

【参考ホームペ^ジ】
*1 萩温泉旅館協同組合:今月の旅館紹介(芳和荘)

参考文献

参考記事

萩(遊廓跡地)俗称で「弘法寺」と呼ばれていました。

今回は、萩(山口県萩市)の町並みと風俗を散歩します。
東萩駅から萩橋を渡って、弘法寺の前を通りすぎると、浮島橋があります。この浮島橋の北側の新堀川沿いに遊廓がありました。
昭和9年発行の「萩市街地図」*1には、遊廓の場所が記されています。現在の浜崎町のあたりです。
遊廓は、「弘法寺」の俗称で呼ばれていました。*2

現在の新堀川沿いは、住宅地となっています。新堀川の東側(写真の右側)に遊廓があり、現在、川沿いにある家は、昔は無く、舟から直接遊廓にあがれたそうです。

遊廓だった場所に、現在も残っている旅館「芳和荘」。*3

萩の町並みを紹介する観光地図「浜崎伝建おたからマップ」が町のあちこちに貼られていますが、「昔の遊廓。中も見れます。」と芳和荘のことが紹介されています。

【参考文献】
*1 地図資料編纂会:昭和前期日本都市地図集成(柏書房,1987)P.120「萩市街地図」
*2 上村行彰編 :日本遊里史(春陽堂,1929)P.582
【参考ホームペ^ジ】
*3 萩温泉旅館協同組合:今月の旅館紹介(芳和荘)

参考文献

参考記事

湯田温泉(湯田遊廓跡地)道路が広くなっている一画があります。

湯田温泉の湯の町通りを北へ進むと、一富士旅館、入舟旅館の看板が見えてきます。

昭和6年の「山口市街図」を見ると、この付近に「遊」、「廓」の2文字が記されています。この付近だけ、道幅が広くなっている箇所があります。

湯の町通りから来た道と比べると、道幅は、かなり広いです。

建物は、古くからこの地にあったと思われる木々に囲まれています。

参考文献

参考記事

湯田温泉(大人のおもちゃ屋)九州民芸。イケべ薬局。

湯田温泉の湯の町通りと錦川通りが交差するあたり。昔の温泉街の雰囲気を感じる場所です。交差点の近くにくすり屋があります。

くすり屋の隣の部分。

よく見ると、「大人のオモチャ、九州民芸」と書かれています。古典的民芸秘具でも販売していたのでしょうか。

この交差点から北へ行くと、昔、遊廓があった場所に行き着きます。

参考文献

参考記事

湯田温泉(温泉街)中国地方屈指の温泉

今回は、湯田温泉(山口県山口市)の町並みと風俗を散歩します。 湯田温泉は、交通の便も良く、中国地方屈指の温泉歓楽街です。
湯の町通りと県道204号線が交差するあたり。湯田温泉の中心部です。写真の右手前には、中原中也記念館があります。松田屋ホテルの豪華の建物に圧倒されます。

中也通り。温泉旅館もあります。この道を真っ直ぐ行くと、高田公園に行き当たります。

錦側通り。このあたりが湯田温泉の古い町並みでしょうか。

スナックが建ち並ぶ、温泉街らしい町並みです。

参考文献

参考記事

防府(錦湯)防府天満宮の参道沿い

防府駅北側にある天神商店街。江戸時代はお殿様が通った萩往還の道筋です。
防府天満宮の参道沿いに銭湯の錦湯があります。ちょうど、らんかん橋の隣です。

近代的なビル建築ですが、看板に愛嬌があって、何となくあたたかい感じがします。

女湯の入口にある張り紙。可愛いです。

脱衣場は驚異的な狭さです。

参考文献

参考記事

防府(天神一丁目)新天地スナック街

防府駅近く、天神一丁目の「新天地」と呼ばれる繁華街があります。

ちょっと寂れた雰囲気のスナック街。

スナック街にある旅館風の建物。

空きが目立つ新天地のビル。

参考文献

参考記事

防府(三田尻の古いスナック)かつての色町の名残でしょうか。

三田尻には、かつての色町の名残でしょうか、スナックだった古い建物が残っています。

建物は、和風です。

スナック明日香。

売地に残るスナックの看板。

参考文献

参考記事

防府(三田尻)かつての遊廓街?

「全国遊廓案内」によると、防府には三田尻遊廓があり、「開地遊廓」とも呼ばれていました。*1
三田尻交番の近くには、スナックが点在していて、かつては、繁華街であったと思われます。

電柱の「開地」のプレート。

三田尻からは、工業地帯の煙突が望めます。

風情のある町並みが残っています。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.137

参考文献

参考記事

防府(堀口通り)萩往還の終着点

今回は、防府(山口県防府市)の町並みと風俗を散歩します。
JR防府駅からバスに乗り、バス停「堀口通」で下車します。
「全国遊廓案内」によると、駅から乗り合い自動車で「堀口」で下車して直ぐの場所に、三田尻町遊廓がありました。*1

堀口通の商店街。この付近は、萩往還の終着点にあたり、江戸時代は商業地区でした。

堀口の東隣の三田尻本町の精肉店。

精肉店脇の路地。奥に見える石垣は、萩往還の終着点に築かれたお茶屋の「英雲荘」です。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.137

参考文献

参考記事

新小岩(風俗店の看板)マッサージ店。新旧の風俗店が散在。

新小岩駅近くの繁華街には、新旧の風俗店が散在しています。

人妻性感コース。

マッサージ店の看板。

「女性様入口」と書かれた貼り紙。

参考文献

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新小岩(商店街で見かけた貼紙)ニャンとも困っています。

新小岩のルミエール商店街のアーケードの支柱は、ご覧の通り根元がさびついています。犬の小便は鉄をも溶かす威力です。

ドラッグストアの支柱。

立小便の名所?。

「ニャンとも...」ネコ語で書かれた微笑ましい張り紙です。

参考文献

参考記事

新小岩(駅北口のビデオ屋)書店の裏に専用の入口。

JR新小岩駅の北口は、南側のトータリーと比べ、ちょっと寂れた雰囲気です。

一見何の変哲も無い本屋さんです。

店の裏へ回ると、赤く目立たせた裏口があります。アダルトビデオ専用の裏口です。

建物の側面には、個室ビデオの看板があります。

参考文献

参考記事

新小岩(青葉旅館)裏口もあります。風情のあるビジネス旅館。

松島三丁目の三叉路から新小岩公園方面へ行く道の途中に、「青葉旅館」の大きな看板があります。

ずいぶん質素な店構えの旅館です。

入口だと思っていたのは、裏口でした。

表へ回ってみると、風情のあるビジネス旅館でした。

参考文献

参考記事

新小岩(赤線跡地のスナック)現在も営業中です。

松島の赤線跡地の奥まったあたり。以前は、未舗装の砂利道でしたが、古い建物が取り壊されたため、駐車場となりました。

以前は通り抜けできたのですが、駐車場のフェンスでさえぎられています。

現在も営業中のスナック。緑色の塗装が印象的です。

反対側から見たところ。「赤線跡を歩く」に掲載されていた「玉屋」の建物は、新しいビルに建て変わっていました。写真の左手前にあった串あげ小料理「佐竹」の建物も無くなっていました。

参考文献

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新小岩(レトロなスナック街)赤線跡地近く。

新小岩(赤線時代の建物)4軒の店が入っている長屋の建物。

アーケードをぬけた三叉路付近に、赤線時代の建物が今も残っています。

4軒の店が入っている長屋の建物。*1*2
「赤線跡を歩く」*3 に写っている同じ建物の写真を見ると、一番左の店は、「柳鮨」となっていますが、今は、別の店に変わっています。

「赤線跡を歩く」に掲載されていた「柳鮨」の隣の建物は、無くなっていました。

三叉路付近。

参考文献

*1
小林大治郎国家売春命令物語みんなは知らない (物語歴史文庫 ; 19)雄山閣出版1971

口絵に「丸健」の建物。写真には、左から「YANAGIYA」、「カフエーやよ…

*2
東京都全住宅案内図帳江戸川区西部P.13住宅協会1960,

P.13
「柳すし」(YANAGIYA)、「やよい飲屋」(カフエーやよい)の…

*3
木村聡赤線跡を歩く消えゆく夢の街を訪ねて自由国民社1998
利根川に浮かぶ竜宮城 松岸

P.118
昭和40年頃までは建物が残っていた。(写真:2軒の妓楼はこのあたりに…

大宮
P.83 休業していたソープランドの写真(屋号は「大宮浮世風呂」)。
亀戸
P.27 ・可憐な概観を持つ建物。コンクリートをくり抜いたような窓。 ・何気なくのぞいた倉庫の中にタイ…
立川
記録映画「赤線」を見ると、錦町はいわゆるカフェー調、羽衣町は平屋一戸建てが並ぶ都営住宅のような景観…

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新小岩(松島三丁目の三叉路)旧丸健跡地。
新小岩(レトロなスナック街)赤線跡地近く。

新小岩(旧丸健跡)「山喜」の建物は無くなっていました。

今回は、新小岩(東京都江戸川区)の町並みと風俗を散歩します。
JR新小岩駅南口から延びる「ルミエール商店街」のアーケードが無くなるあたりに、「丸健」と呼ばれていカフェー街がありました。現在もかすかにその面影を残す路地があります。*1

路地の奥まったあたりにある「かつこ」という名の小料理屋。

路地を逆方向から見たところ。

この路地の裏側には、「山喜」という屋号の料亭風の建物がありましたが*1、残念ながら、取り壊されて駐車場となっていました。

【散歩地図】

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.28-P.29

西川口(富士乃湯)風呂釜が見えました。

JR西川口駅の南東方向に、銭湯の富士乃湯があります。

建物の脇へまわってみると、風呂釜が見えました。

粋なデザインの暖簾。

中には、庭園があります。

参考文献

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西川口(駅前の立ち呑み屋)繁盛店

西川口は、立ち呑み屋さんの多い町です。
立ち呑み屋でも、実際は椅子がある店が多いのですが、西川口の立ち呑み屋さんは、椅子がありません。

駅の西口の五番街の入口にある店。この店は、いつも繁盛しています。

同じ屋号の店が東口にもあります。

ビールとやきとりを注文。

参考文献

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西川口(風俗店跡)シャッターに絵が描かれました。

川口商工会議所 街づくり推進課は、仲町中学校と協力し、違法風俗店が出て行って空き家となったビルのシャッターに絵を描いています。*1

庭をテーマとして、梅、月下美人、コスモスなどの絵がシャッターに描かれています。*1

以前は違法風俗店が建ち並んでいたメインの通り。
寂れた街も、花の絵によって徐々に明るさを取り戻そうとしています。

シャッター全面に花の絵が描かれています。

【参考テレビ番組】
*1 NHK総合テレビ ローカルニュース(2008.3.10 20:55)

参考文献

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西川口(空き屋となっているビル)かつては風俗店が乱立していました。

かつては風俗店が乱立していた西川口ですが、ここ数年の取り締まりの結果、多くの風俗店が撤退を余儀なくされたようです。
町のあちこちには、風俗店が入居していたと思われる空き家のビルが目立ちます。
町全体が寂れてしまったような感じさえあります。

風俗街の中心部にあるビル。

四つ角に立つビル。

西川口の駅から見える風俗ビル。

参考文献

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西川口(駅前ロータリー)客待ち禁止区域の看板

今回は、西川口(埼玉県)の町並みと風俗を散歩します。

駅前に客待ち禁止区域を説明した看板があります。

なぜか、ソープ嬢の名刺が看板の左下に挟まってます。

ビルの前で見かけた看板。

参考文献

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保土ヶ谷(保土ヶ谷遊廓跡地)保土ヶ谷橋の近くにありました。

保土ヶ谷遊廓は、保土ヶ谷橋からすぐの所にあり、貸座敷が7軒あり、娼妓は50人ほどいました。遊廓は、宿場町の時代が残した飯盛女の化身とも言えるものです。*1
保土ヶ谷橋は、現在もあります。

昭和6年の「大日本職業別明細図 保土ヶ谷区」に保土ヶ谷遊廓の位置が記されていますが、それによると遊廓は、保土ヶ谷橋近くの今井川が直角に曲がるあたりの南側にあったようです。遊廓は、西側(八幡神社側)から、「松美楼」、「大松楼」、「松芳楼」、「第一万金楼」、「第二万金楼」、「東家」と並んでいました。

八幡橋から見た今井川。

南側の台地からの眺め。

【参考文献】
*1 南博,林喜代弘編:近代庶民生活誌 第14巻 色街・遊廊2(三一書房,1993)p.35

参考文献

参考記事

保土ヶ谷(旧保土ヶ谷宿)江戸時代、飯盛旅籠がありました。

今回は、保土ヶ谷(神奈川県)の町並みと風俗を散歩します。JR保土ヶ谷駅近くの国道1号線(旧東海道)沿いには、保土ヶ谷宿がありました。
天保(1830年~1843年)末の頃、保土ヶ谷宿には本陣1軒、脇本陣3軒、旅旅籠屋69軒があり、本陣は飯盛女は置いていないが、脇本陣2軒と旅旅籠49軒が飯盛女を置いていました。*1
道路沿いに旧保土ヶ谷宿の様子を説明するプレート(写真、左側)があります。

プレートに描かれている「津の国屋」、「新金子屋」、「沢潟屋」、「つたや」は、飯盛旅籠屋でした。*1

当時の建物が保存されている「金子屋」。「金子屋」は平旅籠でしたが、その隣には、飯盛旅籠屋の「石川屋」、「新玉屋」がありました。*1

現在、ビルが建っているあたりには、飯盛旅籠屋の「村田屋」がありました。*1

【参考文献】
*1 斎藤富一:東海道保土ケ谷宿の飯盛女(近代文芸社,1994)P.37,P.50-P.51

参考文献

参考記事

柳ヶ瀬(柳ヶ瀬浴場)風俗店が入居する雑居ビルの2階にあります。

西柳ヶ瀬の表通りには、風俗店や飲食店が入居する雑居ビルが建ち並びます。風俗街のほぼ中央の四つ角にある柳五ビルは、中国エステやスナックなどが入っています。

柳五ビルの2階に、銭湯の柳ヶ瀬浴場があります。

階段を登ると銭湯の入口です。

ビル銭湯でありながら、ロッカーの番号が旧漢字で書かれているなど、内部はレトロ感にあふれています。

参考文献

参考記事

柳ヶ瀬(客引き禁止看板)看板の効果はあまり無いようです。

西柳ヶ瀬は、ピンサロをはじめとした風俗店が多いためか、客引禁止の看板があります。

ビルが独自に設置している看板もあります。

「何人も...」という変わった言い回しの看板。

夜になると、客引きの人たちが近寄ってきます。看板の効果はあまり無いようです。

参考文献

参考記事