大工町の「旦那横丁飲食店街」の西側の通り。

「ニューブルームーン」の入口階段。

看板はブルー(水色)です。

飲酒運転禁止です。

大工町の「旦那横丁飲食店街」の西側の通り。
「ニューブルームーン」の入口階段。
看板はブルー(水色)です。
飲酒運転禁止です。
泉町3丁目の歓楽街の中心は、国道50号線の北側に集中していますが、かつては南側も歓楽街だったようです。
「第三岩崎ビル飲食街」の看板。
建物の角の部分に取り付けられた電飾看板。
側面の意匠。
大工町のソープランド街に、かつてのソープランド「クイーン・シャトー」の廃墟があります。
敷地面積600坪という都内では考えられない規模です。建物は5階建てと巨大でありながら、客室は16(1フロアあたり4室)と少なく、1部屋の広さは20畳近くありました。*1*2
「クイーン・シャトー」がオープンしたのは、1980年の9月(当時は「トルコ風呂」と呼ばれていた時代です)。総工費8億円(当時)をかけた外観、内装の豪華さは、他に類をみないものでした。待合室は4つあって、3つはこれからプレーするお客様用、1つはプレー後に休憩するお客様用でした。エレベータは行きと帰りの2基。エレベータの中にはソファーが一つ置いてありました。*3
お城のような建物の中央のトランプのクイーンの絵が描かれていて、一層豪華さをかもしだしています。
1,2階はふき抜けになっていて、8千万円もする黄金のシャンデリアが天井からぶらさがっていて、その下には噴水がありました。*3
建物へは立ち入り禁止です。
【参考文献】
*1 酒井竜次:ニッポンの廃墟(インディヴィジョン,2007)P.130
*2 中田薫:廃墟探訪(二見書房,2002)P.88
*3 ミリオン出版:全国高級トルコ・ガイド(1981,ミリオン出版)口絵,P.160-P.161
大工町のソープランド街の入口。ここには数年前まで「水戸大工町三業組合」と書かれたアーチがありましたが、現在は撤去されています。
ソープランド街には、かつてここが花街であったことの名残と思われる料理屋などが現在も営業中です。写真の寿司屋さんの隣はソープランドです。
「ムサシ」と書かれた黒板塀。
「ムサシ」の隣にあった和風のスナック。
今回は、水戸(茨城県水戸市)の町並みと風俗を散歩します。
水戸市大工町には、ソープランド街があります。
周囲はソープランドた建ち並ぶ一画ですが、その中に三業組合の建物があります。
入口付近。近代的な鉄筋コンクリ-ト造りの建物ですが、料亭の風情を感じるデザインです。
建物の後側。
柴又駅近くの踏み切りの脇にコインランドリーがあります。
一見なんの変哲もないコインランドリーですが、実は、ここは似顔絵ランドリーです。壁と天井に似顔絵がびっしりと貼られています。
たいていは一人1枚ですが、寅さんの似顔絵は数枚あります。
新聞でも紹介されました。
柴又駅近くのレトロな看板建築の酒屋さん(現在は自販機)の向こうに、煙突が見えます。
銭湯の北野浴場です。
存在感の煙突。
現在は、コインランドリーとして営業中です。
「男はつらいよ」の撮影にも使われた団子屋の「とらや」に裏手に、数年前までソープランドがありました。音楽家の戸塚省三さんの著書「東京路地裏観光」によると、ここには、「特殊浴場ソープランド『柴又キング』入口」と書かれた看板がありました。*1
ソープランドが普通の住宅の中にポツンと一軒だけ建っていて、田舎の湯治場のような雰囲気の建物でした。*1
「入口を入ると左手に洗濯機が置かれた物置みたいな部屋があって、その脇の通用口のような通路を通り抜けると、昭和三十年代の喫茶店で流行ったようなオレンジ色のアクリル扉が半開きになっていてそこが待合室だった。*1」と戸塚省三さんは当時の様子を語っています。
当時の名残と思われるプレートが残っていました。
【参考文献】
*1 戸塚省三:東京路地裏観光(二玄社,1996)P.235-P.239
今回は、柴又(東京都葛飾区)の町並みと風俗を散歩します。
駅前の広場には、「男はつらいよ」でおなじみの寅さんの銅像があります。
松竹映画「男はつらいよ」シリーズは、山田洋次原作・脚本・監督、渥美清主演で1969年に第1作が公開され、以後1995年までの26年間に全48作品が公開された国民的人気シリーズです。*1
「わたくし、うまれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎。人よんで、フーテンの寅と発します。」という、おなじみの寅さんの口上が思い出されます。
(余談になりますが、わたくし風俗散歩は、姓は風俗、名は散歩。人よんで、フーさんと発します)
銅像の台座には、「寅さんは損ばかりしながら生きている。江戸っ子とはそういうものだと、別に後悔もしていない。(中略)ごめんよさくら、いつかはきっと偉い、兄貴になるからなー。車寅次郎はそう心に念じつつ、故郷柴又の町をふりかえるのである」と山田洋次郎監督の言葉が書かれています。
帝釈天参道の入口は、駅からすぐです。
【参考URL】
*1 松竹株式会社:男はつらいよ 松竹公式サイト「男はつらいよ」とは
松阪市愛宕町に小津安二郎青春館があります。映画監督の小津安二郎さんは、9歳から19歳までの思春期を松阪で過ごしました。
当時、花街として賑わった愛宕町で遊んだ経験は、小津さんの人生に大きな影響を与えました。*1
小津安二郎青春館は、生誕100年を記念して松阪市が開設したものです。
館内には、小津安二郎さんに関する展示があります。
代表作の「東京物語」
【参考資料】
*1 小津安二郎青春館の展示資料
松阪市湊町の商店街。
鮨屋さんに成人映画のポスター。
3本立ての成人映画が上映されています。
映画館の建物の背面。松阪大映のマークが描かれています。
松阪の愛宕町には、大正から昭和にかけて20軒ほどの遊廓がありましたが、現在はバーやキャバレーが建ち並ぶ歓楽街となっています。*1
古い建物に混じって、風俗案内所などの最近の建物もあります。
和風の建物のスナック。
新旧の建物が混在する歓楽街です。
【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.184-P.187
松阪には、西の廓・東の廓の二ヶ所がありました。西、すなわち松阪の入口を川井町(かわいまち)、出口すなわち東を愛宕町といいました。双方ともに参宮街道(旧伊勢街道)沿いにあったため相当賑わったようです。特に川井町の方が町全体が遊廓で、一丁目から三丁目まで旅籠屋と遊女屋が街道の両側に向かい合わせ並んでいました。明治十年頃の遊女屋は大小合わせると20軒ほどでした。*1
松阪は戦災にあっていないため、川井町は、わずかではありますが昔のよすがを見ることができます。*1
琺瑯(ホーロー)看板のある酒屋さん。
逆方向(北西側)から。
【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.184-P.187
旧伊勢街道沿いの川井町。
古い町並みが残っています。
民家の前にある木製消火器箱。古い町並みに溶け込んでいます。
木箱の前面に「消火器」と書かれた木札が取り付けられています。
松阪駅の北西にある岡寺山継松寺。*1
北側の通用門の両側に古い商店街があります。
トタン建築の商店街が延々と続きます。
2階建ての長屋の建物。
めし。大衆食堂。
【参考URL】
*1 岡寺山継松寺:公式ホームページ「寺院概要・地図」
駅前の交差点の角に、開発から取り残された一画があります。
飲み屋が建ち並ぶ小路。規模は小さいです。
L字型に曲がって、駅前の大通りに出ます。
閉店の貼紙。昭和27年から営業していた居酒屋さんです。
今回は、松阪(三重県松阪市)の町並みと風俗を散歩します。
JR松阪駅前に白ポストがあります。
箱は、2つ並んでいます。
やぎの箱。悪書を食べてしまいます。紙の本だけでなくビデオやDVDも食べてしまいます。
箱の側面にはやぎのデザイン。
古市遊廓があった古市参宮街道に、資料館があります。
ここには、遊廓関連の資料が展示されています。
古市の娼妓たちの写真。
昭和初期まで存在していた大安旅館の展示。
麻吉(あさきち)旅館は、古市で現在も営業する昔ながらの唯一の旅館です。*1
当時、ここは麻吉料理店といって明治初年において第一級の料亭で、置いている芸者は20人あまりもいました。芸者はみな美人で、ここでの芸者は他の店にはでないほど麻吉は全盛をきわめました。*1
旅館は崖の上にたっていて、石段を下ると旅館の建物の裏側へ降りることができます。
崖下の伊勢自動車道から見た麻吉旅館。
【参考文献】
*1 中村菊男:伊勢志摩歴史紀行(秋田書店,1975)P.126,P.134
古市にある大林寺。
ここには、孫福斎(まごふくいつき)と遊女お紺の墓が立てられています。
この墓は「油屋騒動」の芝居を演じた四代目坂東彦三郎が建立したものです。「油屋騒動」は、寛永8年(1759年)、宇治に住む医者の孫福斎が古市の遊廓の油屋にあがって、ふとしたことから怒り出し、数人を死傷させた事件で、この事件は「伊勢音頭恋寝刃」(いせおんどこいのねたば)という芝居に脚色されて上演され、非常な人気を得ました。*1*2
お紺は49才で病死しました。*1
墓石に油屋の文字があります。
【参考URL】
*1 大林寺:公式ホームページ「油屋騒動」
【参考文献】
*2 中村菊男:伊勢志摩歴史紀行(秋田書店,1975)P.119-P.123
今回は古市(三重県伊勢市)の町並みと風俗を散歩します。古市遊廓跡の入口にあたるのが「間の山」の坂道です。遊廓が全盛だった大正時代の間の山は、今よりも坂が急でしたが、人力車は威勢よく行き来しました。*1
間の山の坂の途中に、「お杉・お玉の碑」があります。
お杉・お玉というのは、二人の女性が三味線を引きながら演技をしているのに対して、お客がほんのすぐ近くから小銭を投げるのですが、それを女たちがたくみにバチで受け止め、これを避けたりして体にあたらないようにする遊び場で、古市の見世物のひとつでした。*1
間の山は、井原西鶴の「西鶴織留」や中山介山の「大菩薩峠」にも登場します。*1
間の山の近くの「まちづくり実行委員会」の民家に、当時の古市の写真が掲載されています。
【参考文献】
*1 中村菊男:伊勢志摩歴史紀行(秋田書店,1975)P.108 -P.110
新宮市春日に新宮出身の小説家の中上健次さんの生家跡の案内板があります。*1*2
中上健二さんの代表作のほとんどは、故郷の新宮を中心に、熊野・紀州の風土を背景としたもので、浮島遊廓や女郎などの題材も頻繁に登場します。
小説「千年の愉楽」に登場する「天地の辻」。*1
写真の建物(新宮市人権教育センター)には、中上健二さんの展示があります。
小説「枯木灘」「奇蹟」、「地の果て 至上の時」で登場する「新地」と呼ばれた歓楽街があったあたり。*1
【参考文献】
*1 和賀正樹:熊野・被差別ブルース(現代書館,2010)P.12,P.74,P.132
*2 上原善広:日本の路地を旅する(文藝春秋,2009)P.12
大王地の旧料亭街には、スナックの建物が混在しています。
十字路の角にあるスナック。
スナックが建ち並ぶあたり。フィリピンの店もあります。
和風の建物ですが、現在はスナックとして営業中です。
江戸時代、新宮は上方と江戸を結ぶ海上の要衝で、木材や薪炭の集散地として栄えました。熊野速玉大社南側に、大王地と呼ばれる旧花街がありますが、新宮が「南国の宝石」と呼ばれたころの殷賑が見てとれます。*1
飲食店やスナックが軒を連ねますが、老舗の建物も多く残されています。
かつて、料亭だったと思われる建物が建ち並びます。
入口にタイルの装飾がある和風の建物。
【参考文献】
*1 和賀正樹:熊野・被差別ブルース(現代書館,2010)P.17-P.18
明治時代中頃まで、群馬県と和歌山県だけには遊廓が設置されていませんでしたが、日露戦争後の軍国主義華やかな時代、兵営誘致のためには遊廓の設置が必要との考えが浮上し、明治39年、日高郡白崎村糸谷、東牟婁郡大島村、東牟婁郡新宮町合筋の3ヶ所に遊廓が設置されました。新宮町合筋に設置された遊廓は通称「三本杉遊廓」と呼ばれましたが、明治45年の大火により消失し、大正2年に浮島に移転し、浮島遊廓として終戦まで続きました。*1
「浮島遊廓造成地図」*2 によると、遊廓があった場所は、現在の浮島の森の北側の公園のあるあたりで、北側の山を切り崩して土地を造成して遊廓が建設されことが確認できます。写真奥の保健センターがある場所にも妓楼が建っていました。
遊廓跡地全景。
北側の遊廓の正面の道路。道幅が途中で広くなっています。
【参考文献】
*1 熊野地方史研究会:熊野誌 第22号(新宮市立図書館)「新宮遊郭始末記」P.151-P.163
*2 新宮市立図書館(所蔵):浮島遊廓造成地図
今回は、新宮(和歌山県新宮市)の町並みと風俗を散歩します。
新宮には、熊野三山の一つである熊野速玉大社がありますが、神倉神社は、その摂社(速玉大社の管理下にある小さな神社)です。神倉神社への案内板に「熊野比丘尼」と書かれています。
比丘尼(びくに)とは、尼さんのことですが、この熊野比丘尼が布教や信者獲得を行い、熊野詣でを勧めました。*1
熊野比丘尼は、熊野三山から免許状を与えられる代わりに、布教で得た売上金を熊野三山に上納しました。*2
しかし、江戸時代元禄期以降になると、困窮のため熊野の統制から離脱し、売色行為を行う「売女比丘尼」も現れました。*3
神倉神社の入口の鳥居。自然石を積み重ねたかなり急勾配の参道が続いています。
石段を登りきるとご神体のゴトビキ岩があります。
ゴトビキ岩は性器崇拝の観点から勃起した男根と解釈されています。*4*5
ゴトビキ岩から見た新宮市街。
【参考文献】
*1 光田憲雄:江戸の大道芸人(つくばね舎,2009)P.101
*2 根井浄,山本殖生:熊野比丘尼を絵解く(法藏館,2007)P.460-P.463
*3 曽根ひろみ:娼婦と近世社会(吉川弘文館,2003)P.77-P.83
*4 町田宗鳳:エロスの国・熊野(法蔵館,1996)P.107-P.110
*5 洋泉社編集部:いちどは行ってみたい日本の聖地(洋泉社,2010)P.78-P.79
紀伊大島は、本州最南端の潮岬が太平洋の中に突き出ている半島の東側にあります。
紀伊大島と半島は串本大橋で結ばれています。
串本大橋の紀伊大島側の橋詰広場に串本節の碑があります。串本節は和歌山県を代表する民謡で、全国的にも有名です。
串本節が有名になったのは、大正十三年六月、世界一周を目指していた水上機「ダグラスDWC」取材に集まった新聞記者が、台風で長逗留を余儀なくされ、退屈をまぎらわすために開いた宴会で、地元の芸者衆が串本節を披露したときです。これが好評を博し、全国に広まりました。*1
串本節にでてくる「しょらさん」はハワイ語で恋人の意味で、「おゆき」は遊女の名前、「佐吉」は大島にあった遊廓の名前です。*1
(串本節歌詞)*1
ここは串本 向かいは大島 仲をとりもつ 巡航船
アラヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ ※
潮岬に灯台あれど 恋の闇路は 照らしゃせぬ
(※くりかえし)
わしのしょらさん岬の沖で 波にゆられて鰹釣る
(※くりかえし)
大島水谷 かかりし船は お雪見たさに潮がかり
(※くりかえし)
障子あくれば 大島ひと目 なぜに佐吉は山のかげ
(※くりかえし)
---後略---
【参考文献】
*1 饒村 曜:海の気象.53(3)(2007)「飛行機による初の世界一周と飛行船による初の世界一周–「串本節」を全国的に有名にしたダグラスDWC」P.24-P.25
大島港近くの斜面に、蓮生寺があります。
寺の山門。
大島遊廓の遊女のうち、最も優れた遊女は「お雪」の名を襲名していました。
蓮生寺の境内の墓地には、「お雪之碑」があります。
【参考文献】
*1 桧垣巧:串本町・大島区の調査報告書(高野山大学社会学研究室,1987)P.11
大島港周辺に建ち並んでいる民家の裏の路地。
風情のある建物。
ゆるやかやカーブの路地が続きます。
路地の向こう側は、大島港の海です。
紀伊大島の北西部にある大島港は、(串本大橋が出来る前までは)巡航船やフェリーが発着する港でした。明治時代の高等小学校新地理の教科書の「港」の項には、本州における良港が20港あげられていて、その最後に大島港がのっていました。*1
現在の大島港の岸壁付近はかなり広いコンクリート固めの広場になっていますが、これは明治時代の埋め立てによって造成されたもので、江戸時代の海岸線はもっと深く陸地に後退していて、「数十百」という帆船が停泊できました。*1
江戸時代、風待ちの帆船は、10日またはそれ以上も港に釘付けにされたため、大島商人らは、チョロ(女郎)舟という伝馬船に、食糧品、日用品、それに若い遊女を乗せて、風待ちの帆船の間を商いして回りました。当時の大島には船宿が32軒、旅館が6軒ありました。女郎は1人か2人ずつ民家に身を寄せており、明治の半ばくらいにその数は50~60から80人くらいいたといわれています。和歌山県下で公娼遊廓があったのでは、和歌山、御坊、新宮の3市と大島の4ヶ所でした。*1
現在、港の周辺には、旅館や元船宿と思われる建物が建ち並んでいます。
【参考文献】
*1 桧垣巧:串本町・大島区の調査報告書(高野山大学社会学研究室,1987)P.10-P.11
今回は、紀伊大島(和歌山県東牟婁郡串本町)の町並みと風俗を散歩します。
紀伊大島は、本州最南端の潮岬がある串本町の沖合いに浮かぶ島です。紀伊大島の東端には樫野埼が大きく突き出していて、その附近には暗礁が散在しています。写真は海金剛(うみこんごう)から見た樫野埼(写真右奥)です。
明治23年(1890年)、オスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号がこの樫野埼の暗礁に座礁して遭難しました。樫野崎灯台そばにはエルトゥールル号殉難将士慰霊碑があります。
このとき、島民の献身的な救助により、69名が救助されましたが、580名の尊い命が無くなりました。日本とトルコの友好関係の起点としてこの事件が記憶されている。
引き上げられた遺体は、現在の慰霊碑がある丘(写真右上)に埋葬されました。
トルコと言えば、日本の性風俗業界ではトルコ風呂(現在のソープランド)が有名ですが、1984年にある元トルコ人留学生の抗議運動があり、日本とトルコの友好に亀裂が生じかねない事件に発展しました。その結果、「トルコ風呂」は「ソープランド」と改称され、昨今では、性風俗用語としての「トルコ風呂」の名も忘れ去られつつあります。
旧白浜新地近くにあるハマギンザ街道。「食座・銀座」と書かれたゲートがあります。
スナック、居酒屋、商店が建ち並んでいます。
狭い路地にスナックが密集しています。
落ち着いた感じの和風スナック。
白浜新地には、当時の料亭か遊廓だったと思われる建物が2軒残っています。
見事な木造建築です。
現在はアパートとして使われているようです。
横から見ると、内部に中庭を有する構造であることが解ります。
白浜新地は、大正13年(1924年)に検番ができたのが、始まりで、翌大正14年(1925年)には、最初の置屋兼料亭ができました。*1
電柱に「新地」と書かれたプレートがありますので、この付近が白浜新地だったようです。
元料亭と想われる建物。
現役も営業中の料理店もあります。
【参考文献】
*1 白浜町誌編さん委員会:白浜町誌.本編下巻1(白浜町,1984)P.340-P.341
Tags:白浜/和歌山県
今回は、白浜(和歌山県西牟婁郡白浜町)の町並みと風俗を散歩します。
白浜温泉は、和歌山県の南西に位置する近畿で最も有名な温泉で、海水浴場もあります。
「魚政」(写真手前)は、昭和初期から続く老舗で、当時、浜通りには、「中村屋」「魚政」「大野屋」「温泉堂」「アシベ料亭」と商店が並んでいました。*1
現在は、温泉旅館とスナックが混在する町並みになっています。
白浜館は、白浜の開発が行われた大正時代からの歴史を誇り、美しい白良浜と大量の温泉にめぐまれ温泉地でした。しかし、何もない温泉地のただ1軒の旅館ではなんのメリットもないことから、田辺新地の置屋に依頼し、客が入ったとき、巡航船で芸妓を送ってもらうようになりました。しかし、これでは長続きせず、大正13年に検番を建て、1週間交代で数名の芸妓をここに宿泊させることにしました。これが白浜検番のはじまりで、昭和に入り、白浜新地が開発されることになりました。*2
【参考文献】
*1 白浜町誌編纂委員会:町のあゆみ 白浜町誌紀要. no.4 (白浜町誌編纂委員会,1981)口絵A
*2 白浜町誌編さん委員会:白浜町誌.本編下巻1(白浜町,1984)P.340
紀伊田辺の市街を流れる会津川の中州の東側に小さな水路流れています。
母屋が密集しています。
水路に張り出すように建ち並んでいます。
表側は、ごく普通の住宅街です。
田辺新地には、現在も料亭として営業中の情緒ある建物が残っています。
「ぼんぼり」をイメージしたデザイン。
古い建物が並ぶあたり。
洋風の建物もあります。
田辺検番の芸妓・舞妓は、明治2年頃には約30名、明治末~昭和初めには120~140名で、舞踏、三味線など、田辺検番は紀州で最も優秀とされました。*1
【参考文献】
*1 田辺商工会議所:熊野検定(田辺商工会議所,2009)P.81
紀伊田辺は、古くから栄えた町だけに、昔のままの建物が多く残ります。駅周辺は地方都市らしく賑わう町ですが、奥へ踏み込むと情緒ある町並みがひろがります。
田辺新地は、大正6年、周囲に散在していた置屋や移転集合することによって出来上がりました。*1
田辺新地のゲートのところに古い建物があります。
1階はタバコ屋さんになっています。
タイル張りの壁が何ともレトロモダンです。
【参考文献】
*1 田辺商工会議所:熊野検定(田辺商工会議所,2009)P.81
今回は、紀伊田辺(和歌山県田辺市)の町並みと風俗を散歩します。
紀伊田辺は、JR和歌山駅から特急電車で約1時間の位置にある南紀地方の主要都市です。
駅前に「味小路」と呼ばれる飲食街があります。
飲食店の看板。
細い路地に看板が密集しています。
大久保駅前の病院。駅からもカラフルな看板が見えます。
細い路地にひっそりと病院があります。
看板は、大きくて目立ちます。
どこにあるかわからないほど小さく目立たない入口です。
大久保駅近くの住宅地街に、一軒の旅館があります。
風情のあるネオン管です。「旅荘」という呼び方も味わいがあります。
落ち着いた雰囲気の外観。
和風の玄関の装飾。
90年代、大久保は急増する外国人アパート需要と多発するトラブルで、外国人を受け入れるアパートは限定されていましたが、現在は外国人を歓迎する町に生まれ変わっています。町のあちこちに、「外国人OK」の看板があります。*1
不動産会社にとって、外国人はお客様です。*1
教科書会社が入っているビルの2階にある外国人OKの歯科医院。
外国人OKのワンルームマンション。
【参考文献】
*1 稲葉佳子:オオクボ都市の力(学芸出版社,2008)P.55,P.69
大久保の町にラブホテル(当時の「連れ込み宿」)が進出したのは、1960年頃からでした。背景としては、1957年に売春防止法が施行されたことがあげられます。新宿二丁目で営業していた特殊飲食街の経営者がホテル業へ転業し、歌舞伎町から職安通りを超えて大久保にまで流れ込んできました。*1
「同伴旅館(ラブホテル)をどんなとこに建てたらよくはやるか、昔からジンクスがあって、墓地か病院のそばか、さもなくば質屋の真向かいだったら繁盛間違いなし。」と言われていて、大久保にに進出したホテル経営者も真向かいが墓地の地所を選びました。*2
大久保のラブホテル街には、長光寺と金龍禅寺の2つの寺があり、いずれも細長い墓地を有しています。この墓地の近隣にラブホテルが建ち並んでいます。
写真中央部に見える森が金龍禅寺の墓地です。墓地は南側に細長く伸びていてその東側(写真左側)に、1990年頃、ラブホテルが建ち並びました。
現在は「大久保の竹下通り」と呼ばれる韓流ショップとラブホテルが混在する町並みとなっています。
【参考文献】
*1 稲葉佳子:オオクボ都市の力(学芸出版社,2008)P.163-P.164
*2 朝倉喬司:ヤクザ・風俗・都市(現代書館,2003)P.62
大久保には100円のコインロッカーがたくさんあります。ざっと見て回っただけでも10ヶ所ぐらいあります。
大規模なコインロッカー群。すべて100円コインロッカーです。
薬局とコインロッカー。
自販機とコインロッカー
彦左小路裏の通り。
レトロな旅館が2軒建ち並んでいます。
玄関のタイルの円柱。
入口には、「いらっしゃいませ」の看板。
今回は、大久保(東京都新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
彦左小路は歌舞伎町の北、職安通りを渡った線路沿いにあった二棟の長屋からなる飲み屋街でした。職安通りには、彦左小路の入口を示す看板の支柱が残されています。(写真左)*1
金網で囲われている彦左小路の跡地。場末酒場の面影はありません。
「おとめ荘」の看板が今も残されています。
このあたり一帯は、道路の拡幅工事が予定されています。
【参考文献】
*1 藤木TDC、イシワタフミアキ:昭和幻景(ミリオン出版,2009)P.74-P.75
JR東中野駅近くにある正見寺。
正見寺の墓地に、笠森お仙の墓があります。
笠森お仙は、江戸時代、谷中の笠森稲荷の門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘で、絶世の美人でした。*1
お仙は、幕府の御休息御庭者支配の倉地正之助の妻となったので、現在の倉地家の墓地にお仙の墓があります。
墓碑に倉地家のことが書かれています。
【参考文献】
*1 佐藤要人:江戸水茶屋風俗考(三樹書房,1993)P.160-P.172
新井薬師近く(上高田二丁目)の住宅街。
銭湯の花園湯があります。
コインランドリーとして営業中です。廃業してしまったのでしょうか。
裏側へ回ってみると、解体された煙突が見えました。
新井薬師の門前には、江戸時代から参拝客相手の料理屋が軒を連ねていましたが、関東大震災以前から料理屋と芸妓屋が盛んになり、大正14年に新井三業組合が創立されました。現在の柳通りの商店街の東側(写真の左側)が料亭街で、昭和初期に全盛期を迎えました。*1
現在、花街らしい雰囲気はほとんど残っていません。
芸妓置屋街は、柳通りの西側にありました。三業組合事務所(見番)は、現在の防災広場(写真奥)のあたりにありました。*1
住宅地図に記載されている旅館「おくみ」(現在はありません)は、料亭の名残かもしれません。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.187-P.188
中野駅の北側。早稲田通り手前に「四十五番街」という飲食街があります。この飲食街の成立は昭和20年代末で、通りに屋台やバラック店舗が並んでいた時代でした。*1
現在、小路の大半は解体され、再開発を待つ状態です。
写真右奥は、中野ブロードウェイマンションです。
朽ちかけた店舗の建物が残っています。
北側の通り。
【参考文献】
*1 藤木TDC、イシワタフミアキ:昭和幻景(ミリオン出版,2009)P.48-P.49
中野駅北口の繁華街「昭和新道」
「アダルトコンビニ」の看板があります。
店の入口のドアは、ランジェリーなどの写真で覆われています。
ココロに染みる名言集。
今回は、中野(東京都中野区)の町並みと風俗を散歩します。
中野新仲見世商店街に、客引き禁止看板が集中して設置されている一画があります。
通りのあちこちに看板が設置されています。看板の下部には、「新仲見世商店会」と書かれています。
狸小路と呼ばれている飲み屋街。看板の下部には、「狸小路商店会」と書かれています。
こちらは、別のデザインの看板。消火器ボックスに隠れて見えづらくなっています。
東武東上線朝霞台駅(JR北朝霞駅)近くの三原2丁目の住宅街に、銭湯の「志木浴場」があります。
銭湯では珍しい男女別々の入口。
女湯入口。
脱衣場にはテレビゲームがあって、ゆっくりくつろげます。
かつての南栄通りには、バーやキャバレーが約70軒ありました。通りの中央部に、1949年に開店した魚屋「魚太」は、南栄通りあったすべてのバー、キャバレーに氷を卸していました。*1
現在、その魚屋「魚太」はありませんが、その名残と思われる商店があります。
レトロな雰囲気の店構え。
ゲームと氷の店です。
【参考文献】
*1 中條克俊:君たちに伝えたい朝霞、そこは基地の街だった。(梨の木舎,2006)P.92-P.94
朝鮮戦争の激戦のさなか、朝霞の南栄通りは最も繁栄する時代を迎えました。基地の周辺には米兵相手の大きなキャバレーやクラブがそこかしこにできました。「キャバレー・サンフランシスコ」の跡地には、現在大きなマンションが建っています。*1
現在の朝霞第四中学校の正門前に、大きなマンションが建っていますが、「アメリカンリージョンクラブ」と呼ばれたキャバレーがありました。アメリカ独立記念日の7月4日には打ち上げ花火が上がりました。*2
現在、中華屋とコンビニになっているあたりには、「バー・タイガー」、「バー・ニイト」がありました。*1
「キャバレー・フラミンゴ」があった場所は、駐車場になっています。「キャバレー・フラミンゴ」は南栄第1号のキャバレー(ダンスホール)でした。*1
米軍基地があったおかげで、朝霞には、フランク永井、江利チエミ、雪村いずみ、ダークダックスという当時の新進気鋭の歌手が来ました。*1
【参考文献】
*1 中條克俊:君たちに伝えたい朝霞、そこは基地の街だった。(梨の木舎,2006)P.74-P.75,P.92-P.93,P.104
*2 郷土出版社:目で見る朝霞・志木・新座・和光の100年(郷土出版社,2007)P.91
今回は、朝霞(埼玉県朝霞市)の町並みと風俗を散歩します。
第二次大戦の敗戦(1945年)により、全国各地に米軍が進駐しましたが、朝霞にも米軍が進駐し、建設された米軍基地は「キャンプ・ドレイク」と呼ばれました。
その後、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、全国各地の米軍部隊が入れ替わり立ち替わり朝霞に駐留するようになり、その結果、全国から女性売春者が、米兵の後を追うようにして朝霞に集まってきました。朝霞駅南側の南栄通りは、米兵、夜の女、ポン引き、やくざ、第三国人が闊歩し、売買春は日常茶飯事の世界となっていました。当時の埼玉新聞は、朝霞を「売春の街」(1952.8.7)と報じています。*1
現在の南栄通りの交差点の角に、当時の名残の建物(「バー・コーナー」の跡)が残されています。*1
現在は、看板の文字は読み取れなくなっています。
入口付近。
【参考文献】
*1 中條克俊:君たちに伝えたい朝霞、そこは基地の街だった。(梨の木舎,2006)P.71-P.83
木辻のスーパーの「ビッグナラ」のゲートの近くに、書店があります。
店の壁面は、多数の貼紙で埋め尽くされています。
ほしのあきのポスター。その下に、「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の宮沢賢治の詩、加山雄三さんの三つの「かん」の話など。
DVD、ビデオ、何でもあります。
木辻遊廓跡に銭湯の扇湯があります。
窓の部分にも「扇湯」と書かれています。
風格のある煙突です。
レトロな雰囲気の玄関。
木辻遊廓跡。格子のある古い建物があります。
玄関に、中野牛乳の牛乳箱があります。
中野牛乳は、大正元年に大正牧場として創業。昭和28年に中野牧場に改称。個人経営の牛乳屋として続きましたが、平成3年に廃業しました。奈良町あたりの散策でよく見かける牛乳箱です。三重の中野牛乳*1 とは関係ありません。*2
箱の側面には、特徴のある行書体で「毎度有難う御座います」と書かれています。
【参考記事】
*1 風俗散歩(伊勢):中野牛乳の牛乳箱(2010.5)
*2 横溝健志:思い出牛乳箱(ビー・エヌ・エヌ新社,2008)P.171
木辻遊廓跡の近くにある称念寺。
称念寺の境内に、たくさんの無縁仏の墓石があります。
これらの墓石の中には、木辻遊廓の遊女たちのものが含まれていると言われています。
裏側。
【参考URL】
*1 奈良県ホームページ:「奈良県人権サイトガイドブック2」木辻遊郭跡と遊女の墓
元林院町の南側に位置する木辻町(きつじまち)には、遊廓がありました。昭和八年(1933年)発行の「大日本職業別明細図 第316号 奈良県」*1 には、木辻遊廓と思われる妓楼の屋号が記されています。
木辻遊廓は、養老2年(718年)に元興寺を建立する際、工人、人足等の足留め策として木辻の地に「奴婢(ぬひ)」(律令制における奴隷)を置いたことが起源で、わが国における最も古い遊廓の一つです。*2
現在、旅館として建物が残っている静観荘は、静観荘は本家岩谷楼です。*3
付近に遊廓の面影はほとんど残っていません。
玄関。
【参考文献】
*1 大日本職業別明細図(東京交通社,1937)
*2 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂,1929)p.535
【参考URL】
*3 Architectural Map「旅館静観荘」
元林院町の路地に「萬玉楼」の建物が、往時の面影をとどめています。
萬玉楼は、元林院町で広く名が知られた芸妓置屋の一つで、絹谷家五世代にわたって引き継がれました。伊藤博文ら政界人や文豪・志賀直哉ら多くの文化人がここで遊芸を楽しんでいます。*1
萬玉楼の基盤は、京都で周旋人から買い求め「歌鶴」と名付けた彦根藩士族の娘で財をなし、作られました。*1
奈良町で現存する最も古い町家の一つです。
【参考文献】
*1 勝部月子:奈良学研究.(8)(2006.1)「萬玉楼」P.107,P.112
今回は、奈良(奈良県奈良市)の町並みと風俗を散歩します。
元林院町が花街として形づくられたのは、明治5年、元林院に芸妓置屋(後に娼妓も置く)開業の許可を得た頃からでした。明治維新後、生活困窮者が都市農村を問わずあふれ、それだけでなく、士族制度の崩壊による士族の妻子の身売りもありました。「大枚80両をはたいて買い、それも彦根の士族の娘であった。十八歳、美人。」という触れ込みは、当時の人々に大いなる興味を抱かせました。*1
明治創業の料亭、明秀館のたたずまいが町並みに彩りを添えます。
正面奥の建物は、猿沢池畔にある魚佐旅館ですが、現在は鉄筋コンクリートのホテルになっています。*3
町家の格子や白壁は当時のままです。*3
【参考文献】
*1 勝部月子:花街の成立-奈良元林院の事例を通して(日本文化史研究.通号31,1999)P.45.P.48
*2 学習研究社:週刊日本の町並みNo.7(学習研究社,2004.12)P.16
*3 奈良市今昔写真集(樹林舎,2008)P.95
大正15年に開園した菖蒲池遊園(あやめ池遊園地)*1 の特徴は、戦前「あやめ新地」という花街が隣接していたことです。場所は、菖蒲池駅の南側です。つまり、駅を挟んで、北側にレジャーランド、南側に歓楽街が立地していたわけです。*2
現在、花街の面影はありませんが、昭和4年に開業したあやめ池温泉の跡地*1 のすぐ隣に古い建物が残っています。
料亭か旅館だったのかもしれません。
1階は改装されて医院になっています。
【参考記事】
*1 風俗散歩(大和西大寺):あやめ池遊園地(2010.6)
【参考文献】
*2 奈良女子大学文学部なら学プロジェクト:大学的奈良ガイド(昭和堂,2009)P.240-P.243
大和西大寺から一駅隣の菖蒲池駅の北側に、大正15年あやめ池遊園地が開園しました。大軌(現在の近鉄)が線路買収時に購入した土地を利用したもので、現在の東京ディズニーランドの敷地よりも広大でした。(約50万㎡)*1*2
開園当初の遊園地は、上池と下池の周辺に娯楽施設がつくられました。子どもの汽車、魔法の島、ウォーターシュート、野外劇場などはその代表的なものでしたが、平成16年、惜しまれながら閉園しました。*1
現在の上池周辺。現在、再開発中です。
昭和4年、あやめ池遊園地の拡張計画の一環として、遊園地の南側にあやめ池温泉が開業しました。男女大浴場のほか、娯楽室、小劇場、食堂がありました。あやめ池温泉は、昭和32年頃に廃業し、その後大阪松竹歌劇団(OSK)の学校となり、現在はマンションになっています。*1
*1 奈良市今昔写真集(樹林舎,2008)P.53-P.54
*2 奈良女子大学文学部なら学プロジェクト:大学的奈良ガイド(昭和堂,2009)P.241-P.243
今回は、大和西大寺~菖蒲池(奈良県奈良市)の町並みと風俗を散歩します。
今年は、平城遷都1300年にあたりますが、戦後、この古都奈良の平城京址に突然「西部の街」が出現した時期がありました。
昭和25年、朝鮮戦争が始まると、日米協定に基づく施設「奈良RRセンター(NARA Rest And Recuperation Center)と呼ばれる米軍の慰安施設が建設されました。*1
奈良RRセンターが建設された場所は、旧尼ヶ辻町出屋敷三条通(現在の三条大路三・四・五丁目から尼ヶ辻にかけて)で、RRセンターの中央門は、現在のセキスイの南門あたりにありました。*1
RRセンターの東西300mにわたって、またたく間にカフエ。バー、ギフトショップ、飲食店(パンパン、ポン引き用)キャバレー、写真店、洋服店、ストリップショウ店、靴屋、美容室、射的など、ほとんどがベニヤづくり、しかも毒々しい原色の80軒あまりが並びました。その店のほとんどが「元気回復の狂宴」へのつなぎ役となりました。*1
パンパンと言われた売春婦は、3000人に上り、ほとんどの帰休兵がこの店で商談しました。商談成立後は店の裏に急遽建てられた「パンパンハウス」に迎えられました。「時間」、「一夜」のパンパン商売だけでなく、オンリーと呼ばれる「5日間専属オンリー」の契約をする者も多く、付近だけでなく、奈良市内に多くの「オンリー部屋」での売春も行われました。彼らの「狂宴」は、室内に止まらず、地域の神社の森や物陰が売春の場となり、避妊具が醜く散乱することが常態化する始末でした。*1
【参考文献】
*1 大阪奈良戦争遺跡ガイドマップ2 P.56,P.76-P.78
近鉄線下市口駅に近い商店街に、古い小路があります。小路の入口では居酒屋の店舗が営業中です。
この一画は「下渕マーケット」と呼ばれていたようです。薄暗いアーケードになっていて奥へ続いています。ほとんどの店舗は休業中のようです。
味わい深いアーケード。
小路はL字型に曲がって、もう一方の出口とつながっています。
大峯山の登山口にあたる下市は、かつては吉野郡最大の商都でした。下市市街から洞川方面へ向かう国道309号線を20分ほど歩くと、川沿いに、銭湯の「日の出湯」が見えてきます。
現在の建物は、昭和元年に建てられたもので、玄関周辺のモダンな意匠が目を引きます。*1
残念ながら、この日は臨時休業でした。
日の出湯の前の橋から川辺の町並み。
【参考文献】
*1 松本康治:関西のレトロ銭湯(戎光祥出版,2009)P.88-P.89
洞川温泉は、大峯山(山上ヶ岳)の西麓の標高820mの山間小盆地で、修験道龍泉寺の門前町として発達してきました。*1
江戸時代末期には大規模な旅館が建てられ、沿道に並ぶ旅館には「精進落とし」の客を相手とする遊女などもいて夜遅くまで賑わいました。*1
これは、女人禁制での性の抑圧に耐え、それを乗り越えた修行者たちの一夜妻となることにより、女性もその力にあやかれることであり、洞川にはその名残の遊女宿がありました。修行者との交わりは、豊かな山の力を身体に取り込む営為がありましたが、近代には売春や婚外交渉と見なされ、悲劇も生じました。*2
現在は、温泉街として賑わっています。
旅館街の中心部の本町には、江戸期に存続した花屋徳兵衛の子孫が経営すると思われる花徳旅館があります。*1
洞川の西側に位置するの南ノ町の商家。
【参考文献】
*1 浅香勝輔:歴史がつくった景観(古今書院,1982)P.237-P.238
*2 鈴木正崇:女人禁制(吉川弘文館,2002)P.112
今回は、洞川~下市(奈良県吉野郡)の町並みと風俗を散歩します。
2004年7月、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されました。①熊野信仰の中心地「熊野三山」、②修験道の拠点「吉野、大峯」、③真言密教の根本道場「高野山」の三つの大霊場とこれらを結ぶ「熊野参詣道(三重県、和歌山県)」、「大峯奥駈道(奈良県)」、「高野山町石道(和歌山県)」と呼ばれる参詣道が、世界で2例目の「道」の文化遺産としてユネスコから認定を受けました。*1
大峯山(山上ヶ岳、標高1719m)は、修験道(しゅげんどう)の霊場で、現在も女人禁制を守る山として知らています。女人禁制(にょにんきんせい)とは、狭い意味では信仰にかかわる慣行で、女性に対して社寺や山岳の霊地や祭場への立入りを禁じるもので、山の境界は「女人結界(にょにんけっかい)」と呼ばれました。*2
「女人禁制」は、江戸時代以降、奇妙な性風俗を生み出しました。女性を聖地から排除しておきながら、聖地で修行を終えた男性は、聖地の近くに設けられた遊廓で「精進落とし」と称して買春をしました。*3
「女人禁制」については、「伝統文化」か「女性差別」かの議論が現在も続いています。
山を神聖視し修行の場とする修験道の本質は、険しい山岳を駈けゆく決死行にあります。*1
日本三大荒行のひとつである山上ヶ岳の「西の覗き」は、肩に命綱をかけられ断崖絶壁の上から逆さまに下ろされた状態で合掌しなければならないのですが、その状態でいろいろな訓戒をして、それをよく守るという約束をさせられます。*1*3
「親孝行するかッ!」「奥さんを大事にするかッ!」「女遊びしないかッ!」などの質問に、必死で「ハーイ、ハーイ」と絶叫します。
【参考文献】
*1 伊勢文化舎:聖地巡礼 熊野・吉野・高野山と参詣道(伊勢文化舎,2004)P.23,P.110-P.114
*2 鈴木正崇:女人禁制(吉川弘文館,2002)P.2
*3 源淳子:「女人禁制」Q&A(解放出版社,2005)P.8,P.134
西所沢駅近くの金山町にある弘法の湯。
住宅街の中にある銭湯です。
銭湯の裏側にある水門。市街地を流れる東川が流れています。
脱衣場には、洗濯機が3台、乾燥機が2台。
旧銀座通り(小金井街道)に面して「盃横丁」の入口があります。入口には、「男はつらいよ」の映画の看板。
横丁へ入ると、こんどは「エレキの若大将」の映画看板。
南側は、高層マンションがせまっています。
石原裕次郎さん主演の「夜霧よ今夜もありがとう」の映画看板。
所沢は、江戸時代に綿織物の集散地として栄え、国内初の飛行場ができたことでも知られます。旧市街地・銀座通りに並行するように流れる東川沿いには、かつて浦町とよばれ、花街でした。*1
現在、かつての浦町は静かな住宅街となっていますが、華やいだ昔をしのばせる建物が今も残っています。*1
矢羽根の戸袋などに、往時の名残を見ることができます。*1
屋号の「三好亭」の文字が残っています。
【参考文献】
*1 朝日新聞さいたま総局:さいたま文学紀行 作家たちの描いた風景(さきたま出版会,2009)p.148-P.149
今回は、所沢(埼玉県所沢市)の町並みと風俗を散歩します。
小金井街道沿いは、高層マンションが建ち並ぶ一画ですが、そこから一歩北側に入ったかつて浦町と呼ばれたあたりには、現在も食堂や飲食店などの古い建物が残っています。
高層マンションと木造家屋が混在する特異な景観です。
焼肉店の建物。
この界隈も、やがては高層マンションの町並みにのみこまれてしまうのでしょうか。
浜島のバス停近くに、休業したスナックがあります。
大きな文字で「蘭」と書かれてあります。
ヌードショーの看板があります。ストリップ劇場だったようです。
入り口には、三重県の「バー」のプレートがありました。
浜島の商店街には、レトロは理容室がたくさんあります。
Y字路にある理容室とパーマ屋さん。
鮮やかな緑色に塗られています。
こじんまりとした建物ですが、いい雰囲気です。
商店街から一本入いると、スナックや飲食店が連なる路地があります。
和洋折衷の建物です。
スナックの看板が掲げられた和風の木造家屋。
飲食店と古い木造の建物が混在しています。
浜島の商店街の奥まったところにある銭湯の松波湯。
まるで妓楼のような建物です。ピンク色に塗られています。
玄関付近。
現在は、休業している模様です。
戦国時代、浜島城主の小野田筑後は、九鬼水軍の九鬼嘉隆に随身しましたが、そのときに残した兵士の子女が船員相手の洗濯を請け負ったことが春を売ることに変化し「はしりかね」となり、明治時代に遊廓になりました。遊廓は、田端楼、一万楼、三光楼、常盤楼、光月楼、吾妻楼、吉川楼、大成楼、のまやの9軒がありました。*1
浜島港に大成楼の建物が現存しています。*2
当時の面影を残す玄関部分。
神社町遊廓(北廓)に対し、浜島遊廓は、南廓と呼ばれていました。
建物の側面部分。
今回は、浜島(三重県志摩市浜島町)の町並みと風俗を散歩します。
浜島は、伊勢志摩の美しい海に囲まれた港町で、温泉が楽しめる旅館や民宿が建ち並びます。
民宿や商店が建ち並ぶメインストリート。
浜島港。この付近に遊廓がありました。
魚市場もあります(写真奥)。
伊勢市駅の北西約4kmにある明野駅付近。参宮道と呼ばれた伊勢参詣の旅人が歩いた道です。
中野牛乳の牛乳箱。両脇には、ヤクルト箱と郵便ポスト。
小さな小川が流れています。古い家に牛乳箱が3つ並んで取り付けられています。
3つの牛乳箱。
柏屋旅館の隣に廃業した銭湯の「新玉湯」の建物があります。銭湯ではめずらしく門柱があります。
門柱に取り付けられたプレート。モダンなデザインです。ここでは「新玉湯」ではなく「新珠湯」と書かれているようです。
門柱に取り付けられた照明器具。
建物は和風ですが、随所に洋風の装飾が施されている建物です。
昭和5年刊行の「全国遊廓案内」によると、神社町遊廓は、承応年間に町内にあった船宿に針仕女(はりしめ)という女を置いたのが初まりで、娼楼は、引本楼、豊盛楼、小田屋、花月楼、誘心楼、愛国楼、真砂楼、美咲楼の8軒がありました。*1
地元のNPO法人「神社みなとまち再生グループ」が作成した案内板によると、この場所は、居酒屋、料理店、商人宿、遊廓などが道の両側に建ち並ぶメインストリートでした。
ここには、引本楼だった建物が数年前まで現存していました*2 が、 現在は新しい住宅に建て変わっています。
裏側から見たところ。
案内板には、「すっかり変わった町通りで昔の面影が残るのは、柏屋旅館(写真奥)他わずかしか稼動していません。」とかつて賑わいぶりが説明されています。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.112「全国遊廓案内」
*2 忍甲一:近代日本遊廓志稿(日本炎災資料出版,2007)p.741,P.754-P.756
今回は、伊勢(三重県伊勢市)の町並みと風俗を散歩します。
神社(かみやしろ)港は、伊勢市街を流れる勢田川の河口に位置します。
神社港には、江戸時代から遊廓がありましたが、こちらの案内板では旧花街通りと書かれています。
一色大橋から見た神社港。桟橋の奥が花街通りです。*1
清雲院(写真の地図の上中央)は、遊女が埋葬された寺院として知られています。*1
【参考文献】
*1 忍甲一:近代日本遊廓志稿(日本炎災資料出版,2007)p.741,P.754-P.756
川西町の通りに面して「橘湯」があります。
外観は洋風ですが....。
玄関を入ると年季の入った木製の下駄箱があります。
脱衣場はさらにびっくりです。木製ロッカーも年代ものです。
川西町の旧遊廓街で見かけた「らくれん牛乳」の牛乳箱。
「らくれん」は、四国乳業株式会社によって製造、販売される牛乳・乳製品の代表的なブランド名です。「緑美しい四葉のクローバーと白いハト」のシンボルマークは、「四国は一つ。新鮮な牛乳によって皆様の幸せ(健康と平和)を」そんな思いがこめられています。*1
箱の横に書かれている「アイミー」は乳酸菌飲料の商品名です。*2
こちらは青汁の宅配箱です。牛乳ではありませんので、「青汁箱」とでも呼ぶのでしょうか。当然のことながら、箱の色は緑です。
遠藤青汁グリーンライフ(本社:岡山県倉敷市)は、「青汁」の創始者・遠藤仁郎博士が設立した会社です。*3
【参考URL】
*1 らくれん:ホームページ会社案内
*2 らくれん:ホームページアイミー
*3 遠藤青汁グリーンライフ:ホームページ会社概要
川西町の商店街には、自販機が似合います。
酒屋さんには、お酒の自販機です。
ここへ来れば、どんなお酒も手に入りそうです。
角にある自販機。右は川。左は旧遊廓街です。
川西橋近くの大きな木造家屋。かつての遊廓の建物です。*1
1階の格子窓越しに遊女が顔見世をし、2階の個室で客の相手をしました。*1
窓には装飾が施されています。
同じ建物を裏から見たところ。何度も増築を重ねたのでしょうか。継ぎはぎだらけの状態になっています。
【参考文献】
*1 福田忍:おかやま街歩きノオト第6号(福田忍,2009)P.14-P.17
川西町の旧遊廓街は、現在はスナック街になっています。
こじんまりとしたスナックの建物が建ち並んでいます。
和風の木造家屋の一部がスナックに改築されています。
上の写真のスナックの建物の上部。ここに看板があったようですが、今は蛍光灯がむき出しの状態になっています。
今回は、倉敷(岡山県倉敷市)の町並みと風俗を散歩します。
倉敷駅前から南側に延びる商店街のアーケードがつきるあたり。
川西町には、かつて遊廓があって、この川西橋が遊廓の入口でした。*1
川西町の集会所の建物が水路をまたぐように建っています。
この水路の南側(写真右側)が遊廓があったエリアです。*1
【参考文献】
*1 福田忍:おかやま街歩きノオト第6号(福田忍,2009)P.14-P.17
羽黒神社の石段脇に昭和2年に建てられた銭湯の「みなと湯」があります。かなり目立つレンガ色の洋風の建物です。
入口には賑やかな雰囲気の暖簾。
中に入って、まず目につくのが、脱衣棚の扉に大きな白い文字で書かれた旧漢字の番号です。
浴室のペンキ絵と看板は創業当時の雰囲気そのままです。
【参考文献】
*1 小野敏也:玉島界隈ぶらり散策(日本文教出版,2007)P.124
仲買町から西町の方へ歩きます。この付近は町並み保存地区に指定されていて、歴史的な遺蹟については、看板が立てられています。
川でもないのになにやら橋らしきものがあります。石に刻まれた文字は「夢の浮橋」と読み、ここから先には遊廓がありました。*1*2
江戸の末期の回船問屋の名前が彫られています。*2
遊廓が途切れたところにも橋があって、その橋は「地獄橋」と呼ばれています。*1
【参考文献】
*1 小野敏也:玉島界隈ぶらり散策(日本文教出版,2007)P.136
*2 虫明徳二:歴史散歩玉島町並み保存地区(虫明徳二,2007)P.62
天満町の通りを南へ進むと、木造三階建ての建物が見えてきます。
「中村」という遊廓跡と思われる三階建ての建物。(「歴史散歩玉島町並み保存地区」*1 によると、「天満宮(写真右側)の右側に行くと...三階建ての建物」と説明されていますが、たぶんこの建物だと思います。)
建物の壁面に、鬼瓦だけが取り付けられて保存されています。
二・三階部分には、遊廓時代の面影が感じられます。
【参考文献】
*1 虫明徳二:歴史散歩玉島町並み保存地区(虫明徳二,2007)P.78
玉島市街の南側に位置する天満町の町並みは、曲がりくねった道路が続いて、とてもミステリアスです。*1
道が回っているので、何が出てくるかわからない感じです。
旅館か料亭として使われていたのでしょうか。
天満町公会堂の建物。「堂會公」と書かれています。
【参考文献】
*1 虫明徳二:歴史散歩玉島町並み保存地区(虫明徳二,2007)P.77-P.78
昭和30年代を題材にしたノスタルジックな映画「ALWAYS三丁目の夕日」の撮影が行われたその事実がしめすとおり、玉島はどこか懐かしい風景、心地よい生活感が漂っています。港水門がある場所からすぐ目につくのが通町商店街の入口です。左側にはパチンコ屋さんだった看板「パチンコ」「思ひで」があります。*1
古い商店の建物が並んでいます。
中華食堂だった建物。
理容室、仏具店。
【参考文献】
*1 小野敏也:玉島界隈ぶらり散策(日本文教出版,2007)P.130
今回は、玉島(岡山県倉敷市)の町並みと風俗を散歩します。
水郷の町玉島には、かつて大小多数の水門がありました。これらの水門は、時代の推移とともに技術革新などで次第に統廃合されてきました。
昭和23年に造られた「港水門」も、今は使命を終え使われていません。*1
反対側から見た港水門。
映画「ALWAYS三丁目の夕日」の夜のシーンはここで撮影されました。*1
【参考文献】
*1 虫明徳二:歴史散歩玉島町並み保存地区(虫明徳二, 2007) P.35-P.36
吉備津駅背後の山の斜面に共同墓地があります。
その西側の一画に、多数の無縁墓が整理されています。この中には、遊女の墓も含まれています。
墓地最上部段には、宮内の豪商と言われた真野家の墓があります。
共同墓地から見た宮内。
【参考文献】
*1 岡山市教育委員会文化課:岡山市の歴史みてあるき(岡山市教育委員会,1977)P.293
「吉備の中山」の山麓に、吉備津神社が鎮座しています。
巨大な本殿。室町時代に再建されました。
江戸時代の都会のシンボルは「遊廓」と「芝居」の2つですが、吉備津神社の門前町の宮内でもすでに江戸時代初期からさかんに芝居が行われていました。*1
ところが、天保年間、水野忠邦の「天保の改革」により、芝居など華美な遊興施設の廃止が断行されたため、名優たちは、生活にも困るようになりました。この窮地を救ったのが、宮内の大親分の岡田屋熊次郎で、熊次郎親分は、銭にものをいわせて、名優たちを宮内に迎え入れたことから、当時の名優のほとんどは宮内に集まりました。北随身門近くの玉垣には、寛政頃の名優たちの名前が刻まれています。*2
中村歌六、嵐冠十郎が寄進した玉垣。*2
【参考文献】
*1 藤井駿:おかやま風土記(日本文教出版,1956)P.141-P.146「江戸時代の遊里としての備中の宮内」
*2 荒木祐臣:備前池田藩秘史(日本文教出版,1976)P.46,P.48
今回は、宮内(岡山県岡山市)の町並みと風俗を散歩します。
吉備津神社の門前町である宮内(みやうち)は、明治維新前までは山陽道でも屈指の花街でした。天保11年版の「諸国遊所番附」では、前頭として宮内が京都の先斗町や遠州の浜松の遊廓と肩を並べています。*1
宮内が遊里としてはじめて史上に名を出したのは、天正十年(1582年)、豊臣秀吉の高松城水攻めのときです。このとき備中に乗り込んだ兵士が付近の民家を荒らし、子女を犯すものが多くでたため、その取締りに困り、上方より多数の遊女を招致して宮内において花街としました。最盛期には、約100軒の花街が軒を連ね、300人の遊女を擁していました。*2
鳥居が残っている辻小路のあたりが宮内の中心街でした。*3
辻小路の西側に民家があります。
かつての遊女屋は、このような家屋だったのかもしれません。*4
【参考文献】
*1 藤井駿:おかやま風土記(日本文教出版,1956)P.141-P.146「江戸時代の遊里としての備中の宮内」
*2 荒木祐臣:備前池田藩秘史(日本文教出版,1976)P.44-P.45
*3 岡山市教育委員会文化課:岡山市の歴史みてあるき(岡山市教育委員会,1977)P.282,P.294
*4 三室清子:岡山大学教育学部研究集録 通号40(1974.08)「盆踊りの研究–岡山市吉備津の宮内踊りを中心として」P.39
秩父市中町の路地。
小岩井牛乳の牛乳箱があります。
小岩井と言えば、岩手県のブランドですが、なぜ秩父に...?
付近を散歩してみると、小岩井牛乳の販売店がありました。