御手洗(船宿と千砂子波止)遊女たちは「オチョロ」と呼ばれていました。

近世中期、沖乗り航路の開発に伴い、新興港湾都市として御手洗港が建設され、大崎下島は注目されるようになりました。*1*2

瀬戸内の港町では「おちょろ舟」が付きもので、その中でも、御手洗の「おちょろ」がいちばん有名でした。「おちょろ舟」は、遊女たちを乗せた小さな舟のことです。*1*2
江戸時代に作られた防波堤である「千砂子波止(ちさごはと)」は、チョロ稼業を通年安定させました。*3

御手洗港のある住吉町には、船宿や置屋が建ち並び、歓楽街として発展をとげました。船宿は、御手洗に入港した船の積荷の取引をはじめ、水や薪等の供給、船乗りの宿泊等の一切の世話をするもので、藩ごとに指定の船宿がありました。*4

現在も船宿の建物が残されています。

【参考文献】
*1 沖浦和光:瀬戸内の民俗誌 海民史の深層をたずねて:(岩波書店,1998)P.200-P.226
*2 五木寛之、沖浦和光:辺界の輝き(講談社,2006)P.153
*3 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.316
*4 谷沢明:瀬戸内の町並み(未来社,1991)P.116

参考文献

参考記事

小姓町(東前稲荷神社)案内板に遊廓の歴史の説明があります。

小姓町にある東前稲荷神社。

案内板に小姓町遊廓の歴史が紹介されています。これによると、文政4年(1821年)に山形城主の秋元涼朝(すけとも)により、城下に遊女屋が置かれたのがはじまりで、明治17年に貸座敷業者が終結し、小姓町遊廓となりました。

イチョウの落ち葉が一面を覆っていました。この稲荷神社もイチョウの木と共に歴史を刻んでいるようです。

昔は町の中を、このような小川が縦横に流れていたのかもしれません。

参考文献

参考記事

小姓町(生活衛生会館)明治30年に建築。元娼妓診療所。

小姓町の石畳のメインストリートの突き当たりに、駆楳院と呼ばれていた遊廓の女性たちの性病検査をしていた病院の建物が残されています。駆楳院は、明治30年に建築されましたが、昭和21年に遊廓の歴史にピリオドが打たれ、娼妓診療所の役割を終えた後は、昭和30年前後から山形県立職業訓練校の女子寮「白菊寮」に転用されました。職業訓練校が廃止となった昭和55年以降は、山形県生活衛生会館として、山形県の社交業の5組合の事務所となっています。*1

入口の前には、井戸がありました*1 が、今ではスファルトの駐車場で覆われています。懐かしい木造校舎のような匂いがあります。

窓の装飾。

後ろから見ると立派な建物であったことが解ります。

【参考文献】
*1 千葉由香:別冊東北学(2003.7)「小田原遊廓物語 常盤町に封印された女たちの記憶(6)P.430-P.443

参考文献

参考記事

小姓町(小姓町遊廓跡)現在の石畳の道の両側には妓楼が建ち並んでいました。

今回は、小姓町(山形県山形市)の町並みと風俗を散歩します。小姓町(こしょうまち)には、かつて遊廓がありました。現在は、旅館や料理店もあり、かつての賑わいを想像させます。

石畳で整備された道路が旧遊廓のメインストリートです。道路の脇に案内板があり、かつての遊廓の様子や歴史が記されています。

案内板によると、この道の両側には十数軒の妓楼が建ち並んでいました。小姓町の遊廓は、明治時代に貸座敷の許可を得、花街時代まで約70年間繁栄したそうです。

美しい町並みです。

参考文献

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常盤町(小田原遊廓跡地)遊廓があった頃は常盤町と呼ばれていました。

今回は、常盤町(宮城県仙台市)の町並みと風俗を散歩します。
東北随一とうたわれた仙台小田原遊廓。正確な町名は常盤町といいました。*1 現在の青葉区小田原6丁目付近です。遊廓の入口だった北一番丁には、大門がつくられ、2、3階建ての妓楼がずらりと軒を連ねていました。*2
「仙台花街繁昌記」*3 には、妓楼だった建物が「あさかや」という屋号の旅館に転業した写真が掲載されていますが、現在は、遊廓跡地の北側に同じ名前のアパート「コーポラスあさかや」が建っています。

南北の縦断する大門通りは道幅が広く一直線に伸びていて、ここに遊廓があったことを想像させます。「小田原遊廓地図」*1 によると、現在、亀谷商店がある場所(写真右側)には、亀屋という屋号の店がありました。

遊廓の北側には、「駆楳院(くばいいん)」と呼ばれる病院がありました。*4 現在、この場所は住宅地になっていて、昔の面影はありません。

遊廓の南側の通り。「小田原遊廓地図」*1 によると、ここには食品店や飲み屋が建ち並んでいました。現在もその面影が残っているように思え、想像力をかきたててくれます。

【参考文献】
*1 千葉 由香:別冊東北学(2000.9)「小田原遊廓物語(1)常盤町に封印された女たちの記憶」 P.262-P.271
*2 西大立目祥子:仙台とっておき散歩道(無明舎出版,2003)P.173
*3 田村昭:仙台花街繁昌記(宝文堂,1974)P.18
*4 千葉 由香:別冊東北学(2002.1)「小田原遊廓物語(3)常盤町に封印された女たちの記憶」 P.389-P.398

参考文献

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丹波山(女郎ゴー)金山杭夫慰安の遊女を置いた場所がありました。

黒川金山は、武田信玄の軍資金を賄った金山として知られています。黒川金山へは、丹波山から青梅街道沿いに多摩川をさかのぼり、「おいらん渕」近くの三条新橋から水源林管理のための道を行きます。

「黒川金山循環歩道」は、戦国時代、「黒川千軒」と呼ばれた鉱山町跡を巡る歩道です。この歩道を登りきったあたりに、近代のものと思われる坑道の入口があります。*1

黒川山の頂上の東端は、その岩峰から、黒川鶏冠山と呼ばれています。黒川鶏冠山の山頂には、鶏冠権現社奥宮があります。*1

「黒川千軒」の近くには、金山杭夫慰安の遊女を置いた場所(女郎ゴー)がありました。場所は、黒川谷の北川の尾根を越えた黒川山の中腹とされています。*1

【参考文献】
*1 今村啓爾:戦国金山伝説を掘る(平凡社,1997)P.18

参考文献

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品川(品川遊廓跡)通称「土蔵相模」。長州藩尊譲派が集合場所。

明治時代、品川宿には、貸座敷が何軒も並んでいました。その中で、品川一の貸座敷と言われたのが島崎楼です。現在、跡地にはビルが建っています。*1

幕末に活躍した高杉晋作ら長州藩尊譲派が集合場所とした、歩行新宿の相模屋、通称「土蔵相模」は、品川宿有数の旅籠屋でした。明治以後は、貸座敷「相模楼」となり、戦後は、さがみホテルと名を変えました。1982年に取り壊され、現在は、コンビニのファミリーマートが入るビルとなっています。*2

コンビニの前に案内板があります。「土蔵のような海鼠壁だったので、土蔵相模と呼ばれていた。」と書かれています。

歩行新宿(北品川1丁目)。風情のある商店街です。
赤線跡を歩く*3 では、この写真の右側のコンビニが土蔵相模跡地と紹介されています。

【参考文献】
*1 秋谷勝三:品川宿遊里三代(1983,青蛙房)P.105-P.107
*2 品川区教育委員会:東海道・品川宿を駆け抜けた幕末維新(品川区立品川歴史館,1999)P.35
*3 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.38

参考文献

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八日市(八日市新地遊廓跡)紅柄格子が美しい町並みです。

旧清里楼。この家の道を挟んだ向かい(写真左側)に、無縁仏石仏と寺墓がありました。現在は、移転しているそうです。*1

旧三玉楼。*1 紅柄格子が美しいお宅です。

旧東楼。*1 こちらのお宅の紅柄格子も立派です。軒下になぜかコンクリートブロックが置かれています。

旧浅常楼。*1 庭木との対比が美しいお宅です。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌13(三一書房,1992)P.383-P.427

参考文献

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八日市(八日市新地遊廓跡)名残の黒塀があります。

八日市には、かつて遊廓がありました。明治30年の記録では、貸座敷業25軒、料理業47軒、飲食店203軒がありました。遊廓への入口には、大門があり、この門をくぐり抜けると招福楼の黒塀(写真右側)がありました。黒塀の中に入ると玉砂利が敷かれてあって、招福楼の正面玄関には、舞子と芸者が招き入れてくれたそうです。*1
現在は黒塀はなく、代わりにコンクリートの塀があります。

招福楼の裏口のあたり。コンクリートの塀で囲まれた敷地は広大です。当時の招福楼がかなり大規模であったことが解ります。

旧大正楼。*1

旧角正楼。*1

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌13(三一書房,1992)P.383-P.427

参考文献

参考記事

古市(備前屋跡)古市三大妓楼のうちの一つでした。

長峯の山を登りきったあたりが、古市遊廓の中心部でした。

備前屋、杉本屋、油屋の三楼は古市三大妓楼と呼ばれていました。備前屋があった場所は、現在は駐車場になっています。

備前屋跡の碑。

備前屋は、牛車楼とも呼ばれました。これは、享保年間に名古屋に出店を持ったとき、さる高貴の者が牛車で来遊したことがあったためといわれています。*1

【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.156

参考文献

参考記事

中村(スーパーの屋上から)瓦屋根の建物です。

旧中村遊廓の中心部。大門近くにスパーのユニーがありますが、ユニーの向かい側(写真右側)にはソープランドが並んでいます。

ユニーの屋上の駐車場から見た南側の風景。写真左手前から、ソープランドの「インペリアル福岡」、ビジネス旅館の「牛わか」、洋風の建物、ソープランドの「ファースト」、「ニュー令女」と並んでいます。改装前は、瓦屋根の日本建築だったことがわかります。

ユニーの裏手(北側)にある「およし」の屋号を持つ建物。瓦屋根の建物は、中央部に中庭がある構造になっています。

北側の風景。写真右手前に旧屋号「およし」の建物。遠くに、デイサービスセンター松岡、料亭の稲本等、旧遊郭の建物が見渡せます。

参考文献

参考記事

中村(昔遊廓だったと思われる建物)緑のタイルが鮮やかです。

大門の近く(スーパーのユニーの裏手)にある以前遊郭だったと思われる建物。現在は、民家になっているようです。

建物の右側の側面はトタン板のようなもので補強されています。

玄関のところに、「およし」という屋号が確認できます。

建物の下部の緑色のタイルの装飾が鮮やかです。ラーメンのどんぶりの渦巻き模様に似たデザインがあります。

参考文献

参考記事

潮来(あやめ楼)通りの入口に大門が復元されています。


江戸時代、潮来が香取、鹿島、息栖(いきす)の三社詣の上り下りの船便で賑わっていたころ、この地には遊廓がありました。三社詣は、いわば男たちの隠れミノでした。*1
浜町通りには、かつて妓楼や待合が立ち並んでいました。通りの入口には復元した大門があります。*2

今は当時の面影はありません。わずかに一軒のみ当時の威容を保っているのが、旧妓楼の「あやめ楼」です。*2

入口の造りも立派です。

通りを逆方向から見たところ。

参考文献

*1
山本鉱太郎新・利根川図志 下巻崙書房出版1998.3
潮来女郎の無縁墓

P.319
潮来が香取、鹿島、息栖(いきす)の三社詣の上り下りの船便で賑わっ…

*2
大久保錦一潮来遊里史と潮来図誌・潮来絶句・潮来節デザイン・アンド・デベロップメント1993

P.115
唯一の遺構で威容を誇る旧妓楼の「あやめ楼」
P.119
角菱旅館は…

参考記事

松戸(平潟遊廓跡地)旧地名に平潟遊廓の名残を見ることができます。

平潟という地名は旧町名のため、現在は使われていません。平潟の地名を受け継いでいるのは、平潟公園ぐらいですが、他にも、いたるところに旧町名を見ることができます。
マンションの「スチューデントプラザ松戸」(妓楼の三井家があったところ)の隣のアパートに貼ってあった平潟のプレート。

電柱にも平潟と書かれています。

自治会の名前に平潟の旧地名が受け継がれています。しかし、現在の住人は、定住しない人が多いため、自治会費が入らず自治会の運営すら難しくなっているそうです。*1  写真は、平潟自治会の掲示板です。犬のフン看板が邪魔をして見づらくなっていますが、掲示板の下部に「平潟自治会」と書かれています。)

渡邉幸三郎さんの平潟の町並み図*1 によると、妓楼の「宝塚」の隣に「高村タクシー」があったことになっていますが、ちょうどこのあたりに、高村自動車工業(株)と書かれた看板があります。タクシー会社は移転し、代わりにこの場所に事務所がおかれているようです。

【参考文献】
*1 渡邉幸三郎:昭和の松戸誌(崙書房出版,2005)P.44

参考文献

参考記事

松戸(平潟遊廓跡地)面影は、ほとんど残っていません。

松戸駅西口から旧水戸街道を横切って江戸川方面へ行ったところに、かつて平潟遊廓がありました。江戸川の土手からすぐのところに、日大歯学部の校舎がありますが、このあたりに、平潟遊廓の西側大門がありました。*1
平潟遊廓が出来上がったのは、明治半ばの頃で、関東大震災以降さかんになり、戦争の激化とともに消えました。*2

かつての柳並木のうち一本だけ残された柳の木。この柳の木の向かいに妓楼の「三井家」がありましたが、19994年に取り壊されて、跡地には、マンションの「スチューデントプラザ松戸」が立てられました (写真の左端)。「三井家」は、内藤新宿の資産家内藤新太郎が開いた店で、初め、「九十九楼」と称していました。*2

唯一、当時の妓楼の建物が転用され残されていた柳仙育英センター(司法試験のための学生寮)の7号館の建物(旧豊川楼)*1 も今は無くなって駐車場になっています。

お稲荷さんだけが残る元妓楼の敷地。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.100-P.103
*2 渡邉幸三郎:昭和の松戸誌(崙書房出版,2005)P.33

参考文献

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橋本(多津美旅館)ステンドグラスが美しい旅館です。

街道沿いにある多津美旅館。正面の看板は、多津美の津の字が欠落してしまっていますが、右側の看板には、「淀川温泉 旅館 多津美」と書かれています。

旅館の外壁には、規模は小さいですが、美しいステンドグラスがはめ込まれています。

旅館の玄関には、金の襖があります。

玄関の左側には、ダンスを踊る男女のステンドグラスがあります。

参考文献

参考記事

橋本(橋本遊廓跡)街道沿いに風情のある旅館が並びます。

駅前にある旅館。京阪電車踏み切りのすぐそばにあります。

橋本は京街道の宿場町としての機能も持っていました。京街道沿いに風情のある旅館の建物が残っています。

橋本は、江戸時代から遊廓でしたが、明治初年に東京遷都により、徐々に衰退、人口も減少しましたが、明治21年に遊廓を再興し、京阪電車の開通とともに、再び繁盛しました。*1

大谷川から見た旅館街の裏手。川の流れに旅館の建物がよく似合います。右側には淀川の堤防があります。

*1 渡会恵介:京の花街(大陸書房,1977)P.276

参考文献

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松岸(松岸遊廓跡地)龍宮城と形容された二軒の妓楼の跡地。

結婚式場「モアパーク」の隣に広い駐車場がありますが、ここには、龍宮城と形容された二軒の妓楼(松岸遊廓)がありました。*1
松岸遊廓の最盛期は、銚子汽船と総武線開通によって客の範囲の広がった明治後期から大正期で、明治5年(1872)の資料によると貸座敷4軒が営業し、娼妓数は64名でした。*2

昭和40年頃までは建物が残っていたそうです。ひと頃、演芸ホールに改装されて芝居や歌謡ショーの興行がおこなれていたこともありました。*1

別の角度からも撮影してみました。

る護岸は後年できたもので、以前は妓楼のすぐ下までおだやかな利根川の流れが打ち寄せ、建物の周りには掘割がめぐらされていました。*1
龍宮城の雰囲気を味わいたいと思い、利根川の桟橋から妓楼跡を眺めてみました。


「全国花街めぐり」*3 では、『青い水線の上にポッカリと、宛(さなが)ら蜃気楼(しんきろう)のごとく一大楼閣の浮き上がってくるのを望んだとき、「まるで繪(ゑ、かい)のやうだね」「(まるで)龍宮といった態(かたち)だね。」、誰しもそう言って歓喜のこえを放つのである。』と紹介されています。

参考文献

*1
木村聡赤線跡を歩く消えゆく夢の街を訪ねて自由国民社1998
利根川に浮かぶ竜宮城 松岸

P.118
昭和40年頃までは建物が残っていた。(写真:2軒の妓楼はこのあたりに…

*2
加藤晴美松岸地区における遊廓の成立と展開歴史地理学調査報告 11号筑波大学人文社会科学研究科歴史・人類学専攻歴史地理学研究室2004.03 リンク

P.73
良福寺の過去帳に遊女の記載が初めてあらわれるのは享保9年(1724)の…

*3
松川二郎全国花街めぐり誠文堂1929
松岸

その一すぢ青い水線の上にポッカリと、宛(さなが)ら蜃気楼(しんきろう)のご…

参考記事

人形町(玄冶店跡の碑)歌舞伎や人形浄瑠璃が盛んだった歓楽街。

今回は、人形町(東京都中央区)の町並みを散歩します。
地下鉄の人形町駅を出たところの交差点。

歌舞伎や人形浄瑠璃が盛んになり、人形町の地名の由来になりました。

歌舞伎で有名な玄冶店跡の碑。

玄治店の名は、歌舞伎狂言作者の三代瀬川如皐(せがわじょこう)が脚色し、嘉永6年(1853年)に中村座で初演された「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の「源氏店(玄治店)」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台となり、その名が広く世に知られるようになりました。(案内板より)

参考文献

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この記事を参照している記事

木更津(こうもり安の墓)花柳界の寵児と言われるほどの人物。

栗橋(中田遊廓跡)旧遊廓に1軒だけ残る建物

中田宿の遊廓は8軒ありましたが、現在はそのうちの1軒のお宅だけがその威容をとどめています。*1

横から見たところ。

雲形の持ち送りのある窓の庇。

右側から見たところ。

*1 木村聡:赤線跡を歩く(2002,筑摩書房)P.178

参考文献

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栗橋(遊廓跡)8軒の妓楼が建っていました。

古河市には、幕末以来という古い遊廓がありました。光了寺の南側に塀で区画された場所があり、昭和初年には、ここに8軒の妓楼が建っていました。*1

中央の通り。

廓の外側を1周できる道があります。

奥まった一画へ続く道。こちらへも塀が続いています。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(2002,筑摩書房)P.178

参考文献

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八王子(蔦に覆われた建物)八王子遊廓跡。元旅館。

蔦に覆われた建物があります。この建物は近年まで旅館として使われていました。*1

入口だけが少し見えます。

横に回ってみます。

2階部分。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.90

参考文献

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八王子(旧妓楼)現在でも原型をとどめています。

現在でも原型をとどめている建物。最近、補修されたようですので、まだまだ大丈夫のようです。

軒下にランプがあります。

隣のアパートの3階から見たところ。建物の奥行きに驚かされます。

2階部分。

参考文献

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八王子(田町遊郭跡)どっしりと迫力満点です。

通りの奥にある建物。正面から。

裏門付近。

隣のアパートから見たところ。奥行きがあり立派です。

真上から見ると建物の大きさが実感できます。

参考文献

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八王子(旧田町遊廓大門通り)突然広い道路に行き当たります。

暁橋の手前の交差点から左に折れる道路は、突然道幅が広くなっています。田町遊廓跡の大門通りです。周囲には卸売り業者の倉庫や物流拠点があります。

地図で確認していみると、周囲の道路の幅と比べ、ここの部分だけが幅の広い道路となっていることがよく解ります。

逆方向(西側)から。

工場だったと思われる建物を転用した雑貨のディスカウントストアがありました。八王子はかつて絹織物工業がさかんでしたが、その頃の工場だったのかもしれません。

参考文献

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