青森(青森DX劇場)現在は閉館している模様です。

天国のすぐ隣にあるストリップ劇場の「青森DX劇場」。

ピンク色の大きな看板。電車の車窓から見えることを狙ったものでしょうか。

現在は閉館している模様です。

建物の裏側の通り。「青森DX劇場」のピンク色の看板が見えます。

参考文献

参考記事

青森(駅前天国)青色に塗装された奥の公衆トイレ。

呑み屋街の「駅前天国」。

現在は、営業している店は少ないようです。

通路は曲がって奥へ進みます。

奥にある公衆トイレ。青色に塗装されています。

参考文献

参考記事

青森(赤平りんご店のトタン建築)隣に駅前天国。

今回は、青森(青森県青森市)の町並みと風俗を散歩します。
青森駅前にある1階にリンゴ屋が入る建物。(隣は「駅前天国」)

建物の側面(南側)。

芸術的なトタン建築です。

建物の右側。こちらは赤色が中心。

参考文献

参考記事

浅虫温泉(飲食店だったと思われる建物)温泉街の奥まったあたり。

浅虫温泉の温泉街の奥まったところに、飲食店だったと思われる建物があります。「アゲーン」と書かれた看板だけが残されています。

1階部分。

閉店してからだいぶ経過しているようです。

建物の裏側へ通じる入口。

参考文献

参考記事

浅虫温泉(妓楼風の建物)どっしりとした大型の木造建築。

温泉街の南端にあたる浅虫川沿いに、酌婦を置いた料理店だったと思われる妓楼風の建物が残る一画があります。*1

どっしりとした大型の木造建築です。

吸い込まれそうな玄関。

川沿いから見る建物の裏側。もの凄い迫力です。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.54-P.55

参考文献

参考記事

浅虫温泉(浅虫温泉駅)ホタテのふるさと。

今回は、浅虫温泉(青森県青森市)の町並みと風俗を散歩します。

浅虫温泉駅は、東北本線の駅で言うと、青森駅から5つ目の駅です。

「ホタテのふるさと」と書かれた浅虫温泉の看板。

JR東北本線浅虫温泉駅と湯の島。

参考文献

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大湊(ロマンス坂)賑わいを見せた「ロマンス座」跡。

妓楼風の石造りの建物の脇から延びる「一番坂」。
大湊上町の常楽寺に、霊場恐山まで続く三十三観音の起点となる一番観音があることから「一番坂」と名付けられました。*1

逆方向から見下ろすと海が見えます。付近には木造の旧家も数多く見られます。

「一番坂」の南側にある「ロマンス坂」。
明治43年、大湊地区では初めての演芸場「盛港館」ができ、芝居や歌舞伎、踊りなどが上演されました。大正時代から無声映画の上映も始まり、その後名称は、新興劇場、ロマンス座と変わり、映画専門の劇場になりましたが、一時は、大変な賑わいを見せました。昭和30年代に閉館しましたが、人々が通ったこの坂道の思い出を残すため、劇場の名をとって「ロマンス坂」と名付けられました。*1

大湊上町稲荷神社があった付近から見下ろすロマンス坂。ロマンス座は大湊上町稲荷神社の下の坂の中腹にありました。*1

参考文献

*1
東奥日報社坂に愛称できた!! 坂の街・むつ市大湊 3東奥日報東奥日報社1991.4.4

一番坂

 大湊上…

参考記事

大湊(石造りの建物)料理屋の建物。海軍御用達。

海岸沿いの旧道を軍港があった方向に行くと、「一番坂」の登り口の角に、料理屋か妓楼のような石造りの建物が現れます。*1

この建物は、昭和10年の大湊町誌*2 の広告欄に掲載されている、「海軍御用達 艀(はしけ)業」の建物と思われますが、軍人さんへの接待なども行われたのかもしれません。

石造りの玄関と木製の扉。

玄関の上部の木彫り装飾。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.52-P.53
*2 笹沢魯羊:大湊町誌(下北新報社,1935)

参考文献

参考記事

大湊(三叉路南側のスナック店)古い店舗が建ち並ぶ一画。

大湊新町の三叉路の南側に、古い店舗が建ち並ぶ一画があります。

スナックの建物が1軒だけ残っています。

レトロな看板が印象的です。

古い住宅地図*1 によると、このあたりは、道の両脇に「だるま」「プリンス」「くろねこ」「すみれ」などのスナックと思われる店舗が建ち並ぶ繁華街だったようです。

【参考文献】
*1 日本住宅地図出版:むつ市(日本住宅地図出版,1980)P.44

参考文献

参考記事

大湊(大湊市街の理髪店)スナック店が併設。

今回は、大湊(青森県むつ市)の町並みと風俗を散歩します。
JR大湊線の終着駅である大湊駅を下車し、市街地を西を進みます。市街からは、恐山が見えます。

理髪店の建物に、スナック店、飲食店が併設されています。

理髪店の建物の角にあるスナックの看板。

建物の右側は、焼肉店。

参考文献

参考記事

湯本(常磐ハワイアンセンター)炭鉱生まれのパラダイス。

湯本駅から約3kmの山中に常磐ハワイアンセンター(スパリゾートハワイアンズ)があります。
常磐ハワイアンセンターは、昭和36年、常磐炭鉱の社長だった中村豊さんによって構想されました。この楽園の素は、炭鉱を掘るときに湧いて出る温泉でした。温泉は炭鉱にとっては困りもので、莫大な費用をかけて坑内から汲みだし、川へ捨てていました。*1
昭和30年代、エネルギー革命(石炭から石油へ)が進行し、採炭事業の存続が困難な状況にまで発展しました。その頃、大衆のための娯楽施設として注目を集めていたのが、昭和31年、千葉県船橋市にオープンした船橋ヘルスセンター*3 で、常磐炭礦の関係者を大いに刺激しました。しかし、無名の温泉施設に客を集めるには工夫がいるので、フラダンスやタヒチアンショーを見せることにしました。なぜ、フラダンスを取り入れたのかについて、中村さんは、「昔から温泉宿は酒と女ですが、女は売春防止法にひっかかるから、腰をふらせたらよかろうと思って」と解りやすい理由を述べています。*2

この実話に基づいて制作された映画「フラガール」は、第30回日本アカデミー賞(2007年2月16日発表) を受賞しました。
スパリゾートハワイアンズの中に、映画「フラガール」の大ヒットを記念して作られた展示会場「フラ・ミュージアム」があります。

炭鉱の苦悩から生まれた常磐ハワイアンセンターの紆余曲折が、あますところなく紹介されています。
あっ!裸踊りのネエちゃんだ!
腰振りダンス!?
ヘソを出して踊るなんて!
「やらなければならない。生き抜くために」

トロピカルフラショー。タヒチアンダンスは圧巻です。

【参考文献】
*1 田中聡:ニッポン秘境館の謎(晶文社,1999)P. 53
*2 猪狩勝己:ハワイアンセンター物語(加納活版所,1980)P.6-P.20
【参考記事】
*3 風俗散歩(船橋):船橋ヘルスセンター跡(2008.11)

参考文献

参考記事

湯本(いわき市石炭・化石館)昔は女性も裸で作業をしていました。

湯本駅のすぐそばに、いわき市石炭・化石館があります。

坑夫の像。

地下1階に、当時の坑道を再現した「模擬坑道」があります。人形を使った解りやすい展示です。

昔は女性も裸で作業に参加していました。

参考文献

参考記事

湯本(いわきミュージック)現在はマッサージサロン。

温泉街の奥まったところ。

ストリップ劇場のいわきミュージックがあります。

純和風の建物。

現在は、マッサージサロンとして営業しているのでしょうか。

参考文献

参考記事

湯本(三函座)保存建物に指定されています。

温泉街に、旧映画館の三函座の建物が残っています。

この建物は、文化財として保存されています。

切符売り場は、鮮やかなタイルの装飾が施されています。

昔、この辺りは「三函」と呼ばれていたそうです。

参考文献

参考記事

湯本(温泉街のスナック)かつては、炭鉱景気で賑わいました。

今回は、湯本(福島県いわき市)の町並みと風俗を散歩します。
JR常磐線の湯本駅前から山側に、湯本温泉街が広がっています。戦後、朝鮮動乱は特需ブームをもたらし、常盤炭田地帯は出炭量が増えて、空前の黒ダイヤ景気を呼びました。炭鉱地帯の中心であった湯本温泉は、炭鉱景気で賑わい、湯本の芸者数は急増し、一時は300人を超えました。*1
温泉街には、旅館の他、スナックが点在しています。

花街らしい雰囲気も残っています。

奇抜なデザインの建物。

味わいのある建物が多いです。

【参考文献】
*1郷土出版社:いわき今昔写真帖(郷土出版社,2003)P.98

参考文献

参考記事

いわき(東湯)遊廓跡地近くの銭湯。山積みにされた材木。

五色町遊郭跡地近くに銭湯があります。

入口には、山積みにされた材木。

「材木以外は持ち込んではいけません」の看板。

小規模ですが、落ち着いた雰囲気の銭湯です。

参考文献

参考記事

いわき(五色町遊廓)現在は面影はありません。

今回は、いわき(福島県いわき市)の町並みと風俗を散歩します。
いわき市は、1966年に、平市、磐城市などを合併し誕生しました。その後、1994年に平駅はいわき駅と改名されました。
明治の初期、平の遊廓は、最初、材木町、その他に点在していましたが、明治40年に五色町に移転しました。吉原遊廓をまねて大門を建て、酔客をそこまで見送ることが、浜通りの名物となっていました。*1

鎌田町から見た五色町交差点方面。

平町全図*2 に五色町遊廓の場所が記されていますが、それによると、五色町遊廓は、現在の五色町交差点の南側にあったと思われます。

遊廓の東側に位置する鎌田橋。五色町遊廓は鎌田遊廓とも呼ばれていました。*1

【参考文献】
*1 荒川禎三:磐城百年史(マルトモ書店,1966)p.282-P.285
*2 吉成留三郎:磐城平町案内(関内米三郎,1913)

参考文献

参考記事

船橋(ヘルスセンター跡)東京ドーム8個分の面積を持つ巨大娯楽施設跡地。

昭和30年から52年まで、船橋ヘルスセンターという娯楽施設がありました。その面積は東京ドーム8個分という巨大なもので、温泉、遊覧飛行場、サーキット場、人口ビーチ、遊園地、ゴルフコース、人工スキー場などがありました。
中でも、高さ25メートル、長さ100メートルの水の滑り台の「大滝すべり」は大ブレークしました。時速50キロメートル滑降スピードのため、途中で海水パンツが脱げてしまうというハプニングも起きました。
現在は、大型ショッピングセンターの「ららぽーと」になっています。

船橋ヘルスセンターの名残と言えそうな碑が、三井ガーデンホテルの駐車場の脇にあります。

碑のプレートに書かれているように、当時、温泉コンクールというのがあったようです。

1993年には、ららぽーとの隣に人工スキー場の「ららぽーとスキードーム・ザウス」がオープンしましたが、2002年に閉鎖。跡地は、大型家具店になっています。

【参考文献】
*1 日本観光雑学研究倶楽部:セピア色の遊園地(創成社,2005)P.76-P.88

参考文献

参考記事

船橋(市松)船橋漁港近くのホテル。HOTELU。

船橋港の近くにあるビジネスホテルの「市松」。

近代的なビジネスホテルになっていますが、敷地の端に古い建物があります。

建物の側面上部に、ローマ字で「HOTELU ICHIMATS」と書かれています。普通は、「HOTEL ICHIMATSU」だと思うのですが、昔は、こういう書き方をしていたのでしょうか。

モダンなデザインです。

参考文献

参考記事

船橋(駅前のキャバレー)入口に女性の写真。

船橋駅近くの商店街のアーケードに「ハワイ本店」の看板がありす。

細い路地に飲食店が建ち並んでいます。

路地に面して派手な看板を掲げた店があります。

入口には、女性の写真が貼ってあります。

参考文献

参考記事

船橋(山谷澪跡)海から魚を運ぶための運河の跡。

国道14号線沿いにあるNTTのビルから少し南へ入ったところに、運河跡の入口があります。

運河跡の脇には遊歩道が続いています。

この運河跡は、澪(みお)と呼ばる川と海を結ぶ流路で、かつては海から魚を運ぶために利用されていました。船橋には、このような澪が数多くありました。12
せり出す母屋がアジアンチックです。*2

裏側の道路側から母屋を見たところ。

【参考文献】
*1 船橋市広報課:悠遊散歩道(船橋市広報課,1996)P.7-P.8
*2 散歩の達人(2001.10)P.12

参考文献

参考記事

船橋(ちかん注意看板)旧遊廓の周辺にあります。

今回は、船橋(千葉県船橋市)の町並みと風俗を散歩します。
船橋駅の西側、旧遊廓の近くにある海神稲荷神社。「???にご注意!!」の看板。

経年変化で見えにくくなっていたようです。斜めから見ると、”チカン”の文字が見えました。

遊廓跡地近くの路地。

京成船橋駅前のパチンコ店前。

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

茂原(ちかん看板)塗料の色により日焼け進行に差。

新発田(新発田遊廓跡地)月に宣し、雪に宣し、女は殊に宣し。

「全国遊廓案内」によると、新発田遊廓は、新発田町字三宣(みのり)町(現在の御幸町)にありました。*1
町名の由来は、「月に宣し、雪に宣し、女は殊に宣し」ということで、三宣町に改称されました。現在は昔の妓楼もなく、道路の両側は商店街となっています。*2

昭和33年、公娼制度は廃止され、広い道路を挟んで並んでいた妓楼は無くなりましたが、その頃の名残に今なお盆栽仕立ての松が残っています。*2

松の木が残っているお宅。

逆方向から見たところ。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.94
*2 松田時次:新発田今昔写真帖(郷土出版社,2002)P.66-P.67

参考文献

参考記事

新発田(いいでの湯)銭湯脇に川が流れています。

中央町と大通りを挟んだ南側に位置する大栄町1丁目に銭湯の「いいでの湯」があります。

銭湯脇に川が流れています。

隣接する倉庫には、木材が山積みになっています。

清潔感のある銭湯です。

参考文献

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新発田(掛蔵)割烹や飲食店が建ち並びます。

今回は、新発田(新潟県新発田市)の町並みと風俗を散歩します。
掛蔵は、古くからの繁華街で、現在は中央町4丁目となっています。*1

現在も割烹や飲食店が建ち並びます。

路地にある古びたスナック。

古いプレートが残っていました。現在は民家になっています。

【参考文献】
*1 松田時次:新発田今昔写真帖(郷土出版社,2002)p.20

参考文献

参考記事

鶴岡(宗吾神社)小松楼楼主が寄進。昭和7年、双葉町に移転。

藩政時代から続いた七日町と八間町の下旅籠は、八間町を北曲輪、七日町を南曲輪とよび、不夜城を誇っていましたが、風教上よろしくないという見地から、小眞木田ん圃(双葉町)に移転することになり、期限は昭和7年3月になっていました。*1
ところが、同2年暮れまでに移転を完了したのは、小松楼、松形楼、矢島楼、中村楼など8軒で、一流どころは移転を渋っていました。その経緯は、まず小松楼という三流どころの楼主金野小治が率先し、まるで軍艦のような妓楼をつくり、そして個人的に信仰し自庭に祀っていた宗吾神社を同遊廓の氏神とするよう寄付しました。これに一流どころの楼主たちが反発したため、移転が遅れることになりました。*1
宗吾神社は、現在も双葉町にあります。

鳥居の脇に寄進者の一覧が書かれた碑がたっています。

宗吾神社の由来。これによると、「金野小治が息子の小三郎を佐倉に使いし、下総佐倉の宗吾霊堂の分霊を受け、所有地に境内を整備し崇拝していたが、これを町の願いにより町の守護神として寄贈譲渡し、以後町が管理している。」と書かれています。

寄進者の名前。一番右に、小松楼楼主の金野小治、右から4番目に息子の金野小三郎の名前があります。6番目の若喜楼は、妓楼の名前でしょうか。

【参考文献】
*1 目で見る鶴岡百年中巻(昭和戦前篇)(エビスヤ書店,1977)P.29

参考文献

参考記事

鶴岡(鶴乃湯)入口のドアは閉まっていますが、営業中です。

本町2丁目の路地。繁華街から少しはずれた場所です。

銭湯の鶴乃湯。

入口のドアは閉まっていますが、営業中です。

外側のドアを開けて中に入るとさらにドアがあります。ドアが二重になっているのは北国の銭湯の特徴でしょうか。

参考文献

参考記事

鶴岡(神楽橋近くのパ-マ屋さん)和風なのにモダンです。

神楽橋から川沿いの路地を入ったところに、パーマ屋さんの建物があります。

和風の佇まい。

2階部分の看板は、インパクトがあります。

モダンな感じの入口のドアガラス。

参考文献

参考記事

鶴岡(内川)晴れていれば鳥海山が遠望できます。

鶴岡市街を流れる内川とそれに架かる美しい橋は、心なごむ風景です。
鶴園橋から内川を眺めると三雪橋と千歳橋と橋が連なっています。晴れていれば鳥海山が遠望できます。

直木賞作家の藤沢周平は、昭和2年(1927年)、鶴岡市に生まれました。
藤沢周平の作品とゆかりの地の案内板が、市内のあちこちに設置されています。
代表作「蝉しぐれ」の舞台「五間川」のモデルはこの内川で、主人公の少年藩士の文四郎がお福と舟を降りたとされる三雪橋は、赤い欄干が美しい橋です。
文四郎が童貞を失った妓楼の若松屋があった染川町は、七日町の遊廓がモデルであったと思われます。

柳橋。この橋を渡ると、観音堂の前を通りすぎて七日町旧遊廓街へ行くことができます。
この橋は、明治12年朝日楼楼主の安達三蔵が私費を投じて架橋したものと言われています。*1
柳橋という名前は、東京の花柳界を真似たようで、芸者華やかなりし頃を偲ばせています。現在の橋は昭和29年に架け替えられたものです。*2

神楽橋は、藩政当時は七日町橋と呼ばれ、神楽橋と改称されたのは明治9年。*2
明治に入ってからも、神楽橋に遊客をのせた酒田船が通っていました。*3

【参考文献】
*1 花筏健:こぼればな史(庄内日報社,2007)P.44-P.45
*2 目で見る鶴岡百年下巻(昭和戦後篇)(エビスヤ書店,1978)P.161-P.162
*3 大泉散士:私の鶴岡地図(阿部整一,1981)P.4

参考文献

参考記事

鶴岡(七日町遊廓跡)遊廓街の面影を残した料亭の建物。

かつて七日町には貸座敷がありましたが、その頃の面影を伝える料亭の建物が今も残っています。
大通り沿いに、割烹料亭の三浦屋とその隣(写真:右手前)に同じく料亭の七尾の建物が並びます。2軒とも、「七日町貸座敷華やかなりし頃の家並み」*1 に掲載されていますので、貸座敷があった昭和の初期からこの場所で料亭として営業しているものと思われます。

木造3階建ての堂々とした木造建築です。

入口附近。

裏側から見たところ。

【参考URL】
*1 風俗散歩(鶴岡):七日町観音堂(2008.11)「七日町貸座敷華やかなりし頃の家並み」

参考文献

参考記事

鶴岡(七日町観音堂)お堂の壁に「七日町貸座敷華やかなりし頃の家並み」が貼ってあります。

鶴岡には、七日町と八間町に貸座敷が26軒、遊女145人がいました。*1
このうち、七日町は、江戸時代から街道が集まる交通の要所であったと同時に、飯盛女を抱える旅籠屋が軒を連ねる歓楽街でもありました。昭和5年に、七日町の遊廓は双葉町に移転しましたが、その間の300年間、鶴岡を代表する歓楽街でした。*2
七日町(現在の本町2丁目)の大通りの池徳古美術店角から北へ向かう路地(観音小路)を入ったところに七日町観音堂があります。*3

観音堂では毎年12月にだるま市が開かれます。七日町の娼妓たちの務めは厳しいものでした。娼妓たちは、「もし足のないお客様が泊まって、毎日毎晩いてくれたらどんなに幸せだろう。」と同じ足のないだるま様を抱いて寝たそうです。これが年夜に旦那と一緒にだるまを買いにいく楽しみに発展し、だるま市になりました。*3

お堂。

お堂の壁に「七日町貸座敷華やかなりし頃の家並み」が貼ってあります。

【参考文献】
*1 半田岩雄:鶴岡の今昔(東北出版企画,1975)P.35
*2 花筏健:こぼればな史(庄内日報社,2007)P.44
*3 冨塚喜吉:鶴岡の小路(阿部久書店,1998)P.52
*4 大泉散士:私の鶴岡地図(阿部整一,1981)p.3

参考文献

参考記事

鶴岡(コンドームの自販機)目立つ看板です。ハートのマーク。

今回は、鶴岡(山形県鶴岡市)の町並みと風俗を散歩します。
駅前のサンロード日吉商店街。

商店街を散歩していると、「コンドーム」の看板が目に飛び込んできました。

薬局の前に設置してあるコンドームの自販機の場所を示す看板でした。

珍しい型の自販機です。看板がピンク色と自販機のピンク色をコーディネートしているようにも思われます。
販売されている商品は、山之内製薬のコンドーム「La Pure」です。

参考文献

参考記事

伊勢崎(寿美乃湯)ユニークなデザイン。迫力のある煙突。

緑町の交差点近くにある銭湯の寿美乃湯。珍しい名前です。建物正面上部のデザインもユニークです。

迫力のある煙突。「寿美乃湯」の文字がかすかに見えます。

大きな暖簾。

脱衣場にはテーブルが置かれ、雑然とした雰囲気です。木製のロッカーがいい感じです。

参考文献

参考記事

伊勢崎(緑町)スナックが密集する小路。和風の建物。

緑町には、古びたスナックなどの飲食店が密集しています。路地に入ると雰囲気が一変します。

小路の入口附近。

スナックが並んでいます。

和風の建物もあります。

参考文献

参考記事

伊勢崎(緑町)風俗店が乱立します。手作りの木製の看板。

伊勢崎町駅の南側に位置する緑町は、風俗店が乱立するエリアです。

すし屋の屋号も艶っぽいです。

場末感漂う風俗店。

手作りの木製の看板。

参考文献

参考記事

伊勢崎(豪華客船)クイーンエリザベス号。オートレース場の近く。

伊勢崎オートレース場の近くに停泊する豪華客船。

クイーンエリザベス号と言えば、20世紀を代表する豪華客船です。

実は、豪華客船の形をしたラブホテルでした。

船首部分。タイタニックごっこができそうです。

参考文献

参考記事

伊勢崎(オートレス場前)プレハブの建物が並びます。

今回は、伊勢崎(群馬県伊勢崎市)の町並みと風俗を散歩します。
伊勢崎と言えばオートレス場です。近年、オートレース場周辺には大規模なショッピングセンター等が建設され、繁華街としても発展しています。
そのオートレース場前に、プレハブの建物があります。(写真の奥にオートレース場の照明設備が見えます。)

複数の風俗店が入居しています。

目立つ看板。

オートレスが始まるのは夕方から、開店するのでしょうか。

参考文献

参考記事

足利(渡良瀬橋)森高千里さんの歌で有名になりました。

足利市内を流れる渡良瀬川。自然に囲まれた足利を代表する美しい風景です。足利市内には、渡良瀬川に多くの橋がかかっていますが、一番知名度の高いのは、この渡良瀬橋です。

森高千里さんの「渡良瀬橋」がヒットし、足利市は、「夕日のきれいな街」として有名になりました。最近、渡良瀬橋地区の道路脇に「渡良瀬橋」の歌碑が作られました。

渡良瀬橋から見る夕景。

橋には、森高千里さんのファンの落書きがたくさん書かれています。同じ曲を松浦亜弥さんがカバーしたことから、松浦亜弥さんに関する落書きもあります。

----渡良瀬橋(森高千里作詞)----
渡良瀬橋で見る夕日を あなたはとても好きだったわ
きれいなとこで育ったね ここに住みたいと言った
電車に揺られこの街まで 貴方は会いに来てくれたわ
私は今もあの頃を 忘れられず生きてます
今でも八雲神社へお参りすると あなたのこと祈るわ
願い事一つ叶うなら あの頃に帰りたい
床屋の角にポツンとある 公衆電話 おぼえてますか
きのう思わずかけたくて 何度も受話器とったの
(中略)
あなたが好きだと言ったこの街並みが 今日も暮れて行きます
広い空と遠くの山々 二人で歩いた街
夕日がきれいな街

参考文献

参考記事

足利(花乃湯)古い町並みが残されています。

通三丁目の足利織物会館の裏の通りは、古い町並みが残されています。

銭湯の花乃湯があります。

入口の暖簾がいい雰囲気です。

しっかりした造りの銭湯です。

参考文献

参考記事

足利(通り二丁目のゲーセン)ゲーセンの歴史を語ってくれています。

JR足利駅の北側の通り二丁目附近に、閉店した小さなパチンコ店があります。

横から見ると、普通の木造民家です。

派手な看板のゲームセンター。

つい最近閉店したようです。シャッターの貼紙が、ゲーセンの歴史を語ってくれています。名文だと思います。

貼紙の文面(抜粋)。
「音ゲー、格闘ゲーム、モンスターゲート等と足利カーニバルありと全国でその名を轟かせた栄光も時代の流れに逆らえず、消え行くことになりました。プリクラ華やかなりし頃、イニシャルDに酔いしれたあの頃、鉄拳に沸いた日々、ランキングを目指して麻雀で格闘した毎日、すべては夢のように駆け抜けました。」

参考文献

参考記事

足利(永楽町)レトロな飲み屋街です。近くを両毛線の電車が走ります。

JR両毛線の足利駅近くの永楽町に、レトロな飲み屋街があります。

現在も食堂や居酒屋として営業中です。

交差点の角にある建物。

近くを両毛線の電車が走ります。奥に見えるのはJR足利駅です

参考文献

参考記事

福居(梁田宿)八木とともに飯盛女で評判でした。

八木宿(福居)から日光例幣使街道を3キロほど西へ歩くと、梁田宿の町並みがあります。
梁田宿は、八木宿とともに飯盛女で評判でした。*1

梁田の町並みに入って200メートルほど行ったコンビニのセーブオンのところで、日光例幣使街道は、北東に方向を変えます。この角にある中山さん宅は、「今昔三道中独案内」の地図に記載されていますが、昔の遊女屋があったところで、かつては連子格子が目立つ建物がありました。*1
現在は建て換わっています。

道が北東へ曲がってからも昔の面影を残している町並みが続きます。

渡良瀬川の近く長福寺の前に梁田宿の案内板があります。梁田宿は戊辰戦争(梁田戦争)の舞台となりました。
梁田戦争は、中山道を進んだ官軍と幕軍との戦いで、幕軍が評判の飯盛女を相手に宴をはっていたところへ、官軍が急襲、幕軍は100名以上の死傷者を出して敗退しました。このときの幕軍の戦死者の碑が長福寺にあり、足利市の指定史跡となっています。*1

【参考文献】
*1 今井金吾:今昔三道中独案内 新装版(JTB出版事業局,2004)P.168

参考文献

参考記事

福居(旧八木宿)八木節のルーツ。昔の面影が残されている建物。

昔、合計八本の松があったことから八木と呼ばれ、文化・文政(1804-29年)の頃は旅籠屋総数95軒のうち32軒が飯盛女を置く繫昌の宿でした。*1

民謡の八木節は、八木宿の遊女の口説き節が原型となったと言われています。*2

都市化が進む旧八木宿ですが、昔の面影が残されている建物もあります。

中華料理屋だった建物。

【参考文献】
*1 今井金吾:今昔三道中独案内 新装版(JTB出版事業局,2004)P.166
【参考URL】
*2 富塚町八木節保存会:八木節の由来について

参考文献

参考記事

福居(国道沿いのラブホテル)古い貼紙がありました。

旧栄町から旧道へ行く途中、ラブホテルの看板があります。一瞬、この木造建物がラブホテルかと思いましたが、そうではありません。

国道50号線沿いに、ラブホテルがあります。

目立つ看板です。

近くの電柱の貼紙。「日本人・外国人、デリ...?」。ここまで剥がされてしまうと解読不能です。

参考文献

参考記事

福居(福居遊廓跡地)明治41年に作られました。

今回は、福居(栃木県足利市)の町並みと風俗を散歩します。東武線福居駅から北へ15分ほど歩いた栄町墓地の近くに、福居遊廓がありました。
福居遊廓は、福居と梁田にあった遊女屋をまとめて、明治41に作られました。
「新編足利浪漫紀行」*1 に掲載されている福居遊廓跡地の写真とほぼ同じ位置から。

遊廓の中心部だったと思われるあたり。小さな祠がありました。

遊廓があった通りの端から見たところ。

遊廓跡地の近くにある栄町墓地。

【参考文献】
*1 日下部高明,菊地卓:新編足利浪漫紀行(随想舎,1997)p.111

参考文献

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王子(稲荷湯)王子稲荷神社の近くにあります。

王子駅から線路沿いの道を赤羽方面へ行くと、銭湯の稲荷湯があります。近くには、江戸時代、参詣が盛んだった王子稲荷神社があることから、稲荷湯という名前になったのだと思います。

電車からもよく見える煙突。赤紫色で「薬草風呂」と書かれているのが特徴です。

建物を側面から見たところ。

入口のシャッターは閉まったままです。

参考文献

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王子(扇屋)江戸時代から続く茶屋は、現在は売店になっています。

王子駅前を流れる音無川。現在は、音無親水公園として整備されています。
この音無川に沿って表二階、裏三階の木造建築の老舗料亭の扇屋がありました。*1

現在は玉子焼きを販売する売店になっています。

数年前までは、割烹店の扇屋として存続していたようです。ビルの入口に看板だけが残っています。

玉子焼きを1本購入しました。ハーフサイズ(630円)もありますが、思い切って一折(1260円)購入しました。味は上品な甘めの味。ビールにもよく合います。
折に「王子扇屋の沿革」(写真のオレンジ色の紙)が添えられています。

「王子扇屋の沿革」によると、扇屋の創業は、慶安元年三大将軍家光の時代。「江戸名所図會」にも書かれているそうです。明治7、8年に、音無川を庭園の内におさめ眺望都下随一の現在の場所に店舗を移しました。
【参考】
*1 上村敏彦:東京 花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.201

参考文献

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王子(銀月荘)三業地のはずれにある旅館跡。

王子に二業地が許可されたのは、昭和2年、翌3年には三業地に格上げになりました。場所は現在の豊島一丁目です。*1

豊島一丁目に、スナックが数軒密集したエリアがあります。

元旅館だった銀月荘。現在はアパートになっています。

玄関附近。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京 花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.198-P.201

参考文献

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王子(いなり通り)かつて花街があった場所の商店街。

王子(さくら新道)駅から見える飲食街です。

今回は、王子(東京都北区)の町並みと風俗を散歩します。
JR王子駅から見える飲食街の「さくら新道」。

新宿のゴールデン街に似た飲み屋の長屋が延々と続きます。

飛鳥山l公園へ登る坂道の途中から見ると、建物の輪郭がよく解ります。

 「さくら新道」の由来は、終戦直後、闇市だった柳小路(王子駅東口を出たところに現在もある飲食店街)にさかのぼります。
 その区画整理の際、抽選に当たった店は残り、それ以外は駅の反対側の国有地に移るよう指示された場所が、さくら新道でした。*1

参考文献

*1
植田実集合住宅物語(31)王子「さくら新道」15(10) (通号 158)都市出版 2000.10
P.79 王子駅は東口を出たところが駅前広場になっているが、その一画に柳小路と呼ばれる飲食店街がある。…

参考記事

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王子(さくら新道)数年前に南側半分が火災で焼失。

駒込(亀の湯)周囲はビルに囲まれています。入口に大きめの看板。

JR駒込駅の北側、本郷通り沿いに銭湯の亀の湯があります。アーケードで全貌が見えづらくなっていますが、立派な破風造りの建物です。

周囲はビルに囲まれています。

入口の「亀の湯」の看板。大きめのサイズです。

天井についているレトロな扇風機が印象的でした。

参考文献

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駒込(旧神明花街)かつての料亭「箱根」の建物。

駒込神明花街の中心であったと思われる場所に、かつての料亭「箱根」の建物が残っています。現在は個人宅になっています。*1

東側から見たところ。

西側から。

周囲は、住宅街になっていて花街の面影はありません。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京 花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.194

参考文献

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駒込(神明花街跡)電柱の標識に「三業」。三業地の名残。

「東京 花街・粋な街」の地図によると、駒込神明街の花街の見番は、本駒込五丁目64にありました。*1

見番があった場所の道路を挟んだ向かい側には保育園があります。

道路沿いの電柱の標識に「三業」と書かかれています。このあたりが三業地の中心部だったようです。

「三業」と書かれた電柱はこの附近に10本ぐらいあります。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京 花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.194

参考文献

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駒込(駒込神明花街跡)旧町名の名を残す「神明」という屋号の居酒屋。

駒込に花街ができたのは、大正10年でしたが、できた当時はまだ後ろは一面の田んぼだったそうです。*1
現在のアザレア通り商店街のアーケードが終わったあたりに駒込神明町に花街がありました。*2
旧町名の名を残す「神明」という屋号の居酒屋があります。

「赤線跡を歩く2」に掲載されていた写真の位置から。呉服店の「いねや」は新しいビルに建て換わっていました。

入り組んだ路地を入ったところにあるスナック。

和洋折衷のスナックの建物。

【参考文献】
*1 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂,1929)P.86
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社、2002)P.113

参考文献

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駒込(路地裏のホテル)落ち着いた佇まいです。

山手線の線路沿いから、一本裏通りを入るとラブホテルが2軒並んでいる路地があります。住宅街の中の目立たない場所にあります。

落ち着いた佇まいです。

入口附近。

隣にある「古都」という名のラブホテル。こちらもいい感じです。

参考文献

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駒込(ホテル「ひかり」)線路沿いの全室鏡貼りのホテル。

駒込駅近く、山手線沿いにラブホテルがあります。

歴史を感じさせる看板。

全室鏡貼り。昔は派手な仕掛けのホテルが流行っていました。

側面から見たところ。

参考文献

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石和温泉(ラブホテル街)リゾートホテルのような建物群です。

国道20号線と御坂みちが交差する附近に、大規模なラブホテル街があります。

別のホテルの入口のゲート。

ラブホテル街のメインの通り。

巨大な塀を持つラブホテル。

参考文献

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石和温泉(温泉街の犬糞看板)ここは神社。神聖な場所です。

近くに葡萄畑がある温泉街の南側の稲荷神社。

「ここは神社。神聖な場所です。」と手書きで書かれています。

聖母マリア像でしょうか。ここで糞をさせるとは、神をも恐れぬ所業です。

側溝に水が流れていないと不便です。

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石和温泉(芸妓置屋)コンパニオン募集看板。案内板に2軒の置屋の名前。

国道411号線(大菩薩ライン)沿い。

石和温泉ではコンパニオンを派遣する置屋があります。

こちらの案内板には、2軒の置屋の名前が確認できますが、実際に歩いてみたところ、それらしい置屋は発見できませんでした。ひと昔前と比べると置屋の数は減っているようです。

鵜飼橋近くにある置屋のコンパニオン募集看板。

参考文献

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石和温泉(ストリップ劇場跡)看板の支柱だけが残っていました。

湯けむり通り沿いにストリップ劇場の「石和温泉劇場」がありましたが、現在は無くなって更地になっています。
当時の写真*1 を見ると、建物の右下に、「生板」、「外人」、「花電車」と書かれた大きな看板が貼り付けられていて、道路脇には、「特出し」と書かれた立て看板が置かれていたようです。また、建物の右側には、「ヌード」と書かれた大看板がそびえ立っていました。

現在、「ヌード」の大看板の支柱だけが、遺構として残っています。この支柱の上に「ヌード」とデカデカと赤色の文字で書かれた大看板が乗っかっていました。

交差点の対角線上にある旅館「森仙」の駐車場の場所を示す看板に「ヌード」と書かれています。「ヌード」の大看板はかなり目立つ存在だったようです。

古い案内板。文字がかすれて読み取りにくいですが、ヌード石和温泉....と書かれています。

【参考文献】
原芳市:ストリップのある街(自由国民社,1999)P.47

参考文献

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石和温泉(駅前の白ポスト)悪書追放にご協力ください。

今回は石和温泉(山梨県笛吹市)の町並みを散歩します。
石和温泉駅は、温泉街への入口となる駅です。

駅の入口脇に白ポストが設置されています。

赤い文字で白ポストと書かれています。

悪書追放にご協力ください。ゴミなどは捨てないようお願いします。

参考文献

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盛岡(大国神社)津志田遊廓と同時に設置された神社です。

津志田は、盛岡から南東に約4キロにある町です。町を南北に国道4号線が貫いています。
江戸時代、盛岡藩は、津志田に藩公認の遊廓を文化・文政期(1810~1820年)と嘉永期(1850~1854年)の二度にわたって設置しました。*1

遊廓があった場所の南端にあたるの津志田の交差点の角に大国神社があります。
大国神社は、遊廓と同時に津志田の総鎮守として設置されました。*1

社の中には遊女や楼主がおさめた献額(絵馬)があります。遊女たちの「諸顕成就」献額は、金色できらびやかだが、裏には苦界に身を沈めた宮古、鍬ヶ崎の遊女名が連なっていたそうです。*2

大国神社の案内板。「当時津軽町と称したこの地は遊廓が繁盛した。」と説明されています。

同じ盛岡藩内には、鍬ヶ崎に非公認の遊廓がありましたが、鍬ヶ崎の遊女は、津志田遊廓に出稼ぎに行くこともあったそうです。*1
【参考文献】
*1 武林 弘恵:歴史.105(2005.9)「盛岡藩の遊廓をめぐる社会関係について」P.71,P.97
*2 小島俊一:陸中海岸こぼればな史(トリョーコム,1986)P.95-P.96
*3 風俗散歩:鍬ヶ崎遊廓(2008.9)

参考文献

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盛岡(岩手牛乳の牛乳箱)都道府県名を冠した乳業メーカー。

八幡宮へ向かう通り沿いに、古い木造民家があります。入口に水色の牛乳箱があります。

岩手牛乳の牛乳箱です。都道府県名を冠した乳業メーカー名は、重みがあります。

一本北側に路地を入ったところ。

ウルトラプロセスは、高温殺菌のことですが、ウルトラデラックスとは何でしょうか。

参考文献

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盛岡(八幡町飲食街)スナックの建物が点在します。

八幡町の北側は、戦後の時代を連想させる飲み屋横丁になっています。

スナックが寄り添う建物。

細く長い横丁。

モダンなつくりの看板。

参考文献

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盛岡(八幡町花柳街)松尾町の料亭風の建物が数軒ある一画。

明治元年(1868年)官軍の奥羽鎮撫(ちんぶ)総督に就任した九条道孝が、官兵1300人を率いて盛岡に到着すると、官兵のために茶屋を許しました。これが八幡町の花街(貸座敷)の元となりました。*1*2
八幡町に隣接する松尾町に料亭風の建物が数軒ある一画がありますが、ここが花柳界のあるところで、それ以前は遊廓の中心部でした。*3*4

交差点のところに、モダンな建物があります。

側面から見たところ。

建物正面の装飾は、木材でできています。

【参考文献】
*1 盛岡の歴史を語る会:もりおか物語2-八幡町かいわい-(熊谷印刷出版部,1974)P.97
*2 森ノブ,多田代,岩手県文化財愛護協会編:三盛岡市の歴史 下 (熊谷印刷出版部,1992)P.55
*3 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.91
*4 木村聡:赤線跡を歩く【完結編】(自由国民社,2007)P.87

参考文献

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盛岡(レトロな写真館)商店街にあります。

今回は、盛岡(岩手県盛岡市)の町並みと風俗を散歩します。
盛岡市内の商店街。八幡神社へ向かう途中の南大通1-1付近。

「赤線跡を歩く【完結編】」に写真が掲載されている古い写真館の建物があります。

正面のレリーフが印象的です。

思わず、下から見上げてしまいます。

参考文献

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宮古(七滝湯)温泉マークのある銭湯。木製のロッカー。

鍬ヶ崎上町の北側の鍬ヶ崎仲町に、銭湯の七滝湯があります。

温泉マークのある銭湯です。「しちたきゆ」ではなく、「ななたきゆ」という読むようです。

入口付近。

木製のロッカーが健在です。

参考文献

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宮古(伊藤牛乳の牛乳箱)宮古の牛乳メーカーでしょうか。

鍬ヶ崎上町から西側の斜面を登ったところに常安寺別院があります。常安寺別院からは、宮古湾を遠望することができます。港町らしい風景です。

坂道の途中に、黄色牛乳箱があります。(写真左側)

伊藤牛乳の牛乳箱。

箱の側面には、「宮古市新川町」と書かれています。地元の牛乳メーカーでしょうか。

参考文献

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宮古(鍬ヶ崎)遊廓跡地にあるレトロな建物。

地元の方の話によると、現在の消防駐屯所のあたりまで通り沿いに遊廓の建物が建ち並んでいたそうです。

駐屯所の近くにレトロな洋風建築の建物があります。

1階部分はモダンなデザインになっています。

入口部分に「はまなす」という屋号が見えます。

参考文献

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宮古(鍬ヶ崎遊廓跡)現在も当時の建物が残ります。

鍬ヶ崎遊廓は、近世の頃は現在の日影町附近にありましたが、幕末から明治にかけて遊廓は、鍬ヶ崎上町に移動しました。*1
明治18年、貸座敷営業許可地に指定されたとき、娼妓は47名で、この数は岩手県全体の約半数でした。*2
鍬ヶ崎上町1丁目のプチホテル海幸園の近くに、当時のものと思われる建物が残っています。

地元の方に話しをお伺いしたところ、現存しているのはこちらのお宅1軒のみだそうです。

堂々とした木造建築です。

入口附近。

【参考文献】
*1 沢内勇三:鍬浦史話(郷土史同好会,1955)p.85
*2 渡辺憲司:江戸遊里盛衰記(講談社,1994)P.102

参考文献

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宮古(鍬ヶ崎港)江戸から函館を目指す新島襄が寄港。

今回は、宮古(岩手県宮古市)の町並みと風俗を散歩します。 宮古は三陸海岸に面する都市で、景勝地の浄土ヶ浜を有し、観光地としても有名です。
宮古市街と浄土ヶ浜の中間に位置する鍬ヶ崎は、宮古港の一部です。江戸時代には回船問屋が繫昌し、船舶の寄港が頻繁となるにつれて花柳街が繫昌するようになりました。

1868年、江戸から函館を目指す新島襄は、鍬ヶ崎港に寄港しましたが、江戸を出発するときの所持金の二十両のうちのほとんどを鍬ヶ崎の遊廓で散財したのではないかという説があります。*1

新島襄が宿泊した伊勢屋があった場所。*1

伊勢屋があった場所からこの路地を行くと遊廓があった通りに出ます。

新島襄(にいじまじょう)は、同志社大学の前身となる同志社英学校の創立者で、福澤諭吉らとならび、明治六大教育家の1人に数えられています。
新島襄は、「函館紀行」の中で、鍬ヶ崎に寄港したときの状況を次のように記しています。
「予上陸し伊勢屋清兵衛の家に宿す。予鍬ヶ崎の様子を見るに驚く事あり。如何となれば家毎妓二三人或四五人あり、(中略) 此地の人物、陽ハ粗ニして陰ハ獗猖(しょうけつ)なる事甚し、是悪むべき風俗……」
この「是悪むべき風俗」の次の約20行が欠損部分となっており、これは新島襄の神聖さを傷つけてはならないと考えた誰かが、カミソリで切りとったものと考えられています。*1
【参考文献】
*1 本井康博:同志社談叢(2001.3)「岩手県宮古市鍬ヶ崎 新島襄の寄港地」口絵、P.131

参考文献

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種市(ソープランド跡地)東北の男たちを虜にした名店が閉店しました。

国道45号線を北へ向かいます。

「男性専科浴場」と書かれた大看板。実は、ここが東北の男たちを虜にする伝説のソープランドです。*1
岩手県には、ソープランドが少なく、盛岡市内に1軒と、ここ種市に1軒あるのみです。

急な坂をどんどん登っていきます。

残念ながら、ソープランドがあった場所は、更地となっていました。地元の方に話しをお伺いしたところ、今年の2月頃に突然閉店となり、しばらくは建物が残っていたのですが、最近、取り壊されたそうです。

【参考文献】
*1 俺の旅(ミリオン出版,2007.9.25)P.70

参考文献

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種市(駅周辺)岩手県の最北端に位置します。

今回は、種市(岩手県九戸郡洋野町)の町並みと風俗を散歩します。
JR八戸線種市駅で下車します。

種市(たねいち)は、岩手県の最北端に位置する、太平洋に面していた町です。

種市駅前。タクシーが留まっているだけの平凡な駅前ロータリーです。

八戸駅-久慈駅間の列車は、1日9往復です。

参考文献

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八戸(安藤自転車店)モダンなデザインの建物。

湊橋近くに、「赤線跡を歩く完結編」*1 に写真が掲載されている自転車屋さんがあります。

モダンなデザインの建物です。

木製のドア。

2階部分には、モダンな装飾が施されています。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 続々・消えゆく夢の街を訪ねて 完結編(自由国民社,2007)P.51

参考文献

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八戸(ホテルリバーサイド)廃業しているカーホテル。

小中野の隣の陸奥湊駅で下車し、新井田川沿いを散歩します。川沿いにホテルがあります。

その名も「ホテルリバーサイド」。残念ながら廃業していました。

裏口へ回ると、「カーホテル」と書かれています。懐かしい響きです。

各部屋の入口には、世界各国の都市名が書かれています。手前から、京都、モンテカルロ、ベニス、グルノーブル、サンフランシスコ、ヴェルサイユと部屋が並んでいます。

参考文献

参考記事

八戸(小中野の遊郭跡地の近く)古いスナックの建物。

小中野の町並みを散歩していると、古いスナックの建物に出会いました。

入口の凝ったデザイン。

1つの建物に何軒かのスナックが入っている長屋の建物です。

側面はオレンジ色です。

参考文献

参考記事

八戸(新むつ旅館)2階の部屋と部屋を結ぶ空中廊下。

新陸奥旅館の玄関に入ると目の前にY字型に分かれる階段があります。

2階の部屋と部屋を結ぶ空中廊下。

大広間。

部屋には、大福帳と貸座敷遊客名簿。貴重な資料です。
貸座敷遊客名簿には、客に身体的特徴、衣服、相手をした遊女の名前、遊興費などが克明に記録されています。*1

【参考文献】
*1 rakra(2008.1)

参考文献

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八戸(新むつ旅館)元遊廓の建物で営業中です。

八戸駅から2駅隣の小中野駅から徒歩10分ほどの場所に東北屈指の歓楽街と言われた小中野新地がありました。

新むつ旅館は、明治30年、貸座敷「新陸奥楼」として開業しました。ただの遊廓ではなく、20畳の宴会場と5つの部屋があり、芸者2人、遊女3人を抱え、芸者遊びが出来る遊廓でした。昭和32年の売春防止法施行後は、建物をそのまま生かし旅館として時を刻んできました。*1

同じ通りを北側から見たところ。

昭和のはじめに建てられたと思われる旅館。

【参考文献】
*1 rakra(2008.1)

参考文献

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八戸(駅前のストリップ劇場)雰囲気のあるブリキの塀。小沢代表のポスタ。

今回は、八戸(青森県八戸市)の町並みと風俗を散歩します。
新幹線の駅がある八戸駅からJR八戸線に乗り、2駅目の本八戸駅で下車します。
本八戸駅前にあるスリップ劇場。ストリップ劇場にしてはめずらしく派手な装飾のない建物です。

雰囲気のあるブリキの塀。

入口のゲートには、小沢代表のポスタ。

入口附近。

参考文献

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浅草(サンバカーニバル)雨の中でのパレードでした。

毎年8月の最終土曜日に浅草サンバカーニバルが開催されます。パレードは、馬道通りから雷門通りにかけて行われます。
浅草サンバカーニバルは、1980年、俳優の伴淳三郎さんの発案で始まりました。*1

今年は、あいにくの雨(時々豪雨)の中でのパレードとなりました。

パシスタと呼ばれるパレードの中のソロダンサー。どこのチームも魅力的です。

タンガと呼ばれる衣装で、背中にたくさん羽を背負っています。

【参考URL】
*1 浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)ホームページ

参考文献

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浅草(ひさご通りの看板)娼婦、男。かつての「十二階下」。

花やしきから、北へ、ひさご通りに入ります。ひさご通りの中程、米久のあるあたりに看板があります。

近くにラブホテルがあるので、「街娼」が出没するのも納得できます。
この附近には、明治~大正時代、十二階(凌雲閣)があり、十二階の周辺は、「十二階下」と呼ばる魔窟でしたが、現在もこの伝統が受け継がれているのかもしれません。

ひさご通りの入口附近に、もう一つの看板があります。文言はほとんど同じですが、一箇所だけ、「街娼」が「娼婦」という言葉に置き換わっています。

よく見ると「娼婦」の隣に、誰が書いのか「男」の文字。

参考文献

参考記事

浅草(浅草観音温泉)バンビさんは動きません。

浅草観音温泉に入ってみます。
銭湯は、男湯と女湯の入口が分かれているのが普通ですが、ここの銭湯の入口は一つです。ロッカーがたくさん並ぶ廊下を過ぎるとその先で、男湯と女湯の入口があります。

バンビの乗り物があります。しかし、横には、「バンビさんは動きません。」の貼紙。

脱衣所にある「マナーのお願い」の貼紙。

コンクリート造りで、天井が高いのが印象的です。天井は緑色、柱は赤色に塗られています。中央に円形のタイル張りの湯船があり、タイルで人魚の姿が描かれています。

参考文献

参考記事

浅草(浅草観音温泉)蔦の絡まる銭湯。男は黙ってサッポロビール。

浅草寺本堂の前を西へ向かうと浅草観音温泉の建物が見えてきます。建物の屋上には、「浅草観音温泉」と書かれた大看板があります。
左に、浅草ビューホテル、右に花やしきのタワーが見えます。

蔦の絡まる銭湯。

「男は黙ってサッポロビール」の看板。三船敏郎のCMが懐かしいです。

入口の横に、「極端に不潔な方、入場お断り」の貼紙があります。

参考文献

参考記事

浅草(仲見世)水茶屋は、江戸時代の流行の発信基地でした。

今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
江戸時代、明暦の大火により元吉原の遊廓が現在浅草寺の後方に移されたことによって、浅草寺界隈は人手で賑わうこととなりました。

仲見世の風景。

さまざまな店が並び、賑わいを見せています。

仁王門近くに、江戸時代に水茶屋が建ち並び賑わっていたことを示す案内板があります。
表参道が吉原通いの主要通路であったことが、境内の繁栄につながり、参道に沿って水茶店が出現し、水茶屋女が評判となるようになりました。
当時の水茶屋女の容姿の代表的なものとして、衣装には贅を尽くし、特に前掛けに工夫をこらし、江戸の流行の原動力となりました。

【参考文献】
*1 上坂倉次:あさくさ仲見世史話 門前町繁昌記(浅草観光連盟,1985)P.27-P.38

参考文献

参考記事

瀬上(青柳神社)男上(男根)と女神(女陰)が原型をとどめています。

瀬上駅近くに青柳神社があります。

森林の中に大きな社があります。

境内の社の裏手に、多くの石祠がありますが、そこに性崇拝の跡が見られます。やはり、遊廓町としての名残と思われます。*1

女神(女陰)。

【参考文献】
*1 小林金次郎:ふくしま散歩 福島郷土文化風物誌 県北編 改訂版(西沢書店,1977)P.184

参考文献

参考記事

瀬上(瀬上町遊廓跡)当時の建物が現存しています。

全国遊廓案内によると、瀬上町遊廓には、今加楼、備中楼、八幡楼、花月楼、今出楼、普豊楼の6軒の貸座敷があり、約45名の娼妓がいたそうです。*1
国道4号線沿いの「瀬上中央」バス停から北へ50メートル。信号機のところを右に入ったところに、花月楼の建物が現存しています。*2*3

花月楼は、昭和15年頃に、石倉造りの部屋を増築し、13人ものお姉さんたちに揃いの飾り着をつくり、歌いはやし踊らせたそうです。*3

裏口の上部に「花月」の文字が確認できます。

表側へまわると、石蔵の前は広い敷地になっています。

【参考文献】
*1 南博編:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.41
*2 薄井三男:福島公娼史(薄井三男,1993)
*3小林金次郎:ふくしま散歩 福島郷土文化風物誌 県北編 改訂版(西沢書店,1977)P.181-P.183

参考文献

参考記事

瀬上(瀬上宿)宿場町だった場所。瀬上宿の看板。

今回は、瀬上(福島県福島市)の町並みと風俗を散歩します。
JR福島駅から阿武隈急行線に乗り換え、3つ目の駅が瀬上ですが、今回は、一つ手前の福島学院前で下車します。国道4号線沿いに歩くと瀬上宿の看板があります。このあたりが、かつての宿場町だったようです。

付近は、ビジネスホテルが1軒あるだけで、宿場町の面影はありません。

「瀬上中央」バス停。

「瀬上中央」バス停から50mほど北の薬師前という地名のあたり。国道わきに古い石造りの建物が見えます。

参考文献

参考記事

新町(於菊稲荷神社)遊女が献額した絵馬が残されています。

旧中仙道から北側に路地を入ったところに、於菊稲荷神社があります。

於菊稲荷神社の名称の由来は、今から250年前に隆昌を誇った新町宿の大黒屋とう宿屋にいた遊女のお菊からきています。お菊は重い病にかかりましたが、この社で一心に祈願したところ病が回復しました。*1

遊女が献額した絵馬が残されています。

かむろつき遊女の参詣図

【参考文献】
*1 「上州路」編集部:月刊上州路 No.251 P.38「新町の観光スポット」(1995.3)
*2 千木良英一:月刊上州路 No.251 P.16-P.17「新町宿のれこれ」 (1995.3)

参考文献

参考記事

新町(諏訪の湯)隣の広場には、雑然と物が置かれています。

新町駅近くに古い銭湯があります。

入口付近。何とも言えない荒廃した雰囲気です。

建物の隣の広場には、雑然と物が置かれています。

脱衣場も雑然としています。

参考文献

参考記事

新町(駅前の古い旅館)駅前の小規模なスナック街。

JR新町駅前に、小規模なスナック街があります。

古い旅館の建物があります。

歴史を感じる看板。

美しい板塀です。

参考文献

参考記事

新町(ビデオショップ)鑑賞室が別棟になっています。

今回は、新町(群馬県高崎市)の町並みと風俗を散歩します。
JR新町駅前の国道沿いにレンタルビデオショップがあります。

ビデオ鑑賞だけでなく、お昼寝としても利用できるようです。

品揃えも豊富です。

ビデオ鑑賞やお昼寝は、ショップから30mほど離れ別棟(1枚目の写真のショップの左上に写っている建物)で行います。郊外型の立地を生かした業態といえるかもしれません。

参考文献

参考記事

豊橋(有楽町の赤線跡)当時の建物が現存しています。

小池駅から東側のコンビニのミニストプのところの交差点を西に曲がると、赤線があった有楽町に行き着きます。

当時の建物が現存しています。

落ち着いた感じの和風の建物がずらっと並びます。

1軒だけ洋風のアパート風の建物がありました。

参考文献

参考記事

豊橋(小池駅近くの古い旅館)当時のままで営業中です。

豊橋鉄道渥美線の小池駅近くに古い旅館が2軒あります。

そのうちの1軒、大黒屋は当時のままで現在も営業中の旅館です。

玉川旅館。

風情のある入口付近。

参考文献

参考記事

豊橋(小池の制服屋)高級女学生制服。

JR豊橋駅から豊橋鉄道渥美線に乗り、2駅先の小池駅で下車します。小池駅の西側の通り。

広い通りに面して、制服屋があります。

高級女学生制服。

ショーウィンドウ。

参考文献

参考記事

豊橋(東田仲ノ町旧赤線地帯)現在も旅館が営業中です。

豊橋に古くから存在する吾妻遊廓は、明治43年に吉田の宿場から遊廓になりました。*1
昭和2年の「豊橋市街地図」を見ると、吾妻町の正方形の区画の東側、つまり、赤線があった東田仲ノ町のあたりに、「遊廓」の2文字が記されています。
戦後は赤線に移行しました。*2

売防法以降は、料理屋に転向し、仲居という名の接客婦を置いた時期があり、その結果、取り締まり当局の集中攻撃を受け徹底的に検挙されてしまい、その後は普通の旅館に転向したと言われています。*3

現在も現役で営業中の旅館が何軒かあるようです。

往時を偲ばせる建物が残っています。

*1 全国遊廓案内
*2 木村聡:赤線跡を歩く2 P.102-P.103
*3 全調査 東海道 酒・女・女の店P.202

参考文献

参考記事

豊橋(東田仲ノ町公園)公園の向こう側は赤線地帯でした。

市電の競輪馬場前駅の南側に東田仲ノ町公園があります。

競輪馬場前駅から道路を歩くと、突然、緑が多いY字路に出会います。ここが東田仲ノ町公園です。

公園の向こう側は赤線地帯でした。現在も和風の旅館が建ち並びます。

公園の中には、神社があります。

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豊橋(市電)豊橋駅前から市電に乗ります。

今回は豊橋(愛知県豊橋市)の町並みと風俗を散歩します。
豊橋は、路面電車のある町です。JR豊橋駅前に市電の駅があります。

市電が町を走ります。

道路との併走区間が延々と続きます。

競輪場前駅にて。

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上諏訪(フランス座)温泉地のストリップ劇場。

上諏訪駅の北側の湖岸通り三丁目付近は、観光ホテルが建ち並ぶエリアです。温泉地には、ストリップ劇場があることが多いですが、上諏訪にもありました。フランス座です。

夜になると、ネオンが煌々とともります。

入口付近。

「ヌード劇場フランス座」の看板。

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上諏訪(大手見番)邦楽教室として営業中です。

大手花街の路地を入ったところに、大手見番があります。

現在も見番として存続しているようです。

邦楽教室としても営業中です。

夜の様子。

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上諏訪(大手花街跡)大踏切を渡ると花街でした。

JR上諏訪駅の南側にある通称大踏切。この踏切を渡るとすぐにY字路があります。右は並木通りへ向かう通り、左は大手の通りです。

大正後期には、この通り沿いに料亭が並んでいました。*1

逆方向から見たところ。奥に大踏切があります。

大手の通りから路地に入ったところにあるスナック。

【参考文献】
*1 藤森弘子:まぼろしの花街大手(長野日報社,2007)P.23

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上諏訪(衣乃渡遊廓跡地)未舗装の不整形な広場。

衣乃渡橋近くを歩いていると、木造民家や倉庫のような建物が点在する広場*1 に出ました。
場所は、「並木地区公民館衣乃渡分館」の隣です。地元の方に話をお伺いしたところ、このあたり一帯は、遊廓街だったと教えてくれました。

敷地内はほとんどが未舗装です。

小さな稲荷神社もあります。

広場の西端にある木造民家。

【参考URL】
*1 赤羽康男、山田毅:臼井吉見の「安曇野」を歩く17 尚江と女性たち
(「市民タイムス」ホームページ)

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