谷田部(海軍航空隊記念碑) 零戦や紫電を主力とした首都防空の実戦部隊。

谷田部の市街から約2Kmのところにある筑波学園病院。
筑波学園病院は、旧日本海軍航空隊谷田部飛行場の跡地に建てられており、筑波学園病院の前身である谷田部協同病院はその兵舎を病棟として設立、平成11年頃まで利用されていました。*1

北西側の駐車場の脇に記念碑が建っています。
高さ約メートルの記念碑の上部には、零戦のモニュメントが配置されています。*2

碑文

谷田部海軍航空隊は、昭和七年霞ヶ浦海軍航空隊(予科練)の補助飛行場としてこの地に開設され、練習機による飛行士養成を目的としていたが、昭和十四年独立し、零戦や紫電を主力として首都防空の実戦部隊となった。その後昭和十九年戦闘機操縦訓練隊となり沖縄方面の特攻作戦に従事した。戦後、跡地の一部建物(兵舎)を筑波学園病院の病棟として利用し、平成十一年に解体し現在に至っている。ここに恒久の世界平和を願いこの碑を建立するものである。

 平成二十五年三月吉日 

 財団法人筑波麓仁会

石造りでありながら、細部まで表現されています。

終戦の年の1945年には神風特攻隊「昭和隊」も編成され、沖縄方面の作戦で多くの若者が命を落としました。*2

記念碑は、「昭和隊」出撃時に隊員を見送ったとされる桜の木の下に設置されています。*2

参考文献

*1
筑波学園病院谷田部海軍航空隊記念碑除幕式筑波学園病院 リンク

谷田部海軍航空隊記念碑除幕式が2013年5月19日(日)筑波学園病院敷地内で行われ…

*2
茨城新聞茨城新聞クロスアイ茨城新聞 リンク
戦争の記憶後世に つくばの谷田部海軍航空隊跡地、関係者ら記念碑除幕2013.5.20 リンク

旧日本海軍の飛行搭乗員を養成する練習航空隊が置かれ、特攻要員の訓練も行われ…

参考記事

谷田部(水洗トイレ)高度成長期に多く見られたWCの表記。

飲食ビル※1 の敷地の脇の公衆トイレ。

白地に大きくな文字でWC(water closet=水洗トイレ)と書かれています。

水洗トイレ(WC)は、昭和30(1955)年に発足した日本住宅公団が広く普及させたものの一つです。*1
昭和30~40年代は、公衆トイレにWCと表記されているのをよく見かけた記憶がありますが、最近は、「Toilet」、「Restroom」やさまざまなピクトグラム(絵文字)で表記されることが一般的なようです。

隣はブロック塀で仕切られています。

参考文献

*1
谷直樹便所のはなし鹿島出版会1986.12

P.99
昭和30(1955)年に発足した日本住宅公団(現在の住宅都市整備公団)は…

参考記事

※1谷田部(飲食ビル)派手な装飾の飲食店。

谷田部(飲食ビル)派手な装飾の飲食店。

今回は、谷田部(茨城県つくば市)の町並みを散歩します。
谷田部の旧道沿いの郵便局近くの曲がり角に、飲食ビルがあります。

派手な装飾の飲食店。

居酒屋、クラブ、マッサージ店などが連なります。

飲食ビル口の看板。

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

谷田部(水洗トイレ)高度成長期に多く見られたWCの表記。

人形町(日本橋大伝馬町の路地)江戸の下水道が現代に引き継がれています。

日本橋富沢町の浜町川の水路跡※1 はさらに、北側へ続いています。
しかし、さきほどの商店街のような風景は全く無く、ビル裏側の殺風景な通路です。

水路跡の中央がやや窪んだ通路が延々と続きます。

通路は、「都有地」となっており、東京都下水道局が管理しています。
浜町川跡の地下に、公共下水道の「馬喰町幹線」がつくられているのは、「江戸の下水道が現代に引き継がれている。」といえます。※1

かつての浜町川は、千代田区岩本町まで続き、神田川に合流していました。

参考文献

*1
栗田彰江戸の川あるき青蛙房1999.7
浜町川

P.29
浜町川跡の地下に、公共下水道の「馬喰町幹線」がつくられているのは、…

参考記事

※1人形町(問屋橋跡北側の路地)日本橋富沢町。浜町川跡の商店街。

人形町(問屋橋跡北側の路地)日本橋富沢町。浜町川跡の商店街。

江戸時代、水路として活用されていた浜町川は、戦後、埋め立てられ、跡地のほとんどは、オフィスビルが連なるビルの裏側の路地となっていますが、日本橋富沢町の部分だけは、商店街の雰囲気が残っています。

「梅の家」の屋号が残るお宅。

昭和の雰囲気が残る通りです。

北側から見たところ。飲食店も営業中です。

人形町(真砂座の碑)明治39年、夏目漱石「猫」上演。

 

今回は、人形町(東京都中央区)の町並みを散歩します。

「日本橋中洲(にほんばしなかす)」という地名で呼ばれているこの付近は、もともとは、文字通り、隅田川の中州でした。
1695年(万治2年)、吉原の遊女高尾太夫がこの付近の船上で吊り斬りにされ、遺体が北新堀河岸(日本橋箱崎町)に漂着し、高尾稲荷に祀られたという逸話があります。※1

中洲は、江戸時代から明治にかけて、歓楽街として賑わいました。

マンション脇に鎮座する真砂座跡の碑。

漱石「猫」上演。真砂座跡、と刻まれています。

夏目漱石の「猫」は、小山内薫によって脚色された演劇で、明治39年に真砂座で上演されました。

碑文:
夏目漱石の「我輩ハ猫デアル」は、小山内薫によって脚色された。伊井蓉峰らが出演し、日本橋中洲の眞砂座跡で明治三十九(一九〇六)年十一月三日から三十日にかけて上演された。
平成十五年十月吉日
早稲田大学 第十四代総長 奥島孝康 識

 

日本橋(てんぷら天松)昭和11年創業。

日本橋室町1丁目。

ランチ営業中の老舗てんぷら店。

「てんぷら天松」は、1936年(昭和11年)に渋谷にて創業しました。

てんどんとビールを注文。

参考文献

参考記事

日本橋(清水理美容院)理容室と美容院。

日本橋室町の通り。

ビルの谷間に佇む理容室。昭和の情緒が残っています。

1階が理容。2階が美容です。

懐かしい感じのする店構えです。

参考文献

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日本橋(十軒店跡の碑)江戸時代の仮設専門店街。人形市。

日本橋の美術店のある交差点。

ここに、美術店などの有志が建てた「十軒店(じっけんだな)跡」の碑があります。
「十軒店」は、江戸時代の仮設専門店街(人形市)のことで、当初、同業者が十軒あったことから、こう呼ばれるようになりました。*1

隣の「コレド室町テラス」には、中央区教育委員会が建てた別の案内板。

三月の上巳(桃)の節句には、内裏雛・禿人形・飾道具等を、五月の端午の節句には、冑人形、鯉のぼり等を商う人形市が立ち、十二月の歳暮の破魔矢・羽子板等を商う市とあわせて、大変なにぎわいを見せていました。

「十軒店」の人形市が、葛飾北斎の「画本東都遊」に描かれていることが紹介されています。

参考文献

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日本橋(浮世小路)浮世ショウジ。落語「百川」の舞台。

今回は、日本橋(東京都中央区)の町並みを散歩します。
日本橋のCOREDO室町北側に、「浮世小路(うきよしょうじ)」と名づけられた通りがあります(写真下)。近くには、「浮世小路千疋屋ビル」というのもあり、江戸切絵図にも記載のある「浮世小路」の名称は、最近、人気のようです。

現在の浮世小路。写真左奥に見える鳥居は、日本橋福徳神社(芽吹稲荷)。

福徳神社の敷地に、「浮世小路と料亭百川(ももかわ)」の案内板があります。

案内板より:
福徳神社南側の通りは江戸時代「浮世小路」と呼ばれていました。浮世小路の東端北側には 落語噺の舞台としても知られる料亭百川があったとされています。百川は江戸屈指の料理茶屋として繁盛し、幕末にペリー艦隊が来航した時には、乗組員全員にすべて自前で本膳を提供したほどの力がある料亭でした。

参考文献

*1
北村一夫江戸東京地名辞典講談社2008
浮世小路

P.98
大田南畝(おおたなんぼ)の「一話一言」 によれば 江戸に小路(こうじ…

参考記事