五反田(明治の牛乳箱)昔の雰囲気が残る路地です。

今回は、五反田(東京都品川区)の町並みを散歩五反田の有楽します。五反田の歓楽街「有楽街」の近くに、昔の雰囲気が残る路地があります。

カラオケ店の隣に古い民家があります。

明治の牛乳箱。


JR五反田駅から徒歩5分の大都会に、牛乳箱が残されているは貴重です。

参考文献

参考記事

湯島(天神下の旅館)御同伴、御食事の看板。

旧花街の一画。

古びた旅館の建物が残っています。

御同伴、御食事の看板。

裏口もあります。

参考文献

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湯島(天神下の花街跡)東京でも最大規模の花街でした。

湯島天神下の旧花街は、春日通りをはさんで、南北に二分されていますが、その南半分の区画の真ん中200メートルばかりの路地は、「おばけ横丁」と呼ばれていました。このあたりは、花柳界華やかなりし頃、仕舞屋(しもたや)風の芸者置屋が軒を並べていました。「おばけ横丁」とは、一方(春日通りから北半分)に料亭や料理屋が立ち並んでいて賑やかだったことに比べての閑静さをいったものです。*1

全国芸妓芸妓屋同盟会があったあたり。湯島天神下(下谷)の花街は、東京でも最大規模の花街でした。*1

湯島天神下の花街は昭和30年頃まで全盛を極めましたが、以降はだんだんと客離れが目立つようになり、スナックなどに転業しました。
ピンサロやトルコ風呂などの風俗店も進出しましたが、長続きしなかったようです。*1

「湯島トルコ」があった場所*1 は、現在は、駐車場になっています。

【参考文献】
*1 神崎宣武:盛り場のフォークロア(河出書房新社,1987)P.77,P.96,P.141,P.221

参考文献

参考記事

湯島(客引き禁止看板)日本語、韓国語、中国語。

地下鉄千代田線湯島駅近く。日本語、韓国語、中国語で書かれた客引き禁止看板。

東京都の条例改正に伴い、店の前に従業員が立つことが禁止されることになりました。これによって客足が遠のいては困るので、このような説明書きがされているのでしょうか。

明るく楽しい町づくり。

ボッタクリ禁止看板。隣に賃貸マンションのビラがありました。

参考文献

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湯島(バラエティショップ)おとなのおもちゃ屋さん。

今回は、湯島(東京都文京区)の町並みと風俗を散歩します。
上野広小路近くの繁華街。バラエティショップがあります。

店の看板にはバラエティショップと書かれていますが、いわゆる大人のおもちゃ屋さんです。

手作り感のあるショウ・ウィンドウ。白色の蛍光灯とにアルミホイルが使われています。

参考文献

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立川(錦町赤線跡)電柱に「楽天地」の表示。現在は閑静な住宅街。

立川には、羽衣町と錦町の二ヶ所に赤線地帯がありました。1
錦町は、JR立川駅から東側に歩いて10分ほどの所にあります。昭和27年刊行の風俗雑誌
2 には、「錦町の赤線の建物は洋風のカフエー式で、女達はいずれも洋装、ドレスを引きずっている女もいるし、またぐらまで見えるようなショートパンツの女の子もいる。若い16、7のあどけないのから、23、4の脂ののりきった連中が、ガムを噛みながらきゃッきゃッと男達の腕にからみついてくる。」と当時の様子が紹介されています。

錦町楽天地のメインストリート。

現在は閑静な住宅街になっています。

電柱の地域表示。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.52-P.53
*2 人情講談(睦書房,1952.9)P.162「東京赤線地帯・現地ルポ」

参考文献

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この記事を参照している記事

立川(羽衣特飲食街跡)格子状の道路の形状。

立川(高松町のスナック群)色鮮やかな建物。

高松町には、商店街に混じってスナックの建物があります。

色鮮やかな建物。

風俗店のような入口。

階段を登ると、2階はスナックです。

参考文献

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立川(四角形の窓を持つスナック。)シネマ通り。

立川駅南口のシネマ通り。

戦後米兵たちで賑わった通りですが、*1 現在は、商店街になっています。

赤線跡を歩く*1 に掲載されている四角形の窓を持つスナック。

モダンなデザインです。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.99

参考文献

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立川(大人のコンビニ)1階にコンビニ、2階に大人のコンビニ。

今回は、立川(東京都)の町並みと風俗を散歩します。JR立川駅南側は、繁華街になっています。

1階にコンビニ、2階に大人のコンビニ。

1階のコンビニの横に大人のコンビニ(2階)とビデオ鑑賞(3階)の入口があります。

大人のコンビニは、当然のことながら、18歳未満及び高校生は入店できません。

参考文献

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亀有(角海老)看板が、町並みと電車に溶け込んでいます。

JR線のガード近く、ソープランドの「角海老」があります。
店の建物の上に角海老の大看板があります。JRの電車から見えるように、看板は電車の側を向いています。

建物の壁面に立て看板が並びます。

落ち着いた感じの入口。

「角海老」の看板が、町並みに溶け込んでいます。
松戸の「角海老」も線路沿いにあったことを思い出しました。*1

【参考記事】
*1 風俗散歩(松戸)2006.6

参考文献

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赤羽(キャバレー「ウラシ」跡)ハートの形をしたスカート。

赤羽のピンサロ街に、古い建物が残っています。

艶っぽい女性です。

建物の上部にはキャバレー「ウラシ」の文字。

ウラシちゃんのスカートはハートの形をしています。

参考文献

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赤羽(明店街)「通りぬけ」の看板。ミルクホール。

今回は、赤羽(東京都北区)の町並みを風俗を散歩します。
JR赤羽駅近くには、たくさんの路地や横丁があります。そのうちの一つ。明店街。

商店が並ぶ路地。

「ミルクホール」の看板のあるお店。牛乳屋さんではなさそうです。

「通りぬけ」の看板。

参考文献

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渋川(寄居の小路)完璧な路地。

寄居の表通り。ここに路地の入口があります。

「東京サイハテ観光」*1 の中里さんは、この小路のことを「すぐに終わる短い道だが、トタンにモルタル、色もいいし、それにカーブもあり、ここには路地の要素がギュッと詰まっている。」と評しています。

スナック群は数年前に店を閉めましたが、そうと知らなければ今夜も店が開くと思うほどのそのままの状態です。*1

まるで文化財として保存しているかのようです。

【参考文献】
*1 中野純,中里和人:東京サイハテ観光(交通新聞社,2008)P.79-P.78

参考文献

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渋川(寄居の花街跡)かつては、とても栄えていました。

 四つ角の北側の寄居付近は、旧花街で、かつては3軒の映画館が並び、とても栄えていました。*1

当時の名残と思われる和風の建物があります。

かなり大きな建物です。

現在は区画整理中のため、あちこちに更地が広がっています。更地の中に古い建物が散在する奇妙な光景です。

【参考文献】
*1 中野純:東京サイハテ観光(交通新聞社,2008)P.76-P.77

参考文献

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渋川(松乃湯)四つ角付近の銭湯

渋川の四つ角と呼ばれる交差点の近く。古い銭湯の建物があります。左側は和風建築、右側はコンクリート製です。

大きな建物です。上部の装飾に特徴があります。

入口付近。休業中であるのが残念。

煙突。

参考文献

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渋川(平沢川沿い)川の両岸に建ち並ぶスナック街

渋川の市街を流れる平沢川。

平沢川の右岸のスナック街。

スナックは、左岸にもあります。

スナック街の向こうには、雄大な赤城山の裾野が広がります。

参考文献

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渋川(渋川駅前の白ポスト)大型です。

今回は、渋川(群馬県渋川市)の町並みと風俗を散歩します。
渋川は、伊香保温泉の入口に位置する町です。渋川駅からは、赤城山が望めます。

渋川駅前。

「悪書追放」と大きく書かれた白ポストがあります。

幅も奥行きもたっぷりサイズの大型です。隣のコインロッカーと比べるとその大きさがわかります。

参考文献

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宇都宮(宇都宮遊廓跡地)電柱に残る新地の文字。

「全国遊廓案内」によると、宇都宮城址の南側の河原町に、宇都宮遊廓がありました。*1
昭和11年発行の「宇都宮市街付近図」*2 には、格子状に区画された道路に「遊」、「廓」の2文字が記されています。
その遊廓の名残でしょうか。格子状に区画された道路の北側に「しんち食堂」という名の食堂があります。

格子状に区画された道路を東側から見た所。付近の道路と比べ明らかに道幅が広くなっています。

外郭の道路から見ると、遊廓があった場所(写真右側)は高台になっています。

「新地」の名が残る電柱。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌第14巻(三一書房,1993)P.26-P.27
*2 宇都宮市街付近図(1936年(昭和11年)発行)

参考文献

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宇都宮(街頭消火器)旧新地近くの民家

宇都宮城址近くの本丸町。静かな住宅街です。
宇都宮の赤線は、中河原(現在の中央五丁目)と「新地」の2ヶ所にありました。*1

木造2階建ての民家。

「赤線跡を歩く(ちくま文庫版)」*2 に写真が掲載されている街頭消火器のある家です。
木村聡さんは、中河原のバーのママさんから聞いた情報をもとに、「新地」はこのあたりにあったとしています。*2

「街頭消火器」の名にふさわしい、大型の箱です。

【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性・街ガイド(季節風書店,1955)P.103
*2 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.175

参考文献

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宇都宮(釜川沿いのスナック)カフエーのプレートがあります。

宇都宮市街の中央を流れる釜川沿いにある本町はクラブなどが建ち並ぶ繁華街です。

2つの店舗が同居している建物です。左側の店は、1階用の2階用の2つの入口があります。

建物の奥行きは、2メートル程でしょうか。1階から2階へ上がる階段がどうなっているのか興味があります。建物の角には、看板が取り付けられていたと思われる金具の跡が残っています。

「カフエー」のプレート。「赤線跡を歩く」*1 に写真が掲載されている中河原(中央5丁目)のカフエーのプレートと同じタイプのものです。

参考文献

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宇都宮(江野町のスナック)カフエーのプレートがあります。

江野町のソープランド街のはずれの路地。

古びたスナックの建物があります。

入口のドアの上部。

カフエーのプレートがあります。

参考文献

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宇都宮(江野町横丁)花街だった場所です。

宇都宮の盛り場は、東武宇都宮駅の近くのオリオン通りの周辺にあります。
かつての花街であった江野町には、その名残とも思われるスナック街があります。

狭い路地を行くと、古びたスナックがあります。

この路地を進んだ奥には、ソープランドがあります。

ソープランド街の近くにあるスナック。

参考文献

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宇都宮(新幹線沿いのラブホテル群)宇都宮の名物です。

今回は、宇都宮(栃木県宇都宮市)の町並みと風俗を散歩します。
宇都宮の名物と言えば餃子ですが、餃子以上に有名なのが、新幹線沿いのラブホテル群です。東京方面から東北新幹線に乗って宇都宮駅に到着する間際、車窓から大規模なラブホテル群が目に入ります。
実際にその現場(宇都宮市簗瀬)へ行ってみました。新幹線の高架のすぐ隣に、ホテル「ガイア」があります。

お城のような塔を持つラブホテル。

平成通りと新幹線が交差するあたりにあるホテル「ノーブル」。

ホテル「La MIEUX(ラミュウ)」。最上階の特別室からの眺めは、さぞかしすばらしいことでしょう。
豪華ラブホテルの脇を新幹線が走り抜ける光景は、未来都市を思わせます。

東北新幹線が開業した1982年の住宅地図*1 で確認すると、この頃新幹線の高架沿いにラブホテルは無く、やや離れたところに、ホテル「アローハ」とホテル「エスボヌール」の2軒があったのみでした。その後、新幹線の高架沿いを中心に大規模なラブホテル街が形成されたようです。
【参考文献】
*1 宇都宮市(南部版)(日本住宅地図出版,1982)

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熊本(二本木神社)寄進者名が右から書かれています。

熊本市街の南側に位置する二本木町に二本木神社があります。ここに、明治時代にできた二本木遊廓の名残をみることができます。

本殿への石畳参道を中に一対の狛犬が相対しています。

台座に、「二本木娼妓有志者中」と寄進者名が右から書かれています。*1

寄進年月は、明治三十九年十月です。
終戦当時、陸軍中尉だった二本木遊廓を知るTさんは、「召集令状がくると皆二本木へ行きよりましたなぁ。あの頃の客は兵隊がほとんどで、それも明日は戦地へ向かうという時は行きましたな。戦後になると米軍が行きよりましたな。太とか黒人兵が意気揚々と歩きよりました。」と当時の様子を振り返っています。*1

【参考文献】
*1 猪飼隆明:遅咲きの女たちの遺言(熊本出版文化会館,2006)P.359-P.360

参考文献

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熊本(旅館跡)道路沿いに残る石柱

二本木遊廓へ向かう道路沿いに残る石柱の脇に、旅館兼スナックの建物が建っています。

スナックの隣が旅館の入口です。

旅館の入口。

昭和レトロな旅館の案内看板。

参考文献

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天草(崎津の町並み)夜這いの拠点である青年宿が公民館に移されて、夜這いは衰退しました。

崎津の町並みは、落ち着いた雰囲気です。

崎津は、売春をする漁業集落でもありました。
天草の観光・秘境イメージを意図した天草小唄に、
出湯、白鷺、ドライブ疲れ、あした牛深、今宵は崎津村
熱い情けの一夜をあかし、出船わかれの涙雨
と歌われていますが、これは観光売春がそれとなく暗示されているものです。*1

町の中心部にある仲町区公民館。
天草では、昭和30年頃までは夜這い的な雰囲気が残っていました。しかし、夜這いの拠点である青年宿が、次第に公民館に移されて集まることができなくなり、この時代になると、男たちは買春に関心を持つようになり、夜這いは衰退しました。*1

下町区公民館。
天草における夜這いは、天草五橋が開通(1965年)した頃以後は、昔話としてのみ語られました。また、天草五橋をバイク3時間かけて熊本のトルコ風呂まで行ったものの帰り道の侘びしかったことという体験談が語られるようになりました。かくして、「田舎には何も楽しかことのなか」状況になり、過疎化が始まることになりました。*1

【参考文献】
*1 森栗茂一:夜這いと近代買春(明石書店,1995)P.124,P142,P.155-P.158

参考文献

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天草(崎津天主堂)美しい風景です。

本渡からバスで約1時間ほど南に行ったところにある崎津。小さな港があります。

港に面して、天主堂があります。海には山が迫っていて、山の上には、チャペルの鐘展望公園のオブジェが見えます。

崎津出身のからゆきさんの聞き書「サンダカン八番娼館」の著者の山崎朋子さんは、「崎津天主堂で、一心に祈り続ける老夫婦の姿に接し、心を打たれ、からゆきさん研究への決意を新たにかき立てられた。」と書いています。*1

山の上の教会(チャペルの鐘展望公園)からの眺め。美しくて静かな風景です。
「サンダカン八番娼館」は、イギリス領北ボルネオの港市サンダカンの娼家で青春を送ったおサキさんの聞き書です。おサキさんは、「崎津の天主堂の下からこまんか(小さい)舟に乗って、高浜まで行ったんじゃわ。」と語っています。その後、おサキさんは、高浜から長崎へ行き、長崎から約3ヶ月かけてボルネオに渡りました。*1

【参考文献】
*1 山崎朋子:サンダカン八番娼館(筑摩書房,1972)P.6,P.79

参考文献

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天草(天劇サウナ)ちょっと怪しげな雰囲気です。

本渡の市街地にある「天劇サウナ」。

入口付近。左の通路を行くと奥にサウナの入口があります。

サウナの入口横にあるサロンのドア。ちょっと怪しげな雰囲気です。

裏通りの看板。

参考文献

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天草(峠のラブホテル)看板に導かれて山道を登ります。

本渡市街から北西方向に約3Kmほど離れた場所に、「軽井沢」と書かれた看板があります。

看板に導かれてさらに進むと、また看板があります。道はどんどん登っていきます。

山道が峠にさしかかったあたりに、ラブホテルの入口の坂道がありました。秘境のラブホテルです。

坂を登りきると、ガレージ型のホテルがあります。

参考文献

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天草(本渡)和洋折衷の建物

スナックが散在する通り。近くに旅館もあるようです。

瓦屋根の家屋の1階部分を改造したスナック。

こちらも瓦屋根の家屋ですが、1階部分は派手なデザインに改装されています。ピンク色の壁の中央に白い川のようなものが流れています。人の顔のようにも見えます。

入口の側面には、丸い窓があります。往時はどのようなお店だったのでしょうか。

参考文献

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天草(本渡)スナックが点在しています。

今回は、天草(熊本県)の町並みと風俗を散歩します。
天草最大の都市、本渡(ほんど)の飲み屋街は、天銀街のアーケードを抜けたあたりに散在しています。

「全国女性街ガイド」*1 によると、本渡の赤線の様子を「市内に散在する飲み屋の女の大半はねる。」と紹介していますが、現在、その飲み屋がどのあたりにあったのかは不明です。

スナックが点在する通り。

壁が斜めに傾いたデザインの店。

【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.193

参考文献

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島原(深江町の牛乳箱)ご当地牛乳です。

島原市街の南側(蛭子町)。国道251号線路沿い。

島原牛乳の木製牛乳箱。箱の側面には「ミネビタ牛乳」と書かれています。

別の場所(深江駅近く)にあった同型の島原牛乳の牛乳箱。

縦型の島原牛乳の牛乳箱。

参考文献

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島原(高原のラブホ跡)ガレージ方式のアパート

島原市街から、雲仙温泉方面へ道路が延びています。島原市の隣町である深江町は、1990年の雲仙普賢岳の噴火のとき被災しましたが、現在は復興しています。

雲仙岳の五合目に相当するこの場所にアパートがあります。

月の家賃が¥20,000.-とは格安です。背景に「宿泊」と書かれた白い文字が見えます。以前は、ラブホテルだったようです。

ガレージ方式のアパートです。

参考文献

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島原(天如塔の周囲の玉垣)からゆきさん出身の成功者の名

大師堂の天如塔の周囲の玉垣のうち、入口の階段の所の玉垣が最も大きな玉垣です。
この玉垣の正面側に名が刻まれている阿南トンキン(ベトナム)の和田氏は、当地域における日本娼楼の先駆者でした。また、「高谷マサ」は、数多いからゆきさんの中でも飛びぬけた成功者でした。*1

バンコクから寄進の玉垣。
「富士ホテル」、「旭ホテル」は、いずれも「ホテル」と名乗ってはいますが、実態は日本人が経営する女郎屋でした。*1

シンガポールからの寄進による玉垣に名を刻む米井虎一郎は、侠客の一人であったと伝えられ、日本人共同墓地を管理・運営するために組織された共済会の有力メンバーでした。*1

同じく、シンガポールからの寄進の東境セイ(玉垣では東京セイ)は、からゆきさん出身でしたが、女郎屋の経営者となりそこで貯えた資金をいち早くゴム栽培事業に投資して大儲けをしました。本田シツはマバラー街54番、原ロツタは、スプリング街21番で娼家を経営していました。*1

シンガポールでは、女郎屋の経営者は女性に限られるという当局の方針があり、「からゆきさん」出身の女性が富を貯え社会的に上昇していくきっかけを与えていましたが、多くの場合、男(チンタあるいはピンプ(=嬪夫)と呼ばれた)の側が実権を持っていました。この中で東境セイだけが、実験を持った女郎屋の女経営者でした。*1
【参考文献】
*1 倉橋 正直:愛知県立大学文学部論集. 一般教育編. (通号42)(1993)「島原市の大師堂への寄進者の初歩的調査–「からゆきさん」研究の基礎史料」P.5-P.6,P.10-P.11,P.20-P.25

参考文献

参考記事

島原(からゆきさん寄進の玉垣)東南アジアの都市の名と共に刻まれています。

大師堂の天如塔(からゆきさんの塔)の周囲には、たくさんの玉垣があります。天如塔の底面は正八角形になっていて、角の部分には大きめの玉垣が配置され、ここには寄進した額の大きなからゆきさん関係者の名前が刻まれています。
玉垣(120人)と周囲の石柱(12人)のに刻まれた外国在住者を分類すると、マレーシア(34人)、ベトナム(26人)、シンガポール(25人)、インドネシア(14人)、ビルマ(14人)、中国(8人)、タイ(4人)、韓国(3人)、ロシア(2人)となります。*1

アンナンは、ベトナムの総称で、漢字では、通常「安南」ですが、ここでは「阿南」と書かれています。トンキンは、ベトナム北部を指す呼称です。*1

写真の玉垣は、マレーシアの地名が刻まれています。*1
コウラカンサ(クアラ・カンサー Kuala Kangsar)
トロノ(Tronoh)
スポテノ
タパン(タパ Tapah)

同じく、マレーシアからの寄進の玉垣。
カラン(Karang)
カラシコワラ
マラッカ(Malacca)
スレンバン(Serenban)
の地名が確認できます。*1

【参考文献】
*1 倉橋 正直:愛知県立大学文学部論集. 一般教育編. (通号40)(1991)「からゆきさんの遺跡–島原の大師堂」P.30-P.33

参考文献

参考記事

島原(理性院大師堂)からゆきさんの遺跡である天如塔があります。

島原市内の南側の大師通りに、理性院大師堂があります。

本堂の横を行くと、灯台のような形をした奇妙な塔が現われます。
この塔は、「天如塔」、別名を「からゆきさんの塔」と言います。*1
「からゆきさん」とは、「唐人行(からひとゆき)」または、「唐ん国行(からんくにゆき)」という言葉が縮まったもので、幕末から明治期を経て第一対戦の終わる大正中期までの間、主に東南アジア方面にまで出かけて行って、外国人に肉体をひさいだ海外売春婦のことです。*2
玉垣には、寄進者のからゆきさんとその関係者の名前が刻まれています。

天如塔と玉垣は島原市の有形文化財に指定されています。

天如塔を建立したのは、島原で活動していた僧の広田言証師です。広田言証師は、1906年末から2年半、インドへ巡礼したとき、東南アジアの各地でからゆきさんと出会い、不幸にして異境の地で果てた娘たちのために供養を行いました。これが娘たちの帰依を呼び、からゆきさんたちの心ののよりどころとなり、多額の寄進を得、そのお金を日本に持ち帰り、天如塔を建立しました。*1

【参考文献】
*1 倉橋正直:島原のからゆきさん(共栄書房,1993)P.94-p.100,P.159-P.170
*2 山崎朋子:サンダカン八番娼館(筑摩書房,1972)P.7

参考文献

参考記事

島原(駅前の白ポスト)島原城をデザインした駅舎

今回は、島原(長崎県)の町並みと風俗を散歩します。京都-長崎を結ぶ寝台特急あかつき号に乗り、諫早(いさはや)駅に朝8時に到着。島原鉄道に乗り換えて約70分。島原駅で下車します。
駅前から島原城の天守閣が望めます。

島原城をデザインした駅舎

駅舎の前に、白ポストがあります。

鉄製の頑丈なポストを壊す人はいないだろうと思いますが、このような注意書きがポストの上部に書かれています。

参考文献

参考記事

福知山(広小路)明治時代は、貸座敷や芝居小屋がある歓楽街でした。

福知山市街の北東部にある広小路。レトロな商店街です。

広小路の由来を説明する看板があります。
江戸時代から、広小路は有力商人が軒を並べる城下町の顔でした。
明治10年頃、下柳町川沿いを中心に貸座敷12軒ほどが公認され、芝居小屋もできて、広小路は歓楽街の要素も加わりました。大正時代になると、芝居小屋は近代映画館に変わり、西洋料理店やカフエが進出し、歓楽街、商店街として繁栄し現在に至っています。

貸座敷があった下柳町近くの路地。古い旅館があります。

現在の下柳町は、車の通行量の多い道になっています。

参考文献

参考記事

福知山(新地裏の荒廃した神社)猪崎新地の名前が彫られています。

旧猪崎新地(福知山遊廓)の奥まったところに、城山へ続く石段があります。

石段を登っていくと、荒廃した神社があります。

燈篭に、「明治四十四年十二月吉日 猪崎新地 芸妓中...」と書かれています。遊廓の関係者が寄進したものと思われます。

神社から、旧猪崎新地方面を見たところ。遠くに音無瀬橋が見えます。

参考文献

参考記事

福知山(福知山遊廓跡)旅館風の建物が残っています。

城山公園の麓の猪崎には、猪崎新地(福知山遊廓)がありました。
大正4年刊行の「福知山市街略図」*1 に福知山遊廓の見取り図が記載されていますが、これによると、この写真の通りが遊廓のメインの通りで、10軒の妓楼のうちの5軒が、この通り沿いにありました。

遊廓の中心部であったと思われるあたり。

旅館風の大型の建物が残っています。

別の通りにもう1軒。

【参考文献】
*1 藤本薫:歩兵第二十聯隊と福知山案内 (福知山三丹新報社,1915)「福知山市街略図」

参考文献

参考記事

福知山(浮世小路)帰るときは脱いでます。

中ノ町飲食街の中ほどに、直角に交わる形で浮世小路があります。

小路への入口の看板。花魁の絵が描かれています。

居酒屋やスナックの店舗が並んでいます。

入口の看板を内側から見たところ。花魁が服を脱いでいます。浮世小路から帰るときは、脱いだ花魁が見送ってくれるという趣向のようです。

参考文献

参考記事

吉原(吉原神社)松葉屋の庭にあった久保田万太郎の句碑。

仲之町を裏門に向かって進むと、吉原神社*1 に行き着きます。

普段は人影まばらな吉原神社ですが、浅草名所七福神の一つであるため、初詣の人たちで賑わっています。

料亭松葉屋の取り壊しに伴い、松葉屋の庭にあった久保田万太郎の句碑が、吉原神社に移されました。*2
久保田万太郎は、浅草田原町の生まれの文人で、浅草の雷門の近くにも句碑があります。おそらく料亭の松葉屋に頻繁に遊びにきていたのでしょう。

「この里におぼろふたたび濃きならむ」と刻まれています。普段は見えず、水をかけると白く細い文字が黒い石肌に浮かびあがる「白粉彫り」という技法で彫られています。*1
この日は、すでに水がかけられていたのでしょうか。最初から白い文字がくっきりと現れていました。右下に小さく、「万」の一字があります。

【参考記事】
*1 風俗散歩:入谷~吉原(2005.9)吉原神社
【参考文献】
*2 石井妙子,渡辺憲司:東京人(都市出版,2007.3)P.46 「遊女の残り香を探して」

参考文献

参考記事

吉原(大門)通りの名を示す門柱が建てられました。

今回は、吉原(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
昨年(2007年)は、新吉原が誕生(元吉原から移転)してから、ちょうど350年にあたります。これを記念し、2007年11月に、遊廓の入口である大門を再現した街路灯が設置されました。江戸風情を復活させようと町会の働きかけによって実現したものです。”江戸の華”とうたわれた遊廓の歴史は現実の荒波にもまれながら受け継がれています。*1

かつての吉原遊廓の大門があったあたりに設置された「大門(おおもん)」と書かれた街路灯。他に、「角町」、「京町」、「揚屋町」などと書かれた街路灯も各通りに設置されています。

この場所には、花魁(おいらん)ショーで有名な料亭の松葉屋がありましたが、現在は1階に交番が入るマンションになっています。
吉原今昔図*2 によると、松葉屋は昭和20年代には引き手茶屋として営業していました。
花魁ショーは、平成の初め頃まで、月・木・金を除く15時からと毎日19時から、所要時間25分で上演され、「はとバスツアー」にも組み込まれていました。*3

大門があったあたりから大門交差点方面を見ると道路がS字形に曲がっています。ここは、五十軒道と呼ばれていました。

【参考文献】
*1 丹治早智子:東京新聞(2007.11.9 夕刊)P.10 「吉原大門」街路灯で再現
*2 新井一鬼:吉原今昔図(葭之葉会,1993)
*3 散歩の達人(1996.11)P.8-P.9

参考文献

参考記事

五番町(千本日活)歴史を感じる映画館

ピンク映画館の「千本日活」。

映画館らしい映画館が今も健在です。

1回、500円で頑張っています。

夜は、ネオンが美しく輝きます。

参考文献

参考記事

五番町(赤線跡)昔の面影はなくなりつつあります。

今回は、五番町(京都府京都市)の町並みと風俗を散歩します。五番町は水上勉さんの小説の舞台となった場所です。
「赤線跡を歩く2」*1 に掲載されている写真の場所は、スナックの建物を除いて、新しい建物に立て変わっていました。昔の面影はなくなりつつあります。

スナックの看板

スナックの建物の隣にある建物。

「赤線跡を歩く2」*1 に掲載されていた元妓楼の建物があった場所は、駐車場になっていました。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2 続・消えゆく夢の街を訪ねて(自由国民社,2002)

参考文献

参考記事

上七軒(牛乳箱)毘沙門町の路地。フロント開閉型。

上七軒の毘沙門町の路地。木造家屋が残っています。

側面の板が無くなっている牛乳箱。

蓋は、箱の上に置いてありました。

京都に多い井上牛乳の牛乳箱ですが、こちらは、フロント開閉型のタイプです。

参考文献

参考記事

上七軒(上七軒歌舞練場)料亭街の中にあります。

上七軒の料亭街の中に上七軒歌舞練場があります。

立派な建物です。

入口付近。

裏口の門柱も立派です。

参考文献

参考記事

上七軒(花街跡)京都最古の遊里です。

現在も料亭が並ぶ上七軒。この道を進むと北野天満宮です。

案内板によると、足利氏が北野天満宮の再建のときの残木を利用して、門前に7軒の茶屋を建てたことから、上七軒と呼ばれるようになりました。京都最古の遊里です。

しっとりとした感じの上七軒花街。*1

同じ通りを逆から見たところ。

【参考文献】
*1 明田鉄男: 日本花街史(雄山閣出版,1990)P.78-P.79

参考文献

参考記事

上七軒(古いビリヤード場の建物)窓に「玉」と書いてあります。

今回は、上七軒(京都府京都市)の町並みと風俗を散歩します。
今出川通りと七本松通りが交差する上七軒交差点。北野天満宮の東側に位置します。

通り沿いに、古いビリヤード場の建物があります。

入口付近の窓に「玉」と書いてあります。

2階部分の看板。

参考文献

参考記事

十三(しょんべん横丁)圧倒的なカオス感。

阪急十三駅の西側にの通称しょんべん横丁。十三のディープスポットです。大衆居酒屋「十三屋」は昼間から賑わっています。

少し奥へ進むと、「アナバ」(吾菜場と書きます。)。圧倒的なカオス感。

反対方向から。

阪急線の壁(写真左側)と飲み屋街の間の狭い路地。

参考文献

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十三(案内所)ネーミングもユニークです。

十三の栄町(さかえまち)繁華街。多数の案内所があります。

「たこナビ」「ジャパネットたかお」、ネーミングもユニークです。

名案内「コナン」。

アルサロ「ふうりゅう」近くの案内所。

参考文献

参考記事

十三(大田牧場の牛乳箱)ストリップ劇場の裏にありました。

ストリップ劇場「十三ミュージック」の裏手の路地。音楽と威勢の良い掛け声が建物(写真右手)からもれ聞こえてきます。(写真の奥は木川本町商店街)

大田牧場の牛乳箱がありました。

ポストと仲良く並んでいます。

ストリップ劇場近くの別のお宅の壁に取り付けられていた牛乳箱。何とも絵画的です。

参考文献

参考記事

十三(十三ミュージック)商店街の中にあります。

十三駅前の道路に青色のワゴン車が止まっています(写真左下)。この車はストリップ劇場の「十三ミュージック」の送迎車です。

木川本町商店街の隣にあります。

入口の看板。「素人娘」がウリです。

夜になるとネオンがきれいです。

参考文献

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和歌山(天王新地近くの長屋)

天王新地の周辺は、静かな住宅街です。

風情のある長屋。共同の井戸があります。

正面に見えるアパートとの対比。アパートの建物が近代建築に見えます。

国道26号線側から見たところ。坂を下ったところに長屋が連なっています。

参考文献

参考記事

和歌山(天王新地)コの字型に建物が並んでいて一周できます。

天王新地を歩いてみます。スナック風の建物が道の両側に並んでいます。

突き当たりを右に曲がったところ。

全体は、コの字型になっているので、さらに右に曲がると、一周できます。この道をまっすぐ行くと再び国道24号線へ出ます。

逆方向から見たところ。

参考文献

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和歌山(天王新地)無人駅の近くにある旧赤線地帯。

和歌山市内を南北に貫く柳通りを北上し、JR紀伊本線を越えると、地蔵の辻と呼ばれる交差点(国道24号線)に出ます。和歌山駅から歩くと20分ほどかかります。
天王新地がある場所は、地蔵の辻の交差点が目印です。昭和15年の「大和歌山市街地図」*1 を見ると、すでに「天王新地」の記述がありますので、赤線時代より以前に存在していたようです。

国道24号線沿いに「天王新地」のバス停があります。現在も「天王新地」という呼び名は生き続けいているるようです。
電車で行く場合は、和歌山駅と和歌山市駅の中間にある「紀和」という無人駅から徒歩3分ぐらいで天王新地に着きます。

国道24号線沿いに新地の入口を示すアーケードが建っています。「天王料理組合」と書かれています。アーケードは2つ建っています。

アーケードをくぐると少し坂になっています。この坂を下りきったところの両脇に店があります。*2

【参考文献】
*1 和歌山市史編纂委員会:和歌山市史第5巻(和歌山市,1975)「大和歌山市街地図(昭和15年9月9日由良要塞司令部検閲済み)」
*2 シーズ情報出版:日本裏風俗夜遊び読本(シーズ情報出版,1999)P.139-P.140

参考文献

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和歌山(高松日劇)休業中の建物が残っています。

和歌山市南部の高松に、成人映画館の建物が残っています。

入口の切符売り場。「成人映画に付18歳未満の方入場出来ません。」と書かれた看板があります。

「各種定食350円より」。安いです。

入口の階段。当時は賑わいを見せていたのだと思います。

参考文献

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和歌山(向之芝)薄消しDVD専門店。

飲食店がまばらにある向之芝。

DVDショップがあります。

2階部分に取り付けられた大きな看板。

看板に、「DVD 薄消し」と書かれています。

参考文献

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和歌山(和歌山ブルースの歌碑)ぶらくり丁を全国的に有名にしました。

今回は、和歌山(和歌山県和歌山市)の町並みと風俗を散歩します。
市内の中心部にある繁華街「ぶらくり丁」を南北に横切り和歌浦湾に注ぐ大門川に架る雑賀橋詰に「和歌山ブルース」の歌碑があります。
「和歌山ブルース」は、昭和40年代に発表され、古都清乃さんの歌声にのせて、当時レコードセールスは70万枚を突破しました。

歌碑の中心部に「和歌山ブルース」と書かれています。夜になるとこの部分が光るそうです。

円形のベンチは、レコードをデザインしたものです。歌詞や楽譜が書かれています。

歌碑には、センサーが内蔵されていて、近づいただけで「和歌山ブルース」がスピーカーから流れます。半径50メートルぐらいは届きそうな大音量で1番から3番まで続けて演奏されます。もちろん、いったん始まると途中で止めることはできません。

参考文献

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甲府(芸妓寄進の台座)新柳町は、遊廓と芸者屋が混在していました。

天神町にある玄法院。立派な本堂があります。

境内に、芸妓が寄進したと思われる石の台座が残されています。

台座には新柳町の芸妓屋と芸者と思われる名前が刻まれています。
新柳町は、遊廓と芸者屋が混在していました。明治28年(1895年)の「新柳町明細地図」には芸者屋「森田」の名が記されています。*1

江戸時代、甲府柳町一丁目(中央四丁目)の旅籠屋には、一軒につき2人までの飯盛女を置くことを許されていましたが、1870(明治3)年5月、官名が出され、七軒が移転。「新柳遊廓」と称しました。*2

参考文献

*1
青柳詢一郎粋鏡花あやめ附・新柳町明細地図青柳詢一郎1895 リンク
新柳町明細地図 リンク
*2
山梨日日新聞社山梨百科事典 増補改訂版山梨日日新聞社1989.7
遊廓(山梨県)

1774(安政3)年以降、徳川幕府は期間を限って甲府柳町一丁目(中央四丁目)の…

参考記事

甲府(天神町の雑誌屋)古びた自販機が4台並んでいます。

天神町で見かけた古びた雑誌屋さん。

店の前に、古びた自販機が4台も並んでいます。

このボタンを押して雑誌を選ぶ仕組みだったようです。

現在でも、成人向け雑誌の自販機を地方都市なでで見かけることがありますが、この自販機では、プレイボーイなどの週刊誌が販売されていたようです。

参考文献

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甲府(新天街のトイレ)全面タイル貼りです。

朝日町にある飲み屋街の「新天街」。全面タイル貼りの公衆トイレがあります。

小便をするところもタイル貼りです。

きちんと整理された清掃用具。

清掃当番表。

参考文献

参考記事

甲府(新天街1)レトロな飲食街です。

甲府駅の北側の朝日町に、飲食店街の「新天街」があります。

飲食店の看板が連なります。

飲食店街全体が、アーケードになっています。

横から見たところ。バラック風の3階建てです。

参考文献

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甲府(新天街2)北側の半分は空き地になっています。

甲府(穴切遊廓跡地)現在は住宅地となっています。

甲府の遊廓は、明治時代、増山町にあり、「新柳町遊廓」と呼ばれていました。明治40年、廓内から出火した大火により、22の妓楼のほとんどが焼けたため、まもなく穴切(現在の宝1丁目)に移転しました。*1
穴切遊廓は、穴切神社の北側。現在の宝1丁目にありました。「甲府市街全図」*2 に、整然と区画された穴切遊廓が記されています。

遊廓があったと思われる一画。

旧地名である「アナギリ」のプレート。

南側には、黒板壁が美しいお屋敷がありました。

【参考文献】
*1 山梨県立図書館:甲州文庫史料第1巻(山梨県立図書館,1973)P.284
*2 甲府商業会議所:甲府案内(甲府商業会議所,1918)「甲府市街全図」

参考文献

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甲府(「電化ビル」脇の飲み屋街跡)入口のアーチが残っています。「

今回は、甲府(山梨県甲府市)の町並みと風俗を散歩します。
甲府駅前の「電化ビル」脇に飲食街だったと思われる一画が残っています。入口のアーチに今でも残る蛍光灯が印象的です。

角が丸みをおびた建物。

飲み屋街だった建物は、現在は、片側に残っていませんが、かつては両側にあったのかもしれません。

周辺は、近代的なビル街です。

参考文献

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新宿(新宿四丁目ビジネス旅館街)ドヤ街だった旧旭町。

甲州街道と明治通りが交差するあたりに、雷電稲荷神社という変わった名の稲荷神社がありますが、そこが新宿四丁目の旅館街の入口です。
ここは、旭町のドヤ街でしたが、現在は、「新宿四丁目ビジネス旅館街」と看板に書かれています。

今でも小さな旅館が立ち並ぶ風景が見られます。*1

3階建てのように見える旅館。

道なりに進むと、やがて高島屋前に出ます。

【参考文献】
*1 木村聡:荷風!特集大人の新宿(日本文芸社,2004)P.58-P.60「古雑誌記事に”新宿”を読む!」

参考文献

参考記事

新宿(花園神社)酉の市の日だけ見ることができる見世物小屋。

花園神社に立ち寄ります。この日は酉の市の日でした。東側入口に仮設小屋が見えますが、これは、酉の市の日に建てられる見世物小屋です。

「演劇大百科事典」によると、見世物とは、「寺社の境内や盛り場で臨時に掛小屋芸能及び種々の珍奇なものを見せて、入場料をとる興行物」のことをいい、かつては、女相撲やストリップも仮設で興行されていました。仮設小屋の起源は室町時代にまでさかのぼると言われています。*1

蛇おんなの看板。

呼び込みのおばさんが、熱弁をふるいます。

【参考文献】
*1 鵜飼正樹:見世物小屋の文化誌(新宿書房,1999)P.15,P.26,P.50

参考文献

参考記事

新宿(「新宿の女」の歌碑)西向天神社にあります。

新宿二丁目から延びる都電の軌道跡の道を10分ほど歩いたところに、西向天神社があります。

神社の境内の片隅に、藤圭子が歌った「新宿の女」の歌碑があります。

藤圭子は、1969年に「新宿の女」でデビューし、アルバムチャート20週連続1位という快挙を成し遂げました。現在は宇多田ヒカルのお母さんとして有名です。

この歌碑の由来として、「昭和44年9月25日『新宿の女』で、この西向天神より二人の若者が旅立っていき、石坂まさをと藤圭子の名は時代を刻み、伝説として語られるようになった。」と記されています。

同じく、石坂まさを作詞・作曲で藤圭子が歌った隠れた名曲に「女町エレジー」があります。「女町エレジー」は、宝山寺(生駒新地)の女性をテーマとした曲です。*1
【参考記事】
*1 風俗雑感(音楽):「藤圭子の遺伝子

参考文献

参考記事

新宿(成覚寺の旭地蔵)男女の戒名が刻まれています。

新宿二丁目、靖国通りに面して成覚寺(じょうかくじ)があります。ここは、新宿の遊女たちと関係深い寺で、一名「投げ込み寺」といわれました。*1

入口の石段を下ってすぐ左側の塀下に旭地蔵があります。旭地蔵は、内藤新宿の遊女と武士や町人たちが、なさぬ恋を悲しんで玉川上水へ身投げして心中した者たちのために建られた供養塔でした。*1

台座には18名の男女の戒名が並べて刻んであります。*1

「貸座敷」と刻まれています。

【参考文献】
*1 芳賀善次郎:新宿の今昔(紀伊國屋書店,1970)P.70-P.72

参考文献

参考記事

新宿(モデル募集の貼紙)男性モデル募集です。

ゲイバーなどが立ち並ぶ二丁目の一画には、ボーイ募集やモデル募集の貼紙があちこちに貼られています。

ボーイ募集の貼紙。

ビデオモデル募集。

ビデオショップの前の大型看板。

参考文献

参考記事

新宿(新宿二丁目のバラエティーショップ)ゲイの街です。

今回は、新宿の町並みと風俗を散歩します。新宿二丁目は、かつて赤線があった場所ですが、最近はゲイの街として、生まれ変わっています。

ビデオ店も専門的な品揃えがされています。

おしゃれなブリーフが並べられている店。

DVD店の入口。男性の裸のマネキン人形が飾られています。

参考文献

参考記事

日ノ出町(古い旅館の建物)旧ちょんの間街の裏路地にあります。

数年前までちょんの間があった初音町。北側にスナックが建ち並ぶ路地があります。

裏側の路地には、昔の雰囲気が残されています。

旅館の看板が残されています。

入口付近にかつての旅館の面影が残されています。

参考文献

参考記事

日ノ出町(ちょんの間跡)建物は撤去され高架下は改築中。

今回は、黄金町(神奈川県横浜市中区)の町並みを散歩します。
かつて、ちょの間があった初音町の京急の高架下。

現在は、建物が完全に撤去されています。

大岡沿いの部分は、かつての名残がわずかに残っています。

店舗は、新しい店舗に改装されていいます。

参考文献

参考記事

伊勢佐木町(黄金劇場)歴史を感じる建物です。

今回は、黄金町(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。その名もズバリ「黄金劇場」。堂々とした店構えです。

正面から見たところ。

入口付近。

歴史を感じる看板。

参考文献

参考記事

伊勢佐木町(黒い円柱の建物)屋号のネオン管。

阪東橋駅近くの伊勢佐木町6丁目に小規模な飲食小路があります。

円柱を持つ黄色い建物。

黒いタイル。

店の屋号と思われるネオン管

参考文献

参考記事

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伊勢佐木町(スナック街)片側のみが残っています。

伊勢佐木町(古本屋)アダルト系の古本、DVD専門です。

第一京浜沿いには、ヘルス店に混じって、古本屋が乱立します。アダルト系のDVDや雑誌のバックナンバーが中心の品揃えです。

白い色が印象的な店。

2軒並んでいます。

2階がヘルス店の古本屋。

参考文献

参考記事

伊勢佐木町(第一京浜裏手の路地)半年前まであった建物が無くなっていました。

第一京浜裏手の路地には、赤線時代の建物がごっそり残る一画があります。

今回散歩したところ、半年程前まであった古いお宅と元旅館の建物*1 が無くなっていました。中央部の一画がぽっかりと空き地になっています。

路地の北側には、円柱を持つお宅が健在です。

道を挟んだ向かい側の建物が無くなり更地になったため、建物の全貌を見れるようになりました。

【参考記事】
*1 風俗散歩(曙町):第一京浜裏手の路地(2006)

参考文献

参考記事

伊勢佐木町(交差点にあるお宅)回転式の窓のある家。

中華料理屋「一番」の隣に、古い家があります。*1

回転式の窓がたくさんあります。

まるで絵画を見ているようです。

何に使われていたのでしょうか。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)p.129

参考文献

参考記事

伊勢佐木町(中華一番)名物のサンマー麺を味わいました。

今回は、曙町(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。
赤線跡研究家の木村聡さんは、年に何回か横浜に行くことがあり、「夕方からは、だいたい曙町の『一番』という国道16号線に面した中華料理屋に入り、食事をしながらビール。これが一応のコースとなっている。」と述べています。*1

364日24時間営業です。

窓からは、ヘルス店が見えます。

「一番セット」を注文。この店の名物であるサンマー麺(ミニ)と、ニラレバ炒め、シュウマイ、温泉卵、おしんこ、デザートのセットです。これだけのボリュームで800円です。
ビールは割安感のある大瓶の瓶ビールを注文。

【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.132-P.133

参考文献

参考記事

立石(カフェー街跡)パチンコ屋の前の通りです。

立石のカフェー街は、京成立石駅前の踏み切りを渡った商店街の左手のあたりにありました。*1

パチンコ屋のある通りから右側に入った路地に料理屋だったと思われる建物があります。

路地の曲がり角のあたり。

建物の右手には、狭い路地が続いています。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.62

参考文献

参考記事

立石(駅周辺の住宅地)チラシ、ゆすり、押し売り厳禁。

立石駅近くの住宅地。手作りの「チラシおことわりします。」の貼紙があります。

あるお宅の郵便ポストの「チラシ厳禁」の貼紙。葛飾区が作成したもので、「ビデオや風俗営業の宣伝チラシおことわり」と書かれています。ピンクビラなどが投げ込まれ、葛飾区が対策に乗り出した時期があったのでしょうか。

「ゆすり、押し売り厳禁」のホーロー看板。昭和の初期には、こういうのが横行していたようです。

ドロボー撃退の貼紙(「赤外線発射装置付」)。科学技術の進歩はこういうところにも生かされているようです。
近い将来、ピンクビラの投げ込みを撃退する装置も発明されるかもしれません。

参考文献

参考記事

立石(呑んべ横丁)木製消火器箱がたくさんあります。

呑んべ横丁のゲートをくぐると、古い建物があります。

朽ち果てた消火器箱。箱の内側にも「消火器」と書いてあります。

横丁のあちこちに消火器箱があります。

路地にある消火器箱は、状態が良く綺麗です。

参考文献

参考記事

立石(呑んべ横丁)レトロな飲み屋街。飲み屋が密集。

今回は立石(東京都葛飾区)の町並みと風俗を散歩します。京成電鉄立石駅を降りてすぐの所に、飲み屋街があります。

狭い路地に飲み屋が密集している一画があります。

歴史を感じる看板。

ハートのマークの扉のお店。

参考文献

参考記事

東向島(赤線建物)独特の意匠。2階にバルコニー。

玉の井を象徴する赤線跡の建物。※1

2階のバルコニー部分。ここから客を見送ったのだと思います。

入口。

軒下の意匠。

東向島(啓運閣願満稲荷)スーパーの奥にあります。

いろは通りに面したスーパ-マーケット。多くの買い物客で賑わっています。
昭和30年代までは、この場所に「玉の井文映」という映画館がありました。現在のスーパーはその建物を利用しています。*1

スーパーの奥に、稲荷神社があります。

病死した玉の井の娼婦や水子の供養をする稲荷神社です。*1

永井荷風の記念碑があり、荷風が描いた地図が掲示されています。

【参考文献】
*1 小針美男,川本三郎:追憶の東京(河出書房新社,2006)P.10

参考文献

参考記事

東向島(戦前の玉の井)永井荷風の「墨東綺譚」の舞台となりました。

戦後の玉の井は、いろは通りの北側にありましたが、永井荷風の「墨東綺譚」の舞台となった戦前の玉の井は、いろは通りの南側にありました。
戦前の玉の井は、改正道路(現在の水戸街道)を挟んだ両側にありました。*1

現在の水戸街道から東向島駅への道。戦前は、この細い道に「玉の井駅近道」の看板がありました。*1

「墨東綺譚」で主人公の老作家がお雪さんと出会った場所。*2

「墨東綺譚」に出てくる銭湯の中島湯。現在はマンションになっています。*1

【参考文献】
*1 文芸散策の会:永井荷風の愛した東京下町(日本交通公社出版事業局,1996)P.115-P.117
*2 川本三郎,湯川節子:図説永井荷風(河出書房新社,2005)「墨東綺譚」文学散歩の玉の井概要図

参考文献

参考記事

東向島(窓枠に装飾のある建物)隣は空き地になっていました。

メインの通りから路地を入ったところ。前回の散歩のときにあったカラフルな円柱を持つ赤い壁の建物*1 は無くなっていました。

建物が無くなったおかげで、対面にあった装飾された窓枠を持つお宅*2 の概観が見渡せるようになりました。

窓枠には、こんな装飾がほどこされています。

建物の側面から空き地の方向を見たところ。

【参考記事】
*1 風俗散歩(玉の井):赤い壁の建物(2006.3)
【参考文献】
*2 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.76

参考文献

参考記事

東向島(目抜き通りに面したお宅)赤と緑の木造住宅。

今回は、東向島(東京都墨田区)の町並みを散歩します。
玉の井の目抜き通り。前回、散歩した古いスナックが建ち並ぶ一画*1。

2階にバルコニーがあります。

赤と緑に統一された木造住宅です。

建物の角の部分の柱が赤で強調されています。

【参考文献】
*1 風俗散歩(玉の井):色街だった頃のメインストリート

参考文献

参考記事

蕨(蕨OS劇場)入口は2階です。

蕨駅西口の陸橋近く。細長いビルがあります。屋上に小屋のような建物が増設されていて、遠くから眺めても目をひく建物です。

1階に、わらびOS劇場の入口があります。昭和50年代、蕨OS劇場の目玉は、「過激に興奮!外人大会」でした。*1

1階の貼紙。

入口は2階です。

【参考文献】
*1 山谷哲夫:じゃぱゆきさん(岩波現代文庫,2005)p.270

参考文献

参考記事

蕨(陸橋の下)多種多様な貼紙が貼られています。

蕨は、風俗系の貼紙が多い町です。陸橋の下の自転車置き場付近は、多種多様な貼紙が貼られています。

「バイ@グラ」の貼紙。

デリヘルの貼紙。

こんな貼紙もありました。(駅西口の電信柱にて)

参考文献

参考記事

蕨(駅東口の飲食街)スナック・パブの専門ビル

蕨駅東口の駅前ロータリーに、「飲食街」と書かれたアーケードがあります。

飲食街の中央部にそびえる飲食専門ビル。スナック・パブが大半を占めていて、風俗ビルと言ってもいいくらいです。

スナックなどが入っている古い建物。ゴチャゴチャ感が何ともいえません。

複数の風俗店が入るビルの1階。

参考文献

参考記事

蕨(白い箱)求人雑誌の棚の後ろに大切に置かれていました。

今回は、蕨(埼玉県)の町並みと風俗を散歩します。
JR蕨(わらび)駅は、赤羽と浦和の間に位置し、東京への通勤圏です。

東口のエスカレーターを上りきったところに、求人雑誌の棚の後ろに大切に置かれている箱があります。

白ポストは、東京近郊では、ほとんど見かけません。都会の駅に設置されているのは貴重だと思います。

白い箱。いいネーミングです。紺のラインがアクセントになっています。

参考文献

参考記事

栗橋(静御前祭り)きれいなお姫様でした。

この日(10月20日(土曜日))は、静御前祭りが行われていました。祭りの目玉は、静御前のパレードです。

白拍子の一団。

静御前。きれいなお姫様でした。
栗橋駅前には、静御前の墓があり、中田には、菩提寺である光了寺があります。*1*2

みんな揃って記念撮影。

【参考記事】
*1 風俗散歩(栗橋):静御前の墓(2005.11)
*2 風俗散歩(栗橋):光了寺(2005.11)

参考文献

参考記事

栗橋(旧日光街道)電柱に記された洪水のときの水位

中田宿から栗橋へ旧街道を歩きます。途中にある電柱には、昭和22年に利根川の堤防が決壊したときの水位が赤線で記されています。ちょうど大人の背の高さぐらいです。写真の左側は利根川の堤防です。
昭和22年の洪水とは、9月のキャスリーン(カスリーン)台風のことを指していると思われます。この頃は、台風に女性の名前がつけられていました。

旧街道らしい町並み。

古い建物も残っています。

栗橋駅近くの電柱。浸水した高さを示す赤い線は、大人の背丈よりはるか上の位置にあります。

参考文献

参考記事

栗橋(中田遊廓跡)整然と区画された一画に残る裏門

今回は、栗橋(埼玉県)の町並みと風俗を散歩します。*1
中田遊廓跡には、廓を1周できる道が残っています。

南側の一画。

赤線跡を歩く*2 に掲載されているあるお宅の裏門。

建物は残っていませんが、広い敷地を塀が取り囲んでいます。

【参考URL】
*1 風俗散歩(栗橋,第1回,2005.11
【参考文献】
*2 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.99

参考文献

参考記事

田浦(船越町のバー)半円形の窓を持つ建物です。

皆ヶ作の市街地の北側に位置する船越町には、古いスナックやバーの建物が残っています。

2階部分に半円形の窓があります。

1階にも半円形のデザイン。

入口のドアに、当時のものと思われるプレートが残されていました。

参考文献

参考記事

田浦(旧町名「駒寄(こまよせ)名残)「歓迎花屋敷花柳界入口」の大アーチ看板。

現在の船越六丁目は、旧町名で「駒寄(こまよせ)」と呼ばれていました。駒寄、細長い谷戸で、この谷戸の一角の田んぼを埋めてみんなが協力しあって作った町だ、ということから「皆(みな)ヶ作」、それが転じて、「かいがさく」と言うようになりました。ここには、花屋敷(文字通り植物の花を扱っていた屋敷)がありました。昭和初期には、皆ヶ作の入口から奥へ、たくさんの居酒屋やカフェーが軒を連ね、どの店にもきれいな女給さんがいて、愛想よく客を呼び込んでいました。*1


「駒寄会館」に旧地名が残されています。

町内会には、「駒寄」の地名が継承されているようです。

京急田浦駅近くの丘陵から、駒寄(現在の船越町6丁目)方面。周囲を山に囲まれた谷戸であることがわかります。

駒寄の入口には『歓迎花屋敷花柳界入口』」の大アーチの看板がありました(銘酒屋街の入口と思われます。)。
最盛期、銘酒屋は45軒ぐらいあり、娼婦は1軒につき4人ぐらいいました。*2

参考文献

*1
古老が語るふるさとの歴史 北部編1981
駒寄周辺
P.34 駒寄(船越六丁目)は、細長い谷戸です。ここは「牛谷戸」と呼ばれ、昔はたくさんの牛を飼育してい…
*2
古老が語るふるさとの歴史 北部編1981
皆ヶ作の銘酒屋
P.140-P.142 大正初めまで、皆ヶ作と呼ばれていた辺りは一面の田んぼでした。大正9年にここを埋め立てま…

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田浦(竹の湯)ブロック塀に書かれた「竹の湯」の文字。

町の南側から見た、皆ヶ作の市街。銭湯の煙突が見えます。

入口付近。ブロック塀に書かれた「竹の湯」の文字がいい味を出してます。

銭湯の裏側は空き地になっていました。

女将さんが番台に座り、中央は衝立で仕切られています。内装は木材がふんだんに使われています。

参考文献

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田浦(飲食店街)魔よけのようなライオン。

長浦港に面した飲食店街。昔の雰囲気が残る居酒屋があります。
「赤線跡を歩く」では、カフェー街は、田浦駅からむしろ安針塚駅側に少し寄ったところにあったとし、この飲食店街が紹介されています。*1

入口の上部に魔よけのように見えるライオンがいました。*1

おとなしい顔立ちのライオンです。*1

「料理店」のプレート。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.77

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田浦(黄緑色のトタン建築)仲通り商店街の入口。

今回は、皆ヶ作(神奈川県)の町並みと風俗を散歩します。
京急田浦駅前近くにある仲通り商店街の入口の左手に黄緑色の個性的な建物があります。*1

2階の部分。

側面から見たところ。

繊細なデザインの窓。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.76-P.77

参考文献

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