上野には、パチンコ関連企業の事務所が集中しています。
「秘密戦隊ゴレンジャー」は、いわゆる「戦隊もの」と呼ばれるチームによるヒーロー番組の元祖です。アカレンジャー、アオレンジャー、キレンジャー、モモレンジャー、ミドレンジャーと、ヒーローを色分けしたのが特徴でした。
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八代亜紀さん。心の故郷です。
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ご存知、遠山の金さん。
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逃亡者(のがれもの)おりん。
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上野には、パチンコ関連企業の事務所が集中しています。
「秘密戦隊ゴレンジャー」は、いわゆる「戦隊もの」と呼ばれるチームによるヒーロー番組の元祖です。アカレンジャー、アオレンジャー、キレンジャー、モモレンジャー、ミドレンジャーと、ヒーローを色分けしたのが特徴でした。
八代亜紀さん。心の故郷です。
ご存知、遠山の金さん。
逃亡者(のがれもの)おりん。
JR上野駅近くの昭和通り沿いに、スナックが並ぶ小さな路地があります。
ゲイバーなどが多い路地です。*1
江戸時代、上野に隣接する湯島天神界隈は、男色を売る少年たちの陰間茶屋が多い場所でした。また、敗戦後の上野には、街娼(パンパン)など1300人の商売女と約100人の男娼(オスパン)がいました。*1
男の酒場。
【参考文献】
*1 新人物往来社:歴史の中の遊女・被差別民 別冊歴史読本45(新人物往来社,2006)P.271-P.272
今回は、上野(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
JR上野駅東側の正面玄関口付近
大きな看板の薬屋さん。
その薬屋さんの看板に負けないくらい大きな「男ビデオ」の看板。
1Fから4Fまでがアダルトショップですが、男ビデオのコーナーがある模様です。
二子新地の最盛期には、芸者はたくさんあって、芸者衆は100人くらい、待合は30軒くらいありました。当時、町内会(南第四町内会)は、全部三業組合でしめていました。*1
料亭「春日」は、数年前まで当時の建物と黒板塀の遺構*2 が残っていましたが、つい最近取り壊されて駐車場になったようです。
料亭「やよい」があったあたり。*3
「草紫庵」と書かれた石柱があります。
待合ではなく、料亭だったのは、「仙寅」のみでした。料亭「仙寅」の跡地には、現在はマンションが建っています。
【参考文献】
*1 神奈川県立婦人総合センター かながわ女性史編集委員会:夜明けの航跡(ドメス出版,1987)P.250-P.251
*2 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.174
*3 高津区明細地図(経済地図社,1970)P.79
1970年の住宅地図*1 を見ると、二子新地の料亭は、10軒ぐらいが営業中だったようです。
そのうち、唯一現在も営業を続けているのが、こちらの料亭「やよい」です。
料亭「やよい」の看板。
美しい黒板壁が、当時の様子を偲ばせます。
【参考文献】
*1 高津区明細地図(経済地図社,1970)P.79
二子橋が開通した大正14年頃、建設関係者を相手にした小料理屋が神奈川側の堤防沿いにできはじめ、三業地ができました。
二子神社近くには、「二子三業組合」の銘の入った街路灯が残っています。
三業地は、二子神社西側一帯にありましたが、現在は住宅地になっています。
二子三業組合、二子芸能学校があったあたり。*2
【参考文献】
*1 散歩の達人(交通新聞社,2005.4)P.12
*2 高津区明細地図(経済地図社,1970)P.79
今回は、二子新地(神奈川県高津区)の町並みと風俗を散歩します。田園都市線の二子新地駅は、かつて花街だった頃の「二子新地」という呼び名がそのまま駅名になっています。
ちなみに、当時は、「二子新地前」という駅名でしたが、「双子死んじまえ」に聞こえたりするので、現在の駅名に変更されました。*1
案内板を見ると、二子神社の近くには、花街の名残と思われる料亭の名前があります。
二子新地駅前の大山街道。大山街道は江戸を起点として、大山(神奈川県伊勢原市)までを結ぶ街道で、江戸時代中期には、「大山詣」がブームになりました。
「旧大山街道二子の渡し場入口」と書かれた白い案内標柱があります。大正14年に二子橋ができるまでは、二子の渡しから多摩川を渡りました。
あるビルの壁面に、二子の渡しのレリーフがあります。
【参考文献】
*1 散歩の達人(交通新聞社,2005.4)P.16
旧五軒町界隈には、花街の痕跡とも言える料亭や旅館だったと思われる建物が残っています。
緑色の建物。
スナック喫茶。
3階建ての旅館。
落合橋を渡り、上り坂を登りきった高台に、芸者屋の「仲乃屋」があります。
湯河原の温泉芸者の船岡なかさんの半生を描いた「温泉芸者一代記」*1 によると、「仲乃屋」は、昭和8年頃に建てられました。
船岡なかさんは、大正13年、17歳のときに「赤ペン」に売られてきました。船岡さんの年季は昭和3年に明けましたが、すでに、そのとき、この土地で生涯、温泉芸者としていきることを決めていたそうです。ペン街は、昭和5,6年頃から遊里らしい賑わいを見せ始め、ぺン店や料亭、待合、旅館などが増えました。*1
現在も「仲乃屋」は、健在です。
「仲乃屋」東側の目の前に、「赤ペン」がありました。*1
【参考文献】
*1 井田真木子:温泉芸者一代記(かのう書房,1989)P.10,P.60,P.126
今回は、湯河原(神奈川県足柄下郡湯河原町)の町並みと風俗を散歩します。
湯河原駅の西側、千歳川と藤木川が合流する地点に落合橋があります。
この橋の南側の高台には、かつて「五軒町」と呼ばれた花柳街がありました。湯河原温泉の発展は五軒町をぬきにしては語れない程、往時殷賑をきわめていました。*1
五軒町の由来は、次の通りです。
日露戦争後、湯河原駅の西側に陸軍病院ができ、その病院の米を作るため、落合橋のふもとに水車小屋ができました。水車小屋周辺には、傷病兵の散歩場として公園ができ、人家も出来始めました。そのうちの1軒に、高等馬車の別当をしていた岩崎忠次郎という男がいました。その女房のキヌさんは、なかなの美人で、小料理屋を始めました(大正3年)。たまたま主人が馬車に塗った赤いペンキの残りを、その店の塀に塗ったことから、店は「赤いペンキの家」と呼ばれるようになりました。けれどもそれが幸いしたのか急に店は繁盛し、女房だけでは間に合わなくなり、女の子を5、6人置くようになり、増築もし、栄える一方でした。*1
「赤いペンキの家」通称「赤ペン」を真似て、新しい飲み屋も増えてきました。「白ペン」、「黒ペン」、「金ペン」、「銀ペン」といい、ペン街が形づくられました。しかし、町の人は、「ペン街」という呼び名を好まなかったため、料理屋が五軒できたので、「五軒町」と呼びました。*1
【参考文献】
*1 湯河原若葉会:湯河原のはなし 其の二(湯河原温泉観光協会,1978)P.14 「五軒町由来」
新開地に残るホテルの建物。
沖縄にあるのに、なぜか「ホテル東京」です。
歴史を感じさせる看板。
四つ角にあるホテルだったと思われる建物。
金武・新開地では、コザのような「白人街」、「黒人街」といったテリトリはありませんでしたが、白人専用の店、黒人専用の店が存在しました。白人・黒人とも自分たちの好みの音楽がかかっている店に集まり、店が気に入ると自分たちの専用の店にしました。黒人が集まる店に白人が入店したり、その逆でもケンカが発生しました。沖縄復帰が近づきつつあった頃、新開地を力づくで「黒人街」にしようという黒人集団の動きがありましたが、軍のパトロール強化により、その野望は阻まれました。*1
当時のものと思われる建物が残っています。1992年の写真*2 と比べると、道路が舗装されたこと以外は、ほとんど町並みに変化はありません。
新開地のメインの通り。
クラブSHIMA。
【参考文献】
*1 廣山洋一:KOZA BUNKA BOX 3号(沖縄市企画部平和文化振興課,2007)P.71
*2 池宮城晃,池宮城拓:沖縄返還(池宮商会,1998)P.192 「二十年目の生き残った歓楽街の姿」
今回は金武(沖縄県国頭郡)の町並みと風俗を散歩します。「金武入口」のバス停で下車。道路の向かい側は、世界最強を誇る米軍海兵隊の拠点「キャンプハンセン」です。
近年、沖縄の米兵は少なくなったものの中東戦争、イラン・イラク戦争そして湾岸戦争において、沖縄の米軍基地は後方支援や偵察など大きな役割を果たし、日米安保による基地提供とは米軍の世界戦略の一貫であったことが、現在では明白になっています。*1
「キャンプハンセン」の向かい側には、「新開地」と呼ばれる米兵相手の歓楽街があり、現在も盛況です。
「キャンプハンセン」の入口の前の通り。
西部劇の映画に出てきそうな町並みです。
繁華街への入口のゲートには、日米国旗がデザインされています。
【参考文献】
*1 池宮城晃,池宮城拓:沖縄返還(池宮商会,1998)P.190
コザの西側、中頭郡嘉手納町の国道58号線の途中に比謝橋があります。
ここに吉屋チルーの歌碑があります。
吉屋チルーは、1650年、現在の恩納村に生まれました。家ははじめは裕福でしたが、父親が尾類(ジュリ)買いに精を出しすぎて、たちまち貧困になり、そのため、13才の吉屋チルーは、仲島遊廓*2 に売られることになりました。*1
「恨む比謝橋や 情けないぬ人の わぬ渡さともて かけておきやら」という歌が刻まれています。これは、吉屋チルーが、父親に手を引かれてはるばる売られていく道中に詠んだものです。街道の比謝川にかけられた木橋、この比謝橋は、きっと無情な人が私を渡らせようと思って、かけておいたのだろう。この橋さえなければ、私は尾類(ジュリ)になぞ売られて行くこともなかったろうに、とうたっています。1
吉屋チルーは、現在でも沖縄では知らない人のない天才歌人でした。*1
【参考文献】
*1 富村順一:琉球慰安婦 天皇制下の闇の性(玄曜社,1977)P.27-P.28
【参考記事】
*2 風俗散歩(那覇):仲島の大石(2009.1)
胡屋十字路からサンサン通り(国道330号線)を南西にパラダイス通り*1 があります。すぐ隣に諸見百軒通りがあります。現在は繁華街の面影はありませんが、1978年の住宅地図*2 を見ると、クラブやカフエーが、道の両脇にずらっと並んでいます。沖縄返還後、しばらくは繁華街であったようです。
かつての繁華街の面影を残すクラブの建物。
「CLUB DIYA」。特飲街時代の建物でしょうか。
元飲食店であったと思われる民家。
【参考文献】
*1 沖縄市平和文化振興課:Koza ひと・まち・こと 写真がとらえた1970年前後 あなたが歴史の目撃者(沖縄市,1997)P.11 「歓楽街分布図(1960年頃)」
*2 善隣出版社:沖縄市・北谷村(善隣出版社,1978)P.71
センター通りと接する場所に、かつて、「ワイキキ通り」*1 と呼ばれていた通りがあります。現在は閑静な住宅街ですが、かつてのワイキキ通りは、特飲街でした。*2
1953年、米軍は、特飲街で売春行為が行われ、性病が蔓延していることから、米軍人の立ち入りを禁止(オフ・リミッツ)の措置をとりました。こうしたオフ・リミッツは、米兵向け商売で暮らしを立てていくほかない人々にとっては死活問題であったため、オフリミッツ解除のためのさまざまな努力が行われました。こうしたさなかの1956年、風俗営業にAサイン制度が導入されました。Aサインとは、「米軍による許可済み」のことで、衛生管理や従業員の健康証明などが必要でした。*3
Aサイン取得のためには、改善のための設備投資が必要であり、資金のある業者のみが申請を行ったため、風俗店の数は減少していきました。コザの諸里百軒通り、胡屋(ごや)通り、ワイキキ通りなどでは、業者が沖縄向け(日本人向け)向けの営業に転業しました。*2
飲食店だったと思われる建物。
「KOZA BUNKA BOX」*2 に写真が掲載されている白瓦屋根の民家。
逆方向から見たところ。
【参考文献】
*1 沖縄市平和文化振興課:Koza ひと・まち・こと 写真がとらえた1970年前後 あなたが歴史の目撃者(沖縄市,1997)P.11 「歓楽街分布図(1960年頃)」
*2 山崎孝史:KOZA BUNKA BOX 4号(沖縄市企画部平和文化振興課,2008)p.42-P.44「USCAR文書からみたAサイン制度とオフ・リミッツ」
*3 那覇市歴史博物館:戦後をたどる(琉球新報社,2007)P.203-P.204「小野沢あかね:Aサインバーとオフ・リミッツ」
コザ十字路から美越通り(国道329号線)を300mほど進むとバス停の「吉原入口」があります。このバス停の南東側に吉原の風俗街が広がっています。
1950年代はじめ、基地建設に伴い、沖縄各地に米兵相手の特飲街が次々とつくられていきましたが、コザ十字路の南側に後に、「照屋黒人街」と呼ばれる特飲街が成立すると、白人と黒人の対立が目立つようになりました。1952年末頃には照屋の特飲街は、黒人の縄張りとなりましたが、白人相手に商売をしていた一部の業者は、コザ十字路北東にそびえる手付かずの高台に目をつけ、そこに新特飲街が建設され、吉原が誕生しました。つまり、吉原は照屋の特飲街の黒人街化によって誕生した街といえます。*1
「吉原」という名の由来は、東京の有名な遊廓である吉原にあやかったものだそうです。名前の候補として、「美島」、「沖の島」、「三島」などがありましたが、最終的に「吉原」に決定しました。吉原創設の目的は、「白人相手の特飲街」でしたが、1954年7月8日に発令されたオフリミッツが長期化したため、苦境に追い込まれた吉原の業者たちが思いついたのが「沖縄人相手」の商売でした。*1
吉原は、現在は、風俗街として存続しています。「吉原」と書かれた信号機がある交差点は、唯一、美越通りから風俗街を一望できる場所です。ここから高台に向かって一直線に広い通りが延びています。
高台の奥まったあたり。道路が縦横に走り、風俗店が道の両側にびっしりと並んでいます。
木造の建物もあります。
【参考文献】
*1 廣山洋一:KOZA BUNKA BOX 2号(沖縄市企画部平和文化振興課,2000) P.41-P.47 「特飲街・吉原」
八重島特飲街跡の名残を伝える唯一の遺構が1軒あります。
「Waltz(ワルツ)」のネオン看板が残っています。
建物の脇には、駐車場があります。
駐車場の地面には、タイルでハートが描かれています。
八重島特飲街は、1953年の長期オフリミッツなどで打撃を受け、衰退しました。*1
【参考文献】
*1 沖縄市平和文化振興課:Koza ひと・まち・こと 写真がとらえた1970年前後 あなたが歴史の目撃者(沖縄市,1997)P.112
終戦直後の混乱の中で、米兵による婦女子の暴行事件が多発し、一方、軍施設で働く婦女子にもよからむ風評が聞こえるようになったため、1950年2月頃に、コザの住民地区から離れた八重島原(現在の沖縄市八重島1丁目)に米兵相手の特飲街がつくられました。これが「ニュー・コザ」の始まりで、1951年から53年にかけて130軒のバー、クラブが通りにでき、そこで働くホステスだけでも300人を超え、人口も1000人あまりを数えていました。*1
八重島特飲街では、他の特飲街にさきがけて性病検診が実施され、公娼が働く売春街そのものでした。当時の経営者らは、八重島特飲街を戦前の那覇にあった辻遊廓*4 の復活と考えていたようであり、辻において旧暦の二十日正月に実施されていた「ジュリ馬」と呼ばれる行事を八重島で復活させていました。*2
この場所には、数年前までクラブ跡と思われる建物*3 が残っていましたが、現在は更地になっています。
建物の上部の壁に、うっすらと看板の痕跡が残っています。
「BAR(バー)」の文字の痕跡。「R」の文字のところに穴があいているのは、看板が固定されていた跡でしょうか。
【参考文献】
*1 恩河尚:KOZA BUNKA BOX 1号(沖縄市企画部平和文化振興課,1998) P.25-P.30 「コザの時代を考える 台風によってつくられた街」
*2 嘉陽義春:KOZA BUNKA BOX 3号(沖縄市企画部平和文化振興課,2007) P.48-P.49 「新聞記事を中心に見る特飲街へのオフリミッツ発令(1951~52)」
*3 山城興勝:EDGE Vol2(APO,1996)P.2-P.3「八重島特飲街その後」
【参考記事】
*4 風俗散歩(辻):辻遊廓開祖の墓(2009.2)
銀天街通りから路地を西に入ると、かつての黒人街の名残と思われる町並みが続いています。
照屋の特飲街には当初、黒人も白人も出入りしていましたが、数年たつと黒人と白人の対立が目立つようになりました。やがて集団で行動する黒人側の圧迫を受け、1954年頃までには、白人たちはコザ十字路以北へと追い払われてしまいました。
現在も残るホテル跡*1
現在は、米兵の姿はありません。
街から黒人は去り、写真右のビローの木は2倍に成長しました。*1
【参考文献】
*1 廣山洋一:KOZA BUNKA BOX 3号(沖縄市企画部平和文化振興課,2007) P.64-P.66,P.79,P.81 「コザ十字路一帯における黒の街と白の街」
今回は、コザ(沖縄県沖縄市)の町並みと風俗を散歩します。
1948年のリビー台風と1949年のグロリア台風により、在沖米軍は施設の約半分を失い、米国統合参謀本部は、沖縄基地を再建すべきか、フィリピンや日本本土に移転すべきか決断を迫られていました。最終的には、約500万ドル(平成10年の価値に換算して約7500億円)の巨費を投じて、沖縄に恒久基地を建設することが決定されました。戦後沖縄の主要企業は、1949年から1950年にかけて次々と設立され、コザを中心とする沖縄の中部地区には、職を求めてたくさんの人が集まり、コザは「基地の街」として急速に市街化されていきました。コザ十字路の南側に位置する照屋では、1950年頃から米兵相手の水商売が始まり、53年頃からは風俗営業が30軒ほど並び、照屋黒人街が成立しました。*1
「Koza ひと・まち・こと」の「歓楽街分布図」*2 によると、照屋黒人街は、現在の銀天街通りを南東に進んだあたりにありました。
銀天街通りを進み、緩やかな坂を登ったあたり。
かつて繁華街だった頃の雰囲気を伝えるスナックの建物が残っています。
「夜の蝶」という屋号の建物。
【参考文献】
*1 恩河尚:KOZA BUNKA BOX 1号(沖縄市企画部平和文化振興課,1998) P.25-P.30 「コザの時代を考える 台風によってつくられた街」
*2 沖縄市平和文化振興課:Koza ひと・まち・こと 写真がとらえた1970年前後 あなたが歴史の目撃者(沖縄市,1997)P.11 「歓楽街分布図(1960年頃)」
真栄原社交街にある一見何の変哲もない自販機。
夜になると、赤いネオンが煌々と輝きます。
よく見ると、自販機内の蛍光灯に赤色のフィルムが巻きつけられています。
ちょんの間と言えば、店の入口のネオン管を連想しますが、真栄原社交街では自販機も艶っぽい色で誘ってきます。ネオン管の誘惑に負け、この自販機で「さんぴん茶」を購入してしまいました。
ちなみに、普通の自販機はこんな感じです。(大謝名にて)
現在沖縄に存在する大規模な買売春街は、旧辻遊郭一帯のソープランド街を除けば、ほとんどが戦後アメリカ軍基地を背景に成立したものです。その象徴的な存在の一つが、宜野湾市の真栄原です。真栄原二丁目の新町のバス亭のすぐ前に、「真栄原社交街」と書かれたアーケードがかかる横道があります。*1
住宅地の真ん中に、道路で縦横に区画され、スナックのような店舗が密集した一画があります。ここが、「真栄原社交街」と呼ばれている地域です。
車でのアセクスが多いせいか、付近には大規模な駐車場がいくつもあります。
夕方になると、社交街の中を周回する自動車が増えてきます。
【参考文献】
*1 藤野豊:忘れられた地域史を歩く(大月書店,2006)P.135-P.152
沖縄には、亀甲墓(かめのこうばか)と呼ばれる独特の形状のお墓が町のあちこちにあります。
大山から真栄原に至る途中の大謝名二丁目にある亀甲墓は、道路に面した見やすい場所に2基、向き合うように並んでいます。
亀甲墓は、俗に母胎をかたどったものであると言われています。人は死ぬと再び元のところへ戻るという期元思想のあらわれといわれています。*1
道路を挟んだ向かい側に、もう1基あります。
こちらの亀甲墓は、白く塗られているのが特徴です。
【参考文献】
*1 渡邊欣雄,岡野宣勝,佐藤壮広,塩月亮子,宮下克也:沖縄民俗辞典(吉川弘文館,2008) P.144-P.145
宜野湾市大山に、かつら専門店があります。
「カツラ」、「ツーペ」と書かれた看板。
店の窓いっぱいに、かつらが並ぶ光景は圧巻です。
琉球舞踊で使う「カツラ」でしょうか。
今回は、真栄原(沖縄県宜野湾市)の町並みを散歩します。
1983年4月にマキノ正幸が沖縄県那覇市に開校した沖縄アクターズスクールは、安室奈美恵、MAX、SPEEDなどを排出した沖縄初のタレント養成学校です。*1
現在は、宜野湾市大山に本社があります。
沖縄アクターズスクールが生んだスーパースターの安室奈美恵さんは、コギャルファッションの教祖となりました。サラサラの茶髪にパール系のルージュ、真っ黒な肌にへそ出しルック、「パンツが見えても全然OK」という超ミニスカートに厚底のブーツを履いたコギャル達は「アムラー」と呼ばれ、渋谷のセンター街などでは見ない日はありませんでした。*2
入口には、アクターズスクール出身者のタレントの写真が飾られています。
【参考文献】
*1 大西 貢司:ポピュラー音楽研究.4(2000) 90’s沖縄系-POPの諸相~沖縄アクターズスクール出身ミュージシャンを中心に(大会報告 1999年度〔日本ポピュラー音楽学会〕第11回大会(沖縄県立芸術大学)) P.115
*2 アムラー徹底研究会:コギャルの星 安室奈美恵の研究(飯倉書房,1996) P.13-P.14
前島のビル街に点在する風俗店。店の入口には、水着ギャルの写真が貼ってありますが...
建物の壁には、「環境浄化指定××..夜あそび非行のもと」の貼紙。
「客引きや呼び込み行為禁止」の貼紙。
こちらは、たて看板タイプです。
辻から若狭大通りを北東へ進むと潮渡川に出ます。川にかかる夫婦橋を渡った先のコンビニのローソンのところを右に曲がったあたり(前島三丁目)に風俗店が点在するエリアがあります。
素泊まり¥1,500.-の宿。左隣に風俗店があります。
ディープな雰囲気が漂う店の入口。
入口のドアにオリオンビ-ルのキャンペーンガールのポスターが貼ってある風俗店。
ソープランド、スナックなどが密集する辻の歓楽街には、風俗店の無料紹介所が多数あります。
派手な看板が目につきます。
紹介所のほとんどは、交差点の角にあります。
24時間営業のスーパーの建物の1階にある紹介所。
ほとんどが鉄筋コンクリートのビルに建て変わっている辻の料亭ですが、唯一、当時の建物が残っているのが、料亭「左馬」です。
料亭「左馬」は、はじめ那覇の栄町で繁盛していましたが、辻に戻って、移転開業しました。*1
現在は休業中のようです。
赤瓦屋根の立派な建物です。
【参考文献】
*1 上原栄子:辻の華. 戦後篇 上(時事通信社,1989)P.185
辻の遊廓は、那覇大空襲で焼失しましたが、戦後、バーや料亭が密集する歓楽街として再建されました。
辻のソープランド街の周辺に、料亭が現在も営業しています。
近代的な料亭の建物です。
料亭「那覇」は、1950年に那覇の沖映近くのカーブ川ぎわに開業、270人の女給がいました。料亭「那覇」は、その後、辻に移転しました。
1952年開業の料亭「松之下」。辻での建築第一号でした。経営者は、「辻の華」の著者の上原栄子さんで、まれな美貌の持ち主でした。*1
現在は、近代的なビルに建て替っています。
【参考文献】
*1 比嘉朝進:戦後の沖縄世相史 事と年表でつづる世相・生活誌(暁書房,2000年7月) P.53,P.68
今回は、辻(沖縄県那覇市)の町並みと風俗を散歩します。
琉球の遊女(尾類(ジュリ))の歴史は古く、300年以上前にさかのぼります。慶長の役(1610年)で徳川家康配下の薩摩軍に敗れた琉球王国は、それ以降日本と中国の両属の形をとり、重税に苦しめられていました。そういう時代に中国からやってきた冊封使の護衛の兵士が半年以上も那覇の租界天使館(戦前の那覇市役所付近)に駐屯していました。男盛りの若い兵士たちの中には、民家に入り込んで婦女子にいたずらをする者もいたため、政府は良家の子女の防波堤とするため、公娼制度を設けました。*1*2
1672年、尚貞王は、各地に分散していた尾類(ジュリ)を辻と仲島に集めて、遊廓を創設しました。その後、渡地にも遊廓が創設され、辻は主に中国からの冊封使や薩摩の役人向け、仲島は、首里などの王族や士族向け、渡地は旅人向けとなりました。1879年の廃藩置県以降は、百姓も遊廓に来るようになり、仲島は地方客相手、辻には、旧士族や金持ちなどが訪れるようになりました。遊廓は、第二次世界大戦中の1944年、米軍による那覇大空襲で焼失しました。*3
料亭松乃下の隣に、木々が生い茂った場所があり、石段を登っていくと、「辻遊廓開祖之墓」があります。位牌が全部で4基並んでいます。
これは、昔から葬られてあった、遊廓創設時代の遊女の遺骨を近年になって貸座敷組合の手で改装されたものです。*4
位牌は、新しいもので、数年前に再改築されたようです。一番左側にある位牌に、「うないみやらびぬ里」と書かれています。
「うない」は、琉球語で「女兄弟」を意味し、「みやらび」は、10代後半の未婚女性を示す言葉です。*3
「ぬ」は共通語の「の」の意味ですので、「うないみやらびぬ里」は、「おんなの里」とでも言えばよいと思います。
右側の3基の位牌には、それぞれ次のように書かれています。*5
花ぬ台 ウトタルヌメー(音樽ぬ前)
花ぬ台 ウミチルヌメー(思鶴ぬ前)
花ぬ台 マカトカニヌメー(真加登金ぬ前)
いずれも首里御殿の女たちと思われる名前です。「花ぬ台」は、辻町の別称のことです。*5
辻遊廓は、約300軒ある妓楼のうち、どこにも、女たちを支配する男性が一人もいませんでした。娼婦か芸者か見分けもつかぬ形で、厳しい辻だけの掟を守って穏健な雰囲気の中で日々の生活を営んでいました。*5
道路の向こう側には、「財団法人辻新思会」の建物があります。
財団法人辻新思会は、貸座敷組合をへて戦後、財団法人になった組織で、辻の神事や辻の芸能を保存継承し、その歴史・文化の経緯を今に伝えています。*6
【参考文献】
*1 那覇市総務部女性室那覇女性史編集委員会:なは・女のあしあと.近代編(ドメス出版,1998)P.366-P.367
*2 徳田安周:おきなわ千一夜 物語沖縄風俗史(南報社,1964)P.140-P.142
*3 渡邊欣雄,岡野宣勝,佐藤壮広,塩月亮子,宮下克也:沖縄民俗辞典(吉川弘文館,2008)P.60,P.488,P.534-P.535
*4 来和雀,渡嘉敷錦水:歓楽郷辻情話史集(沖縄郷土文化研究会,1970)P.16
*5 上原栄子:辻の華. 戦後篇 上(時事通信社,1989)ⅲ,P.64,P.66
【参考URL】
*6 辻新思会の情報
那覇市楚辺(そべ)の城岳小学校の西側に、古風なパーマ屋さんがあります。
現在も営業中です。
すぐ近くに、もう1軒パーマ屋があります。赤瓦屋根が美しい建物です。
手作り感のあるベニヤ板の看板。
牧志三丁目のオリオン通りに、映画看板のある古い木造民家があります。
昭和初期の映画俳優が描かれた大看板です。
建物側面には、東映の「柳生武芸帳 片目の忍者」の看板。
片目の忍者は、「柳生武芸帳」シリーズ(1961年-1963年)の第8作で、主役の柳生十兵衛を演じている近衛十四郎さんは、チャンバラの第一人者で、松方弘樹さん(長男)、目黒祐樹さん(次男)と二人の息子はともに俳優です。
「片目の忍者」には、松方弘樹さんも出演しています。
「ヒーロー」という屋号のスナックだったようです。
農連市場の北東に位置する神里原通りは、戦後(昭和20年代~50年代)の商業の中心でした。*1
神里原通りから路地を一歩入るとスナックが建ち並ぶ一画(神里原社交街)があります。
神里原通りから入った路地は、開南本通りへぬけます。
昭和初期の神里原は、昼間は商いで活況を呈していましたが、夜は暗黒街でした。夜になると酒屋台が並び、飲み屋の閉店で流れてきた酔客同士のけんかが耐えない状況でした。*1
【参考文献】
*1 比嘉朝進:戦後の沖縄世相史 事と年表でつづる世相・生活誌(暁書房,2000年7月)P.47-P.48
那覇の国際通りから南側に延びる市場中央通りの終着点に、農連市場があります。ここは、全国でも珍しい相対売りの市場です。セリで落とすのではなく、直接農家のおばあと交渉して価格を決めるのが相対売りです。農連市場は、1958年に沖縄農業組合連合会によって、開設されました。*1
見た目は、まるで戦後食料難時代にタイムスリップしたかのようなバラック小屋です。かつては、県民の台所として沖縄全土の農家がこの聖地を目指して、毎朝、野菜を運んできました。*1
新鮮な野菜が並びます。
農連市場の裏側。カーブ川沿いにバラック風の建物が並んでいます。
【参考文献】
*1 松井優史:ハイサイおばあ!(竹書房,2007)P.8-P.14
国際通りと交差する桜坂中通りは、現在道幅が拡張され、この付近は再開発されているようです。
桜坂中通りを進むと、桜坂社交街があります。
桜坂社交街は、現在はさびれてしまったものの、かつては沖縄を代表する歓楽街でした。*1
桜坂が誕生したのは、昭和52年で、那覇保険所長の当山堅一らが、桜数十本を植え、桜の名所にしようと桜坂と名付けたことに由来します。その後、56年頃には、バー、キャバレー、料理屋など78軒、ホステス約500人の歓楽街に発展し、当時は街娼や米兵に女を世話して金をもらう児童などもいました。*1
昼間は閑散としていますが、夜になると年配の酔客たちとの酔狂が朝まで続きます。*1
【参考文献】
*1 下川裕治,ゼネラルプレス:好きになっちゃった沖縄(双葉社,1998)P.18-P.19
*2 比嘉朝進:戦後の沖縄世相史 事と年表でつづる世相・生活誌(暁書房,2000年7月)P.57-P.59
古都首里の大中町に、修理劇場があります。首里劇場は昭和26年創業。*1*2
現在は、ポルノ映画館として営業しています。
建物の前面はコンクリート造りですが、後ろへ回ってみると赤瓦が美しい木造建築であることがわかります。
内部は、昭和の映画館の雰囲気です。
【参考文献】
*1 高瀬進:ピンク映画館の灯(自由国民社,2001)P.6-P.9
*2 はぁぷぅ団:新!おきなわキーワード(ボーダーインク,2003)p,164-P.165
那覇バスターミナル。島内のバス路線の起点です。
バスターミナル内に、木が生い茂った大きな岩があります。
これは仲島の大石と呼ばれているものです。この付近は昔、仲島という地名で呼ばれていて、この岩の近くには仲島遊廓がありました。
那覇には、辻、仲島、渡地の3箇所に遊廓がありました。その歴史は古く、琉球王朝の尚貞王の時代の寛文12年(1672年)に、辻、仲島の遊廓が公認されました。(渡地の遊廓の創設の年代は明らかになっていません。) その後、明治42年に、仲島、渡地の2遊廓は、辻遊郭に移転統合されました。*1
仲島の大石は、風水にかかる縁起のよい石として珍重されてきました。岩の下部には、波で浸食されて窪んだ跡がのこされており、昔はこの付近が海岸線であったことを物語っています。
案内板には、歌人の吉屋チルー(仲島遊廓の遊女)についても言及されています。
【参考文献】
*1 来和雀,渡嘉敷錦水:歓楽郷辻情話史集(沖縄郷土文化研究会,1970)P.15-P.16
今回は、那覇(沖縄県那覇市)の町並みと風俗を散歩します。
那覇空港からモノレールの「ゆいレール」に乗って、4つ目の駅の壷川駅で下車。徒歩5分のところに漫湖公園があります。
那覇市街の南に位置する漫湖は、美しい自然が保たれた干潟で、貴重な生物が生息し、渡り鳥の中継地にもなっています。1999年には、ラムサール条約の登録湿地となりました。
2004年12月の地元新聞「沖縄タイムス」*1に、「『漫湖』の発音は、内地では女性の性的な身体の部分を指す言葉なので、名前を変えてもらえないかしら。」という投書が掲載されました。
また、これより2ヶ月前の2004年10月に刊行された「VOW王国ニッポンお笑い世界遺産」*2 の中の「ディスカバー珍名ジャパン」でも、「口に出して言えない日本語」として、漫湖公園が紹介されました。
漫湖遠望。
----2004年12月に「沖縄タイムス」に掲載された投書(抜粋)*1 ----
沖縄に来て丸15年、ずーっと気になって仕方ないことがあります。それは「漫湖」「漫湖公園」の読み方です。実はこの発音は、内地では女性の性的な身体の部分を指す言葉なのです。沖縄に来て、初めて看板でこの名を見たと時、ギョッとしました。
由来のある名前なのでしょうが、名前を変えてもらえないかしら、とすら思ってしまいます。観光客もたぶんびっくりしていると思うのですが…皆さん(特に内地から来た方)どう思われますか?こんなこと気にしてるの、私だけでしょうか?
=那覇市・なっちゃん(38)主婦
【参考文献】
*1 沖縄タイムス(2004.12.15 夕刊)p.3 タ~ヴァ・メール「気になる漫湖の読み方」
*2 宝島社:VOW王国ニッポンお笑い世界遺産(宝島社,2004)P.168
西城川に沿った旭町通りは、川の側に堤防である石垣の土手があり、かつて土手の上には普通車がやっと通れるほどの道がありました。町側は桜並木で、土手の石垣の下にも道があり、上下の通りをつなく石段がところどころにあるという独特の趣をもった町並みでした。*1
大きな料亭が集中し、検番もこのあたりにありました。*1
旭町通りの川側の歩道に、地下に埋もれている古い土手の石垣を見せるようにした施設があります。この施設の傍らに昔の写真が何枚か壁にはめ込まれています。
そのうちの1枚、西城川から見た昔の町並みの写真です。
【参考文献】
*1 菁文社:みよし街並み歴史散歩 三次・十日市・八次・酒屋編(菁文社,2007)P.35-P.37
松原稲荷通り(大正町)の入口の坂道の途中から石段を降りていく昔の道があります。この道の右手の町並みは土手の斜面に建てられているので、こちらからは家の裏側を見せています。左手の家並みは、6、7軒で途切れて墓地となります。*1
その墓地に、御籠屋清三郎(おかごやせいざぶろう)の墓があります。
古い自然石の台石の正面に「げいこや中」と彫りこまれ、さらに、世話人として芸者さんの源氏名と思われる名前が13人分書かれています。「げいこや」は、「芸子屋」で、団体などを示す「社中」や「連中」の「中」です。墓の傍の由来のを書いた石碑によると、この墓は、剣術師範の御籠屋清三郎が、試合上の逆恨みから、闇討ちに遭い憤死したことに対し、芸者衆が哀悼の志により建てられたものということです。*1
御籠屋清三郎は、相当女性にもてたようです。
少し行くと、右手に狭い石段があり、松原通りに通じています。三次の町が出来て以来、何百年もの間、悲喜こもごもの思いを抱いた人たちが上り下りして磨り減った石です。とりわけ花街になってからは、不遇な女性たちの涙が沁みた石段でもあります。*1
【参考文献】
*1 菁文社:みよし街並み歴史散歩 三次・十日市・八次・酒屋編(菁文社,2007)P.30-P.31
今回は、三次(広島県三次市)の町並みと風俗を散歩します。 三次は、広島県北部、すなわち中国地方のほぼ真ん中に位置します。
巴橋西詰のバス停近くに、「松原稲荷通り」と書かれた路地の入口があります。
ここは、かつては「大正町」と呼ばれ、県北唯一最大の公認の遊興歓楽街でした。現在は、スナックが並ぶ町並みになっています。
三次の娼婦は、「三次だんご」と呼ばれていました。辞書によると「ころぶ」の意味の一つに「芸者・酌婦などが隠れて売春すること」とありますが、だんごは丸くて転がりやすい。つまりころぶので「団子」と洒落たようです。昭和33年の売春防止法施行以降は、居酒屋、バー、小料理屋などが軒を連ね、夜になると社用族などでごったがえし、ホステス嬢の嬌声飛び交い、狭い通りはまっすぐに歩けないほどでした。*1
通りの中ほどに、お稲荷さん特有の赤い鳥居の列が見え、その奥に松原稲荷神社があります。現在は周囲が空き地や駐車場となっていて、ちょっと寂しい感じです。
このお稲荷さんは、売られてきた女性たちが対岸の厳島神社参りを口実に脱走を企てることがしばしばあったため、これを防ぐために勧請されたと言い伝えられています。数年前までには、家と家との間の路地に鳥居が並んでいて、花街時代の情緒をよく残していたそうです。世界的に有名な人形作家の辻村寿三郎さんは、この一画がとても気に入っていたそうです。*1
辻村寿三郎さんは、旧満州生まれ。少年時代を大陸で過ごし、終戦の1年前の昭和19年に広島に引き揚げ、広島県三次市で終戦を迎えました。*2
辻村寿三郎さんは、育った料亭で芸者の着物や端切れに親しみ、物心ついたときには割り箸で人形を作っていたそうです。*3
【参考文献】
*1 菁文社:みよし街並み歴史散歩 三次・十日市・八次・酒屋編(菁文社,2007)P.28-P.29
*2 辻村寿三郎公式ホームページ
*3 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)「辻村寿三郎」
老松町の遊廓跡地の近くに、銭湯の稲荷湯があります。
入口は、シンプル。暖簾などは出ていません。
後ろ側に回ってみました。
内部は、余分な物はいっさい置いていなく、シンプルです。
「恋しき」は、明治5年創業の備後地方随一と言われた料亭旅館で、平成2年までは旅館として営業していました。その後、取り壊しの話も出ていましたが、経済界が保存に乗り出し、平成19年に「こころのふる里 恋しき」として再オープンしました。
明治から昭和にかけては、政治家や文化人など著名な方々が宿泊されました。
奥には日本式庭園が配置され、すばらしい枝ぶりの松や泉が配置されています。
「恋しき」で宴会を行った後、老松町の遊廓に繰り出すということもあったのかもしれません。
府中駅の北側にある旧老松町に、遊廓があり、約100mほどの道の左右に貸座敷が並んでいました。府中は、備後国の国府があった場所なので、政治上重要な土地でした。それゆえ、遊廓も古くから発展していました。*1
当時の面影を残す建物が道の両側に残っています。
逆方向から見たところ。
この場所にも面影を残す建物がありましたが、現在は更地になっています。
【参考文献】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.328
今回は、備後府中(広島県府中市)の町並みと風俗を散歩します。
東京都や京都府にも府中という地名がありますが、今回は広島県の府中です。府中へは、福山駅からJR福塩線に乗り約45分です。
駅前に白ポストが設置してあります。
比較的シンプルなデザインです。
読まない・見せない・売らない。偶然だと思いますが、郡山で見かけた白ポストの標語(三ない運動)と同じです。*1
【参考記事】
*1 風俗散歩(郡山):駅の地下道の白ポスト(2008.7)
スナックやパブが並ぶプレージャータウン。路地の角にニューハーフパブがあります。
ニューハーフパブ店の入口にたまごの自動販売機があります。(手前には風俗雑誌も)
生みたて!!新鮮たまご。自動販売機には、生産者の農家の名前も記されていて、新鮮なたまごであることがわかります。
近くの別のパブの看板。「食べてGo卵」。美味しい卵料理の店です。
風俗店が乱立する国道2号線沿いに託児所(夜間保育)があります。
「夜の保育」の看板。
入船町2丁目の飲み屋街「プレージャータウン」。ここにも託児所があります。
乳児(ニュージー)ランド。福山の飲み屋街が南半球の美しい島を思い起こさせてくれました。*1
【参考文献】
*1 勝谷誠彦:色街を呑む! 日本列島やりつくし紀行(祥伝社,2003)P.139
福山市内を横断する現在の国道2号線をはさんだ住吉町と御船町に、福山新町遊廓がありました。遊廓があった当時、国道2号線は河川運河でした。*1
住吉町の遊廓跡地。*1
国道沿いに飲食店や風俗店が並んでいます。
この写真の左側に見える有料駐車場が、遊廓の南限でした。旧日本軍の福山第41連隊は、遊廓の南側、現在のバラ公園のあたりにあったので、福山新町遊廓は軍人用の遊廓でもありました。*1
遊廓の北側は、国道2号線沿いにある御船町交番の脇の祠の奥に見える建物のあたりでした。*1
【参考文献】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.299
今回は、福山(広島県福山市)の町並みと風俗を散歩します。
福山駅の北側の東町2丁目、東ガード6番(北)の通りを歩いていると、「ヌードの第一劇場」の大看板が目に飛び込んできます。
ヌード専門の劇場です。
入口付近の「いらっしゃいませ」の看板。
近日大公貝。
笠岡の古城山の山麓。
工場の敷地の隣にホテルが建っています。
屋上には大きな広告看板。
モーテル形式の入口。
旧病院の建物の脇の路地。
窓枠にタイルの装飾のある洋風の建物があります。
2階部分。
何かのマークでしょうか。
遊廓の中心部であったと思われる場所に病院跡の建物があります。*1
1階の入口に円柱の装飾があります。まるで赤線の建物のようです。
「消えた赤線放浪記」*1 の表紙に掲載されている丸い窓。
内部の様子は、病院そのものです。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)表紙
笠岡には、かつて遊廓がありました。*1
山陽本線の線路沿いの道から踏切を渡ったところに、現在もその名残と思われる建物が残っています。
逆方向から踏切のある方向(北側)を見たところ。
別の路地にも、古い建物が続いています。
鮮やかな装飾。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)
今回は、笠岡(岡山県笠岡市)の町並みと風俗を散歩します。山陽本線の笠岡駅の南東方向にある伏越地区を目指します。
国道2号線沿いに「伏越地区」と書かれた看板があります。
伏越地区の北側を山陽本線の電車が走ります。
古城山公園へ登る道路の途中から見た伏越地区の全景。
函館山の山麓。姿見坂に銭湯の大黒湯があります。
函館市内で一番古い銭湯です。*1
入口付近。
脱衣場の床一面に畳が敷かれています。
*1 全国浴場新聞(2007.2.26)
函館と言えば函館山です。麓にあたる高田屋通りの坂道の向こう側に函館山を望むことができます。
函館山へ登る方法は、①ロープウェイ、②自動車(冬季は道路が通行止め)、③徒歩の3つの方法があります。今回は、徒歩(登山道があります。)で山頂を目指します。
7合目付近。
函館山からの夜景は世界一とも言われているそうですが、昼間の景色もすばらしいです。
宝来町のあさり坂に「あさり」という屋号の料理屋があります。
お店の人の話によると100年以上続く店だそうです。現在は、1階が肉屋2階がすきやき屋になっています。
玄関をくぐると目の前に階段が見えます。この階段は、最初の4段までが丸みをおびた形になっています。
都市研究者の岡本哲志さんは、「この階段は、通常の世界のものと違い、京都伏見の遊廓建築の階段に酷似している。」としています。*1
2階には、大部屋、中部屋が配置され、そのさらに奥に行くと小部屋となります。窓の造りも小さくなって急に暗くなります。複雑な廊下の先には2人用の小部屋が5つもあります。
岡本哲志さんは、「この2人部屋は料亭によくある形式で、男女が来店した際に通されるもので、遊廓建築の奥に行くほどプライベート性を高くする空間の仕組みが読み取れる。」*1 と興味深い分析をしています。
1人で来店した私は、この2人部屋に通され、プライベートな空間を満喫することができましが、寂しくもありました。
一番安い「梅◆和牛ロース(1人前¥2,310.-)」を注文。ご飯はお代わり無料ですので、3杯も頂いてしまいました。多額の出費でしたが、十分満足(満腹)でした。
【参考文献】
*1 岡本哲志,日本の港町研究会:港町の近代(学芸出版社,2008)p.193
函館市電に乗って、宝来町駅で下車します。明治6年、蓬莱町、豊川町、台町に貸座敷の営業許可がおりました。3つの中で、蓬莱遊廓は圧倒的に規模が大きい遊廓でした。
現在も、近くには営業中の料亭があり、花街らしい風情が残されています。
高田屋通り近くに古い建物が残されています。
手のこんだ造りです。
「菊水」と書かれた屋号が確認できます。
【参考文献】
*1 小寺平吉:北海道遊里史考(北書房,1974)P.95
*2 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)p.28
大門通りを横切る「さかえ通り」の中央分離帯。
ここに「月光仮面像」があります。「月光仮面」は、1958年(白黒テレビの時代)、テレビドラマとして放映されました。白頭巾とサングラス、風になびくマント、原付?バイクに乗った正義の味方は、一大ブームを巻き起こした国民的ヒーローでした。
「月光仮面」の作者であり、主題歌を作詞した川内康範さんは函館の出身です。
この月光仮面像は昭和49年に函館市に寄贈されたもので、カラーアニメ版として制作されたものを基に作られています。(案内板より)
台座に、理念である「憎むな、殺すな、赦しましょう」という名台詞が刻まれています。
(月光仮面の主題歌)
どこの誰だか知らないけれど
誰もがみんな知っている
月光仮面のおじさんは~
(後略)
個人的には、永井豪のアニメ「けっこう仮面」*1 の方が印象に残っているのですが...。
(けっこう仮面の主題歌)
顔は誰かは知らないけれど
肉体(からだ)はみんな知っている
けっこう仮面の姉さんは~
(後略)
【参考URL】
*1 けっこう仮面ファンサイト”Mask the Kekkou”
函館駅の東側。若松町の質屋のある通りが、「セキセン」と呼ばれるスナック街です。*1
セキセンの目抜き通り。「小料理」と書かれた看板もあります。左側は、広い空き地になっています。
細い路地に入ったところにあるスナック。
スナック街の旅館。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)p.68-P.74
函館駅近くの大門仲通り。スナックが密集するエリアです。
再開発が計画されているエリアなのでしょうか。建物はまばらです。
古びたシャッター。
交差点の角にあるスナックとパーマ屋さん。
今回は、函館(北海道函館市)の町並みと風俗を散歩します。
JR函館駅前の大門松風町は、函館の顔とも言える通りです。
松風町四つ角付近。現在、CDショップの玉光堂のある場所には、拓銀がありました。手前にある書店森文化堂は、古くからある商店です。*1
この道路をまっすぐ行くと、かつて遊廓があって栄えた大森町です。
逆方向から見たところ。
昔の商店街の雰囲気を伝える写真が商店の建物の壁に貼られています。
【参考文献】
*1 木下順一他:函館街並み今・昔(北海道新聞社,2001)P.112-P.113
青森市街南部の旭町通り。
「マニア向けビデオ、本、おもちゃ」の貼紙があります。
その上には、バイアグラの貼紙。
貼紙に書かれている浪館通りのモスバーガー附近に行ってみましたが、おもちゃやさんは見つかりませんでした。残念。
青森市内の現在の青柳2丁目あたりは、旧町名で塩町と呼ばれていましたが、明治22年に柳原遊廓ができるまでの間、東北でも一、二ともいわれる遊廓がありました。
塩町に遊廓ができたのは、元禄8年。町の発展策に旅籠町に洗濯女を置くことが許可されたのがはじまりで、寛政11年の調査によると、楼主は10人、娼妓は52人でした。*1
青柳2丁目(旧塩町)に、結婚式場のモルトン迎賓館(写真中央の三角屋根の建物のあたり)がありますが、ここには、寺山修二が中学2年から高校卒業までの5年間を過ごした映画館の歌舞伎座がありました。*2
モルトン迎賓館の前に寺山修司の案内板があります。案内板に書かれている「はくちょう会館」は、モルトン迎賓館が出来る前にあった市立の会館の名前です。
塩町のすぐ北側にある蜆貝町。明治43年の火災後、柳原遊廓は、旭町に移転しましたが、旭町は市の中心部から遠かったため、手近に遊ぶ場所として蜆貝町に三等貸座敷が繫昌しました。*1
【参考文献】
*1 肴倉彌八:青森市町内盛衰記(歴史図書社,1976)P.57-P.65,P.95-P.101
*2 阿部誠也:青森の文学その舞台を歩く 上(北の街社,2007)P.36
第三振興街裏には、スナックや風俗店が軒を連ねています。
レトロな感じの店構え。
入口は、大きな電球?で装飾されています。
電球に見えたのは、実はビール瓶でした。
青森駅前にある飲み屋街の「第三振興街」。スタンドバーが軒を連ねています。
食堂もあります。
赤線跡を歩く【完結編】*1 に写真が掲載されているスタンドバー。
東側の入口。こちらにも「第三振興街」があります。看板左側の白い建物は、公衆トイレです。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)p.56
天国のすぐ隣にあるストリップ劇場の「青森DX劇場」。
ピンク色の大きな看板。電車の車窓から見えることを狙ったものでしょうか。
現在は閉館している模様です。
建物の裏側の通り。「青森DX劇場」のピンク色の看板が見えます。
呑み屋街の「駅前天国」。
現在は、営業している店は少ないようです。
通路は曲がって奥へ進みます。
奥にある公衆トイレ。青色に塗装されています。
今回は、青森(青森県青森市)の町並みと風俗を散歩します。
青森駅前にある1階にリンゴ屋が入る建物。(隣は「駅前天国」)
建物の側面(南側)。
芸術的なトタン建築です。
建物の右側。こちらは赤色が中心。
浅虫温泉の温泉街の奥まったところに、飲食店だったと思われる建物があります。「アゲーン」と書かれた看板だけが残されています。
1階部分。
閉店してからだいぶ経過しているようです。
建物の裏側へ通じる入口。
温泉街の南端にあたる浅虫川沿いに、酌婦を置いた料理店だったと思われる妓楼風の建物が残る一画があります。*1
どっしりとした大型の木造建築です。
吸い込まれそうな玄関。
川沿いから見る建物の裏側。もの凄い迫力です。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.54-P.55
今回は、浅虫温泉(青森県青森市)の町並みと風俗を散歩します。
浅虫温泉駅は、東北本線の駅で言うと、青森駅から5つ目の駅です。
「ホタテのふるさと」と書かれた浅虫温泉の看板。
JR東北本線浅虫温泉駅と湯の島。
妓楼風の石造りの建物の脇から延びる「一番坂」。
大湊上町の常楽寺に、霊場恐山まで続く三十三観音の起点となる一番観音があることから「一番坂」と名付けられました。*1
逆方向から見下ろすと海が見えます。付近には木造の旧家も数多く見られます。
「一番坂」の南側にある「ロマンス坂」。
明治43年、大湊地区では初めての演芸場「盛港館」ができ、芝居や歌舞伎、踊りなどが上演されました。大正時代から無声映画の上映も始まり、その後名称は、新興劇場、ロマンス座と変わり、映画専門の劇場になりましたが、一時は、大変な賑わいを見せました。昭和30年代に閉館しましたが、人々が通ったこの坂道の思い出を残すため、劇場の名をとって「ロマンス坂」と名付けられました。*1
大湊上町稲荷神社があった付近から見下ろすロマンス坂。ロマンス座は大湊上町稲荷神社の下の坂の中腹にありました。*1
海岸沿いの旧道を軍港があった方向に行くと、「一番坂」の登り口の角に、料理屋か妓楼のような石造りの建物が現れます。*1
この建物は、昭和10年の大湊町誌*2 の広告欄に掲載されている、「海軍御用達 艀(はしけ)業」の建物と思われますが、軍人さんへの接待なども行われたのかもしれません。
石造りの玄関と木製の扉。
玄関の上部の木彫り装飾。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.52-P.53
*2 笹沢魯羊:大湊町誌(下北新報社,1935)
大湊新町の三叉路の南側に、古い店舗が建ち並ぶ一画があります。
スナックの建物が1軒だけ残っています。
レトロな看板が印象的です。
古い住宅地図*1 によると、このあたりは、道の両脇に「だるま」「プリンス」「くろねこ」「すみれ」などのスナックと思われる店舗が建ち並ぶ繁華街だったようです。
【参考文献】
*1 日本住宅地図出版:むつ市(日本住宅地図出版,1980)P.44
今回は、大湊(青森県むつ市)の町並みと風俗を散歩します。
JR大湊線の終着駅である大湊駅を下車し、市街地を西を進みます。市街からは、恐山が見えます。
理髪店の建物に、スナック店、飲食店が併設されています。
理髪店の建物の角にあるスナックの看板。
建物の右側は、焼肉店。
湯本駅から約3kmの山中に常磐ハワイアンセンター(スパリゾートハワイアンズ)があります。
常磐ハワイアンセンターは、昭和36年、常磐炭鉱の社長だった中村豊さんによって構想されました。この楽園の素は、炭鉱を掘るときに湧いて出る温泉でした。温泉は炭鉱にとっては困りもので、莫大な費用をかけて坑内から汲みだし、川へ捨てていました。*1
昭和30年代、エネルギー革命(石炭から石油へ)が進行し、採炭事業の存続が困難な状況にまで発展しました。その頃、大衆のための娯楽施設として注目を集めていたのが、昭和31年、千葉県船橋市にオープンした船橋ヘルスセンター*3 で、常磐炭礦の関係者を大いに刺激しました。しかし、無名の温泉施設に客を集めるには工夫がいるので、フラダンスやタヒチアンショーを見せることにしました。なぜ、フラダンスを取り入れたのかについて、中村さんは、「昔から温泉宿は酒と女ですが、女は売春防止法にひっかかるから、腰をふらせたらよかろうと思って」と解りやすい理由を述べています。*2
この実話に基づいて制作された映画「フラガール」は、第30回日本アカデミー賞(2007年2月16日発表) を受賞しました。
スパリゾートハワイアンズの中に、映画「フラガール」の大ヒットを記念して作られた展示会場「フラ・ミュージアム」があります。
炭鉱の苦悩から生まれた常磐ハワイアンセンターの紆余曲折が、あますところなく紹介されています。
あっ!裸踊りのネエちゃんだ!
腰振りダンス!?
ヘソを出して踊るなんて!
「やらなければならない。生き抜くために」
トロピカルフラショー。タヒチアンダンスは圧巻です。
【参考文献】
*1 田中聡:ニッポン秘境館の謎(晶文社,1999)P. 53
*2 猪狩勝己:ハワイアンセンター物語(加納活版所,1980)P.6-P.20
【参考記事】
*3 風俗散歩(船橋):船橋ヘルスセンター跡(2008.11)
湯本駅のすぐそばに、いわき市石炭・化石館があります。
坑夫の像。
地下1階に、当時の坑道を再現した「模擬坑道」があります。人形を使った解りやすい展示です。
昔は女性も裸で作業に参加していました。
温泉街の奥まったところ。
ストリップ劇場のいわきミュージックがあります。
純和風の建物。
現在は、マッサージサロンとして営業しているのでしょうか。
温泉街に、旧映画館の三函座の建物が残っています。
この建物は、文化財として保存されています。
切符売り場は、鮮やかなタイルの装飾が施されています。
昔、この辺りは「三函」と呼ばれていたそうです。
今回は、湯本(福島県いわき市)の町並みと風俗を散歩します。
JR常磐線の湯本駅前から山側に、湯本温泉街が広がっています。戦後、朝鮮動乱は特需ブームをもたらし、常盤炭田地帯は出炭量が増えて、空前の黒ダイヤ景気を呼びました。炭鉱地帯の中心であった湯本温泉は、炭鉱景気で賑わい、湯本の芸者数は急増し、一時は300人を超えました。*1
温泉街には、旅館の他、スナックが点在しています。
花街らしい雰囲気も残っています。
奇抜なデザインの建物。
味わいのある建物が多いです。
【参考文献】
*1郷土出版社:いわき今昔写真帖(郷土出版社,2003)P.98
五色町遊郭跡地近くに銭湯があります。
入口には、山積みにされた材木。
「材木以外は持ち込んではいけません」の看板。
小規模ですが、落ち着いた雰囲気の銭湯です。
今回は、いわき(福島県いわき市)の町並みと風俗を散歩します。
いわき市は、1966年に、平市、磐城市などを合併し誕生しました。その後、1994年に平駅はいわき駅と改名されました。
明治の初期、平の遊廓は、最初、材木町、その他に点在していましたが、明治40年に五色町に移転しました。吉原遊廓をまねて大門を建て、酔客をそこまで見送ることが、浜通りの名物となっていました。*1
鎌田町から見た五色町交差点方面。
平町全図*2 に五色町遊廓の場所が記されていますが、それによると、五色町遊廓は、現在の五色町交差点の南側にあったと思われます。
遊廓の東側に位置する鎌田橋。五色町遊廓は鎌田遊廓とも呼ばれていました。*1
【参考文献】
*1 荒川禎三:磐城百年史(マルトモ書店,1966)p.282-P.285
*2 吉成留三郎:磐城平町案内(関内米三郎,1913)
昭和30年から52年まで、船橋ヘルスセンターという娯楽施設がありました。その面積は東京ドーム8個分という巨大なもので、温泉、遊覧飛行場、サーキット場、人口ビーチ、遊園地、ゴルフコース、人工スキー場などがありました。
中でも、高さ25メートル、長さ100メートルの水の滑り台の「大滝すべり」は大ブレークしました。時速50キロメートル滑降スピードのため、途中で海水パンツが脱げてしまうというハプニングも起きました。
現在は、大型ショッピングセンターの「ららぽーと」になっています。
船橋ヘルスセンターの名残と言えそうな碑が、三井ガーデンホテルの駐車場の脇にあります。
碑のプレートに書かれているように、当時、温泉コンクールというのがあったようです。
1993年には、ららぽーとの隣に人工スキー場の「ららぽーとスキードーム・ザウス」がオープンしましたが、2002年に閉鎖。跡地は、大型家具店になっています。
【参考文献】
*1 日本観光雑学研究倶楽部:セピア色の遊園地(創成社,2005)P.76-P.88
船橋港の近くにあるビジネスホテルの「市松」。
近代的なビジネスホテルになっていますが、敷地の端に古い建物があります。
建物の側面上部に、ローマ字で「HOTELU ICHIMATS」と書かれています。普通は、「HOTEL ICHIMATSU」だと思うのですが、昔は、こういう書き方をしていたのでしょうか。
モダンなデザインです。
船橋駅近くの商店街のアーケードに「ハワイ本店」の看板がありす。
細い路地に飲食店が建ち並んでいます。
路地に面して派手な看板を掲げた店があります。
入口には、女性の写真が貼ってあります。
国道14号線沿いにあるNTTのビルから少し南へ入ったところに、運河跡の入口があります。
運河跡の脇には遊歩道が続いています。
この運河跡は、澪(みお)と呼ばる川と海を結ぶ流路で、かつては海から魚を運ぶために利用されていました。船橋には、このような澪が数多くありました。12
せり出す母屋がアジアンチックです。*2
裏側の道路側から母屋を見たところ。
【参考文献】
*1 船橋市広報課:悠遊散歩道(船橋市広報課,1996)P.7-P.8
*2 散歩の達人(2001.10)P.12
今回は、船橋(千葉県船橋市)の町並みと風俗を散歩します。
船橋駅の西側、旧遊廓の近くにある海神稲荷神社。「???にご注意!!」の看板。
経年変化で見えにくくなっていたようです。斜めから見ると、”チカン”の文字が見えました。
遊廓跡地近くの路地。
京成船橋駅前のパチンコ店前。
「全国遊廓案内」によると、新発田遊廓は、新発田町字三宣(みのり)町(現在の御幸町)にありました。*1
町名の由来は、「月に宣し、雪に宣し、女は殊に宣し」ということで、三宣町に改称されました。現在は昔の妓楼もなく、道路の両側は商店街となっています。*2
昭和33年、公娼制度は廃止され、広い道路を挟んで並んでいた妓楼は無くなりましたが、その頃の名残に今なお盆栽仕立ての松が残っています。*2
松の木が残っているお宅。
逆方向から見たところ。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.94
*2 松田時次:新発田今昔写真帖(郷土出版社,2002)P.66-P.67
中央町と大通りを挟んだ南側に位置する大栄町1丁目に銭湯の「いいでの湯」があります。
銭湯脇に川が流れています。
隣接する倉庫には、木材が山積みになっています。
清潔感のある銭湯です。
今回は、新発田(新潟県新発田市)の町並みと風俗を散歩します。
掛蔵は、古くからの繁華街で、現在は中央町4丁目となっています。*1
現在も割烹や飲食店が建ち並びます。
路地にある古びたスナック。
古いプレートが残っていました。現在は民家になっています。
【参考文献】
*1 松田時次:新発田今昔写真帖(郷土出版社,2002)p.20
藩政時代から続いた七日町と八間町の下旅籠は、八間町を北曲輪、七日町を南曲輪とよび、不夜城を誇っていましたが、風教上よろしくないという見地から、小眞木田ん圃(双葉町)に移転することになり、期限は昭和7年3月になっていました。*1
ところが、同2年暮れまでに移転を完了したのは、小松楼、松形楼、矢島楼、中村楼など8軒で、一流どころは移転を渋っていました。その経緯は、まず小松楼という三流どころの楼主金野小治が率先し、まるで軍艦のような妓楼をつくり、そして個人的に信仰し自庭に祀っていた宗吾神社を同遊廓の氏神とするよう寄付しました。これに一流どころの楼主たちが反発したため、移転が遅れることになりました。*1
宗吾神社は、現在も双葉町にあります。
鳥居の脇に寄進者の一覧が書かれた碑がたっています。
宗吾神社の由来。これによると、「金野小治が息子の小三郎を佐倉に使いし、下総佐倉の宗吾霊堂の分霊を受け、所有地に境内を整備し崇拝していたが、これを町の願いにより町の守護神として寄贈譲渡し、以後町が管理している。」と書かれています。
寄進者の名前。一番右に、小松楼楼主の金野小治、右から4番目に息子の金野小三郎の名前があります。6番目の若喜楼は、妓楼の名前でしょうか。
【参考文献】
*1 目で見る鶴岡百年中巻(昭和戦前篇)(エビスヤ書店,1977)P.29
本町2丁目の路地。繁華街から少しはずれた場所です。
銭湯の鶴乃湯。
入口のドアは閉まっていますが、営業中です。
外側のドアを開けて中に入るとさらにドアがあります。ドアが二重になっているのは北国の銭湯の特徴でしょうか。
神楽橋から川沿いの路地を入ったところに、パーマ屋さんの建物があります。
和風の佇まい。
2階部分の看板は、インパクトがあります。
モダンな感じの入口のドアガラス。
鶴岡市街を流れる内川とそれに架かる美しい橋は、心なごむ風景です。
鶴園橋から内川を眺めると三雪橋と千歳橋と橋が連なっています。晴れていれば鳥海山が遠望できます。
直木賞作家の藤沢周平は、昭和2年(1927年)、鶴岡市に生まれました。
藤沢周平の作品とゆかりの地の案内板が、市内のあちこちに設置されています。
代表作「蝉しぐれ」の舞台「五間川」のモデルはこの内川で、主人公の少年藩士の文四郎がお福と舟を降りたとされる三雪橋は、赤い欄干が美しい橋です。
文四郎が童貞を失った妓楼の若松屋があった染川町は、七日町の遊廓がモデルであったと思われます。
柳橋。この橋を渡ると、観音堂の前を通りすぎて七日町旧遊廓街へ行くことができます。
この橋は、明治12年朝日楼楼主の安達三蔵が私費を投じて架橋したものと言われています。*1
柳橋という名前は、東京の花柳界を真似たようで、芸者華やかなりし頃を偲ばせています。現在の橋は昭和29年に架け替えられたものです。*2
神楽橋は、藩政当時は七日町橋と呼ばれ、神楽橋と改称されたのは明治9年。*2
明治に入ってからも、神楽橋に遊客をのせた酒田船が通っていました。*3
【参考文献】
*1 花筏健:こぼればな史(庄内日報社,2007)P.44-P.45
*2 目で見る鶴岡百年下巻(昭和戦後篇)(エビスヤ書店,1978)P.161-P.162
*3 大泉散士:私の鶴岡地図(阿部整一,1981)P.4
かつて七日町には貸座敷がありましたが、その頃の面影を伝える料亭の建物が今も残っています。
大通り沿いに、割烹料亭の三浦屋とその隣(写真:右手前)に同じく料亭の七尾の建物が並びます。2軒とも、「七日町貸座敷華やかなりし頃の家並み」*1 に掲載されていますので、貸座敷があった昭和の初期からこの場所で料亭として営業しているものと思われます。
木造3階建ての堂々とした木造建築です。
入口附近。
裏側から見たところ。
【参考URL】
*1 風俗散歩(鶴岡):七日町観音堂(2008.11)「七日町貸座敷華やかなりし頃の家並み」
鶴岡には、七日町と八間町に貸座敷が26軒、遊女145人がいました。*1
このうち、七日町は、江戸時代から街道が集まる交通の要所であったと同時に、飯盛女を抱える旅籠屋が軒を連ねる歓楽街でもありました。昭和5年に、七日町の遊廓は双葉町に移転しましたが、その間の300年間、鶴岡を代表する歓楽街でした。*2
七日町(現在の本町2丁目)の大通りの池徳古美術店角から北へ向かう路地(観音小路)を入ったところに七日町観音堂があります。*3
観音堂では毎年12月にだるま市が開かれます。七日町の娼妓たちの務めは厳しいものでした。娼妓たちは、「もし足のないお客様が泊まって、毎日毎晩いてくれたらどんなに幸せだろう。」と同じ足のないだるま様を抱いて寝たそうです。これが年夜に旦那と一緒にだるまを買いにいく楽しみに発展し、だるま市になりました。*3
お堂。
お堂の壁に「七日町貸座敷華やかなりし頃の家並み」が貼ってあります。
【参考文献】
*1 半田岩雄:鶴岡の今昔(東北出版企画,1975)P.35
*2 花筏健:こぼればな史(庄内日報社,2007)P.44
*3 冨塚喜吉:鶴岡の小路(阿部久書店,1998)P.52
*4 大泉散士:私の鶴岡地図(阿部整一,1981)p.3
今回は、鶴岡(山形県鶴岡市)の町並みと風俗を散歩します。
駅前のサンロード日吉商店街。
商店街を散歩していると、「コンドーム」の看板が目に飛び込んできました。
薬局の前に設置してあるコンドームの自販機の場所を示す看板でした。
珍しい型の自販機です。看板がピンク色と自販機のピンク色をコーディネートしているようにも思われます。
販売されている商品は、山之内製薬のコンドーム「La Pure」です。